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Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

朝日記161119 多摩川沿いの想い出と今日の絵

2016-11-18 23:15:09 | 自分史

 朝日記161119 多摩川沿いの想い出と今日の絵

 哲人の友人青木一三氏(注1)から、お仲間たちとのExcursionで、 多摩川は下流の六郷川地点から 稲田登戸までのの様子を随筆形式で伝えてきました。 ところで、私は川崎生まれで、その地にて育ったので、かれの紀行の世界に引き込まれてしまいました。 以下は、それを読みながら、勝手に自分の世界に入ってしまいました。 

以下、朝日記として綴ります。

絵は3点です(鵜木から川崎を望む)(丸子橋を望む)(水辺のイメージ)

徒然こと 多摩川沿いの想い出

わたくしの先祖さまに、ついては相変わらず中途半端な知識です。

かれらは、江戸の中期あたりに関西からの開拓団で川崎渡田郷に移住してきたようです。

田辺新田とか小島新田の地名がいまの工業地帯ができるまえから

ありました。鶴見区史をみると荒井新田というのもあったようで

親子二代で新田を造成しましたが、結局台風で流されて

現在はありません。川崎の渡田小田から鶴見区潮田にかけてひとつの

文化圏であったようです。このあたりは荒井、旗、田辺、、並木、小島など

の姓が多い。九大の化学工学に荒井康彦という先生がいて

私の名前と一字違いなので、興味があって福岡の学会でお会いしたら潮田の出でした。

後に東北大に移ったかもしれません。

因みに祖母は潮田の旧家の出でした。吉澤忠兵衛という本家の

なまえを良く耳にしていました。

六郷川はなつかしいです。小学校6年のころ、禁止されているのに

仲間と水浴をしてあとで学校で立たされた記憶があります。

中学校で隣の席にならんでいた友人が、丸子橋にある関西ペイントの

社宅に住んでいて、夏休みに自転車でひょいと会いにいったり

しました。 大仏というあだ名で、事実鎌倉の大仏を彷彿させる

おだやかな顔をしていました。尾山台高校から慶応に進んで

三井物産あたりまでは風の便りで知っていましたが消息は

いまは失せています。

(鵜木から川崎を望む)

矢口の渡しには昭和電工の中央研究所がありました。

研究支援でよく行きました。帰りに蒲田あたりで

呑みました。飲み屋の柱一本くらいはおれが払った分だと

すごめかしていた奴がいたなあと思いだします。

二子新地に近いところに会社の社宅があって

家の建て替えの仮住まいで数か月住んだことがあります。

当時で、すでにふるく西洋式トイレの使い方が

貼ってありました。小津安二郎の「おはよう」で

笠知衆や三宅邦子、佐田啓二、久我良子などの顔をおもいだします。

昭和三十年代であったろうとおもいます。

(丸子橋を望む)

結婚したのが昭和四十二年で、住まいは宿河原の近く

向ヶ丘遊園の裏門近くでした。いまは絵描きの末弟が

住んでいます。当時はほんとにいなかで、週末の夕べにトヨタパブリカで

王禅寺まで蛍などを見にきました。

勤めは、川崎工場で、エピクロール・ヒドリン建設に

従事していましたが、機械の新米ででよくわからずでしたが

フォートランで熱交換器の設計プログラムを作ったことで

以降、自分の筋道が決まったようです。

アメリカにはプロセス工学でウィスコンシン大学の化学工学

に進みました。移動現象論で有名なバイロン・バードや

ワーレン・スチュワートなどがいました。

私は、リチャード・ヒューズというシェルからきた

プロセスモデリングの先生につきました。MITと

音楽大学声楽を同時に学生の籍を置いたひとで

オペラ歌手でも結構有名だったようです。

すげえ響く声で、後に日本に立ち寄られ家におよびした。

このときにブラームスの歌曲を歌ってもらいましたが

ガラスまどがびーっと振動しました。

そう、ウィスコンシンへは、私の学部での成績がよくなかってので、京大の水科篤郎先生のご紹介で入学ができました。

米谷尚武さん、千代田化工のひとでしたが、かれも

入学許可をとるのに苦労されたようで、

そのころよく交信していましたが、いつしか

年賀状だけになり、いまは途絶えています。

退役されて、山形大学の産学リエゾンのお仕事をされたかなあと

思っています。

多摩川から大分それました。

これも中学生のときか、泉多摩川まで小学校の

恩師が散歩につれてくれて友達と河辺で遊んだこと、

そのとき映画の撮影で杉葉子さん、そうです、名前を思い出しました。

きれいな女優さんをまぶしく見た記憶があります。

 

他人の紀行文の地図と写真を見比べながら記憶がたどり、楽しませていただきました。

締りのわるい文ですみません。

(注1)ご参考まで 哲人青木一三さんの多摩川紀行は以下です。

http://www.asahi-net.or.jp/~pu4i-aok/walking5/tamagawa/tamagawa4.htm

 

 

青木一三さんの多摩川紀行のページに川崎大師の項がありますので以下に添付します。ここで この朝日記を紹介しています。 いわば古い時代に定着した川崎の’土人’ですね。

 

http://www.asahi-net.or.jp/~pu4i-aok/walking5/tamagawa/kawasakidaishi.htm

 

~~~以下 読者とのコメント交流です~~~

ぬくぬく

Unknown ( 哲人AI氏からの返事2016.11.18 )
2016-11-19 10:43:38
荒井さん、
いやー! 荒井一族のルーツ、大変興味深く読ませていただきました。江戸の中期あたりに関西から開拓団として川崎渡田郷に移住したとか、歴史ですね。今の渡田町あたりでしょうね。
神田の鎌倉河岸(いまの三菱総研)で産声を上げた千代田化工は赤坂、そして鶴見に都落ちしましたが、荒井さんは逆のコースのようです。
九大の化学工学に荒井康彦という先生は東北大の私の後輩です。私の恩師が決めた人事のようです。なぜ出したのかというぶしつけな私の質問に先生方はひっくり返ってごまかしていました。
米谷尚武さんは私は覚えていません。実は今日は88才になる東京工大出の会社の先輩のお祝いに小松さんなどと一緒に横浜で飲みましたが、話題はでませんでした。いまの千代田化工の設計部はインド人やフィリピン人が大勢いるようです。
トランプがなんと言おうとグローバリゼーションは止まらないんでしょうね。
弟さんが本職の絵描きさんとか。なるほど、才能は遺伝するというのは本当ですね。

AI

 
Unknown (美智子)
2024-05-26 21:31:47
arai yasumasa 様
初めてコメントさせて頂きます。
今年3月18日に鶴見区潮田町の吉澤本家を訪問した者です。
辿ればarai様と私は先祖がつながっているように思います。明治末から大正、昭和にかけて二十一代忠兵衛をめぐる先祖のことを調べております。祖母が吉澤の出であることは取り寄せた謄本で判明しています。100年も昔のこと故、先祖を知る人も少なく、なにかご存じのことがございましたらお話を伺うことはできませんでしょうか。ちなみに二十二代は存命で横浜商科大学の創設者であると思われます。
宜しくお願い致します。
荒井康全
  吉澤忠兵衛さんのこと (美智子様への返信)
2024-05-30 09:53:09
美智子様 貴重なお話をいただき驚いております。戦後派という仏語で、アプレゲールということばが当時風靡しましたが、だいたい自分中心で自分のいで立ちこそ碌々、斜め見て気がつけば、この世にある時間の残りすくなさにやや困惑している輩です。吉澤本家についてお調べになったのですね。いろいろお教えください。私の実家は川崎市の田島地区で小田というところで、当時工業都市化は進んではいましたが、干拓地の田園地帯の余韻のあるところでありました。祖母の実家は潮田の吉澤の分家でした。コミュニティとしては小田も潮田も隣りあっていて、文化的にはつながっていたと思います。夏のまつりによく潮田の親戚にいきました。すぐそばに大聖寺(?)という佛寺と昵懇であったらしく、そこの和尚さんのてるやかな相貌を記憶しています。祖母や叔母と潮田神社でどうか日本が勝ちますよう祈念をしたこと、ぼくを陸軍大将にしてくださいとお願いしたことを祖母たちにそっとはなし、あたまをなでられたことを記憶しています。吉澤忠兵衛さんは戦後、横浜市の公安委員長かなにかをなさっておったようです。私の父が富士電機の潜水艦の主モーターの組み立ての責任者でしたが、気がつけば戦後怒涛のような労働運動で組合の指導者になってしまい、川崎市議会議員として二期ほど議席をおいたこと。吉澤さんは保守の自由党系でしたので、自然に疎遠になっていたようで、そういう感性は子供であるわたくしにも残っていていました。母は選挙のための資金つくりのために、饅頭をたくさん焼いては闇市で売っていました。ときに地回りに脅されても、弱い者いじめをしなさんなと毅然としていたことが印象的です。いままで威張っていたひとがへこんで、まずしくも青雲のこころざしの若者たち、復員の人たちの意気があがって、なにか新しい時代の息吹を感じ取れる時代であったようにおもいます。信仰や学問の大切さの洗礼を受けたようです。話が混交していますが、吉澤本家のお話しに興味を素朴に持ちます。よろしくお教えください。朝日記を見てくださりありがとうございます。 Thanks.

Unknown (美智子)2024-05-31 15:41:31

ご返信を頂きまして誠にありがとうございます。
大変濃い内容のお話を何度も繰り返し読ませて頂くごとに気付きがありました。本当に何からお話すればよいかと思いを巡らせております。文字数に限りがあるかもしれませんので、コメント1から進めさせていただこうと思います。どうぞよろしくお付き合いの程お願い申し上げます。

〇大聖寺の檀家総代は吉澤本家です。
忠兵衛氏の夫人80代?もご存命で、私の突然の訪問に驚かれたようですが色々教えて頂きました。「寺の今の和尚は若くてどこまで昔のことを知っているかしらねぇ。訪ねてみては?」「先代忠兵衛は海苔を売っていたのよ。潮田も大森海岸までずっと吉澤の土地だったのよ」と仰天発言がありました。後に調べてみると確かに古い記録に、<吉澤忠兵衛及び吉澤利助 乾海苔仲買商>と記載がありました。(以降、海苔屋の忠兵衛さんと呼びますね。22代は商科大学の忠兵衛さん、です。)代々襲名している名前ですが、実は海苔屋は祖父で大学は孫です。つまり海苔屋の息子は忠兵衛を襲名していないのです。二代に渡っての忠兵衛さんは、潮田町と鶴見区の合併に尽力し、神奈川県議会の副議長まで務め、神奈川県の高額納税者としての記録もありました。そして吉澤学園を商科大学にまで育てました。忠兵衛さんの写真も残っています。どちらかというと横井庄一さんを上品にして眉毛を太くしたような顔立ちです。笑

〇実家は川崎市の田島地区で小田というところ について
利助(海苔屋)は引退後に亡くなるまで川崎市にいました。グーグルマップで再度みたところ、私が利助の住所をマップで探したあたりのように思えます。利助という名を聞いたことはありませんか?利助は吉澤トメ(私の祖母M32生まれ)の父親です。鶴見区役所から除籍謄本を取り寄せた際、祖母トメまでは謄本が残っていましたが、その上は空襲で焼失していました。海苔屋の弟が利助であるのか、他の分家にあたるのかは今のところ分かりません。もし川崎市役所が戦災にあっていなければ、古い除籍謄本が残っている可能性もありますね。

長文お読み下さいましてありがとうございました。また少しずつコメントさせてください。

ななめにするとみえるか

 (水辺のイメージ)


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4 コメント

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Unknown ( 哲人AI氏からの返事2016.11.18 )
2016-11-19 10:43:38
荒井さん、

いやー! 荒井一族のルーツ、大変興味深く読ませていただきました。江戸の中期あたりに関西から開拓団として川崎渡田郷に移住したとか、歴史ですね。今の渡田町あたりでしょうね。

神田の鎌倉河岸(いまの三菱総研)で産声を上げた千代田化工は赤坂、そして鶴見に都落ちしましたが、荒井さんは逆のコースのようです。

九大の化学工学に荒井康彦という先生は東北大の私の後輩です。私の恩師が決めた人事のようです。なぜ出したのかというぶしつけな私の質問に先生方はひっくり返ってごまかしていました。

米谷尚武さんは私は覚えていません。実は今日は88才になる東京工大出の会社の先輩のお祝いに小松さんなどと一緒に横浜で飲みましたが、話題はでませんでした。いまの千代田化工の設計部はインド人やフィリピン人が大勢いるようです。

トランプがなんと言おうとグローバリゼーションは止まらないんでしょうね。

弟さんが本職の絵描きさんとか。なるほど、才能は遺伝するというのは本当ですね。

AI

返信する
Unknown (美智子)
2024-05-26 21:31:47
arai yasumasa 様
初めてコメントさせて頂きます。

今年3月18日に鶴見区潮田町の吉澤本家を訪問した者です。
辿ればarai様と私は先祖がつながっているように思います。明治末から大正、昭和にかけて二十一代忠兵衛をめぐる先祖のことを調べております。祖母が吉澤の出であることは取り寄せた謄本で判明しています。100年も昔のこと故、先祖を知る人も少なく、なにかご存じのことがございましたらお話を伺うことはできませんでしょうか。ちなみに二十二代は存命で横浜商科大学の創設者であると思われます。
宜しくお願い致します。
返信する
吉澤忠兵衛さんのこと (美智子様への返信)
2024-05-30 09:53:09
美智子様 貴重なお話をいただき驚いております。戦後派という仏語で、アプレゲールということばが当時風靡しましたが、だいたい自分中心で自分のいで立ちこそ碌々、斜め見て気がつけば、この世にある時間の残りすくなさにやや困惑している輩です。吉澤本家についてお調べになったのですね。いろいろお教えください。私の実家は川崎市の田島地区で小田というところで、当時工業都市化は進んではいましたが、干拓地の田園地帯の余韻のあるところでありました。祖母の実家は潮田の吉澤の分家でした。コミュニティとしては小田も潮田も隣りあっていて、文化的にはつながっていたと思います。夏のまつりによく潮田の親戚にいきました。すぐそばに大聖寺(?)という佛寺と昵懇であったらしく、そこの和尚さんのてるやかな相貌を記憶しています。祖母や叔母と潮田神社でどうか日本が勝ちますよう祈念をしたこと、ぼくを陸軍大将にしてくださいとお願いしたことを祖母たちにそっとはなし、あたまをなでられたことを記憶しています。吉澤忠兵衛さんは戦後、横浜市の公安委員長かなにかをなさっておったようです。私の父が富士電機の潜水艦の主モーターの組み立ての責任者でしたが、気がつけば戦後怒涛のような労働運動で組合の指導者になってしまい、川崎市議会議員として二期ほど議席をおいたこと。吉澤さんは保守の自由党系でしたので、自然に疎遠になっていたようで、そういう感性は子供であるわたくしにも残っていていました。母は選挙のための資金つくりのために、饅頭をたくさん焼いては闇市で売っていました。ときに地回りに脅されても、弱い者いじめをしなさんなと毅然としていたことが印象的です。いままで威張っていたひとがへこんで、まずしくも青雲のこころざしの若者たち、復員の人たちの意気があがって、なにか新しい時代の息吹を感じ取れる時代であったようにおもいます。信仰や学問の大切さの洗礼を受けたようです。話が混交していますが、吉澤本家のお話しに興味を素朴に持ちます。よろしくお教えください。朝日記を見てくださりありがとうございます。 Thanks.
返信する
コメント1 (美智子)
2024-05-31 15:41:31
ご返信を頂きまして誠にありがとうございます。
大変濃い内容のお話を何度も繰り返し読ませて頂くごとに気付きがありました。本当に何からお話すればよいかと思いを巡らせております。文字数に限りがあるかもしれませんので、コメント1から進めさせていただこうと思います。どうぞよろしくお付き合いの程お願い申し上げます。

〇大聖寺の檀家総代は吉澤本家です。
忠兵衛氏の夫人80代?もご存命で、私の突然の訪問に驚かれたようですが色々教えて頂きました。「寺の今の和尚は若くてどこまで昔のことを知っているかしらねぇ。訪ねてみては?」「先代忠兵衛は海苔を売っていたのよ。潮田も大森海岸までずっと吉澤の土地だったのよ」と仰天発言がありました。後に調べてみると確かに古い記録に、<吉澤忠兵衛及び吉澤利助 乾海苔仲買商>と記載がありました。(以降、海苔屋の忠兵衛さんと呼びますね。22代は商科大学の忠兵衛さん、です。)代々襲名している名前ですが、実は海苔屋は祖父で大学は孫です。つまり海苔屋の息子は忠兵衛を襲名していないのです。二代に渡っての忠兵衛さんは、潮田町と鶴見区の合併に尽力し、神奈川県議会の副議長まで務め、神奈川県の高額納税者としての記録もありました。そして吉澤学園を商科大学にまで育てました。忠兵衛さんの写真も残っています。どちらかというと横井庄一さんを上品にして眉毛を太くしたような顔立ちです。笑

〇実家は川崎市の田島地区で小田というところ について
利助(海苔屋)は引退後に亡くなるまで川崎市にいました。グーグルマップで再度みたところ、私が利助の住所をマップで探したあたりのように思えます。利助という名を聞いたことはありませんか?利助は吉澤トメ(私の祖母M32生まれ)の父親です。鶴見区役所から除籍謄本を取り寄せた際、祖母トメまでは謄本が残っていましたが、その上は空襲で焼失していました。海苔屋の弟が利助であるのか、他の分家にあたるのかは今のところ分かりません。もし川崎市役所が戦災にあっていなければ、古い除籍謄本が残っている可能性もありますね。

長文お読み下さいましてありがとうございました。また少しずつコメントさせてください。
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