されど鹿児島

日々の生活の中で見聞したことをメモと画像で綴るブログ

中川 ゴチョウ踊り

2012年01月03日 | 伝統
中川 ゴチョウ踊りは、指宿西方中川集落に伝わる小さな小さな正月の伝統行事です。由来について詳しいことは、分かっていないようですが、郷土誌によると文禄4年(1599)島津義久公が富隈城に移ったときの祝いに工事に使った道具などを持って踊った。それを見た義久公が「強張な踊りだ」と言ったことに因むようです。
雨上がりの元旦の11時から近くの高祖神社に奉納されました。

1 高祖神社に奉納


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3 酒杯をいただく


4 奉納を終え公民館に戻る


5 のどかな農村の風景の中を進む


6 公民館の中にはでの披露


7 福を授ける

湯之尾神舞(田の神舞)

2011年11月25日 | 伝統
曾木の滝を早めに切り上げ湯之尾神社に着いたのは20:40分、演目26番のうちの9番目の田の神舞が演じられていた。
すべてが終わるのは午前2時くらいとのことで20番まで見て日付の変わらないうちに帰ることにした。
そのうちの主なものを数番紹介します(23.11.23撮影)

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金吾様踊り(鷹刺し踊り)

2011年09月22日 | 伝統
鷹刺し踊りの由来について、領主の狩猟は武士の武術の修練と領民の動向視察の目的をもって農民を勢子に駆り立て奉公させた。この鷹狩りの様子を踊りにしこみ、お祭や殿様の領内廻りなどの時、武運長久と領内安穏、領民の安全を祈って踊るようになったといわれています。(パンフより)
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金吾様踊り(俵踊り)

2011年09月20日 | 伝統
俵踊りの由来は、昔は社寺の落成式や祭など当日の催しものによく相撲が企てられ、これを勧進相撲と呼んだ。
この催しに寄進された金品や米俵などを、土俵に積み上げて観衆に披露した様子を踊ったものと伝えられている。(パンフによる)(中津川文化財少年団)
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金吾様踊り(地割り舞)

2011年09月19日 | 伝統
昨日は6年ぶりにさつま町中津川の金吾様祭りに出かけた。6年前と比べると地割り舞と俵踊りの2つが増えたようだ。
さつま町中津川地区に伝わる金吾様祭りは織田・豊臣時代にいた祁答院島津家初代・金吾(左衛門督)歳久を祀る「大石神社」秋季大祭に奉納される踊りです。(パンフより)
地割り舞の由来について諸説あり、領地を決める地割り説と、祭神をお招きする地を清めるための舞とあります。後説が・・・(パンフより)
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2 飛んだり跳ねたりで動作が大きいので踊りの4人の顔をアップで撮ってみるとやはり若い人達だった。


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坊津町の十五夜行事火とぼし

2011年09月11日 | 伝統
上之坊では十五夜行事で使う茅を束ね、「番茅」を作ります。その番茅を山から下ろす時、青年が山の上で松明を灯し、それを回して集落に知らせます。火とぼしでは、「十四が甘かで塩まぶせー(十四歳の子供頭が頼りないので、塩をまぶせ)」「火が燃えたかー」と叫びます。また他の伝承では「十四が甘かで火を回せー」「火が見えたか―」と叫んでいるとも言われます。いずれの解釈が元々のものかは、定かではありません。火とぼしが終わると、坂の途中に置いてある番茅を背負い、十五夜唄「お久米口説き」を歌いながら、綱練り(綱綯い)会場となる公民館まで下ろします。行列は、青年の担ぐ一番茅・二番茅・三番茅…から、子供達、最近は還暦を迎えた壮年と続きます。公民館に着くと名乗りを上げ、「あんにょーい」の掛け声で公民館の坂を駆け上がります。現在は旧暦8月11日に行うが、かつては十三夜の行事でした。(鹿児島の年中行事より抜粋)(23.9.10撮影)
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2 五輪のマークになって撮れた


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5 長時間露出で撮っているが他の人のフラッシュに同調したようだ


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