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朝日記2380622  その3 ケンタン マイアスー講義

2023-06-22 16:30:09 | 自分史

朝日記2380622  その3 ケンタン マイアスー講義

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朝日記230622 翻訳と解説ケンタン マイアスー講義Time without Becoming 2008,

 

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つづき3

  1. The principle of factiality

事実化性の原理

After Finitudeで直面した主な問題はcorrelational circle(相関性循環)を端的な形式で決定的に拒否することが可能なmaterialism(物質主義)を展開する場合にまさしく来るのであり、それはまた実際に判定することが至難な形式のものである;これはその相関性がなり立っている以内にある場合を除いて、我々が相関性に抗して発言することができないことを明示する議論である。

私の戦略はつぎである:相関主義者の弱点は対立するduality(双対性)にある。

厳密言うなら、私の定義としてのcorrelationism(相関主義)はanti-realism(反リアリズム)ではなく、anti-absolutism(反絶対主義)である。

Correlationism(相関主義)はan absolute(絶対のもの)に関する可能な知識すべてを拒否する近代的道すじである;

それはつぎの要求である;それは我々のspecific(特定)の視点とは独立なeternal reality(永遠のリアリティ)にアクセスするwithout any sure means of access(たしかな手段を携えずに)我々のrepresentations(表象)であるconscious, linguistic, historical ones(意識、言語、歴史的なもの)のなかに我々を、locked up(閉じ込こめ)ようとするものである。   

 

 

 

しかしthe absolute(その絶対))にはふたつの主なる形式がある:

the realist(リアリスト)の形式、これはそれへの我々のアクセスとは独立なnon-thinking reality(非思考からのリアリティのもの)[1]であり、

もうひとつはthe idealist(観念主義者)の形式であり、逆に、the correlation(相関性)それ自身をabsolutization(絶対化)させるものである。   

したがって、correlationism(相関主義者)が、もし彼がthe absolute(その絶対)のmodalities(モード性)すべてを拒否したいならば、speculative idealism(思弁的理想主義)やvitalism(生気主義)やpanpsychism(汎神論)のどのような形式をもまた拒否しなければならなくなるのである。  

 

しかしこの第二の拒否のためには、the circle(循環)の議論は役に立たない、なぜならidealism(観念論)とvitalism(生気論)は、まさしく、それがsubjective circle itself(主観的循環それ自身)であり、そして    the circle itself (その循環自体)がthe absolute(その絶対のもの)であることを要求しているからである。

 

これらの観念論者と生気論者の議論を簡単に試験してみたい。

私はa determinate human access to the world-(ある然るべき人間がこの世界へのアクセスする)ことのどのようなabsolutisation (絶対化性)もそれをsubjectivist metaphysics(主観的形而上学)と呼ぶのであり、そして、このsubjective metaphysics(主観的形而上学)の支持者を“subjectivist” (主観主義者)と詰めてとよぶのである。

 

 

Thought(思考)とbeing(存在)との間のcorrelation(相関性)は多様な形式を取る:

主観主義者はこれら関係のsome(あるもの)、もしくはまさに関係すべてが、humans(人間)やthe living(その生命体)に限定せず、Being(存在体すべて)のdeterminations(決定したもの)して要求するのである。  

 

主観主義者はa correlation(相関性)をthe things themselves(その物自体)へとprojects(投射)する、そしてそれはperception, intellection, wanting(知覚、知性化、欲望)などの形式を採り、そしてthe absolute(絶対)へとturns(転化)するのである。  

 

勿論、このプロセスはここで示すよりもさらにはるかに洗練されたものである、Hegelがしたようにである。

しかしsubjectivism(主観主義)の根底の原理は常に変わらない:それはrealism (リアリズム)とcorrelationism(相関主義)の拒否から成り立つが以下にその理由を記す:我々はour relation to the world(この世界への我々の関係)によって構成されていないa being(存在)をconceive(知識化)することはできないからであり、我々はこのcircle of correlation(相関性の循環)から逃れることはできないからであり、これら関係the whole(全体)、またはeminent part of this whole(この全体の顕著な部分)はthe very essence of any reality(いかなるリアリティのまさにエッセンス)をrepresents(表象して)いるのである。  

 

 

主観主義者によれば、相関主義者もみとめることであるが、それはこの世界と人間との相関性からとは異なるan in-itself(それ自身の中)を考えることは論理の常軌を逸したものとなる。

主観主義者はかくして、相関主義者自身に対抗するargument of the circle (循環の論議)に転ずる:

我々は人間との相関性に独立などのようなリアリティを考えることができないので、主観主義者によれば、その循環の外側に存在するようなリアリティを考えることはナンセンスであるということを意味することになる。

かくしてthe absolute(その絶対)はそれ自身がthe circle(循環)であり、少なくともその一部である:

the absolute(その絶対)とはthinking(思考)すること、perception(知覚)すること、もしくはwanting(欲)すること、などであり:idea (観念)、logos(論理)、Geist (Mind)(精神(こころ)、Wille zur Macht (Will to Power)(力への意思))、Bergsonian intuition of duration( Bergson派の継続洞察性)、などである。

このabsolutism(絶対主義)の第二の形はcorrelationism(相関主義)がthe idealist absolute(観念論者の絶対)に対応する可能性についての第二の議論を生む必要となる所以である。 

第二の議論の必要性は非常に重要なものである、我々が見るように、それは循環という⁻要塞での弱⁻スポットとなるからである。 

第二の議論は私がAfter Finitudeで記述したものであり、facticity(事実化性)からの議論からであり、その意味についてはここでさらに説明したい。

 

 

私は“facticity”(事実性)をthe absence of reason for any reality(リアリティ理由の不在)とよぶ;言い換えると、the existence of any being(いかなるbeing(存在)のexistence(存在性))へのultimate ground(究極基盤)を与えることの不可能性である。 

我々はconditional necessity(条件的必要性)に到たるのであり、決してabsolute necessity(絶対的必要性)にあるではない。

もし確定的な起因と物理的法則が置かれているなら、そこでは決定された結果効果が引き継ぐべくことを要求することができる。

しかし我々はこれらの法則と起因のためのground(基盤)を見つけることはできないであろう、

もっとも実質的に別のground(基盤)とならない起因と法則を持ち込むなら別である;

そこには何らultimate cause(究極の原因)もまたultimate law(究極の法則)もない、あえて言えばits own existence(それ自身の存在)のthe ground(基礎)を含めたa cause or a law(起因もしくは法則)である;

しかしこのfacticity(事実性)にもまたthought(思考)とのproper(適合性)がある。

 

Cartesian Cogito(デカルト流「考える」)はこの点を証明している;

 the Cogito(その思考)において必要なものはa conditional necessity(条件的必要性))なのである:

if I think, then I must be.(私が考えるならば、そこで私がいる(存在する)にちがいない):

But it is not an absolute necessity(しかしそれは絶対的な必要なのではない):

 it is not necessary that I should think.(それは私が思考しなければならないということが必要なのではない。)[2]

 

私は、subjective correlation(主観的相関性)のthe inside(内側)から、my own facticity(私自身の事実性)をaccede(受け入れ)し、そしてこのmy subjective access(私の主観的アクセス)と相関するthe facticity of the world (この世界の事実性)を受け入れるのである。

私はan ultimate reason(究極の理由)のlack(欠落)、a causa sui(起因の存在)のlack(欠落)に行き着くことによって上述の対応アクセスを行うのであり、このlack(欠落)がto ground my existence(私の存在性の基礎づけ)に行き着かせることになるのである。  

 

 

facticity(事実性)をこのように定義することは、私によれば、correlation(相関性)のabsolutisation(絶対化)への基盤解答となるである;

そのcorrelation(相関性)がfactual(事実的)であるなら、我々はもはや、subjectivist(主観主義者)が拘るように、それ(相関性)がリアリティの必要な成分であるかどうかということに気にすることはなくなるのである。

もちろんidealist(観念論者)はsubjective correlation(主観的相関性)のnon-being(非在性)を知識化する如何なるこころみがperformative contradiction(問題の自己矛盾)に至るということで反対するかもしれない、なぜならまさにそのconception(概念化)こそが我々がeffectively(有効に)にa subject(主観)として存在することを証明するからである。

しかし相関論者は、その相関性がここで存在しないという以上に存在すべきであることの教条的証明ができていないという返答をしてくるが、かくして、このabsence of necessity(必要性不在)はabsolute necessity(絶対的必要性)についての観念論者の要求却下をみたすのである。

 

そして、私がthe non-existence of subjectivity(主観性の非⁻存在性)をimagine(想像)することができないというthe fact(事実)は、それがimpossible(不可能である)ということを証明しないのである、なぜならto imagine(想像すること)はa subject(主観)としてto exist(存在すること)であるからである、;

to be dead(死んでいる)とは何に似ているかと想像することを私はできないのである、それは死を想像することは我々がまだ生きていることを意味しているからであり、

しかし不幸にして、the fact(事実)はdeath is impossible(死が不可能であること)を証明しない。

私の想像性のlimits(限界)がmy immortality(私の不死性)のindex(指標)にはならないのである。[3]

しかし注意しななければならない:相関主義者はsubjectivity(主観性)がその消滅必定性を主張しているのではない:多分、そのsubjectivity(主観性)はeternal as an absolute-(絶対のものとして永遠)であり、それはif not as an individual(個人次元としてでないなら)Geist or Wille -(精神や意志)として永遠なのである。

 

相関主義者はこの仮説について道すじがこれか、あれかかを決めることができないとことを単純に要求している:我々は永遠の真理には、whether realistic or idealistic(realism論系かidealism論系か)について、どれからも到達できない。

我々はこの循環の外側についてはなにも知らないのである、これはたとえばrealism-

(での循環)に対抗してなにかひとつが(この主観側に)ある場合でさえもわからないのである。Subjectivism(主観主義に抗して、いまあげたrealism-で、それが丁度そこでの循環それ自身がeither necessary or contingent(必要か偶然か)ということも我々は知らないのである。 

 

Correlationism(相関主義)はつぎの二つ議論から構成されることになる:一番目はnaïve realismに対抗するcircle of correlation(相関の循環)からのもの;二番目はspeculative idealism(思弁的観念論)に対抗するfacticity(事実性)からの議論である。

 

主観主義者はかれがabsolutizing correlation(相関性の絶対化)によって相関主義を打ち負かすことが可能であると誤ったを主張した:

私は我々がabsolutizing facticity(事実性を絶対化すること)によってのみ相関主義に勝つことを信じるのである。 

 

なぜかを見ていこう。

相関主義者は主観主義者に対抗してつぎのように言う;我々はthe contingency of the correlation(相関性が偶然性のものであること)をconceive(知識化)しているのであり、それはたとえて言えば、人間絶滅による消滅可能性なのである。

しかし、そうすることによって、そして、これが基本的な点であるが、相関主義者はつぎの可能性について肯定的に考えることを受け入りなければならない、その可能性とはその相関性とは関係のない独立なものであるということであるが、それはその相関性の非存在の厳密なる可能性があるからである。[4]

 

 

この点を理解するたには、死とのthe analogy(アナロジー)についてさらに考えることが可能である:私自身を死から免れえないものとして考えるためには、死は、それについて私がthinking(考える)ことに依存していないことを認めなければならい。

 

そうでなければ、私が消えることができるのはひとつの条件においてのみであろう;私は自分の消失について考えるために生き続けていること、そしてそれを私がアクセスする相関に事態を転じるということである。

換言すれば、私はdying indefinitely不定に死につつあることができ、しかし私はnever pass away(けっして死して去る)ことはできないのである。

 

もしその相関性のfacticity(事実性)がconceived(知識化)しうるなら、それが、我々としてeffectively conceive-(有効に知識化)できるa notion(概念)なら、

また我々が見たように、それは相関主義者のためのケースであるにちがいないなら、そしてもしかれが主観主義者を拒む意志があるなら、そのとき我々はその概念をan absolute(絶対のもの)として考えることになる;

Reality(リアリティ)のどれについてもthe absolute absence of reason(理由が絶対的欠落)、別の言葉で言えば、すべての決定されたentityがeffective ability(有効な可能性)にあること、ここでそのentityはひとつのevent(事態)であり、ひとつのthing(モノ)であり、またひとつのlaw(法則)-であるようなものであって、しかもこれがits being or non-being(それ自身の存在か非存在)かの理由も持たずに現れて消えてしまうようなものである。 

 

非理性(理由なし)とは、どのような決定的なentityでも破壊や創出の可能なan absolute time(ある絶対時間)へのattribute(帰属性)になる。そこではそのits creation or destruction(創出や破壊)の如何なる理由もない。

この課題を通して、私はcorrelationism(相関主義)に基本的に対抗するthinkability(思考可能性)の条件を明らかにできるか試みる。その対抗性が記述されるか否かというときにおいてでもある;

これはthe in-itself(それ自身の中のもの)とthe for-us(我々のためというもの)のふたつの対立項である。

この相対主義者の課題は、どのようなリアリティが私抜きでは知ることができないか、明示的に記述できるか否かというものである。

相関主義者によれば、私が私をこの世界から取り去ったら、私はその残余の部分を知ることはできない。

 

しかしこの理由付けはan absolute possibility(絶対的可能性)への積極的なアクセスを享受することを仮定している;

それはthe in-itself(それ自身のなかにあるもの)はthe for-us(われわれのためのもの)とは異なるという可能性である。

そしてこのabsolute possibility(絶対的可能性)は、転じて、correlation(相関性)のabsolute facticity(絶対的事実性)に基礎をおいているのである。

それはそのcorrelation(相関性)のthe non-being(非存在性)をconceive(知識化)することができるからであり、それは私がthe in-itself being(それ自身のなかに存在しているもの)の可能性をconceive(知識化)することが可能であり、それはhuman subjectivity(人間の主観性)を相関させた世界とは基本的に異なるものである。  

それは私がすべてのことのabsolute facticity(絶対的事実性)の知識化が可能であるからであり、私は絶対の他種すべてに向かうことに懐疑的であることができるからである。

私からすれば、必然的に、リアリズムの相関主義者からの拒否を拒否することは可能である、これはperformative contradiction[5]の矛盾への糾弾に基づいているのである;  

なぜなら相関主義者の理由付けに、performative contradictionをそこに見出すからである;

彼の基本的概念である for-us(われわれのため)ということとin-itself(それ自身のなか)というのは、implicit(陰示的)な絶対化に基礎をおいているのである;the absolutization of facticity(事実性の絶対化)である。

 

 

すべてのものがcontingent(偶然性)として知識化が可能であり、それは人間の身体性に依っていて:それはそれ自身のcontingent(偶然性)を除いたすべのものである。

Facticity(事実性)はa fact-(事実)ではないということは、その世界のもうひとつの事実ではない。 

そしてこれは厳密な論争に基づいている;私は懐疑主義者すべてにむかって懐疑的ではありえない。

Facticityの必要性、facticityのこの非-facticityはフランス語で“factualité”とよぶが、これはRay Brassierの翻訳での“factiality”である。

 

 

Factiality(事実的性)はfacticity(事実性)ではない、しかしfacticity(事実性)の必要性であり、facticity(事実性)の根源性質である。

Facticialityを言明する原理を私は単純に“the principle of factiality”(factiality原理)とよぶ。

最終的にはこのfacticity原理を基礎におく思弁をして“speculation factuale”または “factial speculation”(事実的思弁)と呼ぶ。 

このfactiality原理を通して、私が相関主義を明確に拒否する考え方;speculative materialism思弁的物質主義を継承していること認めるものである。

any thinking(いかなる思考)とも独立なXが考えることができる:そして私はこれを知っている。そしてthe absolute(この絶対のもの)に対してcorrelationistが挑んできたことを感謝するものである。

Factiality原理は近代哲学の過激な懐疑主義のもとで隠れていたontological truth(オントロジー的真理)を顕わにみせてくれたのである:

to be(存在すること)はto be a correlate(相関的なものがあること)ではなく、to be a fact(事実であるということ):to be(存在する)ことはto be factual(事実的であること)であるが、そしてこれはa fact(事実)ではない。 

 

[1] Primo-facie principleなどがこれに相当しよう(荒井)

[2] 原文は以下である;The Cartesian Cogito clearly shows this point: what is necessary in the Cogito, is a conditional necessity: if I think, then I must be.

But it is not an absolute necessity: it is not necessary that I should think.

 

[3] Immortality(不死性)をMy(私)が想像できないということは、不死性を証明しないということであり、それはMy(私)の”mortality”(死性)は残る、つまり「死ぬ」からは免れないという決着にいたる。また「私は死んでいる」ということがneither to imagine nor not to imagine(想像することも、想像しえないことも定まらない)なら、私にとっては分からないということで結論はsuspending(宙吊り)となったままになる。ただし、これはRule of non contradiction(無矛盾則)を前提とした場合である。(MeinongのNon existence object(非存在性対象)との対応性は興味深い。彼らは客観としての存在の二重性として、思考上のInner対象とouter対象の双対の対象概念を提唱した。ここでの著者Meillassouxの主観系での存在の不定性と対応位置に興味深いものを感じる)(荒井)

[4] そもそもその場には非在にして相関そのものが考えられない場合でさえあるのである。

そうすることによって、これは基本的な点であるが、相関主義者はつぎのことを受け容れなければならない、つまり相関性とは基本的に関係のない可能性についても積極的に考えることについてである。

[5] A performative contradiction (German: performativer Widerspruch) arises when the propositional content of a statement contradicts the presuppositions of asserting it. (from Wikipedia)

 

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