意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

11月18日(土)更新 Superfly『輝く月のように』と “イエス-道”

2017年11月18日 15時34分34秒 | 歌の歌詞に観る“イエス-道”

                    ≪当ブログの中で引用している聖句は、主に『口語訳聖書』です

 

 輝く月のように』(by Superfly)と “イエスー道

 

 

山上の説教の中でイエスが指南された「さばくな」こそ聖書の教えの根幹であるとみなす『イエスー道』の生き方を送っていると、何気なく音楽を聴いていたり、映画を観たり、本を読んでいたり、また、職場や家庭で実際に目の前で繰り広げられる“ドラマ”を観照したりしていると、ハッとさせられることがしばしばあります。つまり、イエスが山上の説教で説かれた核心的な教え·真理の重要性を再発見したり、再認識したり、再確認したり、再評価したりする機会がよくあるのです。

 

今回のブログでは、女性シンガーのSuperflyが歌う『輝く月のように』の歌詞を題材に用いたいと想います。

 

 ところで、イエスの山上の説教のキーワードの一つに『内なる光』があるということは、以前に当ブログでも書きました。人の内にはというものが存在しているということ、そして、その『内なる光』を暗くしてはいけないということをハッキリとイエスは説いておられるのです(マタイによる福音書6章22節~23節を参照)。


私は長年聖書を探究してきて、ようやく、人の『内なる光』の存在の重要性に気づきました。それと共に、この『内なる光』と『さばくな』が密接にリンクしていたことも、よくわかってきたのでした。ここに至るまで、なんと随分 長い年月を費やしてしまったことか······という感じです。でもある意味、この世で生きている間にわかって 良かった···と想うべきかも知れません。 


さて、今回のブログで考えてみたいテーマは、どうやったら 人の『内なる光』を輝かせることが出来るのかということです。実は、これはとても深遠なテーマとも言えます。


「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」(マタイによる福音書6章22節~23節)


このようにイエスは述べました。人の『内なる光』を暗くすることなく、むしろ、明るく輝かすためにどうしたらよいのだろうか? このヒントがSuperflyの『輝く月のように』の歌詞の中にもあることを観ていきたいと想っているのです。


これを機会にぜひ 皆さんも、ユーチューブなどで、Superflyの『輝く月のように』を聴いて味わってみて下さい。


ところで、私のスマートフォンに以前ダウンロードしてあった『輝く月のように』を久しぶりに聴いていたところ、「おっ、これは·····」と、私が注目したフレーズがありました。


実は、輝く月のように』の中で、数回、繰り返されるフレーズに、『内なる光』を輝かすためのヒントが隠されているのです。そのフレーズとは、·······


愛を知って輝き出すんだ(2回)、愛を知って輝いているよ(1回)です。


つまり、愛を知った時に、人の『内なる光』がようやく輝き出すようになるということです。逆に言うと、愛を知らないでいると、この『内なる光』を輝かすことは至難のわざになるということです。


では、このヒントから再度 イエスの山上の説教を観ていくと、どういうことが明らかになってくるのでしょうか?


イエスが語った注目すべきメッセージというのは、マタイによる福音書5章44節~48節にあります。


しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。


人の『内なる光』が輝くようになるために イエスは、“天の父なる神の愛”を指し示されたのでした。愛と言っても、漠然とした愛ではありません。愛の様々な側面をあれもこれもと欲張って、たくさんリストアップされたのでもありませんでした。


イエスが示された天の父の愛というのは、悪い者と良い者を別け隔てしない愛、正しい者と正しくない者を別け隔てしない愛、すなわち、『さばかない愛=寛容という愛』だったのです。Supetflyの『輝く月のように』の歌詞の中では、この『寛容の愛』について “私のすべてを受け止めてくれたんだ”というふうに表現されていることに注目したいです。


イエスはまたここで、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とも言われました。これは敵と味方を区別して、敵を憎んだり 非難したり 批判したり 攻撃したりして、逆に味方を愛して仲良くするというような『従来の常識』をはるかに超えていると言える“敵と味方を別け隔てせずに愛するという、天の父なる神の人知を超えた寛容の愛”を前提として語られたものです。


あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい」とイエスが語られたのは、“天の父の神の完全さとは寛容という愛の完全さである”ということを前提にしてのことでした。


寛容の愛とは、無条件で受け入れる愛でもあります。あるがまま受容していく愛です。「あなたのこういうところを変えなければダメだよ」というのではなく、「あなたは、今のあなたのままでいいんだよ」というのが、寛容の愛なのです。


このような“天の父の寛容の”に関する真実、事実、真理に気づくことによって、知ることによって、人は自らの『内なる光』を輝かすことに繋がっていくというわけなのです。


ところが、たとえイエスがそのような“天の父の寛容の愛”を示されたとしても、人の『内なる光』がなかなか輝き出さないことも往々にしてあるのです。このような現実があるのです。一体、何が原因で、そのようになってしまうのでしょうか?


その原因について、イエスは山上の説教の中で「自分の目にある梁」と呼んだのでした(マタイによる福音書7章3節)。


ちなみに使徒パウロは、それを「おおいが彼らの心にかかっている」、「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」というふうに表現しています(コリント人への第2の手紙3章15節,18節)。


ところで、聖所や神殿において、前方の第一室は聖所と呼ばれ、その奥の部屋は至聖所と呼ばれていました。そして、これら二つの部屋は"垂れ幕"(=第二の幕)で覆われていました(ヘブル人への手9紙1節~3章節を参照)。そして、その垂れ幕はイエスが十字架上で息を引き取られた時に上から下まで真っ二つに引き裂かれたと記されています(マタイによる福音書27章50節~51節を参照)。この『垂れ幕』というのが、イエスが言うところの『目にある梁』、使徒パウロが言うところの『顔おおい』、あるいは、『心にかかっているおおい』を暗に示しているのではないか····と私は確信しているのです。


そして、この目にある梁』(=顔おおい心のおおい)があるからこそ、たとえ神の寛容の愛に関する真実が示されたとしても、それを見えなくしてしまっている原因となっていることを、イエスは山上の説教で指摘されたのでした。そのため、見ても見えず、聞いても聞こえず·····というような状況に陥ってしまうわけです。


この目にある梁』の存在が、人の『内なる光』が暗くなっている状態と作り出しているわけですが、実は、これは大きな問題なのです。


どうすれば、この問題を解決することが出来るのでしょうか?


ただ、神の御子イエスを救い主であると信じればいいのでしょうか? あるいは、キリスト教の信仰を告白して、パプテスマを受けて、キリスト教会に所属すればいいのでしょうか? 必ずしも、そのような単純なことで、解決する問題ではないのです。これは、多くの人々の想像をはるかに超えている、もっともっと根深い問題なのです。この世で与えられた1回だけの人生の中で解決できる人は、そんなに多くはいないかも知れません。


では、人の『内なる光』は、どのようにすれば輝き出すというのでしょうか?  


その答えは、言うまでもありません。一つだけ方法があります。それは、自分の目から『』を取り除けばいいのです。


それでは、どうすればその『』を自分の目から取り除くことができるというのでしょうか? そのノウハウは、どこにあるのでしょうか?


この問いに対するイエスの答えは、実に、単純明快なのです。 


さばいてはいけません。(マタイ福音書7章1節;新改訳聖書)

裁いてはならない。マタイ福音書7章1節;フランシスコ会聖書研究所訳)


これこそ、イエスの山上の説教における核心的メッセージと言えます。イエスが山上の説教の中で、もし、このメッセージを語らなかったとしたら、人類は人生という航海において、ちょうどコンパスが故障してしまった船のように、方向感覚を失い、迷いから脱却することが不可能になったに違いありません。その結果、めざす目的地に到達することができなくなってしまうのです。


イエスが、十字架上で言われた言葉があります。それは、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」という言葉です(ルカによる福音書23章34節)。これはまさに、自分たちが迷っていることすら、わからなくなってしまっている状態、霊的に盲目になっていることをイエスが指摘されたのでした。


では、「さばく」とは、どういうことを意味するのでしょうか? 逆に、「さばかない」とは、どういうことを意味するのでしょうか? この違いがよくわかっていないと、「さばく」生き方から、「さばかない」生き方へと移行していくことが難しくなると想うのです。

(11月11日 土曜日更新、11月12日 日曜日 補足更新) 



さて、実際問題として「さばく」とはどういうことなのか、いかに私たちが当たり前のように「さばく」ということをやってしまっているのか、その行為に私たちがどれほど馴染んでしまっている現実があるのか・・・・を知るために、近いうちに、土屋太鳳主演のorange-オレンジ-という“映画ブログ”を書きたいと想っていますので、ご期待下さい。この映画のキャストたちの言葉の中に、「さばく」とは、どういうことなのかについて、具体的に観ていきます。


でも、この映画ブログを書くのに先立って、他のテーマのブログを幾つか更新することになりますので、orange-オレンジ-という“映画ブログ”の公開まで、今しばらくお待ちください。


私は、この映画をレンタルDVDで観て、その後、アマゾンに中古品のDVDを注文して手に入れて何度も観ました。まだこの映画を観たことがない方は、ぜひこの機会に、観られるようお勧めいたします。

 

(11月18日 土曜日更新)  ▦▦▦▦ 近いうちに、orange-オレンジ-という“映画ブログ”に続く ▦▦▦▦▦


    *        *       * 

  

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