朝日記140718 朗読 P.Shelley 雲雀に捧ぐ
P.Shelley 雲雀に捧ぐ 荒井康全訳
朗読は荒井公子さんです。
画面下方に現れる文字ストリームは朗読者の声にAI Copilotが勝手に応答して働いてしまいましたが、
単純誤訳はいくつ散らばっていますが、おゆるしのほどを。
以下をクリックすると動画があらわれます;
https://www.youtube.com/watch?v=YYGqhH73Q0g&t=599s
住
朝日記140718 朗読 P.Shelley 雲雀に捧ぐ
P.Shelley 雲雀に捧ぐ 荒井康全訳
朗読は荒井公子さんです。
画面下方に現れる文字ストリームは朗読者の声にAI Copilotが勝手に応答して働いてしまいましたが、
単純誤訳はいくつ散らばっていますが、おゆるしのほどを。
以下をクリックすると動画があらわれます;
https://www.youtube.com/watch?v=YYGqhH73Q0g&t=599s
住
朝日記240715 橘樹住香 歴史逍遙 みなひとの古代の夢にかへらむか
初出し 「HEARTの会」会報 No. 118 2024年夏季号 NPO法人人間環境活性化研究会 ISSN 2186-4454
修正 2024/7/16
―歴史逍遙―
みなひとの古代の夢にかへらむか
会員 橘樹 住香
松岡映丘に吉村忠夫あり
忠夫 住香庵
さねさし さかむのおのに もゆるひの ほなかにたちて とひきみはも
貫頭衣をもとに装束を考証す
箱根稽古場のすまひから 新緑の山をみわたす その山のいたたきから やまとたけるは 弟橘姫をいたみ さかむの海に あかつまはや となき 吾妻となる
むさしの國のわか苫屋の向ヶ丘は やまとたけるの ゆかりの神木(しぼく)あり 姫の ゆかりと奈良朝には 橘樹(たちばな)郡と名つく 橘樹郡は世田谷から保土ヶ谷まで 生い茂る橘の實をおさむ かつて綺麗な川崎は 長十郎梨の原産地 きよき多摩川をうたふやうに 菜の花にさくら 桃 梨の花の咲きみたれ 桃源郷のなのか また 汽水域に生うる海苔にて 天下一品の浅草海苔となるも 京浜工業地帯となりその名のみのこり 絶ゆ かつては 東国の高野山といはれ 鎌倉のころに 山ふかき原生林の生い茂る柿生に 原産の甘柿の禅寺丸柿のみつけらる なれといくへにも重なる山をきり崩し ヤンキーとなり 近代化 すなはち西洋化により うみやまと おくにふりを なくしてゆくのか
われたつや やまとくにはら ほろほろと なくこえかなし あをかきやまに 住
古寺巡礼 ときに はたち いにしえのおもかけの色こき京やまと 二月堂にてめくりあひし日本畫の月岡榮貴に いまどこの宿 若きころはみな奈良博のむかいの日吉館だよ ここは大學の古美研の集ひ 奈良の芸術院とも
お前は何泊するのかとおかみさん 二泊三日 短い そんなんで奈良がわかるのか 會津八一は半月もひと月も泊まり 扁額は八一の筆 いい紙に書くと こはばるが 新聞なら おおらかな書となると 八一へのなつかしさをわれに
宿のこみ ねるところなく 奥のおかみさんのもとへ あるとき 労組により國鉄のとまり 古美研を引率する女子美のときの永井信一學長の手配のバスに 一 緒にと 花のお江戸へ 鎌倉府の技芸をおそわるみちゆきとなる
前田青邨に入江正巳あり
入江のこのゑには 五十年ほと前の 奈良の薬師寺のこひしい 静謐な かなしみあり
住香庵
ギリシャの あふれんはかりの たまの肌の 女神にひきつけられしローマの人々は アフロディテへの 綺麗さの源の ほんかとりに励む
あをき地中海の 天霊地気の ましろき大理石をてにいれ すへらかな 素肌のいのちを とはに ととむ なんてきれいなのかしら
ローマ カピトリーノ
日が陰りはじめ 人がまばらになり ぐるっと 一気呵成に かいてみる いたらぬところのあるも かいてみると おもしろい
朝日記240715 橘樹 住香 よみかへる國寶の旅へ 2
初出し HEARTの会 会報 No.118 ,2024年夏季号 NPO法人人間環境活性化研究会 ISSN2186-4454
―歴史逍遙―
よみかへる國寶の旅へ2
会員 橘樹 住香
松岡映丘に吉田秋光あり
秋光 住香庵
澤瀉 おもたか
澤瀉縅鎧兜
水辺のおもだかへのこのみをしる
鈴木敬三に橘樹住香あり
京 嵯峨野の野々宮のやしろ ときの斎宮代は なんと平清盛平重盛その子六代 治承のかたりは 六代を最後に平家の嫡流はたゆとあり 六代は みつけらるるも きれいな たふとさゆゑ むさはおそれおほくも 切れぬと なきくする 青葉したたる二十四ころまで 命なからふも 鎌倉北條かたのなさけをしらぬ武者により いのち をはんぬ
なれとこの姫巫女は六代の嫡流 世になんと秘すれし魂のかたみをいまも
よみがへる
武蔵の國 御岳 國寶 日本原産茜染縅鎧兜 平安朝
小堀鞆音に鈴木敬三あり
日清日露の勝ときにわき 熱気につつまれ 大國に向かう大正の世をむかえ イギリス 日本 フランス イタリアと競ひあひ 國際聯盟をつくる 江戸城お堀まえの帝國ホテル・國会議事堂・東京 京都 奈良國立博物館・一丁ロンドンの丸の内 津々浦々に意気盛んなビルのたちきそひ 勝鬨橋しかり ニコライ堂 日本生命ビルしかり 世界に冠たる一等國をつくる まさしく常任理事國らしきお國ふり 裕仁帝の東宮生誕に沸く日比谷のちょうちん行列 國學院の鈴木敬三は若きころ宮内省の圖書寮にて ひそかに鎧兜の研究に頭角をあらはし 藤原王朝の鎧兜の復元をこころさす 東宮のことほきに 宮内省の職員からお小遣いを集め 武蔵野國御岳の平安朝の鎧兜をよみかへらす こまかく圖面をひき 鎧師小野田光彦の手により よみがえらせし鎧は 絹の組紐を日本原産茜草にて染む 原本の國寶赤糸縅の修理は 明治の初めの乏しいなか 西洋の化学染料をまかなひ いまは桃色にかはり 腹のつるはしりも ありあはせの 鹿の皮 それなりの格好をつけ 兜のしころは新しくする ほんものの茜染めは いまも色あざやかなすごさを世にしめし 國寶をはるかにしのぐ名品となる 天下の鈴木敬三博士となる
いま ちまたで めにする鎧は 99%江戸末期のもの
よみかへらす鎌倉武者の澤瀉縅鎧兜
鈴木敬三に池田宏あり
東博の陳列ケースに飾られし鎧を ときの上席研究員の池田の特別なはからひにて 國立美校の日本畫の學生にきせる 矢はねは扇形にひろけ 考証のたしかさとなる 鎌倉から南北朝のむさは きらひやかな すえ金物の鎧をこのむ また毛利家伝来の直垂を忠実に再現 蒙古襲来の鎌倉武者ここにあり
朝日記240715 橘樹住香 倭の海山のをんな 海山のをとこ
初出し 「HEARTの会」会報 No.118, 2024年 夏季号 NPO法人人間環境活性化研究会 ISSN 2186-4454
―歴史逍遙―
倭の海山のをんな 海山のをとこ
会員 橘樹 住香
松岡映丘に吉村忠夫あり
小督 吉村忠夫 住香庵
ひのもとの源郷 熊野
いくたひか はる夏秋冬を紀勢線にてめくるも 若きころ田中親美邸に縣治朗をおとなひ NHK朝ドラの美術の相談 舞台となる阿波にいくことをすすめらる
夜の華の都を船出し 相模灘 伊豆沖は波たかし 漆黒からむらさきたちたる熊野灘 くれなゐそむる潮岬 ひのもとの源郷とたたへられし紀伊半島は しまのこときうるはしさ あをそらすすし阿波につく うるはしきやまとの國は
は志居 磯田長秋
住
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上記翻訳あたっての感想(荒井康全);
アメリカプラグマティズムの祖であるパースについての解説です。パースは彼の生きた時代では孤独孤立した状態におかれたが、その残したものは巨大であり、本質的であり、その影響は今世紀に至ってなお新鮮なる影響を与えている。特に 信号-対象ー観察者というTriadicsの発想は、デカルト主義の主観―客観の二元論を越えて、対象を物質系にとどめるのではなく、信号と対象という2元をカップルにし情報系をとりこんだこと、これを誰が見ているのか、なにに指向させるのか、観察者(主体、人間)という仮説と制御のサイクルから認識を得るという目的論的思考枠組み(プラグマティズム)を提起した。20世紀の後半におきた哲学界でのソシュール・チョムスキーらの「言語論的転回」、またウィーナー・ノイマン・チュールング等の科学技術界でおきた情報通信制御系から人工知能への展開への「低音通奏的」知的底流を成しているという共通認識があり、それ故に彼の知的パラダイムは世界的に広がっている。近代文明が非明示的ではるが構造的転換についての悲観からあらたな人類知のあらたなパラダイムを探求するという点で学術知の世界は一致している。このWiki記事はパース哲学を通じてこれらの真摯なる気概のあふれるチャレンジをみる。これはわれわれにとっても新たな啓蒙を感じさせにはおかない。その文脈は一読に値するとあえて言っておきたい。
本文へ ↓
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Charles Sanders Peirceat Wikipedia's sister projects
注意 弧の文献の通し検索番号は 以下の番号+150です。 例 下の番号2は検索番号152である;
I define a Sign as anything which is so determined by something else, called its Object, and so determines an effect upon a person, which effect I call its Interpretant, that the latter is thereby mediately determined by the former. My insertion of "upon a person" is a sop to Cerberus, because I despair of making my own broader conception understood.
See also Santaella, Lucia (1997) "The Development of Peirce's Three Types of Reasoning: Abduction, Deduction, and Induction", 6th Congress of the IASS. Eprint.
I will also take the liberty of substituting "reality" for "existence." This is perhaps overscrupulosity; but I myself always use exist in its strict philosophical sense of "react with the other like things in the environment." Of course, in that sense, it would be fetichism to say that God "exists." The word "reality," on the contrary, is used in ordinary parlance in its correct philosophical sense. [....] I define the real as that which holds its characters on such a tenure that it makes not the slightest difference what any man or men may have thought them to be, or ever will have thought them to be, here using thought to include, imagining, opining, and willing (as long as forcible means are not used); but the real thing's characters will remain absolutely untouched.
注意 弧の文献の通し検索番号は 以下の番号+120です。 例 下の番号2は検索番号122である;
Consequently, to discover is simply to expedite an event that would occur sooner or later, if we had not troubled ourselves to make the discovery. Consequently, the art of discovery is purely a question of economics. The economics of research is, so far as logic is concerned, the leading doctrine with reference to the art of discovery. Consequently, the conduct of abduction, which is chiefly a question of heuretic and is the first question of heuretic, is to be governed by economical considerations.
Thus, twenty skillful hypotheses will ascertain what 200,000 stupid ones might fail to do.
Now logical terms are of three grand classes. The first embraces those whose logical form involves only the conception of quality, and which therefore represent a thing simply as "a —." These discriminate objects in the most rudimentary way, which does not involve any consciousness of discrimination. They regard an object as it is in itself as such (quale); for example, as horse, tree, or man. These are absolute terms. (Peirce, 1870. But also see "Quale-Consciousness", 1898, in CP 6.222–237.)
... death makes the number of our risks, the number of our inferences, finite, and so makes their mean result uncertain. The very idea of probability and of reasoning rests on the assumption that this number is indefinitely great. ... logicality inexorably requires that our interests shall not be limited. ... Logic is rooted in the social principle.