日々の寝言~Daily Nonsense~

柄谷行人「哲学の起源」と長田育恵「らんまん」と如月小春「都市民族の芝居小屋」

柄谷行人さんの「哲学の起源」
を読んでいる。

まだ途中だが、
いつもながら、
とても面白い。

最初に概論があって、
その後に、哲学者ごとの
各論が置かれているのだが、
この概論がとても面白い。

各論のほうで
繰り返しが多くなるのは
いつものことだが、同じ命題を、
具体例を複数出して
論じているわけなので、
しかたがないとも言える。

中心命題が先にあるので、
少しこじつけっぽい
ところもあるが、
それもまぁいつものことだ。

まだ途中だが、中心命題は、

1)プラトンやソクラテス、アリストテレス
などの「ギリシャ哲学」に先立って、
イオニア(現在のトルコのギリシャに面した地域)
で生まれた「自然哲学」があった。

「万物は流転する」に象徴される
動的な契機を内在した物質、世界像。
(福岡先生なら「動的平衡」と言うだろう)。

2)その哲学と「イソノミア」と呼ばれる
「無支配」の政治形態は不可分に存在していた。
それは、実務的な人間の、植民フロンティの拡張による
遊動性を基盤とした「交換様式 D 」の実現例である。

3)ギリシャ哲学や、アテネの政治体制は
「民主制」の起源と言われるが、
それは「無支配」ではなく「デモスによる支配」であり、
フロンティアを失って崩壊した「イソノミア」
そしてその基盤となった「自然哲学」を
隠蔽するものである。

という感じだろうか?

ところで、「イソノミア」の頃に
近い社会の例として、
アイスランド(Olafsson の母国!)
やアメリカの例が挙げられている
のだが、個人的には、明治時代、
そして、終戦後の東京(Tokyo-City)もまた、
イソノミアに近かったのではないかと思う。

それらの時代の東京は、
地方からの「移民」によって
できていて、地縁・血縁による
コミュニティもあったとは思うが、
その一方で、十徳長屋のように、
あるいは、東京大学に象徴される
「大学」のように、
地縁・血縁との関係が希薄な
個人のコミュティも生まれていた
のではないだろうか?

柄谷さんの最初の仕事も、
地方から東京に出てきた
「漱石」についてのものだった。

「らんまん」が描いていたのも、
植物学という「理知」に加えて、
そうした東京の「人情」、
そうした「地縁・血縁」から解き放された
(あるいははじきだされた)人間の姿
だったように思う。

その中心にいた「牧野万太郎」は
ソクラテス的な人物であり、
辺境であった「渋谷」もまた
その象徴の一つだ。

さらに、地方から出てきた
第一世代ではなく、その次に
第二世代以降になると、そうしたつながりは
どんどん希薄になっていったと思う。

三代つづけば「江戸っ子」
という言葉は、都会的洗練についての
ものと思われているが、
裏を返せば、そうした
「根のなさ」を表しているとも言える。

そこで重要になるのが、
地域共同体とは離れたところで
「理知」や「人情」を
どう維持するのか、
であるのは自然なことだ。

そこで話はとんでもなく飛ぶのだが、
「都市」についての
戯曲をたくさん書かれた
如月小春さんが、
「都市民族の芝居小屋」
という演劇論、小劇場論
を書いている。

商業主義とマスメディアが
支配するに至った「都市」
という空間の中で、
どうやって「身体」を、そして、
その先にある「身体のネットワーク」
を回復するのか?

それが如月さんの中心的な命題
だったと思う。

「個は辺境にあり」

それはとても難しい
挑戦ではあるのだが・・・

如月さんは柄谷さんを
どんなふうに読んだだろうか?

追記:
如月小春、柄谷行人、で検索したら、
駒場寮の歴史、という小文があった。

大学の寮というのは、ある面において、
自立した地方出身者のるつぼであり、
とてもイオニア的な場所
だったのかもしれない。

そういえば、村上春樹の作品にも、
寮生活が出てくる。
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