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ローズガンズデイズ season3 感想 「理想の日本人」とヤクザたち
筆者-Townmemory 初稿-2013年9月16日
☆
『ローズガンズデイズ season3』を読みました。ちょっと読みづらくて、読了までにかなり時間がかかりました。
読んで思ったことを簡単に書き付けておきます。
これまでの感想記事は、こちら。
ローズガンズデイズ体験版/勝手な感想/勝手な予想
ローズガンズデイズ season1 感想その1 マダム・ローズと日本人たち
ローズガンズデイズ season2 感想・チャイナの日本人
●醤油戦争
「醤油戦争」というエピソードが描かれました。
この作中で日本人はマイノリティ化しており、文化的にも経済的にも、米中の物量に呑み込まれ、同化されようとしています。
マダム・ローズは、日本人たちが「“日本人”性」を保ち続けるためには、日本人の食文化を旧来のまま存在しつづけさせることが必要だと考えました。そこで日本食の神髄の部分としての「醤油」に着目しました。
戦争と災害のため、(作中では)都市部の醤油製造業は壊滅しています。米中に占領されていることもあって、東京都内で本物の醤油は手に入らず、ギリギリ手に入るのは粗悪な合成醤油だけという状況でした。このままでは、「醤油の味を知らない日本人」が発生してしまったり、「醤油を使って日々の食をまかなう」という風習がすたれてしまいかねません。
そこでローズは、千葉県の任侠の大親分と交渉して、現地の醤油醸造業者に、都市部向けの安価な醤油(しかし本物)を増産してもらい、仕入れてきて、ほとんど利益度外視で東京23番市に提供する……ということを始めたわけです。
ローズの醤油は、戦前の3倍の値段がしてしまいますが、ぎりぎり人々の手が届きます。昔のたった3倍の値段で、本物が手にはいるというのは、奇跡にちかい話です。
醤油の味は日本人のソウルフードですから、すさんだ日本人の心を癒すことにもなります。それに、「同じ醤油の味で育った仲」というふうに、日本人の横の連帯を期待することもできます。
うまくいけば、そりゃもう偉業となるはずでした。
が。
近隣の中国マフィア金龍会が、ものすごい妨害をかけてきました。豊富な資金を使って、ローズの醤油を人々から倍の値段で買取り、代わりに安価で粗悪な代用醤油を売り出すということをしはじめました。
人々は、ローズの醤油を買って金龍会に売り、差額で儲けて、その金で代用醤油を買うようになりました。ローズの醤油は、ローズが血を流すような思いで供給しているものなのですが、人々は(つまり日本人たちは)それを転売したあげく、中国産の偽醤油を購入してそれを食べるという行動に(一斉に)出たのです。
おまけに、「ローズは権力を使って、自分の醤油を3倍の値段で売りつける悪党だ」という評価が発生してしまいました。食い詰めた日本人たちは、貧すれば鈍すのたとえの通り、安いからといって偽物の醤油を喜んで買い求めて食べ、日本人の心だからということで本物の醤油をいっしょうけんめい手に入れてきた人のことを売国奴呼ばわりするようになったのでした。何かこう、説話のような響きがありますね。
さて、それについてなのですが。
●「理想の日本人」と「現実の日本人」
「日本という共同体のことを考えるならば、安いからといって粗悪な海外品に飛びつくのはよろしくない。品質が良いのならば、多少高くても国産品を買って、国内産業をサポートするのが国益にかなう(でないと国内の産業がスカスカになってしまう)」
というふうにとらえなおせば、これはわれわれ現代の日本にも通じる話になってきますし、それが意図されているとも思いますし、正論だとも思います(わたしは100円ショップが好きですが、100円ショップは亡国への道の第一歩だなぁとも思います)。
なのですが……。
でも個人的には、そこの部分にはあまり興味がありません。
(正しいか正しくないかはさておいて、それほど興味がないということです)
それよりもわたしは、
『あの時期の23番市には、「理想の日本人」と「現実の日本人」がいたのだ』
というところに興味があって、注目しています。
●「モデル化された日本人の理想」としてのマダム・ローズ
season1の感想や、season2の感想で書いたことなのですが、マダム・ローズは日本人というものの特徴のほとんどを備えた「The 日本人」だと思うのです。
以前書いたことの繰返しになりますが、season1で描かれたマダム・ローズ像は、
・豪腕は持っておらず、
・知恵や知識にもさして優れているわけではなく、
・経営感覚といえばゼロに近く、
・よって、クレバーな選択をしたくてもできない。
・だったら慎重にすればいいのに、やたら発作的な面があり、
・キレると後先考えない行動に出る。
・そのあと、自分が駄目だとわかると、いきなり自分を全否定にかかる。
・ずっしり反省しすぎて、自分自身を縛り、まったく身動きとれなくなり、
・自分一人がすべて悪かった、このまま死んでしまいたいみたいな極論を言い出す。
といったものでした。
この姿は、日本人の、戦前~戦後の姿(選択・行動)をなぞっているかのようなのです。突然キレて相手国に戦争をしかけ、負けたらこんどは数十年にもおよぶ自虐的反省モードに入る。
マダム・ローズは、日本人の、日本人的な弱さ・弱点・マイナス面をまとめて取りそろえた、モデルケースのような人物造形でした。
ですから、おそらく、「日本人の弱点の結晶であったマダム・ローズが」「日本人なら誰しもこうありたいと願うような理想を体現して」「その後、日本的な美学に即した散り方で死ぬ」というようなストーリーが用意されているのかな、ということを、わたしは個人的に想像しました。
(マダム・ローズは志半ばで死ぬ、ということは明言されていますものね)
そのことで、ローズは「日本人らしい弱さ」と「日本人らしい理想」と「日本人らしい破滅」をすべて備えた、「日本人そのもののような存在」として成立する……。そんな感じじゃないのかなというふうに、season1のときに想定しました。
*
さて。話は戻って。
そんなマダム・ローズは、season2や今回のseason3で、「日本人社会と日本文化のために、自分自身のすべてを捧げる」と決意し、まさにそのような行動を取ります。百戦錬磨のメリルやステラが「とても真似できない」と思うような激務をこなし、それはすべて「日本人のために何ができるか」「そのすべてをやってやろう」という動機にもとづいています。
日本人というのは、一般的なイメージとして、「滅私性」「献身性」という精神的特徴を色濃く備えているようです。
いや、正確に言えば、そういう精神性を「清く正しい日本人の姿として尊ぶ」という強烈な価値観を持っています。その価値観(ドグマといってもいい)に後押しされて、そういう行動を取ることがある。そしてその行動は周囲から賞賛される。そういった傾向があるわけですね。
まさに、日本人みんなのために献身する個人、という存在が、season2~3のマダム・ローズですから、この時期の彼女は、「日本人自身が、日本人ならかくあるべきだと考える理想の姿」と言えそうです。
この時期のマダム・ローズは、「理想の日本人」なのです(と思うのです)。
*
その「理想の日本人」マダム・ローズが、理想の実現のために興したプロジェクトが「日本社会に本物の醤油を取りもどそう」だったわけです。
作中の東京23番市は、「日本人社会に醤油がない」という、ギョッとするような状況にあるのですから、「あるべき日本人社会の姿」を取りもどすためには、正しい醤油を取りもどさねばならない。
日本社会の理想を追い求める日本人が、日本人の理想のひとつとして「醤油のある生活」を手に入れようと思った。これは理に適った考えです。
日本人なら醤油のある生活を誰しも理想だと感じるはずだ。都内の醤油産業は壊滅している(と推定される)ので、よそに増産を頼んで持ってこなければならず、そのためコストはかさんで3倍の値段になってしまう。しかしそれでも日本人は誰しもこれを喜ぶはずだ……!
ところが、あながちそうでもなかったわけです。
●日本文化は教義ではない
現実の日本人は、そういうふうにはならなかった。
前述の通り、これを「日本人ってこういう目先の利益ばっかり追い求めて自分の首を絞めるよね、まったく」というふうに理解することはできますし、またそれが意図されているとも思いますけれど、わたしは個人的に、以下のように受け取ります。
「理想の日本人が推し進める理想実現計画に、現実の日本人がついていけなかった」
そのように受け取ったとき、このエピソードはとても印象的でした。
現実の日本人には、現実の生活があり、その現実的生活を成り立たせるために汲々としています。
その現実の日本人に、「3倍のお金を払って、理想の日本人の生活に参加してくれ」というメッセージは、強い訴求力を持たなかった。
作中では、醤油計画は金龍会の横やりによって失敗した感じになっていますけれど、たぶん横やりがなくても早晩頓挫したような気がします。だって実際、ローズから安く手に入れた醤油を、よその区域に持っていって高く転売しようという「日本人業者」がいたわけですしね。それと同じことが個人単位で発生しなかったわけがないのです。
そうなると結局、ローズが23番市に供給しているのは醤油という食品ではなく、「転売品」ということになる。23番市は「醤油が買える理想の街」ではなく、「高く転売できる物品が異常に安く買える現実的な街」におちてしまう。
マダム・ローズは、「理想と現実」について、少し誤解していたふしがあると思うのです。
日本人にとっての醤油は、もちろん「欠かせないもの」という感覚はあるけれども、決して「教義ではない」のです。ユダヤ人にとってのエルサレムのようなものではない。
日本人の生活というのは、一神教的なお告げに基づくものではないのです。神様が「あなたたち日本人は、醤油を使って食物をたべなければならない」というふうにお告げをしたから醤油を食べるわけではないのです。
(ユダヤ教やイスラム教には「あなたたちはこれこれを食べて生きるのであって、あれとかそれについては食べてはならない」というお告げがありますね)
日本人が醤油を使うのは、「たまたま歴史的にそういう調味料が開発され、そういう生活が支配的になったから」であって、何かちょっとしたことで、他の調味料が醤油の代わりの座を占めた可能性だってあったのです。
元をただせば、日本人が醤油を食らうのは、それが作りやすく、手に入りやすく、それを使う生活が簡便であったからにすぎないのです。
歴史的に、もし醤油を入手するのが困難なのであったら、別の物が醤油の代わりを務めたでありましょう。
日本人が醤油を食らうのは、「自然にそういう生活になったから」であって、教義だからではない。ボトムアップなのであって、トップダウンではない。
ところがローズは、「日本人は醤油とともに生きる」ということを、単なる生活形態ではない日本人のドグマだと思い込んだふしがあります。
ドグマ(教義)であるのなら、それを実現するためにあらゆるものが投げ打たれるでしょう。しかし、醤油というのはじつはドグマではなかった。それよりは生活の一部であった。だから、生活をおびやかしてまでもそこに注力するということは、日本人たちは行なわなかった。
ローズにとっては、「日本文化」「日本人らしさ」というものは、あたかも天に輝く星のような、そこを目指さなければならない理想の目標らしいのです。でも現実の日本人にとっては、日本文化とか日本人らしさというのは、目標ではなく「生活」です。
現実の日本人は、「日本人らしく生活しよう」なんて思いはしません。
そうではなくて、日本人が時間をかけて生活してみたときに、自然に現れてきたもの(形態)が、結果的に「日本文化」と呼ばれるようになっていくのです。順序が逆です。
「日本人らしさ」というものがあらかじめあって、それに沿って生活していくのではありません。日本人が生活したら、自然に出てきたもの。それが「日本人らしさ」として認識されていくだけのことなのです。
「日本人が生活するにあたって基準とするべき規範としての日本文化」というものが先験的に存在するわけではない。
ローズにとっては、日本文化というのは、あらかじめ存在して、「こうあるべきもの」という一種の規範でした(たぶん)。
しかし、現実の日本人にとっては、日本人の自然な生活形態が結果的に「日本文化」と呼ばれたりする、それだけものにすぎないはずなのです。
だから、「理想の人」になってしまったローズの描いた絵に、現実の日本人たちは、ついていかなかった。
●日本人が日本文化を語るパラドックス
ちょっと余談になりますが、わたしは個人的に、日本の文物を日本人が「日本文化」と呼ぶことが、好きじゃありません。
「日本文化はこれこれこうである」という語り方をする日本人がいますが、まったくもって、馴染めません。
日本の文物を「日本文化」というふうに見るのは、観光客の視点です。当事者の視点とはいえません。
「日本文化」という概念は、基本的に「外から見たときに照らしだされるもの」であって、いわば外国人の視点から自分を見たときの概念。
もちろん、そういうふうに外部の視点で自分をかえりみることは重要なことです。
でも、われわれ日本人にとって日本文化は、日本文化である以前にまず「生活」であるはずです。生活であるべきです。
生活というのは、つとめて意識しないもの、空気のようにあたりまえのもののはずです。自分の生活を「日本文化」として紹介するのは、あたかも「空気の存在を自慢する」かのようなナンセンスさがあると思う。
醤油ひとつとっても、わたしたちは醤油を口にするとき「日本文化を口にしている」とは意識しないはずです。それよりは、醤油いうものは生活の一部だ、と認識しているはずです。
生活の一部であるのなら、生活全体のために、醤油を売ってお金や他の物に替えようというのは、ごく自然なことだと理解できます。その行為は、非難するにはあたらないものと思えます。
「日本人の魂である醤油を売るなんてとんでもない」というふうに言う場合、その醤油はもう食品ではなくイデオロギーになってしまっています。マダム・ローズは、「おいしい食品を買って食べて下さい」というつもりで、いつのまにか「素晴らしいイデオロギーを、お金を払って買って下さい」ということをやってしまっていた、と思うのです。
*
別の例を挙げれば、歌舞伎や、能や、文楽。
わたしは、これらのものを「日本文化」と呼ぶことに、それほど抵抗がありません。なぜなら、わたしという日本人の生活のなかに、それらはもうないからです。
歌舞伎や能を見に行くことはありますが、それは生活として見に行くのではありません。観光として見に行くのであって、つまり、海外からの観光客がそれらを見るのと同じ視点から見ている(もはやそうとしてしか見ることができない)ものだからです。
つまり、「日本文化」というレッテルを付けてみて、違和感がないものは、もはや「生活としては失われたもの」「死せる生活」だということです。
かつての江戸の町民たちにとって、歌舞伎はきっと、生活でした。今のわれわれのテレビ・ショーのようなものだったでしょう。当時の江戸の都市生活者に「文化」という単語が通用するとして、彼らに「歌舞伎ってまさに江戸文化ですよね」などと言ったら、きっとぽかんとされると思います。われわれだって「日本のテレビ番組は日本文化ですね」なんていわれたら、「ハァ、えーと、そうですか」と微妙な気持ちになるでしょう。だって、文化うんぬん以前に、生活の中に密着したツールですからね。
つまり、その時代には、歌舞伎というのは、生活の一部として、生きていた。
しかし、今はそうではない。
●自明ではないから理想化する
そのように、「理想の日本人」と「現実の日本人」。「文化」と「生活」。ふたつの間に生じた、ズレ。
そうした齟齬を浮き彫りにしたエピソードとして見たときに、この醤油戦争のお話は魅力的だと思います。
season2の最後でジャンヌが言ったような「ただただ、日本人が浅ましいというだけの話」というふうには、思いませんでした。
それよりは、「マダム・ローズは、現実を超越するほどの理想をかかげてしまった」というエピソードとして、魅力があると思うのです。
「現実の人々がついてこられないほどの理想への邁進」
ということでいえば、ケイレブが破滅していくエピソードの裏返しとして見ることも、できるかもしれません。
ローズは、醤油戦争の顛末を機に、武闘派路線へ舵を切っていくことを模索し始めます。それは単に暴力解禁ということではなくて、理想主義だけでつきすすんでいって失敗が見えたから、現実的な着地点をちゃんとさぐっていくというバランスのようにも感じられました。イデオロギーは幻想ですが暴力はリアルですからね。
*
ローズが、日本文化を「生活の結果、自然発生したもの」ではなく「先験的(あらかじめ存在する)な規範」のように認識してしまうのは、彼女がギリシャ人の父親に養育されたから、という部分が大きいように思います。
その父は、単に異邦人ということではなくて、「日本の伝承や民話にどっぷりハマった」人であって、「日本の文化や日本の心を重視した教育をローズに与えた」そうです。
season1の感想のところにも書きましたが、ローズの父親はラフカディオ・ハーンその人か、もしくはラフカディオ・ハーンをモデルにした人物だと想定できます。
ラフカディオ・ハーンは、日本文化の中に人間の理想を見いだした人です。われわれ日本人にとってはとてもありがたい人ですが、いじわるな言い方をすれば「ニッポン幻想に幻惑されちゃった人」であります。
「ニッポンに対する幻想」におもいっきりとらわれた人に育てられたのですから、日本の風習を、カギカッコつきの『日本文化』として認識してしまうのは、いたしかたないのかなという気もしますね。
わたしたち日本人は、日本国内に住んでいる限り、ふつう、「自分は日本人だ」ということを強く意識したりはしません。なぜなら、そんなことは自明のことだからです。意識なんかしなくても自然に日本人なのです。
でも、ローズはギリシャ人とのハーフです。つまり、血縁的に、容姿的に、日本人であることが自明ではない立場でした。ですから、おそらく彼女は、幼少時から「自分は日本人だ」ということを強く意識し、自認しなければならなかった(そうしなければ“日本人”性があやうくなる)立場だったと考えられます。
*
まとめますが(繰返しになりますが)、ローズさんは、日本の中で、日本人として生活していながら、日本を見る目が外部的なのです。日本というものを、外国から見るような目で見ているふしがあります。
ローズは、日本文化というものを「自分の外側にあるもの」のように語る人です。「日本文化とは、自分の裡から自然にわき出るもの」という感覚が皆無です。
だから、日本文化というものを、教条として捉えてしまう。
教条として捉えるということは、「意識化する」ということです(本来の日本人は、そんなものを意識化しません。空気のようにあたりまえのものだからです)。
意識化するということは、字義通り、それを意識して刻み込んで生きるということですから、「理想としてそれを求める」という行動につながります。
つまり、マダム・ローズは、「理想の日本人」というものを体現しやすい性質を備えていた人なんだということになります。
ローズガンズデイズは、「文化圏としての日本」が消滅の危機にあるというif世界ですから、そういう世界で文化圏としての日本を生き残らせようとするならば、ローズのような「意識化された日本」という視点が必要なのです。ですから、マダム・ローズが「日本を生き残らせる」という運動のリーダーになったのは、必然ですし、最適任でした。
しかしローズは、日本人の現実を超えて、理想的な日本人になりすぎてしまった。
日本人互助のために、彼女自身が理想化された日本人像になった(一種の「文化的超人」になった)結果、とたんに現実の日本人がついてこられなくなった。
そんな物語として、わたしは読みました。
●余談1・ツェルの正体
ここからはわりと余談的な話題。
ツェルの正体については、season2の感想エントリで推測を試みました。細部でところどころ外したものの、まぁまぁいいところは突いていたかなという感じです(ちょっと読み過ぎましたね)。
●余談2・プリマヴェーラと日本ヤクザ
プリマヴェーラは、物語に描かれているとおり、元はといえば、マイノリティ化して消えゆく定めにある日本人というコミュニティをなんとか存続させるための互助組織でした。
しかし、2013年の、林原樹里の時代には、そうではなくなっています。単に巨大で圧力的な暴力組織として人々に認識されています。
そのくだりを読んで、ああ、これはまさに現実の日本のヤクザが経てきた流れだなというふうに思いました。
どうもローズガンズデイズは、現実の日本のヤクザの成り立ちをうまこと踏襲していますね。
*
例えば、神戸に本拠地を置いている、恐い恐い山口組さんという極道さんがいらっしゃいます。日本最大のヤクザ組織です。
その山口組は、もとはといえば、神戸港の港湾荷役労働者の斡旋業者として始まりました。港で、荷物の積み下ろしをするのには、マンパワーが必要です。初代の山口春吉さんは、港から「何日に何人が必要」という依頼を受け、日雇い労働者をかきあつめ、港に派遣するという、そういう業者だったのでした。「手配師」とも呼ばれる職業です。
当時、港湾労働者たちは、薄給で、底辺労働者であって、つまりすこぶる待遇が悪かったのです。
なんでそんなに薄給なのかといえば、丸投げの丸投げのさらに丸投げが横行していたからです。元請けの斡旋業者が仕事を請けると、マージンを取って下請けに丸投げする。下請けは、またマージンを取ってさらに下請けに流す。どんどん下流に流れていくうちに、実際の荷役を行なう労働者に渡る賃金はギリギリまで目減りしている。そういうカラクリでした。
ローズガンズの作中でいう、「23番市特別枠」のエピソードとまったく同じですね。
で、不当な待遇に甘んじていた港湾労働者たちは、手配師の山口春吉さんを親分として、疑似親子関係をむすび、団結し、組織化することになりました。それが山口組さんのはじまりだそうです。
団結して組織化することで、底辺の労働者の福利を獲得(確保)しようという、そういうところからはじまったのです。どっかで聞いた話ですよね。
これはべつだん、山口組さんにかぎった話ではありません。
港湾荷役に限らず、その日その日の単位で雇われて働く日雇いの業種があれば、そこには必ずマネジメントをする「手配師」というものが生じます(「人を集める」「ツテを持ってる」というのは、結構特殊なスキルですからね)。
そして、「立場の弱い日雇い労働者と手配師が、子分親分の疑似親子関係をむすんで団結、組織化する」というのは、江戸時代くらいからよくあることでした。「人望があるから手配師をやっている」のが、「人望があるから親分になる」にスライドするのですね。
芸能、遊郭、花柳界、土木関係といった「需要に応じて呼ばれ、その日その日でスキルや労働力を提供する」という業界で、このような親分子分の疑似家族集団が発生していきました。
そういった集団が、のちにいう「やくざ」になっていったわけです。
(だからやくざは、土建屋とつながりがあったり、芸能事務所や風俗店を経営していることが多いのです)
つまり、ヤクザというのは歴史的に、「底辺労働者の互助組織」という側面を持っている(ことが多い)のです。
プリマヴェーラは、夜の女の互助組織としてはじまりましたし、クラブ・プリマヴェーラを頂点とする、下部店舗との上下関係がありました。
また、ケイレブファミリーや、それを引き継いだマフィア・プリマヴェーラが最初に行なったことは、日雇い斡旋業者の下請け孫請け曾孫請け構造を解消し、自前で元請けの権利を握るということでした(すなわち23番市特別枠)。
そして、話を現実の日本ヤクザに戻せば、日本のヤクザというのはひとつ不思議なところがあります。
組織の存在目的として「日本社会に寄与する」ということを掲げている場合がひじょうに多いのです。
たとえば山口組さんは、山口組綱領の前文に、「山口組は侠道精神に則り国家社会の興隆に貢献せんことを期す」という一文を掲げています。
でも、現実的には、ヤクザは「国家社会の興隆への貢献」の正反対のことをなさってる場合がずうっと多いのは、皆さんご存じの通りです。
まとめると、ヤクザ組織は、
(多くの場合)「下層労働者の互助組織として発足し」
「日本人共同体への寄与を存在目的として掲げており」
「しかし現実には、暴力を背景にした違法行為を行なう組織となってしまっている」
ということなわけです。プリマヴェーラは、これと全く同じ経緯を辿って、林原樹里の時代にあのありさまになっているわけです。
どうもローズガンズは、フィクショナルではありますけれど、一種の「ヤクザ史概論」のような感じにもなっているな、と感じます。かなり現実に忠実に、「ヤクザの成り立ちとその後の変質」を描いています。
竜騎士07さんは、『ひぐらし』のころから顕著ですが、どうもやくざ周りの物事とか、被差別問題といったことに詳しい方のようですね。ひょっとして公務員時代に、そういったことを担当する部署にいたのかもしれませんね。
●余談3・マダムジャンヌの後継者
あの、わりとオーソドックスな想像だと思うのですが、「林原樹里がマダム・ジャンヌの後継者になる」みたいな流れって、ある程度想定されてるかもしれませんね。
想定されているといっても、ストーリーが実際そうなるかもしれないし、ならないかもしれないです。ただ、ストーリーがそうならないとしても、「そういう雰囲気を匂わせることで興味をひっぱる」というテクニックとして匂わされているなあということです。
系譜的に、ローズ→ジャンヌというふうに、女ボス→女ボスで来たのですから、次代も女性がトップにつくのが物語として据わりがよい、ということもありますしね。
あの世界のあの時代には、林原樹里のような混ざりけなしの純粋な血を持つ日本人は希少だそうです。まあいってみればレアポケモンみたいなものですね。「艦これ」だったらぜかましちゃんとか瑞鶴さんみたいな感じでしょうか。
マダム・ジャンヌは、「次世代のプリマヴェーラは、マダム・ローズの日本人互助路線に戻って貰いたい」という希望を持っているのですから、次世代のボスが日米ハーフだったり日中ハーフだったりしたら、話になりません。
血縁的に、米国の利害や中国の利害を背負っていていてはいけないというわけです。「このプロジェクトを進めたら、母方の一族が困っちゃうかなあ……」みたいな立場の人は、プリマヴェーラのボスにはふさわしくないはずです。血縁的に日本人でないと、組織の運営において、米国的利害や中国的利害で決断をしてしまう可能性がある。
そのてん、林原樹里は、「父方も母方も日本人」「女性」「マダム・ローズの理念やプリマヴェーラの歴史を網羅的に熟知している」ということなわけで、なんかこう、いろいろ「ちょうどよい」感じがあるわけです。
「四か国語を話せる才媛で」「古武術の達人でもある」なんていう設定もありますから、ますます良い感じです。マフィアネームは「マダム・ジュリー」くらいでどうでしょう(微笑)。
彼女の性格はマフィアのボスに向いてないだろう、といったことは、問題ありません。第一マダム・ローズという人が、まさにいちばんマフィアのボスに向いてない人だったのですものね。
ただ、「マダム・ジャンヌは、次代のボスの英才教育のつもりで樹里に昔話をしている」とか考えだすと、変なことになってきます。ジャンヌは別に、そんなつもりで物語を語っているのではなくて、何かなりゆきで、結果的にそんなふうになるとか、そんな感じでとらえたらいいんではないでしょうか。
そういえば、虎継くんが新聞社で番犬よろしく吼えてくれたおかげで、「ちょっぴりイケてた経理部のチェン君」だの「実家が香港の富豪だというマー君」だのが、樹里にメールを送らなくなるという、素敵なエピソードもありましたね。
●余談4・ウェインの奥さん
すなおに考えたら、メリルかなあ……くらいの感じですけれど、どうなんでしょう。
(おわり)
■Last Seasonの感想はこちら→ ローズガンズデイズ Last Season 感想・竜騎士トラップのつくりかた、その他
■ローズガンズデイズ 目次■
ローズガンズデイズ season3 感想 「理想の日本人」とヤクザたち
筆者-Townmemory 初稿-2013年9月16日
☆
『ローズガンズデイズ season3』を読みました。ちょっと読みづらくて、読了までにかなり時間がかかりました。
読んで思ったことを簡単に書き付けておきます。
これまでの感想記事は、こちら。
ローズガンズデイズ体験版/勝手な感想/勝手な予想
ローズガンズデイズ season1 感想その1 マダム・ローズと日本人たち
ローズガンズデイズ season2 感想・チャイナの日本人
●醤油戦争
「醤油戦争」というエピソードが描かれました。
この作中で日本人はマイノリティ化しており、文化的にも経済的にも、米中の物量に呑み込まれ、同化されようとしています。
マダム・ローズは、日本人たちが「“日本人”性」を保ち続けるためには、日本人の食文化を旧来のまま存在しつづけさせることが必要だと考えました。そこで日本食の神髄の部分としての「醤油」に着目しました。
戦争と災害のため、(作中では)都市部の醤油製造業は壊滅しています。米中に占領されていることもあって、東京都内で本物の醤油は手に入らず、ギリギリ手に入るのは粗悪な合成醤油だけという状況でした。このままでは、「醤油の味を知らない日本人」が発生してしまったり、「醤油を使って日々の食をまかなう」という風習がすたれてしまいかねません。
そこでローズは、千葉県の任侠の大親分と交渉して、現地の醤油醸造業者に、都市部向けの安価な醤油(しかし本物)を増産してもらい、仕入れてきて、ほとんど利益度外視で東京23番市に提供する……ということを始めたわけです。
ローズの醤油は、戦前の3倍の値段がしてしまいますが、ぎりぎり人々の手が届きます。昔のたった3倍の値段で、本物が手にはいるというのは、奇跡にちかい話です。
醤油の味は日本人のソウルフードですから、すさんだ日本人の心を癒すことにもなります。それに、「同じ醤油の味で育った仲」というふうに、日本人の横の連帯を期待することもできます。
うまくいけば、そりゃもう偉業となるはずでした。
が。
近隣の中国マフィア金龍会が、ものすごい妨害をかけてきました。豊富な資金を使って、ローズの醤油を人々から倍の値段で買取り、代わりに安価で粗悪な代用醤油を売り出すということをしはじめました。
人々は、ローズの醤油を買って金龍会に売り、差額で儲けて、その金で代用醤油を買うようになりました。ローズの醤油は、ローズが血を流すような思いで供給しているものなのですが、人々は(つまり日本人たちは)それを転売したあげく、中国産の偽醤油を購入してそれを食べるという行動に(一斉に)出たのです。
おまけに、「ローズは権力を使って、自分の醤油を3倍の値段で売りつける悪党だ」という評価が発生してしまいました。食い詰めた日本人たちは、貧すれば鈍すのたとえの通り、安いからといって偽物の醤油を喜んで買い求めて食べ、日本人の心だからということで本物の醤油をいっしょうけんめい手に入れてきた人のことを売国奴呼ばわりするようになったのでした。何かこう、説話のような響きがありますね。
さて、それについてなのですが。
●「理想の日本人」と「現実の日本人」
「日本という共同体のことを考えるならば、安いからといって粗悪な海外品に飛びつくのはよろしくない。品質が良いのならば、多少高くても国産品を買って、国内産業をサポートするのが国益にかなう(でないと国内の産業がスカスカになってしまう)」
というふうにとらえなおせば、これはわれわれ現代の日本にも通じる話になってきますし、それが意図されているとも思いますし、正論だとも思います(わたしは100円ショップが好きですが、100円ショップは亡国への道の第一歩だなぁとも思います)。
なのですが……。
でも個人的には、そこの部分にはあまり興味がありません。
(正しいか正しくないかはさておいて、それほど興味がないということです)
それよりもわたしは、
『あの時期の23番市には、「理想の日本人」と「現実の日本人」がいたのだ』
というところに興味があって、注目しています。
●「モデル化された日本人の理想」としてのマダム・ローズ
season1の感想や、season2の感想で書いたことなのですが、マダム・ローズは日本人というものの特徴のほとんどを備えた「The 日本人」だと思うのです。
以前書いたことの繰返しになりますが、season1で描かれたマダム・ローズ像は、
・豪腕は持っておらず、
・知恵や知識にもさして優れているわけではなく、
・経営感覚といえばゼロに近く、
・よって、クレバーな選択をしたくてもできない。
・だったら慎重にすればいいのに、やたら発作的な面があり、
・キレると後先考えない行動に出る。
・そのあと、自分が駄目だとわかると、いきなり自分を全否定にかかる。
・ずっしり反省しすぎて、自分自身を縛り、まったく身動きとれなくなり、
・自分一人がすべて悪かった、このまま死んでしまいたいみたいな極論を言い出す。
といったものでした。
この姿は、日本人の、戦前~戦後の姿(選択・行動)をなぞっているかのようなのです。突然キレて相手国に戦争をしかけ、負けたらこんどは数十年にもおよぶ自虐的反省モードに入る。
マダム・ローズは、日本人の、日本人的な弱さ・弱点・マイナス面をまとめて取りそろえた、モデルケースのような人物造形でした。
ですから、おそらく、「日本人の弱点の結晶であったマダム・ローズが」「日本人なら誰しもこうありたいと願うような理想を体現して」「その後、日本的な美学に即した散り方で死ぬ」というようなストーリーが用意されているのかな、ということを、わたしは個人的に想像しました。
(マダム・ローズは志半ばで死ぬ、ということは明言されていますものね)
そのことで、ローズは「日本人らしい弱さ」と「日本人らしい理想」と「日本人らしい破滅」をすべて備えた、「日本人そのもののような存在」として成立する……。そんな感じじゃないのかなというふうに、season1のときに想定しました。
*
さて。話は戻って。
そんなマダム・ローズは、season2や今回のseason3で、「日本人社会と日本文化のために、自分自身のすべてを捧げる」と決意し、まさにそのような行動を取ります。百戦錬磨のメリルやステラが「とても真似できない」と思うような激務をこなし、それはすべて「日本人のために何ができるか」「そのすべてをやってやろう」という動機にもとづいています。
日本人というのは、一般的なイメージとして、「滅私性」「献身性」という精神的特徴を色濃く備えているようです。
いや、正確に言えば、そういう精神性を「清く正しい日本人の姿として尊ぶ」という強烈な価値観を持っています。その価値観(ドグマといってもいい)に後押しされて、そういう行動を取ることがある。そしてその行動は周囲から賞賛される。そういった傾向があるわけですね。
まさに、日本人みんなのために献身する個人、という存在が、season2~3のマダム・ローズですから、この時期の彼女は、「日本人自身が、日本人ならかくあるべきだと考える理想の姿」と言えそうです。
この時期のマダム・ローズは、「理想の日本人」なのです(と思うのです)。
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その「理想の日本人」マダム・ローズが、理想の実現のために興したプロジェクトが「日本社会に本物の醤油を取りもどそう」だったわけです。
作中の東京23番市は、「日本人社会に醤油がない」という、ギョッとするような状況にあるのですから、「あるべき日本人社会の姿」を取りもどすためには、正しい醤油を取りもどさねばならない。
日本社会の理想を追い求める日本人が、日本人の理想のひとつとして「醤油のある生活」を手に入れようと思った。これは理に適った考えです。
日本人なら醤油のある生活を誰しも理想だと感じるはずだ。都内の醤油産業は壊滅している(と推定される)ので、よそに増産を頼んで持ってこなければならず、そのためコストはかさんで3倍の値段になってしまう。しかしそれでも日本人は誰しもこれを喜ぶはずだ……!
ところが、あながちそうでもなかったわけです。
●日本文化は教義ではない
現実の日本人は、そういうふうにはならなかった。
前述の通り、これを「日本人ってこういう目先の利益ばっかり追い求めて自分の首を絞めるよね、まったく」というふうに理解することはできますし、またそれが意図されているとも思いますけれど、わたしは個人的に、以下のように受け取ります。
「理想の日本人が推し進める理想実現計画に、現実の日本人がついていけなかった」
そのように受け取ったとき、このエピソードはとても印象的でした。
現実の日本人には、現実の生活があり、その現実的生活を成り立たせるために汲々としています。
その現実の日本人に、「3倍のお金を払って、理想の日本人の生活に参加してくれ」というメッセージは、強い訴求力を持たなかった。
作中では、醤油計画は金龍会の横やりによって失敗した感じになっていますけれど、たぶん横やりがなくても早晩頓挫したような気がします。だって実際、ローズから安く手に入れた醤油を、よその区域に持っていって高く転売しようという「日本人業者」がいたわけですしね。それと同じことが個人単位で発生しなかったわけがないのです。
そうなると結局、ローズが23番市に供給しているのは醤油という食品ではなく、「転売品」ということになる。23番市は「醤油が買える理想の街」ではなく、「高く転売できる物品が異常に安く買える現実的な街」におちてしまう。
マダム・ローズは、「理想と現実」について、少し誤解していたふしがあると思うのです。
日本人にとっての醤油は、もちろん「欠かせないもの」という感覚はあるけれども、決して「教義ではない」のです。ユダヤ人にとってのエルサレムのようなものではない。
日本人の生活というのは、一神教的なお告げに基づくものではないのです。神様が「あなたたち日本人は、醤油を使って食物をたべなければならない」というふうにお告げをしたから醤油を食べるわけではないのです。
(ユダヤ教やイスラム教には「あなたたちはこれこれを食べて生きるのであって、あれとかそれについては食べてはならない」というお告げがありますね)
日本人が醤油を使うのは、「たまたま歴史的にそういう調味料が開発され、そういう生活が支配的になったから」であって、何かちょっとしたことで、他の調味料が醤油の代わりの座を占めた可能性だってあったのです。
元をただせば、日本人が醤油を食らうのは、それが作りやすく、手に入りやすく、それを使う生活が簡便であったからにすぎないのです。
歴史的に、もし醤油を入手するのが困難なのであったら、別の物が醤油の代わりを務めたでありましょう。
日本人が醤油を食らうのは、「自然にそういう生活になったから」であって、教義だからではない。ボトムアップなのであって、トップダウンではない。
ところがローズは、「日本人は醤油とともに生きる」ということを、単なる生活形態ではない日本人のドグマだと思い込んだふしがあります。
ドグマ(教義)であるのなら、それを実現するためにあらゆるものが投げ打たれるでしょう。しかし、醤油というのはじつはドグマではなかった。それよりは生活の一部であった。だから、生活をおびやかしてまでもそこに注力するということは、日本人たちは行なわなかった。
ローズにとっては、「日本文化」「日本人らしさ」というものは、あたかも天に輝く星のような、そこを目指さなければならない理想の目標らしいのです。でも現実の日本人にとっては、日本文化とか日本人らしさというのは、目標ではなく「生活」です。
現実の日本人は、「日本人らしく生活しよう」なんて思いはしません。
そうではなくて、日本人が時間をかけて生活してみたときに、自然に現れてきたもの(形態)が、結果的に「日本文化」と呼ばれるようになっていくのです。順序が逆です。
「日本人らしさ」というものがあらかじめあって、それに沿って生活していくのではありません。日本人が生活したら、自然に出てきたもの。それが「日本人らしさ」として認識されていくだけのことなのです。
「日本人が生活するにあたって基準とするべき規範としての日本文化」というものが先験的に存在するわけではない。
ローズにとっては、日本文化というのは、あらかじめ存在して、「こうあるべきもの」という一種の規範でした(たぶん)。
しかし、現実の日本人にとっては、日本人の自然な生活形態が結果的に「日本文化」と呼ばれたりする、それだけものにすぎないはずなのです。
だから、「理想の人」になってしまったローズの描いた絵に、現実の日本人たちは、ついていかなかった。
●日本人が日本文化を語るパラドックス
ちょっと余談になりますが、わたしは個人的に、日本の文物を日本人が「日本文化」と呼ぶことが、好きじゃありません。
「日本文化はこれこれこうである」という語り方をする日本人がいますが、まったくもって、馴染めません。
日本の文物を「日本文化」というふうに見るのは、観光客の視点です。当事者の視点とはいえません。
「日本文化」という概念は、基本的に「外から見たときに照らしだされるもの」であって、いわば外国人の視点から自分を見たときの概念。
もちろん、そういうふうに外部の視点で自分をかえりみることは重要なことです。
でも、われわれ日本人にとって日本文化は、日本文化である以前にまず「生活」であるはずです。生活であるべきです。
生活というのは、つとめて意識しないもの、空気のようにあたりまえのもののはずです。自分の生活を「日本文化」として紹介するのは、あたかも「空気の存在を自慢する」かのようなナンセンスさがあると思う。
醤油ひとつとっても、わたしたちは醤油を口にするとき「日本文化を口にしている」とは意識しないはずです。それよりは、醤油いうものは生活の一部だ、と認識しているはずです。
生活の一部であるのなら、生活全体のために、醤油を売ってお金や他の物に替えようというのは、ごく自然なことだと理解できます。その行為は、非難するにはあたらないものと思えます。
「日本人の魂である醤油を売るなんてとんでもない」というふうに言う場合、その醤油はもう食品ではなくイデオロギーになってしまっています。マダム・ローズは、「おいしい食品を買って食べて下さい」というつもりで、いつのまにか「素晴らしいイデオロギーを、お金を払って買って下さい」ということをやってしまっていた、と思うのです。
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別の例を挙げれば、歌舞伎や、能や、文楽。
わたしは、これらのものを「日本文化」と呼ぶことに、それほど抵抗がありません。なぜなら、わたしという日本人の生活のなかに、それらはもうないからです。
歌舞伎や能を見に行くことはありますが、それは生活として見に行くのではありません。観光として見に行くのであって、つまり、海外からの観光客がそれらを見るのと同じ視点から見ている(もはやそうとしてしか見ることができない)ものだからです。
つまり、「日本文化」というレッテルを付けてみて、違和感がないものは、もはや「生活としては失われたもの」「死せる生活」だということです。
かつての江戸の町民たちにとって、歌舞伎はきっと、生活でした。今のわれわれのテレビ・ショーのようなものだったでしょう。当時の江戸の都市生活者に「文化」という単語が通用するとして、彼らに「歌舞伎ってまさに江戸文化ですよね」などと言ったら、きっとぽかんとされると思います。われわれだって「日本のテレビ番組は日本文化ですね」なんていわれたら、「ハァ、えーと、そうですか」と微妙な気持ちになるでしょう。だって、文化うんぬん以前に、生活の中に密着したツールですからね。
つまり、その時代には、歌舞伎というのは、生活の一部として、生きていた。
しかし、今はそうではない。
●自明ではないから理想化する
そのように、「理想の日本人」と「現実の日本人」。「文化」と「生活」。ふたつの間に生じた、ズレ。
そうした齟齬を浮き彫りにしたエピソードとして見たときに、この醤油戦争のお話は魅力的だと思います。
season2の最後でジャンヌが言ったような「ただただ、日本人が浅ましいというだけの話」というふうには、思いませんでした。
それよりは、「マダム・ローズは、現実を超越するほどの理想をかかげてしまった」というエピソードとして、魅力があると思うのです。
「現実の人々がついてこられないほどの理想への邁進」
ということでいえば、ケイレブが破滅していくエピソードの裏返しとして見ることも、できるかもしれません。
ローズは、醤油戦争の顛末を機に、武闘派路線へ舵を切っていくことを模索し始めます。それは単に暴力解禁ということではなくて、理想主義だけでつきすすんでいって失敗が見えたから、現実的な着地点をちゃんとさぐっていくというバランスのようにも感じられました。イデオロギーは幻想ですが暴力はリアルですからね。
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ローズが、日本文化を「生活の結果、自然発生したもの」ではなく「先験的(あらかじめ存在する)な規範」のように認識してしまうのは、彼女がギリシャ人の父親に養育されたから、という部分が大きいように思います。
その父は、単に異邦人ということではなくて、「日本の伝承や民話にどっぷりハマった」人であって、「日本の文化や日本の心を重視した教育をローズに与えた」そうです。
season1の感想のところにも書きましたが、ローズの父親はラフカディオ・ハーンその人か、もしくはラフカディオ・ハーンをモデルにした人物だと想定できます。
ラフカディオ・ハーンは、日本文化の中に人間の理想を見いだした人です。われわれ日本人にとってはとてもありがたい人ですが、いじわるな言い方をすれば「ニッポン幻想に幻惑されちゃった人」であります。
「ニッポンに対する幻想」におもいっきりとらわれた人に育てられたのですから、日本の風習を、カギカッコつきの『日本文化』として認識してしまうのは、いたしかたないのかなという気もしますね。
わたしたち日本人は、日本国内に住んでいる限り、ふつう、「自分は日本人だ」ということを強く意識したりはしません。なぜなら、そんなことは自明のことだからです。意識なんかしなくても自然に日本人なのです。
でも、ローズはギリシャ人とのハーフです。つまり、血縁的に、容姿的に、日本人であることが自明ではない立場でした。ですから、おそらく彼女は、幼少時から「自分は日本人だ」ということを強く意識し、自認しなければならなかった(そうしなければ“日本人”性があやうくなる)立場だったと考えられます。
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まとめますが(繰返しになりますが)、ローズさんは、日本の中で、日本人として生活していながら、日本を見る目が外部的なのです。日本というものを、外国から見るような目で見ているふしがあります。
ローズは、日本文化というものを「自分の外側にあるもの」のように語る人です。「日本文化とは、自分の裡から自然にわき出るもの」という感覚が皆無です。
だから、日本文化というものを、教条として捉えてしまう。
教条として捉えるということは、「意識化する」ということです(本来の日本人は、そんなものを意識化しません。空気のようにあたりまえのものだからです)。
意識化するということは、字義通り、それを意識して刻み込んで生きるということですから、「理想としてそれを求める」という行動につながります。
つまり、マダム・ローズは、「理想の日本人」というものを体現しやすい性質を備えていた人なんだということになります。
ローズガンズデイズは、「文化圏としての日本」が消滅の危機にあるというif世界ですから、そういう世界で文化圏としての日本を生き残らせようとするならば、ローズのような「意識化された日本」という視点が必要なのです。ですから、マダム・ローズが「日本を生き残らせる」という運動のリーダーになったのは、必然ですし、最適任でした。
しかしローズは、日本人の現実を超えて、理想的な日本人になりすぎてしまった。
日本人互助のために、彼女自身が理想化された日本人像になった(一種の「文化的超人」になった)結果、とたんに現実の日本人がついてこられなくなった。
そんな物語として、わたしは読みました。
●余談1・ツェルの正体
ここからはわりと余談的な話題。
ツェルの正体については、season2の感想エントリで推測を試みました。細部でところどころ外したものの、まぁまぁいいところは突いていたかなという感じです(ちょっと読み過ぎましたね)。
●余談2・プリマヴェーラと日本ヤクザ
プリマヴェーラは、物語に描かれているとおり、元はといえば、マイノリティ化して消えゆく定めにある日本人というコミュニティをなんとか存続させるための互助組織でした。
しかし、2013年の、林原樹里の時代には、そうではなくなっています。単に巨大で圧力的な暴力組織として人々に認識されています。
そのくだりを読んで、ああ、これはまさに現実の日本のヤクザが経てきた流れだなというふうに思いました。
どうもローズガンズデイズは、現実の日本のヤクザの成り立ちをうまこと踏襲していますね。
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例えば、神戸に本拠地を置いている、恐い恐い山口組さんという極道さんがいらっしゃいます。日本最大のヤクザ組織です。
その山口組は、もとはといえば、神戸港の港湾荷役労働者の斡旋業者として始まりました。港で、荷物の積み下ろしをするのには、マンパワーが必要です。初代の山口春吉さんは、港から「何日に何人が必要」という依頼を受け、日雇い労働者をかきあつめ、港に派遣するという、そういう業者だったのでした。「手配師」とも呼ばれる職業です。
当時、港湾労働者たちは、薄給で、底辺労働者であって、つまりすこぶる待遇が悪かったのです。
なんでそんなに薄給なのかといえば、丸投げの丸投げのさらに丸投げが横行していたからです。元請けの斡旋業者が仕事を請けると、マージンを取って下請けに丸投げする。下請けは、またマージンを取ってさらに下請けに流す。どんどん下流に流れていくうちに、実際の荷役を行なう労働者に渡る賃金はギリギリまで目減りしている。そういうカラクリでした。
ローズガンズの作中でいう、「23番市特別枠」のエピソードとまったく同じですね。
で、不当な待遇に甘んじていた港湾労働者たちは、手配師の山口春吉さんを親分として、疑似親子関係をむすび、団結し、組織化することになりました。それが山口組さんのはじまりだそうです。
団結して組織化することで、底辺の労働者の福利を獲得(確保)しようという、そういうところからはじまったのです。どっかで聞いた話ですよね。
これはべつだん、山口組さんにかぎった話ではありません。
港湾荷役に限らず、その日その日の単位で雇われて働く日雇いの業種があれば、そこには必ずマネジメントをする「手配師」というものが生じます(「人を集める」「ツテを持ってる」というのは、結構特殊なスキルですからね)。
そして、「立場の弱い日雇い労働者と手配師が、子分親分の疑似親子関係をむすんで団結、組織化する」というのは、江戸時代くらいからよくあることでした。「人望があるから手配師をやっている」のが、「人望があるから親分になる」にスライドするのですね。
芸能、遊郭、花柳界、土木関係といった「需要に応じて呼ばれ、その日その日でスキルや労働力を提供する」という業界で、このような親分子分の疑似家族集団が発生していきました。
そういった集団が、のちにいう「やくざ」になっていったわけです。
(だからやくざは、土建屋とつながりがあったり、芸能事務所や風俗店を経営していることが多いのです)
つまり、ヤクザというのは歴史的に、「底辺労働者の互助組織」という側面を持っている(ことが多い)のです。
プリマヴェーラは、夜の女の互助組織としてはじまりましたし、クラブ・プリマヴェーラを頂点とする、下部店舗との上下関係がありました。
また、ケイレブファミリーや、それを引き継いだマフィア・プリマヴェーラが最初に行なったことは、日雇い斡旋業者の下請け孫請け曾孫請け構造を解消し、自前で元請けの権利を握るということでした(すなわち23番市特別枠)。
そして、話を現実の日本ヤクザに戻せば、日本のヤクザというのはひとつ不思議なところがあります。
組織の存在目的として「日本社会に寄与する」ということを掲げている場合がひじょうに多いのです。
たとえば山口組さんは、山口組綱領の前文に、「山口組は侠道精神に則り国家社会の興隆に貢献せんことを期す」という一文を掲げています。
でも、現実的には、ヤクザは「国家社会の興隆への貢献」の正反対のことをなさってる場合がずうっと多いのは、皆さんご存じの通りです。
まとめると、ヤクザ組織は、
(多くの場合)「下層労働者の互助組織として発足し」
「日本人共同体への寄与を存在目的として掲げており」
「しかし現実には、暴力を背景にした違法行為を行なう組織となってしまっている」
ということなわけです。プリマヴェーラは、これと全く同じ経緯を辿って、林原樹里の時代にあのありさまになっているわけです。
どうもローズガンズは、フィクショナルではありますけれど、一種の「ヤクザ史概論」のような感じにもなっているな、と感じます。かなり現実に忠実に、「ヤクザの成り立ちとその後の変質」を描いています。
竜騎士07さんは、『ひぐらし』のころから顕著ですが、どうもやくざ周りの物事とか、被差別問題といったことに詳しい方のようですね。ひょっとして公務員時代に、そういったことを担当する部署にいたのかもしれませんね。
●余談3・マダムジャンヌの後継者
あの、わりとオーソドックスな想像だと思うのですが、「林原樹里がマダム・ジャンヌの後継者になる」みたいな流れって、ある程度想定されてるかもしれませんね。
想定されているといっても、ストーリーが実際そうなるかもしれないし、ならないかもしれないです。ただ、ストーリーがそうならないとしても、「そういう雰囲気を匂わせることで興味をひっぱる」というテクニックとして匂わされているなあということです。
系譜的に、ローズ→ジャンヌというふうに、女ボス→女ボスで来たのですから、次代も女性がトップにつくのが物語として据わりがよい、ということもありますしね。
あの世界のあの時代には、林原樹里のような混ざりけなしの純粋な血を持つ日本人は希少だそうです。まあいってみればレアポケモンみたいなものですね。「艦これ」だったらぜかましちゃんとか瑞鶴さんみたいな感じでしょうか。
マダム・ジャンヌは、「次世代のプリマヴェーラは、マダム・ローズの日本人互助路線に戻って貰いたい」という希望を持っているのですから、次世代のボスが日米ハーフだったり日中ハーフだったりしたら、話になりません。
血縁的に、米国の利害や中国の利害を背負っていていてはいけないというわけです。「このプロジェクトを進めたら、母方の一族が困っちゃうかなあ……」みたいな立場の人は、プリマヴェーラのボスにはふさわしくないはずです。血縁的に日本人でないと、組織の運営において、米国的利害や中国的利害で決断をしてしまう可能性がある。
そのてん、林原樹里は、「父方も母方も日本人」「女性」「マダム・ローズの理念やプリマヴェーラの歴史を網羅的に熟知している」ということなわけで、なんかこう、いろいろ「ちょうどよい」感じがあるわけです。
「四か国語を話せる才媛で」「古武術の達人でもある」なんていう設定もありますから、ますます良い感じです。マフィアネームは「マダム・ジュリー」くらいでどうでしょう(微笑)。
彼女の性格はマフィアのボスに向いてないだろう、といったことは、問題ありません。第一マダム・ローズという人が、まさにいちばんマフィアのボスに向いてない人だったのですものね。
ただ、「マダム・ジャンヌは、次代のボスの英才教育のつもりで樹里に昔話をしている」とか考えだすと、変なことになってきます。ジャンヌは別に、そんなつもりで物語を語っているのではなくて、何かなりゆきで、結果的にそんなふうになるとか、そんな感じでとらえたらいいんではないでしょうか。
そういえば、虎継くんが新聞社で番犬よろしく吼えてくれたおかげで、「ちょっぴりイケてた経理部のチェン君」だの「実家が香港の富豪だというマー君」だのが、樹里にメールを送らなくなるという、素敵なエピソードもありましたね。
●余談4・ウェインの奥さん
すなおに考えたら、メリルかなあ……くらいの感じですけれど、どうなんでしょう。
(おわり)
■Last Seasonの感想はこちら→ ローズガンズデイズ Last Season 感想・竜騎士トラップのつくりかた、その他
■ローズガンズデイズ 目次■
面白かったです。日本文化は教義ではないという記事を読み、はっとさせられました。ローズが醤油文化を大切にしたいのは、発酵醤油が味も良く体にもよいから、そして食文化を創り出す醤油職人たちの生活を守りたかったからだと思います。アメリカや中国の仲間にも理解してもらいたかったけれど、自己本位な態度を目の当たりにして、大好きな日本人を守るというスタンスに立ったのではないかと思います。日本人を守る手段として美談を創り出したのでしょうね。確かに,醤油文化を守るべき教義ではないですね。ただケチャップ、ラー油などの外国の調味料も楽しんで味わうゆとりがほしかったと思いました。
それからもう一つ。山口組の成り立ちについて初めて知りました。弱者救済のために生まれた山口組も現実が理想に飲み込まれてしまっているのでしょうか。脅すことではなく、励ますことでグループの士気をあげられたらもっといいと思いました