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朝日記240219 その7 ゾンビについて (訳者所見)現代意識問題と総合知科学

2024-02-19 11:41:07 | 研究論説

朝日記240219 その7 ゾンビについて (訳者所見)現代意識問題と総合知科学

朝日記240219  エントリー⇒Zombies ゾンビについてーZombi, its philosophical backgroundー

コメント 現代意識問題と総合知科学の挑戦について  荒井康全 

2024・2・17

現代意識問題と総合知科学の挑戦について

1.ゾンビについて

2.クオリアについて

3.こころと他者のこころ

4.クオリアとゾンビの階層への位置づけ 総合知科学の挑戦として

 

付録1 Russell主義の一元論 Russellian monism

 

ゾンビについて[1]

ゾンビは、哲学的には‘other minds’ problem想像上の被創造物でありconsciousness意識とphysical world物理的世界との関係についての問題を際立たせるために企画されたものである。  

映画や魔術のなかとは違って、それらはphysical respects物理的省察における我々と全く似ていとはいえ、しかし、conscious experiences意識的経験を伴わない者である。

ゾンビはまさしくわれわれとおなじくふるまい、そしてある者は意識性を論じるのに長い時間を費やすものである。ほとんどのひとは、例外はあったとしても、ゾンビは存在していると考えてない。

しかしおおくの場合かれらは少なくともconceivable認知的であり、そしてあるものはpossible.可能的であるという見解をもつ。

それはつぎのようにもみえりょう、もしゾンビが実際に可能ならば、物理主義は誤りとなり、そして二元論のある派には真となろう。

おおくの哲学者にとって、それはゾンビ観念の中心的な重要性である。

しかし、ゾンビは意識とこころの他の視点について哲学的理論化への鋭い焦点をあたえる価値あるものである。(see for example Howell 2013; Kriegel 2011; Stoljar 2006; Tye 2008).

ゾンビの観念を物理主義に対してつかうことのはimaginability想像性、, conceivability,認知性および possibility可能性との間の関係についてのより一般的な問いをおこすことにもなる。

最終的に、ゾンビはepistemological認識論上の困難性をおこす;それらは‘other minds’ problem他者のこころの問題を再度考えるとになろう。

 

クオリアについて[2]

ものを感じることや経験はひろく変わる。たとえば、サンドペーパーにわたしはゆびを走らすとなにかきな臭いにおいを感じ、わたしのゆびにするどい痛みを感じる、なにかあかるり紫いろをみるような気がして、わたしはひどく怒り出す。これらのどの場合も私はこころの状態の主観(主体)であり、非常にはっきり区別のある主観的性質をともなう。

そこには自分にとっていまある状態が似ているなにかがあり、それはなにかこれまでにもあった現象的なようなものである。

哲学者たちはしばしばそれを‘qualia’ (単数 ‘quale’)という術語をつかい内的視点でうけいれ、われわれのこころのいのちの現象的一面として紐づけする。この語のひろい感覚で、qualiaが存在することを否定することは困難である。典型的な非合意としては、こころの状態がqualiaを所有するところに集中する、それはqualiaがそれを抱えるひとの内的な質であるのか、そして如何様にqualiaが頭の内および外の双方での物理的なものに関係しているかということである。Qualiaの位置づけは現在の哲学でのホットな議論である、それは意識の本質についての適正なる理解の中心であるからである。

 

私のこころと他者のこころ

デカルト以来、近代の哲学で こころとからだの二元論において、このこころはあくまでも自分から出発している。「われ考える」はわたしの主観が出発となっている。わたしという個人individualであり、他人とは違う。他人についての主観は分からないのであるが、人間としての個人ということで共通であろうという仮定のうえに立っている。

「われ考える」の「考える」は自分が見て意識しているものつまり「からだ」である。その「からだ」は自分の体もそうであるが、意識してとらえてそれがなにであるかを考えようとしてとらえた対象つまり客観のことである。

 

ここで焦点にあてたいのは、デカルトの二元論としては「他人」の主観は「私」はわからないことになる。それを対象として客観を経て、それをあらためて「私」の主観へととり

かかることになる。この主観とはあくまでも「私」のであり、対象となった「他人」の主観とは同じかどうか、違いもじつはそのままではわからないことになってしまうのである。あくまでも「私」の思考経験を経た産物でそれを表現することになる。

 

対象からの経験の中身は共通のものがあるという信念の伝統があり、人類は対象についての観察、対象への入出力から共通の知(認知)をしようという行動への意思が近代科学を

生んだといえよう。哲学者カントによれば経験から共通知の獲得つまり概念である。

確か、社会学ではMethodological based Individualism 方法論的個人主義とよばれて思考的枠組みを設けてけっきょく「ひと」の概念へ落とし込むようである。これはMax Weberの社会科学の基盤となっている。もちろん、Methodological based Collectivism方法論的集合主義というたちばもあり、これは最初から集合的自我を想定してる立場でありフランスの社会学の祖であるDulchemに代表されているといまは言っておく。

 

さて、いまここで我慢して踏みとどまって、うえで「私」の思考経験を経た産物といったが、「私」は経験から主観がなぜ、どのように生まれるかについて考えるひとたちがいる。しかし科学の歴史のなかで未だその道すじに信頼できる存在はないのである。

 

 

クオリアとゾンビの階層への位置づけ 総合知科学の挑戦として

 

二元論では主観と客観、こころとからだ、あるいは思考と対象というカップルでの問題の捉え方であるが、それはそう単純なカップルではないことは容易に想像できる。

いま、意識について考えてみたい。ここでは一旦、二元論から、その名辞だけをのこして、「私」と「他(対象)」の次元と、「こころ」と「からだ」の次元とで考えを展開してみたい。

「私」はそのときどうあるか?という状況設問である。

最小限、「私」のこころにたいして「対象」のこころと「私」のからだと「対象」のからだ(外延)の2x2のマトリクス問題があらわれるのである。

 

 

「わたし」はそのときどうある?

 

 

 

 

 

「わたし」のからだ

「他(対象)」のからだ

「わたし」のこころ ;qualia

What is it like?

の存在(意識)

 

対象への直観からの理念ideaの発生

II

「他(対象)」のこころ ; qualia(zombi)?

awareからの(反応)

対象としての経験からの概念conceptの獲得

 

 

行 Iが 意識と理念の存在を意味していて、これをqualiaクオリア空間とし、

行 IIへの反応と概念の存在獲得を意味していて、これを敢えてzombiaゾンビ空間と定義しておく。

一般にはここもqualiaとしてひろく定義にいれるひともいる、これがzombiaの存在論議を曖昧にしている所以ともなっていると指摘しておく。

 

列1と列2は二元論的視点からは主観と客観(対象)を区別して焦点を当てようとする定義ある。特に列1は主観には階層あり、上部I―1の高位の主観意識と下部II―1のからだの機械的反応の層を区別している、対象そのものにこころがあるかどうか意識問題の焦眉であるが、最近の脳神経情報科学の領域を上部主観意識階層の形而上学的論理展開を層別して統合展開する学問的総合知しての戦略性がここにある。

物理主義的にのみとどまると意味乾燥したゾンビが不気味にのこる。とうぜんながらゾンビよる人間世界の支配の危惧が起ることは当然であろう。それらを回避しおおきな人類知の構築と人間性安全保証のための高度意識社会への挑戦がもとめられるのである。

クオリアとゾンビの階層への位置づけ 総合知科学の挑戦なのである。

 

付録1

Russell主義の一元論 Russellian monism[3] [4]

 

Russellian monismは、 neutral monism.[46][47] 中立的一元論である。この理論はBertrand Russellに帰するものであるが、 Russell's panpsychism, Russellの汎心論もしくはRussell's neutral monism.[9][46] Russellの中立的一元論ともよばれている。 Russellはすべての causal properties起因的特性は、identical intrinsic properties.内的特性の対するextrinsic manifestations外的操作であると信じたのである。Russellはこれらの同様なる内的特性をquidditiesクイディティと呼んだのである。物質の外的本質特性がより高次-秩序構造を形成することができるように、それらの内的本質特性も対応し、そして同一なquidditiesを形成することができる。Russellはconscious mind意識的こころはそのような構造であると信じたのである。[48][9] 

 

[1] Zombies (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

https://plato.stanford.edu/entries/zombies/

First published Mon Sep 8, 2003; substantive revision Tue Mar 19, 2019

 

[2] Qualia (Entry from the below)

Qualia (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

https://plato.stanford.edu/entries/qualia/

First published Wed Aug 20, 1997; substantive revision Thu Aug 12, 2021

 

[3] Wikisource has original text related to this article:

The Relation of Sense-Data to Physics

 

Wikisource has original text related to this article:

The Analysis of Mind

 

[4]  https://en.wikipedia.org/wiki/Panpsychism#Panprotopsychism

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