「君たちは高校受験という大きな節目を経験しました。その日を作文にしなさい」
受験が終わった中学3年の3学期に、授業もお座なりの状況下
国語の先生が課題を出した。
「何だか受験の国語と比べれば簡単な問題、いや課題か。
サッサと書き上げますよ」
受験も終わったのでここぞとばかりに、文章だけ長い薄っぺらな作文を
提出した。
「提出しても誰に評価されるでないし、3学期の評点なんか関係ないよ
こんな作文、何で今頃出すんだろう」
数日後の国語の時間、その国語の先生が作文の寸評を下した。
「君たちは人生の大きな節目を経験したのに、こんな事しか書けないのか。
朝何時に起きましただの、誰と待ち合わせただの、受験勉強したのに情けない」
皆、神妙に聞いていた。
「〇〇さんの、この作文が一番です。すばらしいです」
先生が絶賛した作品は、クラスの中でも目立たない、静かな女の子の
作品だった。
先生が朗読したその作品は、受験の日の朝の緊張感を綴った作品だった。
作品最後の締めくくり。
「お母さんは「はい、お弁当。お握りと、受験に勝つようにおかずはトン勝つだよ」と言って私に渡してくれました」
はぁ、こういう事を書くのが大事なのか。
「自分の受験の時、弁当にトン勝つ入っていただろうか」
自分の作文とは全然違うな。
あんなに目立たない静かな女性が優等生を差し置いて、学年で一番取った。
やった、やったぜ、すごい、すごい。
今で言う「ジャイアント キリング」だ。
国語の先生は大絶賛していた。
数十年後、家のカミさんに聞いてみた。
「受験の時はやっぱりトン勝つ入れるのか」
「入れるよ。でも子供は何にも言わないよ、分かってないね。ハハハ・・・」
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