★ ★ ★ 須坂の浄運寺という寺 ★ ★ ★
「清貧の思想」で知られる作家中野孝次は、その著作の
幾つかの中に、遺言を掲示していた。
その第一項目に
●予が死亡に際しては、次のとおり取りはかられたし。
・死はただちに公表せず、肉親のみで密葬すること。
・骨は信州須坂浄蓮寺に持参し、簡単な読経の後埋葬する。
・告別式、偲ぶ会の如きはせざること ●
と書いてある。
それを読んだ時に、私は初めて知った浄運寺という寺
の名に戸惑いを感じた。
長野で生まれ育った私は、須坂のことを、ある程度は
知っている。 しかし、浄運寺の名前も、それが
どのような縁起の寺かも、全く知らなかった。
一方、中野孝次は、出生地も、育った場所も、学校も、
生涯を働いた場所も、全て長野県外である。
その中野が何故わざわざ、そのような場所にある、
それも決して有名でない寺に拘るのか、
皆目理解できなかった。
今般思いがけず、浄運寺の開基をした角張成阿上人
のことを書いた書籍を2冊贈られて、その事績を
初めて知った。
これが中野孝次の遺言に結びつくのかどうかは不明だが、
本を読んだ今となっては、中野の墓が其処にある、
ということよりも、遥かに重大な事実として、
この寺の縁起を記憶しておかねばならない、
と思った。
浄土宗、浄土真宗については、私どもは子供の
頃から、門徒モノ知らず、といって育ってきた。
しかし、御宗祖さまについては、知らないでは
済まされない。
2冊の書籍、とは
「角張成阿弥陀仏」
(高橋富雄、信濃毎日新聞社、2004年)、
「法然上人と角張成阿」(浄運寺、2000年)
である。
★ ★ ★ 角張成阿上人 ★ ★ ★
角張成阿上人は須坂市井上の出身で、
法然上人の高弟である。
法然の弟子は2000人以上にも及ぶ多数が居た中で、
四国流罪の時に
兵庫区和田岬まで供をしてきた者が63人、
更に四国まで随従を許された者が12人、居た。
その常隋近侍の門弟12人の中でも、角張成阿が
特別な存在であることが文献的に分かる。
例えば、大原談義での働きは圧巻であるし、
「一枚起請文」を巡っての法然の心情を見ても、
特別である。
それにも拘らず、法然の弟子たちの内で有名なのは、
親鸞であり、蓮生(熊谷次郎直実)、源智、
聖覚、信空、隆寛、などの名前はよく知られ、
何かの機会に語られる。
逆に各種資料の中で、最も名前の出てこない
のが、角張成阿である。
現在の人々は殆ど知らない存在、である。
このため「角張成阿弥陀仏」の著者である高橋富雄
(東北大学教授、盛岡大学学長)も、少し前までは
よく知らずに居た。
偶々、平成11年2月に、善光寺大本願での浄土宗
僧侶の修行での講演を依頼され、その準備のために
軽い気持ちで、中里介山の「法然」を読んだのが
きっかけとなり、角張成阿のことを知り、
講演で「土地の大先輩である」程度の話をした。
この時高橋氏は、角張成阿上人が建てた寺が
長野に在ること、すら知らなかった。
その会場にいた小林覚雄氏が、休憩時間に高橋講師を
控え室に訪ね、角張成阿上人が開基をした浄運寺
の住職であることを自己紹介したので、
高橋氏は大層驚き、それが機縁で古文献を漁り、
勉強した。
その結果分かった多くの事、法然の弟子の中でも
特別な存在であった角張成阿上人が、法然入滅後
時間の経過していない時期の資料には、名前も
事績も書かれているのに、後の世の中では名前が
消され、忘れ去られるようになった事情などを
理解して、纏めたのが上の2冊の本である。
★ ★ ★ ★ ★
数多い法然の弟子のうちで、親鸞とは全く別の意味での
法然の最高の弟子であった角張成阿上人が開基した
寺は長野に3寺あったのだが、現存するのは
浄運寺のみである。 しかも、
角張成阿上人の名前も、浄運寺も、高橋氏でさえ、
数年前には知らない、ほどの状態であった。
ベートーベン、モツアルトの若い頃には、大バッハが
世間に全く知られていなかった、のと同様である。
人の世の評価とは、「樅の木は残った」(山本周五郎)
に描かれた原田甲斐のようなことまであるのを
承知している心算の、私の好きな言葉は勝海舟の
「行蔵は我に存す」である。
それが、この年齢になって、また一つ、良いドラマを
見せて頂いた気分である。
昭和58年(1983)に静岡県島田市で、「最古の法然伝記」
ともいうべき、法然の三十五日追善供養の
二日後に隆寛が書いた記録、が発見されたり、
法然51歳の直筆の「孝養の名号」が昭和31年
(1956)に奈良興善寺本尊胎内から発見された、
などの近年の発見があったこと、も僥倖だった。
(「孝養の名号」と角張の関係は省略する)。
こうして上の2冊の本の説得力は増すだろう。
それにしても私には、中里介山とか中野孝次とか
いった人物が、世間一般(の仏教関係者)が
知らないで居ることを、どこまで、どのように
して知ったのだろうかと、不思議に感じもする。
「清貧の思想」で知られる作家中野孝次は、その著作の
幾つかの中に、遺言を掲示していた。
その第一項目に
●予が死亡に際しては、次のとおり取りはかられたし。
・死はただちに公表せず、肉親のみで密葬すること。
・骨は信州須坂浄蓮寺に持参し、簡単な読経の後埋葬する。
・告別式、偲ぶ会の如きはせざること ●
と書いてある。
それを読んだ時に、私は初めて知った浄運寺という寺
の名に戸惑いを感じた。
長野で生まれ育った私は、須坂のことを、ある程度は
知っている。 しかし、浄運寺の名前も、それが
どのような縁起の寺かも、全く知らなかった。
一方、中野孝次は、出生地も、育った場所も、学校も、
生涯を働いた場所も、全て長野県外である。
その中野が何故わざわざ、そのような場所にある、
それも決して有名でない寺に拘るのか、
皆目理解できなかった。
今般思いがけず、浄運寺の開基をした角張成阿上人
のことを書いた書籍を2冊贈られて、その事績を
初めて知った。
これが中野孝次の遺言に結びつくのかどうかは不明だが、
本を読んだ今となっては、中野の墓が其処にある、
ということよりも、遥かに重大な事実として、
この寺の縁起を記憶しておかねばならない、
と思った。
浄土宗、浄土真宗については、私どもは子供の
頃から、門徒モノ知らず、といって育ってきた。
しかし、御宗祖さまについては、知らないでは
済まされない。
2冊の書籍、とは
「角張成阿弥陀仏」
(高橋富雄、信濃毎日新聞社、2004年)、
「法然上人と角張成阿」(浄運寺、2000年)
である。
★ ★ ★ 角張成阿上人 ★ ★ ★
角張成阿上人は須坂市井上の出身で、
法然上人の高弟である。
法然の弟子は2000人以上にも及ぶ多数が居た中で、
四国流罪の時に
兵庫区和田岬まで供をしてきた者が63人、
更に四国まで随従を許された者が12人、居た。
その常隋近侍の門弟12人の中でも、角張成阿が
特別な存在であることが文献的に分かる。
例えば、大原談義での働きは圧巻であるし、
「一枚起請文」を巡っての法然の心情を見ても、
特別である。
それにも拘らず、法然の弟子たちの内で有名なのは、
親鸞であり、蓮生(熊谷次郎直実)、源智、
聖覚、信空、隆寛、などの名前はよく知られ、
何かの機会に語られる。
逆に各種資料の中で、最も名前の出てこない
のが、角張成阿である。
現在の人々は殆ど知らない存在、である。
このため「角張成阿弥陀仏」の著者である高橋富雄
(東北大学教授、盛岡大学学長)も、少し前までは
よく知らずに居た。
偶々、平成11年2月に、善光寺大本願での浄土宗
僧侶の修行での講演を依頼され、その準備のために
軽い気持ちで、中里介山の「法然」を読んだのが
きっかけとなり、角張成阿のことを知り、
講演で「土地の大先輩である」程度の話をした。
この時高橋氏は、角張成阿上人が建てた寺が
長野に在ること、すら知らなかった。
その会場にいた小林覚雄氏が、休憩時間に高橋講師を
控え室に訪ね、角張成阿上人が開基をした浄運寺
の住職であることを自己紹介したので、
高橋氏は大層驚き、それが機縁で古文献を漁り、
勉強した。
その結果分かった多くの事、法然の弟子の中でも
特別な存在であった角張成阿上人が、法然入滅後
時間の経過していない時期の資料には、名前も
事績も書かれているのに、後の世の中では名前が
消され、忘れ去られるようになった事情などを
理解して、纏めたのが上の2冊の本である。
★ ★ ★ ★ ★
数多い法然の弟子のうちで、親鸞とは全く別の意味での
法然の最高の弟子であった角張成阿上人が開基した
寺は長野に3寺あったのだが、現存するのは
浄運寺のみである。 しかも、
角張成阿上人の名前も、浄運寺も、高橋氏でさえ、
数年前には知らない、ほどの状態であった。
ベートーベン、モツアルトの若い頃には、大バッハが
世間に全く知られていなかった、のと同様である。
人の世の評価とは、「樅の木は残った」(山本周五郎)
に描かれた原田甲斐のようなことまであるのを
承知している心算の、私の好きな言葉は勝海舟の
「行蔵は我に存す」である。
それが、この年齢になって、また一つ、良いドラマを
見せて頂いた気分である。
昭和58年(1983)に静岡県島田市で、「最古の法然伝記」
ともいうべき、法然の三十五日追善供養の
二日後に隆寛が書いた記録、が発見されたり、
法然51歳の直筆の「孝養の名号」が昭和31年
(1956)に奈良興善寺本尊胎内から発見された、
などの近年の発見があったこと、も僥倖だった。
(「孝養の名号」と角張の関係は省略する)。
こうして上の2冊の本の説得力は増すだろう。
それにしても私には、中里介山とか中野孝次とか
いった人物が、世間一般(の仏教関係者)が
知らないで居ることを、どこまで、どのように
して知ったのだろうかと、不思議に感じもする。
況してピアニストさんの述べられていることは殆ど知っている人は極少であろうと思う。
私の生家は浄土宗で善光寺大本願にも何度かお参りしたりお話を聞いているが、考えて見ると自分に近いところのことは良く知っていると思うのはほんの表面的なことで、知らないことが大部分かもしれないなと、本文を読んで改めて気づかされた想いがする。
また世の中には凄い人が居るものだの感を又しても味わった。
派手さはなくても、粛々とやるべきことはやる上人といったところでしょうか。玄人にさえ(わかる人にさえ)理解されればいい、といった印象が残ります。
「孝養の名号」と角張の関係も気になります。
ネットで調べてたら、浄運寺というのは信州で一番古い浄土宗寺院で、多くの作家たちと縁があるようですね。
「孝養の名号」の話は、この記事の中に入れると文章が長くなりすぎるので省略しましたが、法然の角張に対する愛情の証左として大変に貴重な資料であることが、本の中に克明に説明されています。 これが発見された時に、大騒ぎがあったことを、私は微かに記憶しています。
実は今、東京国立博物館で法然展をやっていまして、御本尊から見つかった云々というのも展示されていたのですよ。見に行ってきた後すぐに気になって調べていたらこのブログを発見した次第です。
このブログ見てから行けばよかったです。