さいごのかぎ / The quest for grandmaster key

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Ep8を読む(5)・「あなたの物語」としての手品エンド(下)

2011年02月14日 10時26分29秒 | ep8
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Ep8を読む(5)・「あなたの物語」としての手品エンド(下)
 筆者-初出●Townmemory -(2011/02/14(Mon) 10:23:04)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=59987&no=0 (ミラー


●番号順に読まれることを想定しています。できれば順番にお読み下さい。
 Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上)
 Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下)
 Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上)
 Ep8を読む(4)・「あなたの物語」としての手品エンド(中)


     ☆


●記憶障害が暗示するもの

 前回語った内容、すなわち、
「“書かれたこと”と“本当のこと”の相克・相生」
(相克とはたがいに打ち消しあうこと、相生とはお互いを生みあうこと)
 を、端的にあらわしているギミックがあります。

 というか、この「構造」を、ひとりで体現している人物がいます。
 それは生き残った右代宮戦人氏です。

 彼は、「自分の記憶を自分自身のことだと思うことができない」という脳障害をもってしまいました。

 それって言い換えればこういうことなのです、つまり、
「記憶」という「(脳の中に)書かれたもの」を、本当のことだと信じることができない」(本当のことであるにもかかわらず)

 戦人氏は、自分の中にある記憶、それは確かに彼自身が見聞きしたことなのですが、にもかかわらず、それを「本当のこと」だと思うことができないのです。
 まるで、誰か悪意を持った存在が、自分の脳のなかにまやかしのデータをキュルキュルキュルっと「書き込んだ」かのように、思えてしまっているのです。

「本当のことを、書かれただけのことにする」……。

 しかしそれは、裏返せばこうも言えるのです。

 たとえ信じることができなくても、その記憶は確かに頭の中に「書かれている」。そこに確かに書かれているのだから、信じられなくてもやっぱりそれは真実なのだ、と。

 つまり、「書かれたことは、本当のことなのである」……。

 どっちでもあるのです。「書かれたことは、本当のことである」は同時に、「本当のことは、書かれたことにすぎない」のです。彼の中には、その両方がある。

 そのふたつが、どっちかに固定することなく、くるくると回り続ける。一方が意識されれば他方が反論し、他方が意識されればもう一方が反論する。
 そのどうどうめぐりが、「右代宮戦人の記憶を巡る地獄」であるのです。すなわちあの戦人は「うみねこが提起した問題」そのものなんです。

 そういう、この物語が提起する「両義性」(ひとつの事柄が、互いに矛盾するようなふたつのものごとを同時に指し示すこと)を、右代宮戦人は体現しています。
 この「現実と虚構のターンテーブル」は、いわばうみねこの猫箱黄金郷そのものなのです。ですから、ある意味においては、
「六軒島猫箱は、右代宮戦人の体内に、あれからずうっと存在しつづけた」
 ともいえます。

 いってみれば右代宮戦人氏は、「六軒島システム」を小さくアーカイブしてぎゅっと詰め込んだ「缶詰」のようなものなんだ。

 だから……。その右代宮戦人が、「寿ゆかりの黄金郷」という、しかるべき「場」にたどりついた時。
 右代宮戦人の中にひそんでいた猫箱の中身が、そこに開放される。
 だからそのとき、「六軒島の黄金郷」が、再生可能になるのです。黄金郷の人々、右代宮ファミリーが、そこに再び現出することができたのはそれだからです。


●真相を語らないことがわたしたちに語ること

 Ep8はファイナルエピソードだというのに、「犯人は誰で、トリックはこうである」といった、明確な解明パートがありません。

 竜騎士さんは、いろんなインタビューで「そういうハッキリした解明は最後までないよ」という意味のことを、何度も何度もおっしゃっていたので、そうなることをわたしはあらかじめ知っていました。けれども、そういうのを読んでいなくていきなり直面した人は、そりゃビックリしたろうと思います。

 竜騎士さんは「答えを書かない理由」について、インタビューで説明を加えているのですが、ここではひとまずそれをガン無視します。(別のエントリでそのうち取り上げます)

 作者が言ってることはとりあえず無視して、
「真相を語らないことが語ること」
 について、わたしがこれから語ります。

     *

 わたしたちの中には「真相に到達したい」という欲望があり、その一方で、「ハッキリした答え合わせはない」という現実があり、コンフリクトしています。

 Ep8には、「魔法エンド」「手品エンド」があります。
 わたしたちの「真相に到達したい」という欲望が接続されているのは、「手品エンド」のほうです。

 だって魔法エンドのほうは、「事件の真相へ向かう欲望」が発生しない(キャンセルされる)選択なのですから、真相解明へのアクションと接続しようがないわけです。
 それをオッケーということでのみこめる人は、それで良いはずです。「Ep8を読む(1)」「Ep8を読む(2)」で書いた内容で、だいたい欲望的に完結できます。

 ちょっと言い方を変えれば。
 最後の二択は、ベアトリーチェが見せてくれた、手の中から飴玉が出現するというフシギな現象を、

「魔法」と呼ばれるブラックボックスということで納得するか、
 あくまでも物理法則の範囲内で行なわれたもので、トリックだと思うのか(ブラックボックスを認めないのか)、

 そういう「あなたのスタンスを問う」二択であるというふうに理解できます。

 トリックの存在を想定したとき、はじめて「そのトリックを知りたい」という欲望が喚起されます。ですから、わたしたちが「うみねこの真相を知りたい」と思うのなら、それは「手品エンド」の中に問うべきだという筋になります。

 が、その「手品エンド」の中にも、真相解明はなかった。

 手品エンドの縁寿は、「未来に生きるんだ」という決意はかためてくれますが、残念ながら「六軒島の真相をあばいてやるぞう」という決意は持ってくれません。
 むしろ「真実とか、意味ないってわかったし」くらいのことをだるそーうに言っていました。

 ということは。わたしたちが「真相解明」を手に入れるためには、縁寿にかわる、「真相を調べて教えてくれる探偵」を必要とする。ということになります。

 八城十八。……あの人は「一なる真実の書」の公開をやめてしまった人ですから、「真実を知って、それを明らかにする」という願望も「途中でやめちゃった」でしょう。
 大月教授。……あの人はだめです。彼はどっちかというと「魔女が存在してほしい」側の人ですからね。たぶんすべての犯行を魔女で説明してしまいますよ。

 では、誰が探偵を?


●「人間犯人説」とのアナロジー

『うみねこ』という作品は、こういう扇動からはじまりました。

皆さんは、どんな不思議な出来事が起こっても、全て“人間とトリック”で説明し、
一切の神秘を否定する、最悪な人間至上主義者共です。

どうぞ、六軒島で起こる不可解な事件の数々を、存分に“人間とトリック”で説明してください。

皆さんが、どこまで人間至上主義を貫けるのか、それを試したいのです。

(略)

一体何人が最後まで、魔女の存在を否定して、“犯人人間説”を維持できるのか。

「うみねこのなく頃に」作品紹介


『うみねこ』の物語は、「魔女犯人説」と「人間犯人説」の対立、というところから始まりました。
 ベアトリーチェが主張する魔女説と、戦人が主張する人間説が戦うという物語でした。(そしてそれ以後しばらく、その論点は見かけ上は棚上げになっていました)

 Ep8で、焦点は、ぐるっとまわってそこに回帰してきます。

「魔法エンド」と「手品エンド」の関係は、「魔女犯人説」と「人間犯人説」の関係と、ほとんどアナロジーの間柄にあるといえます。

「魔女犯人説」というのは、つきつめたら、
「魔女が全部やりました。そして魔女本人が、どうやったかを子細に語ってくれました」
 ということです。(魔法の杭がどうとかね)

「魔法エンド」というのは、つきつめたら、
「魔女がペンで書いた(語った)物語を、本当のこととして採用しちゃいましょう」
 という選択です。
(この推理では、そういう解釈をとっています)

 響きあっているでしょう?


 そして思い出してみれば。
「魔女が語る真相」(壁をすり抜ける呪いの杭だ!)に「満足できない!」「だから俺が、納得可能な真相をあぶりだしてやるぜ!」というところから、この物語は始まったのではなかったでしょうか。
 そう、ソレに「満足できない」ということから生じたのが、「人間犯人説」なのでした。
「俺が本当の真相を突きとめて語ってやるぜ」
 という立場なのでしたね。

 そして「手品エンド」というのは、
「お兄ちゃんや魔女フェザリーヌがこしらえた(語った)真相には満足できない。もっと他のものが欲しい」
 という選択です。(この推理ではそういう理解です)


「魔女犯人説」と「人間犯人説」……。

 この2つを、
「魔女が答えを語るのか」「人間が答えを語るのか」
 という形に読み替えたとき、それらは、

「魔女のストーリーを受け容れる選択としての魔法エンド」
 と、
「それを受け容れない。自分で模索しようという選択としての手品エンド」

 その2つの扉と、きれいに響きあうのです。


 それをふまえたうえで、
「手品エンドには、あるべき真相解明パートがなかった」
 という問題を、もういちど考えてみる。

「魔女犯人説」と「人間犯人説」の関係では、魔女説に納得できない「戦人」という人物がいて、彼が別の真相を手に入れることを望み「じゃあ、俺がそれをつきとめて語ってやるぜ」と言い出したのでした。

「魔法エンド」と「手品エンド」の関係ではどうなるか。
 魔女がペンで書くストーリーに満足できない誰かさんがいて、その人物は別の真相望み、手品エンドのほうを選択する。
 その「別の真相」を誰がつきとめて語るのか。
 戦人は、「満足できないから、自分でやる」と言い出したのですから、別の真相をつきとめる役目は、「満足できないからという理由で手品エンドを選んだ人」です。

 選んだのは縁寿かしら。
 その縁寿が、「真実とか無意味だし」とか言い出したのですから、これを叱咤して、「コラ、ちゃんと探偵しろ」と言えば良いのか?

 もちろんそうではない。なぜなら、手品エンドを選んだのは縁寿ではないからだ。


 その選択肢を選んだのは、ポインタを動かしてクリックをした人に決まっている。


●選択肢はあなたに問いかけている

『うみねこ』にはこれまで選択肢がなかったのですが、今回のEp8で、急に選択肢が導入されました。しかも、そのほとんどが、ストーリー的には分岐の発生しない、なぞなぞやミニ推理ゲームでした。
 なぜでしょう。

 一般的なビジュアルノベルにおける選択肢は、
「ユーザーの選択通りに主人公がうごいてくれる」
 というギミックです。たいていのユーザーは、そのように認知していると思います。

 が、それは、別の見方をするとこういう意味にもなる。
「あなたが答えを指示しないかぎり、物語は一切、一歩も、一文字も先に進まない」


『うみねこ』ではおそらく、後者の意味で選択肢が導入されています。
 ストーリー上、物語のテクスチャー上では、縁寿が選んだことになっている。
 けれども。
 わたしたちが選ばない限り、縁寿は絶対になぞなぞの答えを出さない。
 なぞなぞの答えが出ないかぎり、物語は絶対に、一文字も先に進まない。
 わたしたちが選ばない限り、戦人とベアトは決して推理ゲームの犯人を指名しない。
 推理ゲームに正答しない限り、物語は絶対に、一文字も先に進まない。

 あなたが指示する。
 指示しないかぎり、その先は「存在しない」……。



 ベルンカステルの推理ゲーム。その犯人を告発したのはわたしたち、つまりあなたです。

 あなたが探偵だ。

 ミステリーは、探偵が犯人を告発しないかぎり、真相がわからない。



「人間が答えを語る」という思想としての「人間犯人説」。
 たくさんのクイズを解いたのは「あなた」。
 ベルンのミステリーを解いたのも「あなた」。
 選択肢を選んだのは「あなた」だから。

 当然、「人間犯人説」における「答えを語る人間」とは、あなたのことです。


 そんなあなたが選んだ「手品エンド」。探偵が登場する、いわば「探偵エンド」。

「魔女が適当に書いたモヤモヤするハッピーエンドよりも、物理的な真実がほしい」
 と「望んだ」のは誰でしょう。
 それはわたしたちつまりあなた。では、謎を解くのは、だぁれ?

 わたしたち……つまり「あなた」しかいないのです。


 手品エンドは探偵エンド。探偵が謎を解決するエンディング。
 その探偵とはあなたなのだから、あなたが解決しなければ、真相はわからない。

 リフレイン。
 ミステリーは、探偵が犯人を告発しないかぎり、真相がわからない。

 あなたが指示する。
 指示しないかぎり、その先は「存在しない」……。



 だから「わたしたち」すなわち「あなた」が推理し、解明し、「見えない選択肢」を選び。それを物語らない限り。すなわち「書かない限り」
 その先は「存在しない」


 なぜ手品エンドの中に事件の真相を語るパートがないのか。
 あなたという探偵が(あるいは魔女が)、まだそこを「書いて」いないからだよ。


 魔法がないなら、魔女フェザリーヌはいない。フェザリーヌがいないのなら……代わりに誰かが書くしかない。「あなたが選んだ手品エンド」は、そういう選択なんだ、多分。


●わたしたちはどこにいるのか

 わたしは今回、「書かれたことを、本当のことに変える」「本当のことを、書かれただけのことに変える」というサイクルのことを、しつーっこく語っています。
 このサイクル。
 何らかの「書かれたもの」がタネとして存在していないと、サイクル自体が発生しないのです。

 逆に言えば「書かれたもの」さえあれば、それを真実にしてしまえるし、虚構に戻すこともできる。

 ですから、
「わたしたち」という探偵が、観察と推理のはてに、とある真相を解明し、犯人をつきとめ、それを「語る」あるいは「書いた」のだとしたら。

 それは「本当のこと」に変えることができる。それをわたしたちはすでに知っているはずです。

「書かれただけのことを真実につくり変えているのはわたしたち(あなたたち)だ」
 ということを、わたしは、このシリーズの(1)(2)で、のべました。

 魔法エンドは、
「あなたたちが魔法を使って、書かれただけのことを真実へと作りかえなさい」
 ということを、ささやきかけます。

 手品エンドは、
「本当のことへと変えるための、真実を作って、書きなさい」
 ということを要求するのです。


「本当のこと」に変える……それは「魔法エンド」側の作用でした。
 つまり「手品エンド」の中には、可能性としての「魔法エンド」が内包されている。

 いっぽう、「魔法エンド」の中にも、「手品エンド」が内包されています。頭の中の「本当のこと」が「書かれただけのこと」になってしまった右代宮戦人氏。

 魔法エンドの中には手品エンドのシステムがあり、手品エンドの中には魔法エンドのシステムがあるんだ。
 外側のものが内側にある。内側のものが外側にある。
 クラインの壺。

 回転する「虚構」と「真実」のサイクル。


 わたしたち各人、つまり「あなた」が真相を書いたとして、それが本当の真相だとどうしてわかるのか。
「書かれたことを本当のことにする」作用があるからだ。それは真実となるのだ。
 だが、自分以外の他の人々も真相を書くだろう。それは自分の書いた真相とは異なっているかもしれない。他の人々も「本当にする」のだから、真相にならないじゃないか。
 他の人が持ってくる「本当のこと」を、「書かれただけのこと」にすれば良い。
 その「他の人」も、わたしの真実を「書かれただけのこと」にしてしまうじゃないか。
 なら、そこでもう一度「書かれたことを本当のことにする」魔法を使えば良い。

「書かれたこと」と「本当のこと」が、入れ替わり立ち替わり、くるくる回ってる。

  その回転によって、虚構と現実とのあいだにあった「鏡」が、バリンバリン割れていく。(何度聞いただろう、その音を)
 虚構は鏡を割って現実に侵食し、現実は鏡を割って虚構に侵食し。

 そのたびに「虚構と現実とを隔てる壁」が、ぶっこわれる。

 わたしたち自身が「虚実境界線破壊ドリル」として回転し、そのたびに、虚構と現実との壁は、幾度となく破砕されてゆく。六軒島の魔法は、我々の手元にまで飛び出して来てる。

 こういう言い方もできる。
 わたしたちはすでに、無限にめぐる「六軒島システム」に巻き込まれている。
 それをもう少しロマンチックに、こう言い換えてもいい。
 わたしたちはいま、六軒島にいる。


●“インストール”されたもの

 というわけで。
 どうして急にEp8には選択肢があったのか。
 どうしてなぞなぞやゲームがあり、その先にユーザ選択肢としての「二つの扉」があったのか。

 なぞなぞや推理ゲームを「解けたか解けなかったか」ということに、大きな意味はないと思うのです。じっさい、ストーリー上の変化はない。

「選択する人」としての「あなた」が意識され、浮かび上がってくることに意味があった。

 縁寿の物語が、あなたの物語に。
 縁寿の選択が、あなたの選択に。

 すりかわってゆくこと……いや、むしろ、「最初からすりかわっていたものが、本来の位置に戻ること」に、意味があったといえます。


 たとえば以下のような記述。
(すべてが「探偵・古戸ヱリカ」の発言です)

「……真実の魔女にとって。真実は与えられるものですか? 私が、これが真実だとあなたに押し付けたなら、あなたはそれを鵜呑みにする気ですか…?」
(略)
「……誰にも、教えられません。………真実は、自分で手にしなければならないからです。」


「そうです。神々の物語に記されることがなくとも。……私たちが記す自らの物語の主人公は、常に自分なんです。………それを自覚できるか出来ないかが、魔女とニンゲンをわける最初の分かれ道。」


 作者が、これが真実ですと押し付けたなら、わたしたちはそれを鵜呑みにするのだろうか(だったら、最初から魔女犯人説や魔法エンドで良い)。
 物語の探偵がそうしているように、自分で考えて出すしかない真相というものがある……。

 作品そのもの(神々の物語)に登場していなくても、あなたが主人公として選び、あなたという探偵があなた自身を語るのだ……。


 これらの記述はすべて、「縁寿の物語」を「あなたの物語」へと変換していくために置かれているものです。
 古戸ヱリカはいつだって、こっちに向かって語ってる。「いかがですか、皆様方」って。

 幻想と真実。
 鏡のむこうとこっちにいて、入れ替えが可能な「虚構」と「現実」。
 モニタの向こうにいる縁寿と、こっちにいる「あなた」

 うみねこのなく頃には幻想に決まっている……本当に?


 ここに至って、わたしたち即ち「あなた」は探偵役として、この「幻想」の中に取り込まれました。この物語の中には主人公である「あなた」がおり、ファンタージエンの姫君は、名前を呼ばれるのを待っている。

 逆もいえます。あなたがいるその場所は、今や「うみねこのなく頃に」になったのです。

「あなた」という存在は、「うみねこのなく頃に」の中にインストールされる。
 そして「あなた」もまた、「うみねこのなく頃に」を自分の中にインストールする。
 内側と外側がつながった、クラインの壺。



(まだ続きます。だいたい重要なことは書いたから、今後ますますゆっくり進めます。いま2/3くらいです)

■続き→ Ep8を読む(6)・ベアトリーチェは「そこ」にいる


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■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■
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14 コメント

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素晴らしいです (maple)
2011-02-14 16:04:55
以前から読ませて頂いております。

EP8を読んで自分の中にもやっとつかまえていたものを、
Townmemoryさんが明確な言葉にして下さった気がしています。

観劇の、そして真実の魔女であるTownmemoryさんの
考察の続きをとても楽しみにしております。
Unknown (Unknown)
2011-02-14 19:13:20
Townmemoryさんの考察を読めて良かったです
ネット上での苛烈なEP8へのバッシングに
不快感と違和感を感じていたのですが
Townmemoryさんのお陰で
ep8の結末をを改めて自分のものにすることが出来ました


続く考察も期待しています
山羊の皆さん (名無し募集中。。。)
2011-02-24 08:13:51
エンドロールで出演者として紹介されている山羊の皆さんというのは、まさにうみねこのなく頃ににインストールされた私たちのことなのかもしれませんね。そう考えると、真里亞のキャラソングで、山羊のおじさんまだ増えてくよ~♪、と歌っているのとも整合するような気がします。
Re:山羊の皆さん (Townmemory)
2011-02-24 09:11:56
●名無し募集中。。。さんへ

 あ、ちょっと話がずれてくるんですが、それは重要な指摘のような気がします。

 エンドロールというのは、ふつう、キャラクターに対する実体としての役者さん、つまり「中の人」をクレジットするためのものです。
 でもうみねこは、まるで「実体としての戦人」や「実体としてのベアトリーチェ」がいるかのように、まるでキャラクターその人、本人にリスペクトを捧げるかのように、キャラ名をクレジットしているのですね。スタッフとキャラクターに区別がなくて、完全にシームレスです。
Unknown (当時は高校生)
2011-03-21 21:15:57
> 彼は、「自分の記憶を自分自身のこと
>だと思うことができない」という脳障害をも>ってしまいました。

このあたりは、「トータルリコール」的だな~と思いました^^;あれも記憶の改変が
物語の軸になってましたので。

ところで、EP1-8で登場している上位バトラは
どうゆう存在だとお考えですか?自分は助かったバトラ(脳障害を持ったバトラ)がボトルメール(EP1,2)や偽書(EP3,4)を読んで苦しんでいる状況と捕らえているのですが。

ごちそうさま(ネウロ風に) (EGOIST)
2012-01-30 03:22:47
・・・・・・素晴らしい!!
これが貴方の導きだした答え、いや考察ですか! グッド!
なるほど、一部の人間だけでも本当に理解して貰いたいというあのセリフは、ここで初めて美しく花咲き謎の蜜を解放するわけですか・・・・・・
Unknown (Townmemory)
2012-01-30 16:47:59
●EGOISTさんへ
 こんにちは。この一連のエントリの内容と価値を理解できるあなたは良き知性をお持ちです。(ってわたしの口から言うのは僭越なのでしょうが、気にしないことにしました)
 ところであなたの文体は竜騎士さんっぽくて良いですね。わたしも、ちょっと文体模写をしてみようと思ったことがあるのですが、うまくいきませんでした。難しいです。
作者の強い意思と多様性 (身子)
2012-11-03 07:08:56
Townmemoryさんの文章をいつも興味深く読ませて頂いております。
そのスタンスとして一点お聞きしたいことがあって、少々長くなりますが質問させてください。

「優れた作品というのは、きわめて、多義的なものです。いかようにも解釈できたり、いかようにも理解できたりするもんです。で、真実は、一人一人の観客の中にしかないのです。」鴻上尚史『ドンキホーテのピアス』
とtweetで引用されていましたが、Townmemoryさんはうみねこを「優れた作品=物語」かつ「多義的」なものだと考えていらっしゃるのでしょうか?

Townmemoryさんの考察は、エピソードが進むごとに推理というよりは解釈と言った方がいいかと思いますが、
その内容が大変高いクオリティを持っているので、考察を読むたびに「もしかして本編を読むより、こちらの考察を読む方が面白いのでは…?」との思いを強くします。
しかし一方で、作品の幅や理解をより深めるものというよりは、作品に仮託して語られる解釈のための解釈という感も持ちます。Townmemoryさんの考察を読めば読むほど、不思議に本編がみすぼらしくみえてきます(と感じる私が特殊なのかもしれませんが)

すべての物語は人間を扱っているので、人間に無数の面があるように、
優れた物語は無数の側面を持ちますが、だからといって無数の側面がある物語が優れた物語とは限らず、
特にうみねこのように「多義性」を作品構造に埋め込んである作品はどのような解釈も可能だと思います。

まぁ私が考える「優れた物語」というのが、千年のちも読むに耐えうるような普遍性を持ったもの、という定義なので、「新しい構造を持つ物語」という意味では十分に野心的で優れた物語なのでしょうが…。
Unknown (Townmemory)
2012-11-04 14:07:55
 こんにちは。ご質問内容がちょっとうまく捉えられなかったのですが、とりあえず、関係ありそうなことをあてずっぽうでずらずらと述べます。その中からそちらでうまく拾って、納得したり、納得できないなあと思ったり、そういうことじゃないんだよなあと思ったり、基本的に好きにして下さい。

 鴻上尚史さんは「優れた作品は多義的なもの」とおっしゃっていますが、その鴻上さんも「多義的でないものは優れていないものだ」とは特に思ってらっしゃらないと思います。きっと(そしてそれはわたしの思いでもあります)。
 これは基本的に「優れた作品は(えてして)多義的なもの」ということだと思います。(しかし、それをあえて言い切り形で語っているのは、強い調子で言い切らないと、何も伝わらないという現実があるからです)

 たとえばわたしのこのブログは、「わたしの作品」であって、わたしはこれを優れたもの(優れた部分が多々あるもの)だと思っているわけですが、特に「多義的なもの」だとは思っていません。むしろ一意的に何かを指ししめそうとして書いているわけです。
 わたしは自分のブログの内容を「そんなに多義的でもないが優れたもの」だと思っていることになります。そういう種類のものがあることはきっと鴻上さんだって肯定されるでしょう(というか「そういうもの」を前提としたうえで、多義的なすぐれたもののことを語っておられるのです)。

 むしろ多様なのは、このブログを見た人々の反応だと思います。
 それはある意味当然のことではありますね。一つのもの(作品)をたくさんの人が見た結果、それぞれに思うことがバラバラである、という現象のこと(現象の母体のこと)を、便宜的に「多義的」と呼ぶのですから。

 ですから、本当につきつめて言うのならば「多義的な作品」という言い方はありえないのです。
 なぜなら、多義性(多様性)というのは、作品の中に属性として存在するのではなく、作品と多数のユーザー一人一人との関係性を表わす言葉であるはずだからです。

 ほんとうのところ、鴻上さんが語っているのは、「人間たちというものの多義性(多様性)」なのでしょう。多義的な物語に耐えられない人々がいるというのは、それは本当は人間社会の多義性に耐えられないので、フィクションくらいは一意的であってほしい(それを感じることによって社会も一意的なものなのだという幻想を抱きたい)、そういう願望なのではないかという感じが少ししています。
 そういう社会に対して、そういう人間たちに対して、いったい何を語りかけるべきであろうか。劇作家である鴻上さんは、そういう煩悶をお持ちであるわけですね(わたしの理解はそういうことです)。

 わたしはだいたいそういう気持ちでおりますが、そういう気持ちを持ったうえで、うみねこの話をしますが、うみねこ界隈をざっと見ていく限り、『うみねこ』という作品は、「多様な解釈を誘発する能力が非常に高い作品だ」ということが言えそうな気がしますね。これはだいたいの人が肯くところではないでしょうか。

 うみねこが「優れた作品かどうか」についてですが、これはですね、これまでわたしは、サービスとしてだったり、あるいは口が滑ったりで、何度か「うみねこって優れているよね」という言い方をしたことが確かにあります。作品全体を一個のかたまりとして見た上で、そのかたまり一個に対して「優れている」タグをつけることができるかのような言い方をした覚えがいくらかあります。
 でもまあ、おわかりとは思いますが、もっと解像度を上げた言い方をするならば、心の中に「優れている箱」と「優れていない箱」があって、うみねこを「優れている箱」に入れているみたいなザツな評価はさすがにしていないわけですね。実際には。

 なにしろあれだけの分量、要素があるのですから、良いところも悪いところもあるし、ほとんど全体を通して悪い影響しかもたらしていないけれどもある一瞬だけいい効果を上げている部分とか、その逆とか、さまざまあるわけで、また好き嫌いで言えば、嫌いなキャラとか早送りしたい展開とかどうしてこんなことしちゃうのかなあと思えるところとか、いっぱいあるわけです。目を背けたい部分がいっぱいある。
 良い部分についても、この部分はこの価値基準に照らせば優れていると言えるし、別の価値基準に照らせば悪手といえようし、またあの部分は一般的にいえば全然上手くできていないが別の見方をすれば素晴らしいと言えるし、といった具合で、実際にはだんだらのまだら模様です。
(わたしのブログは、褒めている記述が多いように見えると思いますけれど(そういう印象を与えるように書いているわけですけれど)、よく精査すれば、「この論点から言えばこの部分はとてつもなく素晴らしい」という言い方がかなり多いはずです。でも読者の印象に残るのはえてして「とてつもなく素晴らしい」という強い言葉なのですね)

 そういうまだら状態を、正確に、高解像度で記述することもできるけれど、そんなことしても読むに耐えない、エンターテインメントになりませんので、適切な解像度に下げる。
 それでもときどき、「うみねこ好きですか嫌いですか」とか「うみねこ良いですか悪いですか」といった、何というか究極的な質問が寄せられますので、そういうときはサービス(質問者や周囲の閲覧者への)も込みで、「うみねこ最高!」みたいなことも申します。

「多様な解釈を誘発する能力の高さ」と「優れているかいないか」を混ぜ合わせたところで評価を申せば、
「多義性の発生に関して素晴らしくうまく取り扱いをしている」
「どういう多義性が発生するかを良くコントロールしている」
「その点で、他作品に見られないくらい優れている」
 といったことは強く言えるように思います。

 好き嫌いの軸で申せば、うみねこのように、うまく多義的状況を作っているタイプの作品は、好きです。

 そんなところですので、あなたがうまく納得を獲得できますよう、お祈りしております。

 最後にちょっとだけ、気になったところをのべますが、認識によって作品が麗しく見えたりみすぼらしく見えたりすることは、ありません(と思います)。作品は常に、そこにある通りです。認識によって麗しく見えたりみすぼらしく見えたりするものは作品そのものではなく、作品そのものに良く似た別の何かだろうという気がしています。
 その別の何かが、少しでも美しくなるように、各人ができるだけのことをすれば良いと思います。
Unknown (身子)
2012-11-12 07:15:38
大変長文のレスをありがとうございました。
文章を書くことを生業としていないため、表現が稚拙で、要点が伝わりづらく申し訳ありません。

稚拙さを承知のうえで直截的に書きますと、最後に列記されていた内容で、私の疑問に対する答えは満たされました。
私がTownmemoryさんの文章や発言(どちらも文章ですが)を読んで理解していた限りでは、「うみねこに対してどのような点からポジティブに評価しているのか」が分からなくなったので、上記のような質問をさせて頂きました。
そもそもの背景としては、(それだけ多くの方のそういった意見を目にしたのでしょうが)Ep.7~8前後のうみねこに対する「答えを出せ!」という批判に対して、Townmemoryさんが「もっと自由な読み方があるよねor答えなんかなくていいじゃんその方がいいよ」という反論をかなり明確な意思を持ってされていたことにあります。
私はそれを、「赤字の解釈」と同様に、解釈の視点からの発言だと思ってました(実際にそうでした)が、この流れとtweetの内容と重ね合わせると、「まさか多義的だから(物語として破綻してても)優れてると考えているのかな?」と穿った見方をしたため、上記のような質問に至ったわけです。
いくつかのエントリではその演出や、トリッキーな構成や、キャラの造形や、文章表現などを評価していますが、「そういう優れた点と多義性をあわせて全体的にみると、好意的に評価している」という形で答えをもらったと理解しています。(誤解はないけど面白みのない文章ですね)
一応念のための言い訳として書いておくと、私自身は「答えを出すべき」とかは思っていません。Townmemoryさんの「何が虚構か、決めるのはあなた」的な解釈は面白いなと感じています。一方で、台無し感はハンパないですが、作者が一応トリックを設定して物語を作っているはずなので、それを知りたいなとは思っていますが。

そして、レスの最後のご指摘もありがとうございました。ぐさっと突かれた感じです。
確かに認識によって作品が麗しく見えたりみすぼらしく見えたりすることはないですね。私が感じたのは作品そのものではなく、文章から透けて見える「これを書いた作者像」でした(当然そんなのは私の勝手な思い込みなのですが)。つまり、作品ではなく私の思い描く作家としての竜騎士07さん像が、どんどんみずほらしくなっていったということですね。私の乏しい語彙力で無理やり言葉にすると、これを読んだときに読者がどういう感想を持つか、という視点の欠如が、ちょっとプロとは思えないレベルという感想を持ちました。もし分かってた上で書いてたなら、作品に対して不誠実かつ非生産的だなぁとも。

多義性の観点でいうと、優れた物語には作者の人間性への深い洞察があるから多様な解釈が可能なのでしょうね。関係性の話もその通りだと私も思います。ただ、Townmemoryさんがこのブログで書かれているのは物語ではなく解釈なので、一意でないと逆に混乱します。このブログにおけるいろんな反応というのは、表明されたその解釈に対する肯定否定の話なので、物語の解釈とは別の話かな、と(感想は人それぞれという意味では同じですが)。

一方で、作者は自分が強く感じたものや考えたことを言葉で表現するので、そこには何らかの作者の思いが込められていると思うのですが、その「表現したかった物や、思いとは何なのか」を考えるのが解釈にあたるかと思います。その意味では、ストーリーとしてはオチがついているものの、私の中に強く残る、表現された「何か」がなかったため、個々に良かった点はあっても、全体としてはネガティブな評価を持っています。

どーでもいい話ですが、小中学校の国語では感想文重視なのに、高校や大学の入試では読解をやらされることに何か間違いがあるんじゃないかと思います。普通は逆じゃないの?的な。文章を正確に読み取る力があった上での感想や解釈じゃないのかなぁと。ひとつの事実でも多様な見方があるように、文章も基本的には一意で、読者の視点によって多様な解釈が起こるのだと思います。Townmemoryさんに対するレスでもけっこうありますが、いろんな所で読解ミスからくる誤解が多いなぁと感じます。私なんかの文章なら文章力が低くて表現が悪いとかが原因でしょうけど、よく練られた文章に対して「えっ、この文章でそんな捉え方しちゃうの!?」みたいなのを見ると残念な気持ちになったりします。

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