さいごのかぎ / Quest for grandmaster key

「TYPE-MOON」「うみねこのなく頃に」その他フィクションの読解です。
まずは記事冒頭の目次などからどうぞ。

Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上)

2011年02月03日 00時27分53秒 | ep8
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上)
 筆者-初出●Townmemory -(2011/02/03(Thu) 00:25:08)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=59667&no=0 (ミラー


     ☆


 みなさん、こんにちは。おひさしぶりです。
 Ep8についての推理をしていきたいと思います。

「こういう内容も推理っていうのか?」という疑問をもたれるかもしれませんが、わたしにはこれは推理です。なぜなら、トリックの解法を考えるときと同じ回路を使って考えているからです。
 何度か注意を喚起したことがありますが、わたしの投稿はすべて、「思考結果」を語るものではありません。そこはコンテンツではありません。「考え方」「思考の動作」がコンテンツです。

 今回はいつにもまして抽象的というか、観念的です。人によっては「何言ってるんだか、ぜんぜんわからん」ということになるかもしれません。ついてこられる人は、ついてきてみて下さい。無理っぽい人はニヤニヤ笑って見過ごして下さい。世の中には「何が書いてあるんだか全然わからん」という書物が、いっぱいあります。あなたにとって、この記事がそうかもしれません。ある種の人々にとっては『うみねこ』という作品がそうであったりもするでしょう。

 さて、このくらいおどかしておけば、読む読まないは皆さんの勝手です。自分で進んで読んでおいて、わけわからんとか言われても、そんなの知りませんよ。


     *


●プロローグ・ふたつあるものたち

 郷田のザッハトルテには当たりのしるしとして、アーモンドが埋めこまれています。当たりくじを引いた人が、パーティーの主賓として、特別なお願いを叶えてもらえるのでした。
 そのアーモンド、郷田は1個だけ入れたはずなのに、なぜか2個出てきました。その2個を、縁寿と絵羽が引き当てるのです。

 さて、時間が下ってEp8の物語の終盤。図書の都に潜入するためには「入館証の鈴」が必要でした。これは1個しかないので、敵地に行く危険を冒すのは戦人か縁寿か、という押し問答になっていました。
 ところが、入館証の鈴が、もう1個、ぽろっと見つかったので、問題はあっさり解決。戦人と縁寿、2人とも仲良く図書の都に入りこむことができたのでした。

 1個しかないと思われていたものが、2つあった。

 この「1個しかないと思われていたものが、2つあった」というモチーフは、『うみねこ』の物語中、何度も何度も、くりかえしくりかえし出てくるのです。(探してみて下さい)

 当たりのアーモンド、本来当たりは1つであるべきだから、じゃんけんで決勝戦をしよう……なんていう展開には、なりませんでした。当たりを引き当てた人が2人いるのですから、2人が当たりなのです。それでいいのです。
 縁寿と絵羽は、2人仲良くパーティーの主役になるのでした。

 入館証の鈴、本来1つしかないものだから、かたっぽはニセモノなんじゃないか、ワナなんじゃないか、なんていう話には、なっていませんでした。

 2つあるものを、無理に1つにしぼったりはしない。2つあるのだから、2つあるままでいいのです。


 わたしはこのあたりのことを、とても重要なことなんじゃないかと考えています。あとあといろんな場所で、別の謎とつながってきそうですから、ちょっと頭にとめておいて下さい。


●書かれたことと本当のこと

「書かれたからって、それが本当になったりはしない」
 というところから、話を始めてみることにします。

「書かれたからって、それが本当になったりはしない」
 というのは、何のことはない、そのまんまの意味です。
 たとえば、
「わたしは超能力で地球の自転を止めることができる」
 と書くことはできますが、わたしは超能力で地球の自転を止めることはできません。書いた瞬間、それができるようになったりもしません。
 漫才コンビのモンスターエンジンさんは、「わたしは……神だ」というコントを得意ネタにしていますが、べつだん彼らは神ではありません。

 ところが。
『うみねこ』のEp8には、
「書いたことを、そのまま本当にしてしまう」
 という特別な力を持った、フェザリーヌというキャラが登場するわけです。

 この能力が披露されたとき、多くの読者は「おお、何と!」という驚きがあったでしょうし、その攻撃をくらったラムダデルタもビックリしていました。
 なぜビックリするのか。
 ふつう、書いたからってそれが本当になったりしないから。

 なぜ、フェザリーヌはそんな芸当ができるのか。それは、彼女が魔女だから。魔女だからそういうことができるわけです。

 書かれたことを本当のことにできる者、それは魔女。


●3日目の六軒島脱出

「魔法」の扉を開ける選択をすると、戦人とベアトリーチェの、たいへんロマンティックな結末が語られ、お茶会の読み出しが可能になり、お茶会を読むと「????」(裏お茶会)が開放されます。

 3日目がやってきて、六軒島から脱出する戦人とベアトリーチェが描かれます。ベアトリーチェは黄金とともに自ら海に沈みます。
 戦人は彼女を追って海に飛びこみますが、黄金のウェイトがない彼は潜水しきれず、浮上してしまいます。が、ここで戦人は2人に分離します。ベアトリーチェに追いつけずに浮いてしまった戦人と、ベアトリーチェに追いついて、抱き合いながら海に沈んだ戦人。その両方が描かれるのです。
(おっと、ここでも「1人しかいないはずの戦人が2人」

「ベアトリーチェに追いつけた戦人」が描かれることによって、「戦人はベアトリーチェと運命を共にしたんだ」というロマンが満たされ、ベアトリーチェは孤独ではない満ち足りた死を迎えることができます。

「ベアトリーチェに追いつけず浮上してしまった戦人」が描かれることによって、戦人は生存し、「数十年後に、縁寿と戦人が再会する」というエピローグを発生させることができます。

「生きて戦人と再会する」ということ。これは、縁寿が命をかけても、人生そのものとひきかえにしてでも手に入れたかった願望なのでした。

 ポイントは、
「3日目・戦人とベアトリーチェの脱出」
 というイベントが発生しなければ、戦人は生存できないので、おそらく「縁寿と戦人の数十年後の再会」というイベントも発生できないだろうということです。

 3日目の脱出が書かれたから、縁寿と戦人の再会も書かれることができた。


●フェザリーヌによって「書かれた」こと

 フェザリーヌの分身(と思しい人物)である八城十八(女性のほうです。ややこしいな)は、以前、Ep6で、
「縁寿のために、縁寿が奇跡だと思えるような物語を書いてあげよう」
 という趣旨のことを約束しています。

 今回のEp8でも、フェザリーヌは、
「まったくもう、人の子は、何を書いたら満足してくれるのやらサッパリだ」
 といった意味の発言をしています。

 そうしてついに物語られた、縁寿が一生をかけて望んでやまなかった、奇跡のような戦人との再会。

 つまり、「裏お茶会」で語られたメモリアルなイベント「縁寿と戦人との再会」は、魔女フェザリーヌが「書いた」ものである。ということを言いたいのです。
(ここでギョッとした方、あとでちゃんとひねります)

 フェザリーヌは「縁寿にとっての奇跡を書こう」と言っていました。それが今まさに書かれたのである、ということですね。

「3日目の脱出」がなければ、「戦人との再会」もありません。ですから、「戦人との再会」を、フェザリーヌが書いたものとするならば、「3日目の脱出」もまた、フェザリーヌが書いたものでなければなりません。
 よって、あのロマンティックな、
「海の底へと還ってゆく黄金の魔女と、その恋人」
 というイメージ。
 あれもフェザリーヌが書いたものです。

 というふうに考えることにします。


 ちょっと話を巻き戻して、フェザリーヌが特殊能力を使ってラムダデルタをやっつけたシーンを思い出してみます。
 たしかフェザリーヌは、こんな作劇法を語っていたんじゃないでしょうか。彼女は、結末から逆算して、おしりから順番に何があったか決めていくのだと。
 まず「ラムダデルタの敗北」という結末を決める。その結末を導くために、「謎の力によってラムダデルタが吹っ飛び、書棚にたたきつけられる」という展開を設定する。その次は、「謎の力」の正体を決めればいいのだが、めんどくさいのでそれはあとで考えることにしよう。
 そうして、「正体不明の力にふっとばされてラムダデルタは負ける」という物語が現実になったのでした。

 フェザリーヌは、

「死んだはずの戦人にひょっこり再会させてやれば、縁寿は“これは奇跡だわ、素敵”とかいって満足するのではないのか、よく知らんがまあ多分」

 といった、えらいおおざっぱなことを考え、とりあえずこれを「結末」に持ってきます。

 その再会を導くためには、死んだはずの戦人が実は生きていないといけません。そこで「死んだと思われていた戦人だが、実は3日目まで生存して脱出を図った」という展開を設定します。でもそれだと、ベアトリーチェから戦人を奪うことになっちゃいますから、これをご都合によって回避しました。

 戦人が六軒島から3日目に脱出するには、「その脱出を可能とするような物語」が、六軒島の2日間に展開されていなければなりません。だからフェザリーヌはそれを決めます。
 が、決めようと思ったところで、めんどくさくなったんじゃないでしょうか。「それはあとで考えよう」といって、そこまでで放り出した。だから、「どういう顛末があって戦人とベアトは脱出したのか」ということは語られない。

 フェザリーヌは、「書くのではなく記そう、縁寿がみずから紡ぐ物語を」みたいなことをつぶやいていました。
 ようは、縁寿本人がEp8で七転八倒する様子をそのまんま書き写したあげく、おしりの部分だけナイスな結末をつなげてしまえばいいではないか、みたいな、てっきとーなことをもくろんだわけなのかもしれません。

 フェザリーヌはだいたい「めんどくさくなって途中で放り出す人」らしいです。ベルンもそういう恨み言を言っていました。そのせいでひどいめにあったと。だからきっと、フェザリーヌは、この脱出につながる事件の内訳は考えていないっぽいのです。

(いや、実際には、セリフから逆算して、「どのエピソードなのか」がかなり特定できるとわたしは思っているのですが、ここでは単純化して、このようにしておきます)


 わたしは、魔法エンドを先に見てしまったので、確認ができないのですが、「お茶会」と「????(裏お茶会)」は、手品エンドからは発生しないそうです。
 つまり、「魔法というものがあるんだ」というほうを選択しないと、「3日目の脱出」は発生しないし、「戦人との再会」も発生しないみたいなんですね。
(未確認なので、伝聞情報です。確かめた方いますか? これで正しいですか?)

 それはそうだな、と思うのです。

 だって魔法を認めないのなら魔女は存在できないので、フェザリーヌは存在できません。存在しないフェザリーヌは、何かを書くこともできません。
 魔法を認めて初めて、魔女が存在でき、上位世界も存在でき、フェザリーヌが存在でき、「フェザリーヌが書いたもの」が存在でき、つまり「生きた右代宮戦人」が存在できるのです。

 フェザリーヌが書かなくても、「奇跡の物語を書く」と約束したのは八城十八(女)なのだから、彼女が書けば良いじゃないか、という気もしますが、駄目っぽいのですね。
 というのは、「奇跡の物語」が約束されるためには、縁寿と八城十八(女)が会談しなければなりません。
 縁寿と八城十八(女)が会談するためには、「誰かさんが会談に反対しない」という条件が必要です。
 誰かさんというのはもちろん、脳障害を得てしまった右代宮戦人氏。いわゆる八城十八(男)さんですね。
「記憶が不確かな状態で、縁寿に会いたくない」
 という理由で、戦人が反対するからこそ、縁寿・八城十八会談は発生しないわけなのですから、この会談が発生している場合、反対する人がいない、つまりこの場合、右代宮戦人は八城十八に拾われていない可能性が高いのです。
 拾われていないということは、六軒島で死んでいる……。

 このへん、ちょっとパラドックスくさいですが、パラドックスのままで良いのです。

(この場合、八城十八が正確な偽書を書けた理由は、戦人以外の「右代宮誰某」さんが島を脱出してきて、八城十八に拾われた、です。3日目の六軒島脱出は、男女2人が脱出し、海に落下し、「どちらか1人が一命を取り留める」のです)
(でもまあ、戦人が拾われていたけど、会談に反対はしなかった、という分岐を拾うこともできるので、このあたりは可能性論です)


●これは「創作説」ではない

 ここまで、わたしは、
「ベアトと戦人の入水心中から、数十年後の縁寿との再会まで、すべてはフェザリーヌがペンでサラサラ書いたこと」
 だというお話をしてきました。

 それで、こういう疑問を持った方がいるだろうと思います。

「ようするに、最後の選択肢以降のロマンティックな展開は、すべて、実体のない創作にすぎないというのか?」

 そこでわたしは、
「そうではないんだ」
 と答えたいのです。

「これはフェザリーヌが書いたものだが、実際に縁寿の身の上に起こったことなのだ」

 という、一見矛盾したようなことを、言いたいのです。


 なぜ、そんなことが言えるのか。
 フェザリーヌは、書いたことを本当にする魔法を持っているから?

 そういう考え方もアリだと思います。(もちろん、無関係ではありません)
「設定」としては、そんな感じかもしれません。

 けれど、いえいえ、そうではなくて。
 もっと大胆なことをいいたいのです。

「書かれたことと、本当のことの差は、いったいどこにあるのか」

 そこに差はないのだ。
 ということを気持ちよく断言したくて、わたしはこれを書いているのです。

「フェザリーヌにかぎらず、願われ、書かれたことは、いつも、すべて、必ず真実なのである」

 ちょっと前に「書かれたからって本当にはならない」と記したばっかりなのですが、それとまったく逆のことを、わたしはこれから主張しようとしているわけです。


●「書かれたこと」ってどういうこと?

 ここから先のことは、いつも以上に、うまく言う自信がありません。
 わたしは自分では、感覚的に諒解できることなのですが。でも、『うみねこ』をこれまで読んできた、とくにEp8を読んだ人には、同じ感覚が伝わるかもしれないと期待して、なんとか書いてみます。

 繰り返しますが、
「願われて書かれたことと、本当にあったことの間に、差はない。区別はないのだ」
 という、一見矛盾するようなことを、言いたいのです。

「みんなが信じれば、魔女は本当にいることになる」とか、「年々大げさになっていく秀吉の武勇伝はどこまで本当なのか」といったことと、非常に近しい発想なのですが、それを推し進めたような感じです。


 例えば。
 ウェイトがないために、海の底に潜りきれず、浮上してしまった戦人と、ベアトリーチェをつかまえて、どこまでも深海に潜っていった戦人と、いちどに2通り描かれています。
 この場面だけを取り出して考えてみましょう。
 これを、「どっちか片方がホントで、どっちか片方がウソである」と考えた場合。
 数十年後に縁寿と戦人が再会するのなら、戦人は生きていたことになります。つまり、「海の底に沈んだ戦人」というストーリーはウソです。
 ウソというのは、つまり「書かれたこと」にすぎないってことです。
 いっぽう、戦人は最愛の魔女と深海に添い遂げたのなら、戦人は溺死しました。つまり、「縁寿と戦人が再会する」というストーリーはウソです。
 つまり「書かれたこと」にすぎないのです。

 どっちが本当なのか、決めますか? 決めてもかまいません。

 でも、この『うみねこ』を最後まで読んできた人は、
「戦人は、最愛の魔女とどこまでも添い遂げたのだが、数十年後に妹と再会することもできたのだ」
 というふうに、ふんわりと、両方を受け止めるアプローチをきっと手に入れているように思うのです。わたしは、そういう人が少しでも多くいてほしい、と期待しているのですが。

 厳密に現実的に考えれば、どっちかが虚構なのですが、この物語ではその2つは等価なのです。
 天秤にかけたら、まったく同じ重さでつりあうのです。
 わたしたちは、あるときには、最愛の魔女と添い遂げた青年を思って感慨にふけることもできるし、またあるときには、ついに念願の再会を果たした兄妹のさまざまな思いをかみしめることもできるのです。

 わたしたちは、両方を願っている。
「戦人は、最愛の魔女とどこまでも添い遂げたのだが、数十年後に妹と再会することもできたのだ」
 前半と後半は、矛盾した条件で、本来は両立しません。にもかかわらず、わたしたちは、両方ともを「アリ」なことにできるのです。
(ここで、アーモンド問題を思い出してもらってもかまいません)

 さて、
「これはフェザリーヌによって書かれたものにすぎないのだが、実際に縁寿の身の上に起こったことなのだ」
 前半と後半は矛盾するようだけれど……。

 もうひとつ例。

 Ep8では、非常に愉快でフレンドリーな右代宮一族が描かれました。おじいちゃんはマゴの姿に顔をゆるませ、プレゼントを贈りあい、夜には素敵なパーティー。紗音と嘉音は同時に存在し、朱志香もいて(フフフ)、さらにベアトリーチェさんも同時にいたりして。
 従来の右代宮一族の描写からいったら、まったくありえない状況です。これまでは、ジジイはひきこもり、子供たちはカネのことでギスギスしまくっていたのです。

 ふつうに考えれば、どっちかは「書かれただけのこと」です。じっさい、そのように「ふつうに考えた」縁寿は、「フレンドリーなほうはただの茶番!」と断言していました。

 どっちが本当で、どっちが虚構か、決めますか?

 これはわたしの勝手な想像だけれど、魔法エンド側に行った縁寿は、どっちか片方を捨てたりはしていないんじゃないかな。
「右代宮一族はお金の問題でゴタゴタしていていさかいもあったのだけれど、みんな大好きで絆が深くて愛し合っていた」
 そんなふうに「両方取ってる」んじゃないかな。

 お金のゴタゴタがあったというのは、事実でしょう。けれど、「こんな愉快な一族であってほしい」というふうに、「願われている」から、そっちも手に取られる。両方取られるのです。
 誰がそれを願っているのか。
 縁寿自身です。
 本人が自分の口で言っています。「この楽しい時間の中に、いつまでも、永遠にいたい」って。

 ここでいう「書かれたこと」というのは、ほぼそのまま「願われたこと」です。「それが本当にあってほしい」と思うから、その願いが「表現される」、つまり「書かれる」
 書かれたことは、願われたこと。
 なのです。
 だから、願いは手に取られる。「書かれたこと」は真実として手に取られる。

 縁寿は「こんな楽しい親族とずっと一緒にいたかった」と願っています。だから、その願いは、「親族は金で争っていた」という真実と同時に手に取られる。いっけん、その2つは矛盾するようなのだけれど、それでも、縁寿が願っているから、両方が手に取られる。

 ですから、それと同じように、

「戦人は、最愛の魔女とどこまでも添い遂げ心中した」
「けれども、数十年後に妹と再会することもできたのだ」


 これもまた、両方を同時に真実として手にとって良いのです。「その両方が欲しい」と願った人がいるからです。

 おや。
 それは誰が?
 その2つを同時に欲しい、と願った人がいる。それは誰?

 縁寿ではありません。彼女は前半を望みそうにありません。

 その2つを同時に手に取りたいと願っているのは「わたしたち」です。


(続く)


■続き→ Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下)


■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■
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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2011-02-03 11:50:41
ついにep8推理がきましたね、ep6からこのブログを見ていたのですがコメントをするのは初めてです、Townmemoryさんの推理を読むとうみねこへの愛のある読み方へのやる気というか、推理への意欲が湧き上がってきます。中身のないコメントですいません、でもTownmemoryさんの推理を読むことでうみねこを理解できるような気になる人間がいることを知っていてほしいです!どれだけ長い時間になろうとep8推理待ってます、がんばってください。
返信する
Unknown (Unknown)
2011-02-03 12:40:09
>(未確認なので、伝聞情報です。確かめた方いますか? これで正しいですか?)

正しいですよ。
返信する

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