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朝日記240705  (その6)6.探求の理論 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

2024-07-05 10:42:06 | 研究論説

 

朝日記240705  (その6)6.探求の理論 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース

 

  1. 探求の理論 Theory of inquiry

 

探求の理論 Theory of inquiry

See also: Inquiry

 

 "The Fixation of Belief" (1877) においてPeirceは、探求inquiry.の心理的原点と狙いについて取り上げる。彼の観方においては、個人としての気がかりや不安anxiety and uneaseよる感情feelingsから逃れるescapeことを願うdesireこと、これが個人をして探求inquiryすることへと動機motivatedとなると捉えた、Peirceはこのような気がかりや不安を猜疑の状態特性the state of doubtのcharacteristicとして取り上げたのである。  

Peirceは猜疑doubtこそが「不安uneasyにして、不満足dissatisfiedなる状態を記述するもの」であり、「その猜疑の状態から我々自身を解放free ourselvesにするために、かつ確たる信念の状態the state of beliefへとたどり着くためにわれわれはたたかう」としたのである。

Peirceは「苛立ち」"irritation"のような用語を使って、猜疑状態の経験を記述し、かつ我々は動機になるような経験をなぜみつけることを考えるのかを説明しようとしたのであった。 

猜疑doubtの苛立ち感情irritating feelingが鎮まるappeasedのは何に依ってかといえば、Peirceは言う、そのある満足状態の収まりa settled state of satisfactionへの到達は、我々の努力effortsを通じてであると。 それへの状態を伴うことによって、われわれは、その状態の上に着地するのである、その状態とは、第一義的に猜疑にある場所に導いてくれるような問い questionに対するわれわれの答えour answerとしてのもの(状態)なのである。  

この収まった状態、これを信念beliefと呼ぶが、Peirceによれば「静寂にしてかつ満足のある状態であり、それはわれわれが逃げることを願わない状態なのである」 

信念の満足に到達する努力は、我々がどのような方法によったとしても、それはPeirceが探求"inquiry"とよぶものである。

四つの方法を以下の節にまとめておく、それは思考の歴史を通じて実際に追求してきたものとして位置付けている;

 

 

批判的常識主義 Critical common-sensism

 

 批判的常識主義Critical common-sensismはPeirceが彼のプラグマティズムの必然性からのものであり、それは彼の Thomas Reid常識哲学Thomas Reid's common-sense philosophyと 可謬主義fallibilismとの結合したものである。

これはたとえば、多少曖昧ではあるが目下のところ疑いえない共有感覚common senseについて、科学scienceを通じての我々の世界へと転換性故に、これを設問questionとして取り上げることを認めあうrecognizeことにある。

それは、疑うことができない何かがあって、それが緩慢ではあるが変化をしているようなものを共有しあっている、そしてその核となるグループa core groupに対して、テストとして真の疑問genuine doubtsを働きかけること、そのための努力することを含むのである。 

 

 

探求の競合法 Rival methods of inquiry

 

確信の定着性"The Fixation of Belief" (1877)において、Peirceは一般的に探究inquiryを真の追求そのものtruth per se としてでなく、こころ定まらない苛立ちirritating、抑えることができないinhibitory疑問によって突き動かされるたたかいstruggleとして記述する、これは驚愕や不合意、および類似、そして確かなるものに達するために確信存在(これはひとが行動準備するのであるが)からのものである。 

それはPeirceの科学的探究の枠組みとするものである、その枠組みとは広い視界の一部分であり、そして、実際的疑問によってであり、単なる言語の、言いがかりのものではなく、もしくは実質的に意味のないハイパボリック疑問 hyperbolic doubtからのものではない。

Peirceが意見を落ち着かせる方法として以下の四つ方法を描写した;

  1. 持続性からの方法The method of tenacity ―それは心地よくそして内容がハッキリしてしるが、これに合わない情報や他の見解を無視しようとする試みに誘導する、あたかも真が本来的に個人的なものであり、公的ではないかのようではある。この方法は社会的なインパルスからの当初案と比較して甲乙つけがたいときに迷うので、その成功は輝かしいこともあるが、一時的なものである。
  2. 権威からの方法 The method of authority –これは意見の非一致を克服するが、ときに野蛮なものである。その成功は「寅の威を借る」ものであり、かつ永続的であるが、それでいてひとびとを心底納得させることはできない、それはさまざまな疑念にたいして立ち向かうことには十分ではないからである、人々は他の社会での状況と過去についてまなぶからである。
  3.  先見からの方法 The method of the a priori –  それは左程の乱暴ではない程度に整合性を推進するが、風味tastesのようなものとして意見を提供する、「何が理性にとって合意的であるか」というという意味においての会話、そして観方についての比較を喚起するのである。 これによって、それはパラダイムparadigms の中での様相に準拠していて時を経ても、この仕切り円内の内側のなかを動いている。それはより知的でかつ尊厳的であるが、上の二つと同様に、偶然な変化そして気風の変化を吸収するが、それに対する懐疑doubtを保持している。
  4. 科学の方法The method of science– ここでは探求inquiryでは現実のものは発見可能なものであるが、特定の意見とは独立なものである、 それは他の方法とは似つかわしくなく、探求はそれ自身の勘定によって、可謬(fallibilism)に落ちいるし、正しさにとどまるとは限らない、そして、斯くしてそれ自体を目的的にテストし、そして、それ自身を批判し、訂正し、そして改善する。

 

Peirceの態度はつぎのものである;実際事態に際して、道理的に納得に至ることが手間取り遅滞していることは、しばしばこれにより危険に(われわれを)晒されることになる、それよりも本能instinctと伝統的感情traditional sentimentの方に軍配をあげることになるが、科学的方法scientific methodこそが理論的研究theoretical researchには最もよく適合していること[117]、したがって、科学的方法を他の方法や実際的な決着があるからといって引き下げるべきではない;理性の「第一ルール」[118] とは、学ぶためには、ひとは学ぶlearnへの願望desireをしなければならないこと、そして、その系として探求の道すじを緩めてしまってはならないということである。 

科学的方法Scientific methodはもっとも安心なる確信に事実上―至るべく慎重に設計され、その確信のうえに、もっとも成功的な実用が組まれることになり、それは最終的には他の方法にまさるのである。

ひとびとはことが何であるか戸惑っているかわりに、それ自体は真ではないが、疑うことを控えるようなアイディアideaから始まる。ひとが闘争struggleを通じて、だれかが確信のまとめとなる真truthを提出するに至り、ただしく与えられた目標に導く可能性ガイドを真truthとして探求する、そしてそれらを科学的方法と結婚させることができる、それがどのように行われるかを彼は証明したのである。 

 

 

 

科学的方法 Scientific method

 

実用的反省pragmatic reflectionによる明確化が説明的仮説explanatory hypothesesに適合し、かつ予測および試験を提供してくれるかぎりにおいて、プラグマティズムは基本的代替foundational alternativesの通常の二元性the usual duoを越え指示している。:これは自明の真self-evident truthsからの演繹 deduction、もしくは合理主義 rationalism;および経験的現象experiential phenomenaからの帰納 induction、もしくは経験主義 empiricismである。  

Peirceのアプローチは三元の論議モードmodes of argumentの彼の吟味にもとづいているが、foundationalism もしくはcoherentismとは異なっており、それは以下の三つの探求位相的動力学phase dynamic of inquiryによる探求自然化をもとめるものである。 

  1. 真についての事前の保証をともなわない状態no prior assurance of truthでの理論の実効的かつ abductiveな創生 genesis: 
  2. 実用的含意を明らかにすべく、適合理論contingent theoryの演繹的deductiveな応用;
  3. 未来経験予想で‘とりあえずの理論’provisional theoryの有効性についての帰納的な試験と評価inductive testing and evaluationであり、ここでの経験は予測 predictionと制御control双方の含む:
  4. これによって、Peirceは、これまで帰納一般性イメージsimpliciterというどちらかと現象的パターンに単にラベルを替えるような平面的イメージからさらに遥かに個体的である探索アプローチを工夫したのである。
  5. Peirceのプラグマティズムpragmatismはここではじめて哲学的質問のための認識論epistemologyとして、それが科学的方法 scientific methodであると提案されたのである。
  6. われわれの世界を予測し、制御することにおいてその競合のもの以上に成功した理論は真理により近いと言われている。これは科学者が使う真理truthへの操作的概念operational notionである。

科学的理性の自然性について問題位置づけをするために象徴的論理の展開の初期のものであるが、古典的論理でのなまの物質から、その探求についてのプラグマティックなモデルもしくは理論 model or theoryを抽出し、かつそれと平行してそれをを磨いていくものであった。

 

アブダクションabduction, 演繹deduction, および帰納inductionはお互いに孤立していて不完全な意味を構成しているが、探求の共通目的に向かって協力するかぎりにおいては全体として理解されるべきサイクルa cycleとして容認している。

概念的にして実用的な意味を考えるプラグマティックな道すじでは、すべてのものは目的をもち、かつその目的は可能なものとして第一に留意されるべきである。

アブダクションAbductionは演繹deductionのための説明を仮説化hypothesizeする、それは帰納inductionがその仮説を評価することができるような試験実施をあきらかにする説明仮説なのであり、それは不確定性のなかでの混乱のなかで、よりたしかとおもわれるものを獲得するためのたたかいのなかでおこなわれるのである。  

(アブダクション、演繹、帰納など)個々の推論モードからの抽象化研究することが筋として伝統的であり、かつ必要的であっても、探求の総合化integrityとしては、これらの主要成分の modularityからの有効性だけでは限界につよく遭遇するのである。

Peireceの概容は§III–IV of "A Neglected Argument"[119]での科学的概容outlineとして以下にまとめられる(かれの他稿記述を除く)。そこでかれは蓋然性と機能的精密さをも吟味している(項目 critique of arguments)。

 

 

1 アブダクティヴ(遡及性)相     

Abductive (or retroductive) phase。

試みる価値のある最良の選択のための説明的仮説への想定、推論性。

すべての探求、それが観念であれ、乱暴な事実であれ、規範あるいは法であれ、これらはひとつ、もしくはいくつかの領域王国(たとえばすでに取り掛かっている探求の各段階)において観測から驚異性から引き起こされるのである。

理論の説明内容はアブダクションからのもたらされるのである、これは驚異的あるいは複雑的な現象のために単純で分かりやすい方法でまとめることであり、これに使われる観念の新規性を問わないのである。

 

われわれの推察guessesでのわずかな成功は、偶然的幸運からの成功を越えたものであり、磨かれた、もしくは固有の本能による自然への微細操作から生まれるようでもある、殊に最適な推察はわかりやくかつ自然的であるという"facile and natural"意味で尤もらしく、かつ単純simpleであるのが好ましいとされる。それは  Galileo'の理性の自然なかがやきや論理的単純性から抽出されるようなものである。[120]

アブダクションはもっとも肥沃であるが推測のモードはもっとも主張への拘りsecureがよわいものである。その一般的な説得性rationaleは帰納的inductiveにあり;それはしばしば十分性enoughを継承し、そして新たな真理new truthsに向かわせるにあたり、他の代替物substituteを持たないのである。[121] 

 

 

1903年にPeirceはプラグマティズムpragmatismを「アブダクションの論理」"the logic of abduction"と呼んだのである。調整された方法coordinative methodは尤もらしい仮説をアブダクティングabductingの域から、その試験を可能testability[123]にするために、かつ如何にしてその試験法がその探求の節約のためへの、判断judgingを導くのである。[122]

この仮説は、信頼性に欠くものである場合には実際的な立ち合いに持ち込まれる、それはすくなくともメンタル試験さらに科学においての科学的試験をかれらに誘導することになる。

単純にして尤もらしくない推測は、もしそれを見破るにコストが障害にならなければまず最初にテストに供されることになる。

ひとつの推測がもしそれが尤もらしさplausibilityをもち、あるいは納得いく客観的確率reasoned objective probabilityをもつならその推測はそのための固有的方式による試験となるのである、一方それが納得性reasonedをもつものであってさえ、主観的な尤もらしさ subjective likelihoodは、誤った方向への誘導となりうる。 

推測Guessesは、試験を戦略的にするためにそれらの注意喚起、呼吸、または非複雑性のために選択されよう。(Peirceはその注意喚起のためのの例として「二十の扉」 Twenty Questionsのゲームをあげた)[125] 

ひとは、十分な経験を通じて遭遇したことだけを見つけ出しdiscover、そしてそのポイントを押し付expediteする:調査の節約としてアブダクションを急かせ、なおその技そのものを支配することもありうる。[124]

 

  1. Deductive phase. 演繹の層

 

ふたつびステージ Two stages:

  1. 解釈Explication.  明解なる根拠はないが、可能なかぎりその部分を与えるような仮説についての演繹的な分析。
  2. デモンストレーションDemonstration: 演繹的説明、手順としてはユークリッド的Euclideanである。

見出されるべき証拠の予測としての仮説必然性についての明解な演繹。Corollarial 系としてまたは、必要なら、理論的Theorematic.

 

仮説の評価Evaluation of the hypothesis、演繹的な必然性についての観測によるもしくは実験によるテスト。

帰納則の永続的有効性は原理から演繹されるのである(一般に納得にいたる事前想定性presuppositional)、この原理ではリアルは「十分なる調査がおこなわれるであろう最終意見で対象のみである」[111]

換言すれば、そのようなそのプロセスを除けばすべてが、全くリアルではないであろう。

帰納性は証拠の蓄積過程に含まれるものであり、「十分に一貫した方法は如何様な事前設定の度合いの下でも誤差が消滅」していくのである。」

                                                                             

 

Three stages三つのステージ:

  1. 分級化Classification.。明確な根拠がるとはいえないが、これは一般的観念のもとでの経験対象の帰納的分級。
  2. 暫定性Probation:直接的な帰納的論議。粗い帰納、ひとつの事例経験を基礎にしている(CP 2.759),、これは問題の未来での経験がこれまでのすべての経験とは大きくは外れていないことを想定presumesしている。(CP 2.756)

漸次的帰納Gradual Inductionとは各試験のあとでの仮説での真の厚みをもっていく推定であり、定性的もしくは定量的である。

定性的漸次帰納Qualitative Gradual Inductionは、調査のもとにある課題クラスのさまざまな定性的な相対的証拠比重を推定することに依っている。(CP 2.759; see also Collected Papers of Charles Sanders Peirce, 7.114–120).

 

定量的漸次帰納Quantitative Gradual Inductionは公正なサンプルでのSの出現の頻度に依っている、ここで Sの予測のためにPが実効的に伴うことによって見いだされる(CP 2.758)。それは測定、もしくは統計、もしくは数え上げに依るものである。

iii.感性的帰納Sentential Induction。「それは、帰納的事由によって、感性的な帰納としては異なる暫定性が望見appraiseされる、そこで、それらを勘案して、これらの望見appraisalsから自己的望見self-appraisalを作り、そして全体結果としての判断をきめるような…」帰納である。

 

 

デカルト主義に対して Against Cartesianism

 

Peirceは四つの不可能性four incapacitiesでの方法論的な示唆methodological implicationsを与えたのである― 

それ自体本質的な内観はありえないno genuine introspection、

推論を経ない洞察はありえないno intuition in the sense of non-inferential cognition,

記号を使わない思考のありえないことno thought but in signs, そして

抽象的認知のない概念のありえないことno conception of the absolutely incognizable—彼は挑戦することを目的として哲学的なデカルト主義をつぎのものであるとした;[126]  

 

1.「それが教えるのは宇宙すべて疑いから始めるなければならない」ということ―

われわれは、代わりに先行概念preconceptionsをもってはじまるが、「われわれにとっては起きることがない偏見prejudices [...]を設問とすることができる」、あとでそれらへの設問への理由をみつけるかもしれないにも関わらずである。 われわれはこころで疑ってもいないものを哲学において疑った振りをしないようにしよう。

2.「それはつぎのことを教えるとき、すなわち確実性の究極的試験は…個人の意識のなかにある」―科学ではある理論は合意に達するまで仮承認としてそこに留まるので実際的な懐疑者を残さない。個人単独ではだれも哲学的な多世代間の夢を満たすことを望むことができない。「率直でかつ規律あるこころ」はある理論的案件に不合意が続いているとき、その理論の提唱者はそれについて疑念を感じるべきである。

 

3. それは「しばしば疑念をいだかない前提に依っている推論の一筋」に信頼する―

それに代わって哲学は「成功した科学のように、具体的にして、吟味した前提で、かつ単一の論議に対する信頼からのみで前に進めるべきでないこと。そのかわり、「多重にして多種の論理」へつながるものである、それは少なくとも虚弱なリンクレベルの鎖ではなく「繊維の束のケーブル」、さらに「細いながらも十分な数でかつ密接につながっている」ものである。

 

4.それは「‘神がそのように創られた ’ということが説明として見なされるのでなければ、絶対的に説明できない」ことをたくさんの事実に与えることになる。[127] ―そのかわり、哲学は「非観念的」[128]であることを避けるべきである、これは事実的なものの可能な観念をすべて劣化させ、そして不可避的に「なにか絶対的に説明できないもの、非分析的な究極」を想定させるのである、これらの説明的まとめは何も説明する内容をもたず、そして受け入れられないものである。

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