木彫りの鳥の独り言

ちょい悪爺の懺悔録

柿本人麻呂

2021年11月07日 | 独善偏見音楽鑑賞記
  "クレヨンで描いたごとくに秋の月
 こんにちは、みなさん如何お過ごしでしょうか。
憂きことも嬉しき折も過ぎぬればただ明け暮れの夢ばかりなる、、、尾形乾山の辞世の句だそうで
こんな境地に至るのはまだまだ先の事とタカをくくっとりますが、さてどうなることやら、、、へへ。

さて、遠き日の高校時代、憂きことと言えば古典乙の授業、先生が口の中でぼそぼそと読まれる和歌や漢文の
退屈なこと、万葉集の歌なんてまるっきり頭に入ってこなかった、楽しかった思い出といえば先生が
教室に入ってくるときにドアの上に仕掛けた黒板拭きが見事に頭に命中したことぐらい、今更ではありますが
おそらく鬼籍に入られたであろう先生に深くお詫び申し上げます、ゴメンナサイ、私がやりました、、、。
さて社会に出て荒波をさまようある日、ラジオから聞こえてきた犬飼孝先生の万葉の歌の解説と朗々とした読み上げ
にふれてから、あの古典乙嫌いの私が万葉の歌の世界ににぐいぐいと引き込まれていきました。
先生の「万葉の人々」(S53/9発行 PHP出版 )はページもすっかり黄ばんでますが今も手元にあります。
額田王の奔放な恋の歌など私のお気に入りのひとつに、柿本人麻呂の " 東の 野にかぎろひの 立つ見えて
かへり見すれば 月傾きぬ " があります、軽皇子の随行として阿騎野にいった折に詠んだ句とされています。
ちなみにこの句には色々な解釈が有り、竹内なんとかさん(失念)なんかは実におどろおどろしい解釈をされてた
ように記憶しています、とまれ浅学を顧みずいえば、私はこの句は人麻呂の畢生の句なんだろうと思います。
この人麻呂の言う" かぎろい " は、その後トラックに乗り奈良の各地に早朝配送業務をしていた頃、夜明けのほんの
一瞬に運転席から見えた前方に広がる山の縁からかすかに広がる紫がかった赤を見て、成る程これかと得心した次第。
しかし、" かへり見すれば 月傾きぬ " の情景は今に至るまで未体験でした、先日、早朝のウオーキングコース最終の
地獄の階段(122段)を登り終え、息をついて東のほうに目をやるとあの "かぎろい" が見え、西の空には十六夜の月が
見えます、まさにこれこそあの歌のシチュエーションです。
荘厳と言えばいいのか端正と言えばいいのかなんとも表現のしようがない風景です、これが日本的な原風景なのか
なにか自然界と人間界のちょうど境目を見ているような感じです、人麻呂さんもこんな感覚を持ったんでしょうかね。
実に貴重な夜明けでした。

閑話休題
 10月24日 NHK BS プレミアムシアター
何かと話題に事欠かぬ異端の指揮者、Tクルレンティス_ムジカエテルナの 2021年6月 ギリシャ デルフィの古代遺跡
でおこなわれた ベートーヴェン7番の放映です。
ムジカエテルナは古楽器オーケストラの枠を超越してます、この演奏など野外の劣悪な条件にもかかわらず力強く美しい
弦の響きと完璧なアンサンブルで驚きます、チェロ、コントラバス、ティンパニーメンバー以外は椅子を使わず立ったまま
演奏、コンマスの小柄なお兄さんなんか飛び跳ねるように動いてるし、前日に見たチックコリアのジャズ演奏よりこっちの
方がよほどジャズっぽい感じ、今年の4月にSONYからリリースしたこの曲(録音2018年 コンツェルトハウス、ウィーン)
と聞き比べても当然のことだけど遅目のテンポなのに非常にメリハリの効いた展開、第2楽章の官能的な響きなどは
同じように変わらずたいしたもんです。
2020年4月に同じSONYからリリースしたベートヴェンの5番を聴いたときはぶっ飛びましたが、その分コントラストが
効き過ぎてハレーション起こしかけてた感じだったけど、この7番はおすすめです、あえて言うならアーノンクール指揮の
ヨーロッパ室内管弦楽団に匹敵するくらいの美音になってます。
共演のサシャ・ヴァルツ・アンド・ゲスト(振付:サシャ・ヴァルツ)のバレーは?です。
以上、毎度のごとく冗長な文章で申し訳ないです、皆さんお体くれぐれも自愛ください、ではこの辺で。

 "なにもかも茜に染めて秋の暮れ"
 "煩悩のとめどもなきや夜長かな"