お題『理想の朝のすごし方は?』
目覚めると福山雅治になっている。
もちろん妻は吹石一恵に。
お題『理想の朝のすごし方は?』
目覚めると福山雅治になっている。
もちろん妻は吹石一恵に。
お題『運動会の思い出は?』
スターターピストルを「本物」だと思い、怯えていた。
> 龍馬の思想で最も輝いているのは「平和」と言い切る。「龍馬は戦争が嫌い。薩長同盟。大政奉還、船中八策も目指したのは平和やき」
“坂本龍馬は「戦争が嫌い」な平和主義者だった”という話はフィクションに過ぎない。
坂本龍馬記念館館長の森健志郎氏は 一体何を根拠に「龍馬は戦争が嫌い」などと 断言しているのだろうか?
史実の坂本龍馬は状況によって所謂「武力倒幕派」と「大政奉還派」の間を右往左往している。(が、両派の間に大きな溝が有ったわけではない。両者は連絡相談をしながらそれぞれの運動を進めている。実際、土佐の大政奉還路線の主役だった後藤象二郎は大政奉還建白を提出する直前に薩摩の小松帯刀・西郷らに相談している。)もし「龍馬は戦争が嫌い」な平和主義者だったなら、そんなことは有り得ない。
幕末・近代の政治思想史の研究者として著名な松浦玲氏の『検証・龍馬伝説』(論創社刊) より引用する。文字強調は私メガリスによる。
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龍馬は大政奉還側
さて、いよいよ大政奉還の十月である。土佐主導で薩摩がしぶしぶ(或いは策略含みで)付き合っている大政奉還と、その大政奉還の「上表」と奇しくも同じ十 月十四日になった薩摩・長州へのいわゆる「倒幕密勅」と。この二つの、からまりあいながらしかし峻別されるべき路線で、龍馬が大政奉還の側にいて、討幕密勅の側にいないことは明瞭である。
平和主義者だというのではない。 既に十分に指摘されていることだが、前述八月十四日付三吉慎蔵宛書簡では、長州本藩・長府藩・薩摩藩・土佐藩の軍艦を集めて一組として幕府と戦うという構想が語られているし、九月二十日の木戸宛で土佐に鉄砲を運んで乾退助に引合と書くのも、土佐藩を可能な限り武力討幕路線に引寄せておこうというデモンストレーションである。
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しかし八月から九月と、土佐藩の大政奉還建白が平和路線に傾いていることが明瞭になったとき、木戸は龍馬に不満を呈した。龍馬は木戸に強く言われて、精一杯武力討幕路線に近寄ってみせる。この揺れが龍馬独特で、討幕一点張りでもなければ、絶対平和主義者でもない。後藤象二郎が土佐藩の大政奉還建白を京都まで持参したものの薩摩藩の反対で提出できなくて困っているとき、長崎から高知に鉄砲を運ぶ途中の龍馬は木戸に返事して、これから土佐に帰り乾退助(板垣退助=武力討幕派)と相談の上、京都に出て後藤を引込めるとまで書いたのである。
龍馬が武力討幕派だという面を最も強調したのは、故飛鳥井雅道の『坂本龍馬』(一九七五年・平凡社)だった。苦心の力作だが、討幕派寄りになったところばかりを拾いすぎた憾みがある。龍馬が高知を経て上京したときには、既に土佐藩の大政奉還建白は在京薩摩藩代表の了解を得て提出済みとなっていた。龍馬は後藤象二郎ともども、ただただ土佐の建白が受け入れられることを願うのみだったのである。
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有名な「日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申し候」という龍馬の手紙の一節 は、「右申す所の姦吏を一事に軍(いくさ)いたし打ち殺し」という言葉に続けて書かれている。
“幕府のクサレ役人どもを戦争をして打ち殺し、日本をもう一度洗濯したい”と龍馬は言っている。
「戦争が嫌い」な平和主義者はこのようなことを書かない。
ついでに言うが、この「日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申し候」という文句は熊本出身の学者横井小楠(よこい しょうなん)の口癖の真似で、龍馬が思いついたものではない。「天下一統人心洗濯希うところなり (てんかいっとう じんしん せんたく ねがうところなり)」というのが横井の口癖だった。横井に会ったことがある龍馬がこれを拝借したわけだ。
慶應二年(西暦1866年)の「龍馬寺田屋事件」で龍馬は伏見奉行所の捕り方2名を拳銃で射殺している。捕縛を逃れる為であっても「戦争が嫌い」な平和主義者はそんなことはしない。
龍馬は、大政奉還後に福井藩士三岡八郎との会談で「不戦なり」と語ったり、若年寄永井尚志に面会した折に「決して兵力によらずして行われるべき条理あり」と言ったりしているが、其の時の状況下で其の時の龍馬がそう語ったというだけの話である。「戦争が嫌い」な平和主義者だからではない。
“薩長同盟、大政奉還、船中八策も目指したのは平和やき”
森館長の哀しい思い込みに過ぎない。
所謂「薩長同盟」は他ならぬ薩摩が構想し小松帯刀・西郷隆盛らが中心となって工作を進め実現したもので、当時自ら進んで薩摩庇護下に入っていた龍馬は小松・西郷らの指示を受けて動いていただけである。所謂「薩長同盟」は龍馬が発案したものでも龍馬の主導によるものでもない。”龍馬が薩長の和解連携を発案し、彼が仲介して両者を説得し実現した”という「薩長連携発案仲介伝説」はフィクションだ。
大政奉還策は元々幕臣大久保一翁(おおくぼ いちおう)や福井藩主松平春嶽(まつだいら しゅんがく)らが提唱したもので、 龍馬がしたことは、彼らからの受け売りの大政奉還策を 土佐藩浮揚の一手として後藤象二郎に示したとされることだけである(実は、この話にも確たる根拠があるわけではない)。他に何もしていない。自分で後藤に教えておきながら、所謂「武力倒幕派」と「大政奉還派」の間をフラフラし後藤を裏切るようなことをしていたのは前述した通りである。”龍馬が大政奉還を発明し、彼の奔走で実現した”という「大政奉還発明奔走伝説」はフィクションである。
『船中八策』は明治以降の捏造と観る研究者が多く、ほぼ定説となっている。
以前から専門家の間では〝龍馬が『船中八策』を提唱した〟という話には疑問が持たれていた。
理由1 龍馬本人や『船中八策』を聞いたという長岡謙吉による自筆も、信頼できる写本も存在しない。
理由2 同時代の記録や、龍馬に関連した人々の証言等に一切登場しない。土佐海援隊の日誌にさえ記述が無い。
理由3 後年の龍馬自筆が現存する『八義』(所謂『新政府綱領八策』) よりも、先行するはずの『船中八策』の方が内容が充実している。
近年になって『船中八策』捏造の経緯がほぼ明らかになってきており、大雑把に言うと次の通り。
明治29年西暦1896年に刊行された龍馬親族だという人物の著した伝記『阪本龍馬』(何故か「阪」)にその原型が登場する。
『船中八策』の内容が今我々が知る形でほぼ確定したのは明治40年西暦1907年。
そして『船中八策』という名称そのものが生まれたのは大正5年1916年のことである。
森健志郎館長 は、 龍馬と関連は有るという程度のものや後世の捏造と考えられているものを龍馬の功績と見做し、それを無理やり「平和主義者伝説」と混ぜこぜにして、 龍馬が「目指したのは平和」と言い切っているらしい。
単なる哀しい思い込みに過ぎない。
平成27年(西暦2015年)10月9日の西日本新聞夕刊から引用。
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龍馬の思い「平和」を発信
高知の坂本龍馬記念館リニューアルに道筋を付けた館長
森健志郎さん
高知・桂浜に近い浦戸城跡に立つ記念館のトップに2005年に就任して丸10年。博物館機能を持たせ、幅広い展示を可能とするリニューアルに道筋を付けた。「これまでは『龍馬を発信』が合言葉だったが、これからは『龍馬の殿堂』ぜよ」
高知新聞社を定年退職後の05年8月、当時の橋本大二郎知事から請われ館長になったが「特別な思い入れはなかった」。手紙の紹介が中心の記念館を繰り返し訪れるファンの熱意に触れる。専門家の学芸員と話し、龍馬本を手に取るうちに引き込まれた。「今では人後に落ちぬ龍馬ファン」
龍馬の思想で最も輝いているのは「平和」と言い切る。「龍馬は戦争が嫌い。薩長同盟、大政奉還、船中八策も目指したのは平和やき」
龍馬が残したメッセージの発信を記念館の使命と位置付けた。8月15日には「夏休み子ども龍馬フォーラム」を13年から開催。よさこい祭りにも、龍馬をアピールするチームを率いて参加する。
10年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」放送以降、「もっと本物が見たい」という来館者の声の高まりを痛感。県議会有志からの「観光の目玉づくりを」との提案もあり、15年5月に県が基本設計をまとめた。18年1月オープン予定の新館は、温度や湿度の調節が可能で、龍馬に関わる重要文化財や国宝が展示できる。
「人との交流が本当に大事と龍馬は教えてくれる。若い時に分かっていれば」と苦笑する73歳。60歳から2年間、中国の新疆ウイグル自治区に語学留学した行動派だ。
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お題「友達と知り合いのボーダーラインを教えて!」
二人掛の机の中央に書いた”境界線”を超えていいのが友達。
お題「保険に入っててよかった!と思った瞬間は?」
綾瀬はるかちゃんカレンダーを貰った時。
お題「子供の頃の遊びといえば?」
音楽室のベートーベン肖像画を指差し「本郷猛(藤岡弘、)!」と叫ぶ。