・「法華経は習ったのですが、まだ、そらんじてはいません」
「難しいものなの?そらでよむって」
「いや、そんなことはないでしょうが、
何しろ自分はなまけて遊んでばかりいるものだから・・・」
「じゃ、早くお山へ帰って一生懸命習ってちょうだい。
そらでおよみになれたらまたいらして。
その時はさっきいったように、あなたのお言葉に従うわ」
僧はやっと激情を鎮め、翌朝早くその邸を出た。
それからというもの、
日も夜も法華経を暗誦するのにかかっていた。
女の面影は目にちらつき忘れる間もなく、
修行の合間に僧はせっせと手紙を書いた。
女からも返事が来た。
しかも返事につけて女は布や干飯など贈ってくる。
(おれと暮らしたい、と言ったのは嘘ではないのだな)
と思うと僧は嬉しかった。
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・二十日ばかりすると、すっかり経をそらんじることが出来、
勇んで法輪寺へお詣りし、帰途、女の邸へ寄った。
その夜更け、心おどらせて女のそばへ近づき、僧はささやいた。
「約束通り、法華経をおぼえましたよ」
「待って」と女は僧の手をとどめて、
「同じことなら、お経を読むだけではなく、
もっと学識を積んだ学僧になっていただきたいの。
それでこそ、あなたを心から尊敬して、愛を誓える、ってもの。
あなたがやんごとない宮さま方や、殿上人たちにも、
敬われるお坊さまとなれば、あたしもどんなに誇らしく思うことか。
学問に没頭して、立派な学僧となって下さい。
その間の仕送りはさせて頂くし、お便りも欠かさない。
そして学問をおさめて皆に敬われる方となられたら、
その時こそ、変わらぬ契りを結びましょう。
それを承知して下さらないなら、いま殺されたっていやよ」
僧は(この女のいうのも尤もだ)と考えた。
ここまで俺のことを考えてくれるのか。
貧しい俺が、この人の仕送りで身を立てるというのも、
よい機会かもしれぬ。
僧は女と約束した。
それから三年、僧はいっそう勉学に励んだ。
あの人に会いたい、
あの人を愛したいという思いは心肝を砕くようであった。
そのやみくもな情熱を学問に傾けたので、
二年も経つと、もとより聡明な性質でもあったので、
学識はゆたかに深くなった。
仏典の論議、講演の場に出るたび、頭角をあらわして、
その学才を賞賛され、三年経つころには、見事に、
一山の学僧として讃えられるようになった。
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・僧は久しぶりに邸を訪れた。
「嬉しいわ、立派におなりになって」
女は続けていう。
「かねてお経でわからないところがありました。
お訊ねしてもいいかしら?」
女は仏典の中の疑問点を問いただし、
僧はそれについて一々答えを示したので、
「まあ、ほんとに尊い学僧になられたこと。
あなたはよくせき、聡明な方なのね」
と女はほめた。
その夜、僧が女のもとへ行くと、女は拒まず、
添い臥しながら、「しばらくこうやって話をしない?」
と、あれこれ物語るうちに不覚にも僧はうとうとしてしまった。
何しろ比叡から出てきて法輪寺へ詣った帰りなので、
疲れがたまっていたのである。
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・はっとして目覚め、
(思わず寝入ったな)と起き上がってみると、
何ということ、荒野のただ中に、
薄を折り敷いて寝ているのだった。
自分の衣のみがあたりに脱ぎ散らしてある。
有明の月ばかり明るく、ここは嵯峨野の野原であるらしかった。
僧が震えたのは春先の寒さばかりではない。
怖ろしさに骨の髄まで凍りそうに思われ、
ここから法輪寺は近い、そこで夜を明かそうと、
桂川を徒歩で渡った。
川水は腰まであり流されそうだったが、
辛うじて渡って震えながら法輪寺に着き、御堂に入って、
(怖ろしい目に会いました。お助け下さい)
と念じているうち眠ってしまった。
夢の中で、頭の青い小さい僧が出てきた。
(汝が今宵謀られたのは狐狸のたぐいのためではない。
われが謀ったのである。
汝は学問に身を入れずして、才智を与えよとわれを責めた。
よってわれは汝の好む女の身と変じて、悟りを開かしめたのである)
虚空蔵(こくぞう)菩薩のお告げだった。
僧は恥ずかしく悲しきこと限りなく、
叡山へ戻っていよいよ学問にはげんだ、という。
その僧はしかし、幻の美女を忘れることが出来なんだ。
煩悩も悟りを開くみちとなるが、
手の届かぬ美女の慕わしさは年ごとに積もった。
できることならもう一度、なまけ者に返って、
かの美女にいましめられたいと・・・
年老いても幼児が母を慕うように偲んだそうな。
「いやいや、わしのことではないぞよ、この僧は」
老僧はおだやかに笑った。
(了)