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朝日記2380622  その1 ケンタン マイアスー講義

2023-06-22 16:12:24 | 絵画と哲学

朝日記2380622  その1 ケンタン マイアスー講義

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朝日記230622 翻訳と解説ケンタン マイアスー講義Time without Becoming 2008,

 

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翻訳

(Quentin Meillassoux Lecture;) ケンタン マイアスー講義

Time without Becoming (Becomingをともなわない時間)

 

(Middlesex University, Londres, 8 mai 2008)

Middlesex University、ロンドン、2008年5月8日

和訳 Yasumasa Arai, Machida Tokyo  24 April 2023 (22 May 2023版)

 

私は最初に今回Middlesex Universityでのこの場で私の研究を講ずる機会を得たことにうれしく思う、そしてこのセミナーの主催者、とくにPeter HallwardとRay Brassierに謝意を表明するものである。

私はこの場で 私の著After Finitude,を基礎づけているものを説明しておきたい、特に、この本で私がとりあげたふたつの基礎的概念について:それは“correlationism”「相関性」の概念と“the principle of factiality”「事実化性の原理」の概念のことである。

 

  1. Correlationism 

相関主義

 

“correlationism”(相関主義)は私をして、いかなるrealism(リアリズム)に対しても同時代的なライバルとなる呼ばわしめるものである。 

correlationism(相関主義)はさまざまなcontemporary(同時代的)形式をもつが、特にtranscendental philosophy(超越論哲学)のそれであり、さまざまなphenomenology(現象論)およびpost-modernism(ポスト・モダニズム)がそれである。

しかし、これらすべてが、それら自身で非常な変化の過程にあり、私によれば大なり小なりexplicit decision(明示的な決定)を共有している:そこではnot always-already correlated with a point of view(ある特定の視点との恒常既成的相関ではなく)、with a

subjective access(主観的アクセスにおいて)で、no events(無‐事態), no laws(無-法則), no beings(無-存在)を状態であると考えるものである。

“correlationism”(相関主義)という術語を使って、“philosophies of access”(アクセスの哲学)の基本的論点をset out(きめ出し)をしたい、ここではGraham Harmanの表現などをつかうことにしよう-そして次の点にたつことにする-相関主義者は反リアリスト論争に例外的につよいこと、それは外見的には絶望的に頑固さえあるということなのである。 

この課題の争点はそれを拒否することの困難と同様程度に形式化として単純なものである; この論議は“argument from the circle”(「循環性からの論争」)とよぶことができ、そしてその論議の循環は相関主義に対するan objection(反対側)からのremarking(論点)となるのである。そしてそのan objection(反対)は諸君のthinking(思考)によってproduced(生み出された)ものであり、またそれにdependent(依っている)のである。

諸君がcorrelation(相関性)に抗して語るときは、諸君みずからは相関性に抗して語っていることを忘れる、ここでは諸君自身のmind, or culture, or epoch, etc(こころ、または文化、または時代、など)の視点から語られる。

The circle(この循環)は諸君が言ったことや考えたことに沿って、実際上の矛盾が引きだされたり、これによって諸君の言ったことや考えを取り下げたりするに至る循環の過程のなかで、このようなnaïve realism(素朴なリアリズム)からのa vicious circle(陰険な循環)が待ち伏せしていることを意味している。

 

Correlationism(相関主義)のふたつの主要な版があるとわたしは考える:ひとつはtranscendantal one,(超越論的のもの)であり、これはものごとのsubjective knowledge(主観主義的知識)のuniversal forms(普遍的形式)を要求する、

そしてもうひとつはthe post-modern one(ポストモダンのもの)であり、ここではこのようなsubjective universality(主観主義的普遍性)からくるすべてのexistence(存在性)も否定することを要求する。  

しかしその(相関主義)双方の場合においてもabsolute knowledge(絶対的知識)の否定である-ところで私が意味するのはknowledge of the thing in itself(そのもの自体の知識)であり、それへのわれわれのアクセスとは独立のものである。

Correlationists(相関主義者)にとっては、必然的に、the sentence(その文):“X is”(X がある) とは“X is the correlate of thinking”(X がthinking(思考)との相関のものである-)というデカルト的意味でのthinking(思考)を意味する: 

Xはなにか或るan affection(情動そのもの)、もしくはa perception(感知のもの)、もしくはa conception(概念そのもの)、もしくはany other subjective or intersubjective act(なにか他の主観的もしくは間主観的行為の相関のもの)なのである。

To be(あるということ)はto be a correlate(相関のものがある)ということとであり、これが術語a correlation(相関性)となる。

そして諸君がある特定のXを考えることをもとめるとき、諸君はこのXを自分のまえに置かなければならない。このposit(置く)という特定のact(行為)からXから目を離すことはできない。

 

これは、an absolute knowledge(絶対的知識)Xをconceive(知識化)することが不可能になる理由である、すなわち、Xというのはあるa subject(主観)からessentially separate(基本的に別のもの)としているのである。 

 

 

我々は、なにがreality(現実) [1]であるかをitself(それ自身)において知ることはできない、なぜならつぎのふたつのproperties(特性)との間の相違を区別つけることが出来ないからである、すなわち、方やthe object(その対象)に所属すると考えられるそれらのproperties(特性)であり、方やそのproperties(特性)がthe subjective access(主観的アクセス)に属していてその経路でthe object(その対象)へつながると考えられるものである。[2]      

もちろん具体的な相関主義では私のモデルよりけた違いに複雑であろうが:このモデルは反リアリズムの最小限の決定としておこう。 

私が意味するこの決定がどのようなことになるかについて特定の歴史哲学での詳細にはいまは立ち入らないことにしたい。

勿論、反リアリズムの現代的モデルとして考えられる相関主義と近代哲学での教条主義批判論の複雑な歴史との間での精密な関係を吟味するのはこれ自体がおおきなことであり、ここではこれ以上触れない。

“ 循環からの争点“というのはthe thing in itself(物自体)について、Kantのように、impossible to know(不可知)であることを意味するばかりでなく、the in itself (それ自身のうち)がradically unthinkable(完全には思考しえない)ことを意味するものである。

***

Kantは、諸君が知るようにthing in itself(物自体)を知ることは不可能であるが、かれはtheoretical reason理論理性(実践理性はここでは別にして)のためにthe in-itself(それ自身のなか)について、つぎの四つの決定にアクセスするthe capacity(収容能力)を附与した: 

 

一番目は、the thing in itself (ものそれ自身)はconsciousness(意識)の外側にeffectively exist(有効的に存在)している(phenomena(現象)がそこにあるだけではない);  

二番目は、我々は、それが我々のsensibility(感受性)にはたらきかけそして我々のなかでrepresentations(表象)をうみだすことを知っている(これが我々のsensibility(感受性)にとってpassive(受動的)で、finite(有限)で、そしてnot spontaneous(非自発性向であること)の理由である)

三番目は、the thing in itself(ものそれ自体)はnot contradictory(矛盾的ではない)-the principle of non-contradiction(無矛盾性の原理)はan absolute principle(絶対的な原理)であり、我々の意識にmerely relative(単なる相対的なもの)ではない;そしてそれは存続される。 

 

四番目は、我々はthe thing in itself (ものそれ自身)がspatiotemporal(空間時間的)ではありえないことを知って、それはspace and time(空間と時間)はsubjective sensibility(主観的感受性)の形式のでのみ可能であるからであり、そしてそれらはproperties of the in itself(それ自身のなかの特性)ではないからである;

換言すれば我々はthe thing in itself(ものそれ自身)が何であるか知らないのであり、しかし何ではないかは絶対的に知っているのである。

Kantによれば、私が知る限りでは、諸君が知るようにKantは事実、the thing in itself(ものそれ自体)については“loquacious”(多弁)であるが、さらに諸君が知るようにpost-Kantian speculation(ポスト-カント派の思弁)ではthe self(自己)の外側でのan in-itself(それ自身のなか)の可能性さえも否定することによってそのような要求は壊されたのである。 

 

しかしcontemporary correlationism(現代的相関主義)はa speculative idealism(思弁的観念主義)ではない:そこではin itself(それ自身のなか)が存在しないということを教条的には語らず、我々がそれについてなにものをも語れないということなのであり、しかもそれが存在することさえ語らず、それが何故かさえも語れない場合のものである。したがって正確には、“in-itself”(それ自身のなか)という術語はこれらの論述から消えてしまったのであった。

Thought(思考)はitself(それ自身)と相関されたa world(ひとつの世界)を扱わなければならないばかりでなく、そのような相関がそこにあるというinconceivable fact(知識化されていない事実)をあつかわねばならないのである。

thought-world correlation(思考‐世界相関性)があるということはsupreme enigma(超神秘的)であり、それは全く異なる状況の可能性さえ逆に与えるのである。 

The Tractatus Logico-Philosophicusはそのような論述の好例があり、それは“mystical”神秘的にして、そのなかで一致整合する世界があるという単なる事実を支持するのである:論理的にして、非無矛盾なる世界としてである。 

 

 

 

[1] Reality:the world or the state of things as they actually exist, as opposed to an idealistic or notional idea of them:(from Wikipedia)

リアリティ;そのものが実際に存在しているとしての世界やものの状態であり、それらの観念的な世界とは対立してとらえられれる状態である。(荒井)

[2] リアリティそれ自身あろう。(荒井)

 

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