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朝日記240705  (その1) 1.生い立ち 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

2024-07-05 09:36:02 | 絵画と哲学

朝日記240705  (その1) 1.生い立ち 「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

朝日記240705  (総表紙・目次)「翻訳チャールズ・サンダース・パース」

―本文―

 

1.生い立ち Bibliogaraphy

早期での人生 Early life

 

Peirceの生誕地は、いまのLesley Universityの人文科学大学院があるキャンパスのなかである。 Peirceは Cambridge, Massachusettsの3Phillips Placeに生まれた。彼の両親、母はSarah Hunt Mills と父はBenjamin Peirceであり、父はHarvard Universityで数学と天文学 astronomyの教授であった。[a] 

 

Charlesは12歳のときにRichard Whatelyの論理の要素Elements of Logic、これは当時このテーマでの英語での代表的テキストであった。それが論理と理性的なものに生涯魅せられることになる。[14] 十代の後期から以降、彼は神経状態の問題を患ったのであった、当時「顔面神経痛」とよばれ、今日では「三叉神経痛」trigeminal neuralgiaと診断されるものであったであろう。

彼の伝記作者である Joseph Brent は、苦痛のなかにあるときは、「彼はまず、ほとんど馬鹿になって、そして攻撃的になって、風邪ひき状態になって、落ち込み、極度に疑いぶかくなって、目の前にちらちらするものにいらだった、そして激しい癇癪を起した」という[15]。 そのことは彼の後の人生を社会的孤立にしてしまったのかもしれない。

 

教育 Education

 

Peirceは芸術学士と芸術修士を取得するためにHarvardに行った。  年に  校が化学学士とHarvardの最初の summa cum laude chemistry 学位を修得した。[16]かれの学術記録はほかに際立つものがなかった。

Harvardでは、つぎの人たちとの生涯の交友の始まりであった; Francis Ellingwood AbbotChauncey Wright, and William James.[18] 

彼のHarvardでの指導教師のひとりは Charles William Eliotであったが、彼はPeirceについての好ましからざる見解を形成することになった。これは運命的であったのは、EliotがHarvardの学長である期間1869–1909がPeirceの活躍期間のほとんど重なっていたからであり、該大学でのPeirceの採用は何度も拒否される結果となった。[19]

 

合衆国沿岸測量 United States Coast Survey

Peirce in 1859

1859 から1891の間、Peirceは途切れながらも合衆国沿岸測量がもつ多岐の科学部門に採用されたのであった、これは1878年に United States Coast and Geodetic Survey,[20] と名称があらたになった部門である、ここで彼は彼の隠然たる影響力からの保護を結果的には享受したのであった、それはその父の 1880.[21]の死をもって終わる。この部局では、彼はおもに測地学geodesy と重力測定gravimetryの分野において 振り子 を使って地球の重力性における局所的な変動を決定するものであり、振り子pendulumsの使用取り扱いの上の向上を目指すものであった。 

 

 

南北戦争 American Civil War

 

この雇用はPeirceをして南北戦争 American Civil Warへの任務をになう義務から免除した;このことはこれをして彼の立場をきわめて不自然な位置awkwardにすることになった、丁度、南部 Confederacy.[22]に対して同情的な ボストン・バラモン階級Boston Brahmin のエリートとしてになる。 

 Peirce家のだれも戦争ボランティアや、登録することはなかった。 Peirceは白人優位は所与のものであり、奴隷制は自然であるとする家系に育ったのであった。[23]

Peirceの父は分級主義secessionistとして自身を記述した、その戦争が起きるまでそうであったが、勃発後は北軍Union に味方し、北部の戦争事前を先導する衛生関与Sanitary Commissionに献金したのであった。

Peirceは論理の伝統的形式が非現実的である例示としてつぎの三段論法syllogism 野礼二を好んだ(第一前提にすでに議論になるべき結論を仮定しているassumes the conclusion):[24]);

すべてのひとは政治的権利において平等である。

黒人はひとである。

したがって、黒人は白人の政治的権利において平等である。

 

 

欧州への旅行 Travels to Europe

 

彼は1867年1月に 米国人文科学学術院American Academy of Arts and Sciences  の専任研究員に選出されたのであった。[25]

調査団は

五回にわたり欧州に彼を派遣した。まず 1871年に日蝕solar eclipseの観測にグループの一員として送られた。そこでは、 Augustus De Morgan,  William Stanley Jevons, および William Kingdon Clifford,[27] に巡り合ったことになる。かれらは英国の数学者であり、かつ論理学者であり、その思考方式が彼自身のものと近いものであった。

 

 

ハーバード大学天文台 Harvard observatory

 

1869 から1872年に彼はハーバード大学天文学観測所の助士として雇用された、その主要な業務は星f starsの光度と銀河系Milky Way.[28]の形状の決定に関する重要な任務であった。 

  1872年に、かれは 形而上学クラブ Metaphysical Clubを設立した、これは会話論議的哲学クラブであり、ここにはPeirceはじめ、未来の最高裁判所判事Supreme Court Justice  Oliver Wendell Holmes Jr.、哲学者にして心理学者 William Jamesがおり、これらはJanuary 1872年1月、 Cambridge, Massachusettsにて設立、December 1872年12月に解散している。

このクラブの他のメンバーは Chauncey Wright,  John Fiske,  Francis Ellingwood Abbot,  Nicholas St. John Green, およびJoseph Bangs Warner.[29] ここでの検討議論はPeirceのプラグマティズムの観念を実質的に生むことになった。

 

国立科学アカデミー  National Academy of Sciences

 

Peirceの球を正方形への射影法は赤道上の孤立した4点を除いて角度を真に保つkeeps angles true ことができる、そしてこれは  Mercator projection よりも少ない尺度変化scale variationを持つものである。これは  tessellatedすることに成り;すなわち辺と辺とを連続的につなぎわせることで済むのでコピーをつくりやすい利点をもっている。

 

 1877年 4月20日に、彼は  National Academy of Sciences.[31]の一員として選ばれた。 1877年には、彼はメートル尺を測るに然るべき周波数の光の波長の大きさをつかうことを提案して、この定義の系統は from 1960 to 1983の間採用されている。

 

 1879年にPeirceは  Peirce quincuncial projection を開発した、これは H. A. Schwarzの 1869 conformal transformation of a circle onto a polygon of n sides によって啓発されたものであった( Schwarz–Christoffel mapping として知られている)。

 

 

 

1880 年から1891 年まで 1880 to 1891

 

1880年代は、Peirceの官吏の経験での詳細は顕著ではなくその質そして納期においても光彩を放たなかった。

Peirceは数か月で完了すべき報告書の作業に年単位の時間を費やした。[according to whom?] 

その間彼は百科事典 Century Dictionary.[33]の項目執筆をした、それは1883–1909にわたり、哲学、論理学、科学、そして他の項目、究極的には数千項目に達した。

1885年に Allison Commissionの調査でPeirceを無罪としたが、監督Julius Hilgard と他の幾人かの沿岸測定要員に対して公的資金の不適使用の件をもって罷免へとつながった。

1891年にPeirceは 監督Thomas Corwin Mendenhallの要求によって沿岸測定から回顧されたのである。[35]

 

 

ジョンホプキンス大学 Johns Hopkins University

 

1879年にPeirceは Johns Hopkins Universityでの論理学の講師として採用された、この大学は当時哲学 (Royce and Dewey がHopinsでPhDを終わっていた)や心理学(G. Stanley Hall が教鞭を取っており、 Joseph Jastrowが研究にあった、後者は後にPeirceとの記念碑的経験研究の共同著者となる)そして数学(  J. J. Sylvesterはそこで教鞭をとっていた、彼は数学と論理学でのPeirceの研究業績についてすでに賞賛していたのであった)のようなかれが興味をもつような分野でつよい部門をもっていた。 

彼のStudies in Logic by Members of the Johns Hopkins University (1883)には彼自身と Allan MarquandChristine LaddBenjamin Ives Gilman, とOscar Howard Mitchell,[36] による研究成果が含まれている、そのうちの幾人かは当時彼の大学院学生であった。[7] PeirceのHopkinsでのこの非専従地位こそは彼が得た唯一の学術世界での獲得したものである。

 

BrentはPeirceが決して疑われることのない何かについての記述を残す、それは彼の学術界での採用、地位、そして科学的尊敬性についてはその時代の力あるカナダ⁻アメリカ人科学者の表にあらわれない反対によって妨害をうけた、その名はSimon Newcombであった。[37] 

NewcombはPeirceの父がお気に入りの学生であった;「疑いなく輝いた才能」であり、「あの映画Peter Shaffer's Amadeus での Salieri の彷彿するそれであった、Newcombもまた自らが天才ではないことを知悉する才能は十分にもち、そしてそれを有する誰かを 憎む狭量性をも十分備えていた」

加えて、「つよい信仰心と文字通りの厳格な道徳基準のキリスト者」であったことから彼がPeirceのその個人的欠点にこだわったことによって道が閉ざされた」.[39] それに対して、Keith Devlin はPeirceの業績が彼の時代をはるかに先のものであったのでその時代での学術的世界から評価をうけることはなく、そしてそれが彼の この世界での定席を獲得することの障害となってしまっていたと確信したのであった。[40]

 

個人の生活 Personal life

Juliette and Charles by a well at their home Arisbe in 1907

井戸端にて、ジュリエッタとチャールズ、かれらのホームのあるアリスビ

 

Peirceの個人生活は疑うことなく彼の職業的成功に不利に作用した。彼の最初の妻  Harriet Melusina Fay ("Zina"), は 1907年 に彼のもとを去った。[41] 

Peirceは、法的には結婚のまま、1883年に he married Juliette.[45] と深い関係になった、彼女の姓はFroissy  およびPourtalai,[42]として様々にあり、そして国籍的には確かではない(彼女はフランス語を話した)[43] 

彼の  との離婚は 1883年に最終的に成り、彼は Juliette.と結婚した。[45] その年、NewcombがJohns Hopkins trustee財団の理事にそのことを指摘したのであった、一方Johns Hopkinsの職員がある女性と旅行した、その女性とは彼は結婚していなかった;必然的にスキャンダルが 1884年1月.[46]  彼の解雇へとつながったのであった。 

その後においては、Peirceは様々な大学での学術的身分雇用を求めたが、成功することはなかったのである。[47] 彼にはいずれの結婚によっても子供は恵まれなかったのである。

 

後の生活と窮乏 Later life and poverty

Arisbe in 2011

Charles とJuliette Peirceの墓石 grave

 

 

 1887年にPeirceは彼の両親からの遺産の一部の Milford, Pennsylvaniaの田園地 2,000 acres (8 km2)に暮らした、これからは経済的な資を得ることはなかった。[49]

  に彼の設計で農家邸を改装した。[50] Peirceはそこを「Arisbe」と命名した。そこに彼らはほとんど中断することなくかれらの生涯を過ごしたのであった。[51] 

Charlesは彼の晩年の二十年は冬の暖、およびその地のパン屋が提供してくれる固くなったパンを買う余裕に窮していた。

文房具にも事欠き、彼は書き古した原稿の裏 verso sideに執筆した。

暴力沙汰や不払い債務からおきる令状は彼をしてNewYork市にしばらく逃亡せざるをえないこともあった。[53] 

幾人かのひとびと、彼の兄弟である r James Mills Peirce[54] 、そして  Gifford Pinchotの彼の隣人、親戚がPeirce の借財を清算し、そして税や抵当権を払ってくれた。[55]

Peirceはいくつかの科学と工学コンサルタントをしそして沢山の書きものをのこしている、これは貧しい収入であった。主に The Nation (この編集者はWendell Phillips Garrison であり、彼は友誼に篤かった)のための百科事典の項目書きとレビューであった。

彼は  Smithsonian Institution のための翻訳に携わった、これは監督 Samuel Langley の配慮であり、Peirceは Langleyの研究である動力飛行に関する実質的数学計算であった。

 

金策のためPeirceは発明に試行した。[56]

彼はいくつかの著述を試みたが完成しなかった。[57]  1888年に Grover Cleveland 大統領は彼を 試験委託者 Assay Commission.[58]に指名した。

 1890年に彼はChicagoのJudge Francis C. Russell にひとりの友人と称揚者を得たのであった、このひとはPeirceを Paul Carus と Edward C. Hegelerに紹介した。このひとたちは新分野開拓となる米国哲学誌 The Monistのそれぞれ編集および所有者であった、ここに実際にPeirceは14報文を投稿している。[60]

彼は 哲学と心理学事典James Mark Baldwin's Dictionary of Philosophy and Psychology (1901–1905) に沢山の項目テキストを書いた;彼に宛てられてそれらの半分は実際には彼への発注監督者である  Christine Ladd-Franklin であったことが判明している。

 

彼は 1902年に新設された Carnegie Institution  にグラントを応募した、彼の生涯の仕事を記述する系統的著述を仕上げるためであった。その応募は闇に葬られた;彼の仇敵  であり Carnegie Institution の理事会のメンバーであり、そしてその理事長はPeirceがJohns Hopkinsを解雇されたとき以来の該大学の理事長でもあった。 

Peirceがこのような絶望的な時機にたすけるための尽くしたのは彼の旧友である Will to Believe (1897) であった、彼の (1898 and 1903).[63] をPeirceに捧げ、かつPeirceが収入を得るべくHarvardにて、そしてその近傍にて講義コースシリーズを二つを提供したのであった。 

もっとも重要なことは 1907 から毎年、Jamesが逝去する 1910 まで、Jamesはボストンの知識層である友人たちにPeirceのための資金援助を要請してきたのであった;その資金はJamesが死去したのちも継続されたのであった。 

PeirceはJamesの長男を彼の遺産相続として繰り返し記した、それはJukietta PeirceがPeirce自身よりも早逝した場合を条件としていた。[64] それは次の点でも表れていた、彼はそのミドルネームに(英語で"St. James"を意味する)"Santiago"を使っていたからである、しかし1890年の初期での印字ではCharles Santiago Peirceとして使っている。さらなる詳細についてはCharles Santiago Sanders Peirce をみよ)

 

 

逝去と遺産 Death and legacy

 

Peirceは  Milford, Pennsylvaniaにおいて貧しく死んだ、彼の未亡人が20年彼の骨壺を Arisbeに身元に置いた。

  に、ペンシルバニア知事  Gifford Pinchot はJuliettaのためにMilford共同墓地へのアレンジをし、Peirceの遺灰のもとにJuliettaを埋葬したのであった。[65]

Bertrand Russell (1959)は、「疑いをこえて彼は19世紀後半のもっともオリジナルな精神のひとりであったしそして確実にアメリカの思想家の最大偉大なるももであった」と書く。[66] RussellとWhiteheadの数学原理 Principia Mathematica, は1910 年から 1913年の出版であったが、Peirceについては何ら触れることがなかった(Peirceの業績はさらに後まで広くはしられていない)。[67]  

  1. N. Whiteheadは、1924年にHarvardに着いたすぐにPeirceの未公開原稿のいくつかを読んでいる一方で、衝撃をうけた、それはPeirceが如何に彼自身の "process" thinking. を予測していたかを知ったからであった。(Peirceとプロセス形而上学process metaphysicsについて、 Lowe 1964.をみよ)[28]

 

Karl Popper はPeirceは時代をこえてのもっとも偉大なる哲学者のひとりとして評価した。

それでもなおPeirceが達成したものは直ちには調べられていない。かれの同時代の  は彼を賞賛しているし、そして William James と Josiah Royce[69]も、そして  Columbia大学の Cassius Jackson Keyserそして C. K. OgdenもPeirceについて敬意をもち、なおその影響についてはかり知れないと記している。 

Peirceについて最初に専門分野に対して注意を喚起させた学者は Royceの学生であったMorris Raphael Cohen  であった、かれはPeirceの著述の集積Chance, Love, and Logic (1923)  編集者であり、Peirceの逸散している著述資料の最初の編成の著者であった。[70]

John DeweyはJohns Hopkins.[7]でのPeirceの学生であった。1916年以降、Deweyの著述には尊敬をもってPeirceを繰り返し称揚した。

1938年の彼の Logic: The Theory of Inquiry が多くPeirceに影響を受けている。[71]  Collected Papers (1931–1935)の初版の六つの巻はPeirceのもとでの研究時代へのもっとも重要な業績であった、そしてCohenは必要なファンドを起こすことを可能にせしめた。[72] ;しかしながらそれはつぎの段階への出発をうながすことにはならなかった。

 これらの巻の監修者であったCharles Hartshorne and Paul WeissはPeirceの専門家ではなかった。

二次的文献の初期の成果となったのはBuchler (1939), Feibleman (1946), and Goudge (1950),  Arthur W. Burks の1941PhD論文(彼が巻7と8を編纂した),そしてWienerとYoung(1952)によって編纂された研究であった。

 

 

 Charles S. Peirce Society が 1946年に設立された。ここでは季刊の学術的報文集として1965年以降のPeirceのプラグマティズムと米国哲学の報文が掲載されている[73] (See Phillips 2014, 62 for discussion of Peirce and Dewey relative to transactionalism.)

1943年までにPeirceへの評価は、少なくとも米国においては次のようなものである、 Webster's Biographical Dictionary の記述において、Peirceは「彼の時代でのもっともオリジナルな思想家でありそしてもっとも偉大なる論理学者であるとみなす」ものである。[74]

1949年に、数学史家である Carolyn Eisele (1902–2000) は、歴史資料の調査のなかで偶然にPeirceによる自叙伝的書簡に遭遇した。彼女は以降 四十年に亘る Peirce研究がはじまり、ついに彼女をして彼を「数学者ならびに科学者」の最高峰の位置Eisele (1976, 1979, 1985)に至らしめた。 

1960年代にはじまり、哲学者と歴史家のPeirceに関する権威ある研究が現われ、特に historian of ideas Max Fisch (1900–1995)が顕著である。(Fisch, 1986).[75]  

MaxFischはそこに1983年の彼のPeirceの思想の真迫性impactについて質の高い相当数の調査報文をそこに収めている。

Peirceは国際的な追従者を増やしていった、大学の研究センターが顕著でありPeirce研究とプラグマティズムpragmatism への貢献である、それは、ブラジル (CeneP/CIEP) 、フィンランド (CeneP/CIEP) 、ドイツ (Wirth's groupHoffman's and Otte's group, および Deuser's と Härle's グループ[76]) 、フランス (L'I.R.S.C.E.), 、スペイン (GEP) そしてイタリア (CSP). である。 

 

彼の著述はいくつかの国への翻訳が行われてきており、それはドイツ、フランス、フィンランド、スペイン、そしてスウェーデンである。1850年以降はフランス、イタリー、英国、そしてブラジルの学者たちの注目が続いている。

長い年月、北米の哲学部門でPerceへもっとも貢献してきたのはトロント大学 University of Torontoであり、特にThomas Goudge and David Savanの指導力に負うところおおい。

近年では、米国でのPeirce学者はIndiana University – Purdue University Indianapolis, さらにPennsylvania State Universityに集合しており、これらがPeirceの研究再編基点を形成している。

現今では学術的哲学の分野の以外の研究者がPeirceの理念に大きな関心がおかれている。

この関心は産業、技術、情報機関、そして軍;そして相当数の機関、研究所、企業、そして研究機関においてであり、そこではさらにPeirce概念の厳密化への展開へと研究の進展がおこなわれている— Robert Burch2001年から 2010年(updated )[20]

近年では、Peirceの記号に関する三分法trichotomy はマーケッティングや設計分野でさらなる利用法に目が向けられている。

John DeelyはPeirceは モダニズムthe "moderns" の最後、そしてポストモダニズムの最初"first of the postmoderns"ち書く。彼は、Peirceの記号doctrine of signsに関する宣言はポストモダニズム時代の黎明への貢献として評価した。 

Deelyはさらに、「Peirceは Augustineを以ってカトリック世界の聖師父the Western Fathersの最後、そして中世の始めthe medievalsとするのと類似的な位置付けとして立つ」と付言している。[77] 

 

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