Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

朝日記240627 ―随想― 夏は昼寝が一番

2024-06-27 16:57:54 | 自分史

朝日記240627 ―随想― 夏は昼寝が一番

初出し HEARTの会会報 No.115, 2023年秋季号 NPO法人人間環境活性化研究会 ISSN2186-4454

 

―随想― 夏は昼寝が一番

会員 荒井 康全

 

親愛なるいろはさま

お元気ですか。あさのラジオ体操の行きかえりに他所様の深紅のブーゲンビリアにおもわず暑さをわすれ、息を呑むおもいです。 それにしても世界はきな臭い緊張モードがただよい、それが増幅する気配にこころ痛む日々ですね。この不安を、そしてこの夏もまた特別といわんやの猛暑を払うべしと、スポーツTV中継にどっぷり浸かる。ことしは春のWBC(ワールドベースボール・クラシック)での日本の劇的優勝で、いっきに世界をまきこんでのベースボール熱狂となり、そのスーパースターのオータニOhtani選手の投打二刀流の活躍に沸く。競争や闘争心は‘いきもの’としての基本的本能であり、戦など国と国との争いより、からだと汗をぶつけ消化していく道がある。

ローマ帝国が‘パンとサーカス’で千五百年治世をまがりなりにも保ったことを想う。青、白、赤、そして黄色の四組で競ったという。

さて、それにしてもしずかになにかに集中したり、瞑想することも暑気払いを兼ね、生活リズムのたすけになるのか。

 


徒然こと ‘夏は昼寝が一番’

 

   


さすがに早朝はすずしいのでこの時間帯が、思考を集中させものごとに当てることをねらう。とくに、手紙出しや洗濯やかたづけなど、日常の身の回りことが意識に浮上するまえに、純粋に目にはいり、読み、その内容に入っていけるときがある。大体 寝覚めのタイミングがそれに向いている。

目下の焦点は、ゲーデルの不完全性定理としています。大学の図書館から放送大学のテキストで「数学基礎論」というのを借りる。この本は、過去、2013年1月17日日付で借りて4月ごろまで借りる。返却期限票に記録がのこり、時の流れの速さにおどろく。

 

‘こころのOS'とアルゴリズム・パラダイムについて 

 
 


ご承知のようにコンピュータのプログラムは、その計算手順を機械にあたえ、計算実施をするもので、その論理の表現手段をアルゴリズムと呼ぶ。これは、20世紀の始め、ドイツの大数学者ヒルベルトが公理主義論的な数学論によって、人の論理知は公理として数学形式知に変換され、論理演算されるべきであるという大構想である。その変換は当然無矛盾性で、かつ完全性なものに至るという。その大構想が1920年ころ、若い数学者クルト・ゲーデルがかれの名を冠する「不完全性定理」によって、否定された歴史がある。数学論理に頼っていても正しくないことに行きつくということで、数学自体以上に人文社会系への衝撃が走る。この経過は、林普 八杉満利子・解説『ゲーデル「不完全性定理」』(岩波文庫)に大変やさしくまた的確な説明があり、参考になる。ただ、ゲーデルの論文が本題の本であるが、これが数学基礎論の前段素養がないと、最後のところで歯が立たない硬さを思い知らされる。そのままでは、情けなくあり、ちょうどこの夏の暑さしのぎに挑戦したのが、冒頭の「数学基礎論」の再取り組みとなる。

こういう本を読むときの自分とのたたかいは、本の記述を読み続ける意識限度を見定めておくことと思っている。意識が散漫になったら、迷わずに、目を離す。そしてできれば眠ってしまう。目を覚ましたら、すぐ取り組む、そんなのがよろしいようで、今朝は三時半ごろに目が覚めたので、一気に取組み、最終のゲーデルの定理まで読み通す。     

これで記述している分の理解ができたかというとまったくだめ。しかし、見通は得られ、やったかという感想は残る。            

 


 ところで、ゲーデルの不完全性定理は、一方の応用数学上の歴史では革命的な進歩を人類に拓いたといえる。フォン・ノイマンの外部記憶型計算機、テューリングの機械計算原理、チャーチのアルゴリズム論理、さらに加えるとノバート・ウィーナの負帰還情報制御理論で、いまの情報システム社会に繋がったとみる。その根底は、数学的記述としてのモデルと、解法としてのアルゴリズムの科学哲学であったとみている。

 

 


林晋らの解説は、しかし一読に価すると思う。林は、やはりヒルベルトの公理主義的な形式数学が、数学の王道として揺るぎないこと、ゲーデルの話はその王国の辺境でのトラブルとして、ある意味で毅然として存在し、力に富むものであると解説する。学部のころ、大学の数学とは何に役立つのか、単に数理哲学的な知的満足だけではないかと避けて通ってきた。

 

応用分野の著でも、公理、定理、証明で埋まっている本が多く、自分が知りたいことに隔靴掻痒の思い。

ご記憶でしょうか、日本の一農機メーカーの創業者の方が、アメリカのワイリーの工業数学などを、ガリ版で翻訳出版されたのが始まりで、この本が、日本の若い技術者の数学応用能力を飛躍的に向上させる。個人的なことで恐縮ですが、後年、米ウィスコンシン大学大学院化学工学での応用数学の履修では、たとえばヒルデブランドの応用数学(Advance Calculus for Application)や、ヘンリー・マージナウとジョージ・マーフィーの物理と化学の数学(Mathematics of Phyics and Chemistry)でした。この洗礼を受けたことがその後の人生を一変させたという個人的事情も残す。

 


  肝心なのは、日本の学部での公理、定理、証明で囲った解析学あたりで、ずいぶん時間を無駄にしたなという思いが強い。多分、なにを知るか、何に役立つかという問題意識の欠如であったのであろうと、反省するが、「数学の王国の辺境」での数学が、今のアルゴリズム数学であるとするなら、いまの数学者の方が逆に「辺境」にいて鎮座しているのではないかと、土地勘の乏しい私には、思えるのだがいかがでしょうか。(岩波「数学辞典」でもアルゴリズムの記述は半ページほどもない)

今回の投稿の中心のひとつであるアルゴリズムについては、デイヴィド・バーリンスキ著 林大訳 「史上最大の発明 アルゴリズム ~現代社会を造りあげた根本原理」。

2012年ハヤカワ文庫が大いに刺激を与えてくれたことを申し添えておく。

 


  本文をまとめますと、数学の本を読むのは、夏の昼寝のあとが一番とします。

 

いろはより

数学に苦手意識が強いのですが、作家の新田次郎と藤原ていの御子息の藤原正彦が、数学の美しさを述べており、私には絶対にその美しさを感じることができないのだと思うと、悔しいような損をしたような思いがします。

最近アルゴリズムという言葉をよく耳にするようになりました。踊りだしそうなラテン音楽的な響きの言葉ですね。非常に感覚的な捉え方ですが、パソコンをタイピングする音に刺激を受けて、思考を巡らしていると感じるときがあります。  

静かに走る車に、わざと音を加えて走行を知らせるような工夫もされている話を聞きました。音が人の感覚を広げていることを感じます。しかし音のないコンピュータ処理が粛々となされた到達世界はどんな様相をしているのでしょうか。

曼荼羅図には胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の両界曼荼羅があります。また、平面ではなく仏具を使った立体で表すこともあるそうなのですが、数学の美しさというものはひょっとしたら曼荼羅と共通する法則で並んでいるのかもしれないと漠然と想像しています。

 

 

 

荒井康全

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朝日記240627―随想―何もしないほうが得な日本

2024-06-27 16:25:24 | 自分史

朝日記240627―随想―何もしないほうが得な日本

初出し 「HEARTの会」会報 No.114 2023年夏季号 NPO法人人間環境活性化研究会 ISSN 2186-4454

 

―随想―

何もしないほうが得な日本

 

会員 

荒井 康全

   



 

**徒然ごと
明けのカラスがときどき屋上ベランダ

で仲間と呼び合っています。

習慣的に、彼らを牽制するためにそこ

   


まであがり、だいたい、そのまえに彼らはさわぎながら飛び去ります。

日の出前の空や、朝靄がたちこめた家並みをひとわたりながめ、また、降りてきます。

こんどは蝉がさわぎたてはじますがかまってはいられないのでそのままにします。

 

   


コジュケイがいつのまにか、近辺から鳴きたてます。
子雛をひきつれているイメージの鳥です。‘ちょっとこい、ちょっとこい’と聞こえます。

 

戦時中の集団疎開にいった知人の体験では、これが‘ちょっとくい、ちょっとくい’と聞こえ、ひもじさが身にしみていたといいます。この話をきいたのも半世紀前ですが、記憶が刻印となっていて、コジュケイの声をきくたびに そのひとの表情までもあらわれます。

 
 

 

**昭和電工は半導体企業に

     
       
 


昭和電工が日立化成を合併してナノ原料から半導体完成品まで一貫製造する世界最強・最大級の半導体企業になることを確信したい。戦前戦後の国の基盤材アルミと肥料から、いままた半導体開発企業化へ日本を世界最強産業国としての再生復活を担うことになろう。レゾナックがんばれ!!

 

   


**太田肇氏の新刊新書、全体主義のパラドックス「何もしないほうが得な日本」をいかに克服できるのか? 消極的利己主義の構造と打開策について所感を述べたい。

 

ひとつの見方・モデルとして思考の枠として意味があるようにおもいます。ただper capitaのGDPが低下していることはこの国のエネルギーと国民の意識が劣化していると括って結論してしまうのは短絡しているようにも思えます。

     
     
   
 


日本の江戸時代の成立と成熟と、明治開国以降の近代国民国家の形成と成熟と、ある意味で相似していて、これが停滞感、閉塞観を感じさせるようです。しかしある意味で、日本が一周先に到達しているかもしれません。日本経済が内需的市場になっている、また国土インフラも投資として、いきつくところまできている、つまりフローとしても、ストックにしても飽和レベルに入っているといえるのではないかと思います。課題先進国とみることもできます。その意味で、ドイツ、英国など似た構造と状態の国と国民の社会的、文化的、歴史的な比較分析をしてみる必要があると思います。

 

いまグローバル化時代が世界的な規模での変曲点にあるので、ネガティブにみえますが、いまの日本の飽和的にして平穏充足的平衡状態は一挙に壊れる危険性はあり得ます。これに国家的、国民的危機の現実感を持ちます。この変局からくる動的非平衡と不安定性に対して、逆に日本は否応なしに危機感が国内的に突発し、みずからの変革を急速に意識する。ある意味で大パニックに陥る可能性を感じます。

 

この場合、理性的に秩序だったとりくみ(disposition)が求められます。それでもなお、日本の産業立国としてこれまで培ってきた考え方、行動方式がふたたび生きてくるとおもいます。この国の民の内的エネルギーの大きさと品性の高さを信じたい。ただ、ここであげられた課題項目をひとつずつ襟をただして吟味していく意識改革は大切ではあります。今回のお話はそういうことの刺激のための思考モデルのひとつとして、冷静にとらえることが大切と考えます。

            

 

絵 康全

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朝日記240627 ―随想―はかれないものをはかる

2024-06-27 15:46:14 | 自分史

朝日記240627 ―随想―はかれないものをはかる

初出し 「HEARTの会」会報 No.113 ,2023年春季号、NPO法人人間環境活性化研究会 ISSN 2186-4454

 

―随想―はかれないものをはかる

会員 荒井 康全

 

親愛なるいろは様

「はかれないものをはかる」というのを準備しています。気の付いたときにやっておかないと忘却の彼方へ旅してしまうからやっておくということです。

この十余年、「システム思考における目的論構造と社会倫理」というテーマにとりくみ、ようやく社会的倫理というところに至り、その芯の意識とは?というところに私はいます。

いま近代西洋哲学の一方の巨人スピノザとくに彼の著Ethicsエチカに焦点を当てています。

彼は人間精神を思考に限定せず、(思考をふくめて)精神と身体を一体としてとらえた点で、私がすきなカントやハイデガーなど大陸の主流哲学である経験と理念を悟性と理性でむすぶ認識批判哲学とは一線を画しています。 

後者は論理・合理性中心の哲学で、やさしさとか尊さとかといった人間の意識(無意識を含む)や感情は哲学的思考から別に置くという一貫した姿勢をとります。むしろ意識、とくに感情は論理的な思考を混乱させるものとして控えの部屋においてきた歴史を持ちます。これをも

って近代科学技術を推進し、西洋の文明的圧勝をもたらしたといっても過言ではありません。そして人類の人口頭数を爆発的に増大した、地球環境の環境変化をもたらし、さらに情報的統合化による情報処理の一元高速化した一方、深刻な矛盾と、紛争の予兆や不安を現在と未来にのこしたといえます。

しかし、上にのべた論理思考など人間精神からの知性とともに本来並ぶべき、ひとのいきる尊さや優しさなどの徳性については、詩や音楽や絵画など文学や芸術系に片寄せされた観があります。経済や政治、生活とそしてそれを支える科学技術などの実践系とは分断されてきたようにおもいます。 

そして、それが不味いという考え方と、それでよいという考え方へとも尾をひいてさえありそうです。これらが整合会合するということにより叡智に通じるという恩恵はありそうですが、一方つながっているがために世俗実践系の邪悪な野心からの悪用がし易くなり、世界は特定の“うつけもの”の手によって死息、破滅に至るということも危惧も想像できます。

しかし、これを乗り越えるのも人間の叡智と相互愛によってのみ可能であるので、やはり上のような知性と徳性がつながったという意味での叡智が根幹であるとおもいます。

スピノザはそのために「意識」概念を彼の哲学の中心において位置付け、人間精神活動の復活を問いかけてきます。わたくしは、彼のこの哲学は、きわだって

 


現代世界に生きてくるとみます。たとえばいま過剰にもてはやされるAIでは人間精神活動は確実にほろび、(過剰に表現すれば)世界もほろぶと見ます。

そんなことをおもいめぐらせていたら、たまたま、絵本で「はかれないものをはかる」というのがわたくしが住む町田市文学館の棚にあるのが目にとまりました。そうだよね、「意識」などを測るという発想が、逆におもしろいとおもって手にとったのでした。測れるかどうかわからないから絵本になるとも言えるのですが、(狡猾な「客観」に取り込まれるまえに、)「主観」の世界で「意識」を測るという投げかけで、なるほどねえという問題意識に面白みがあるとみました。作者自身がそのようにとらえているかわかりませんが、みえざる時代の意識をとらえているといっておきます。    康

 

絵本 『はかれないものをはかる』

工藤あゆみ著から 49測定のうちからいくつかを紹介します;

1 Measure how much water it takes to wash the past away

その過去を洗いながすのに必要な水の量を測る

2 Measure how cozy a bed can be

 


ベッドに居過ごすことの優しさを測る

3 Measure the vision needed to guess the truth

真実に思い至るために必要なそのビジョンを測る

4 Measure the fragility of piled up excuses

溜まってしまった‘ごめんなさい’の脆さを測る

5 Measure the resistance of the door of the heart

閉ざしたこころの扉を開く固さを測る

6 Measure how big the feeling is on the happiest day

お祝いの日でのその感覚の大きさを測る

7 Measure darkness in a heart

ひとのこころの闇を測る

8 Measure the effect of your works of encouragement

きみが励ましてくれたことごとの効果を測る

9 Measure the intensity of love at first sight

一目惚れのつよさを測る

10 Measure how much white is needed to protect purity

清純を護るためにはどのくらいの量の純白が必要かを図る

11 Measure how long it will take my body and heart, wet with sadness, to dry

かなしみに湿り切った私の体と心を乾かす時間を測る

12 Measure the heaviness of memories; happy, good and bad ones

記憶の重さを測る;幸福、善そして悪のひとつひとつ

13 Measure the ability to inhale happiness

幸福を吸い込む力を測る

14 Measure the strength arms capable of carrying so many smiles

たくさんの笑顔を運ぶ奥行きのある腕の力を測る

15 Measure how fast one’s heart can change

ひとのこころの変わる速さを測る

16 Measure the difference to temperature between instinct and reason

本能と理性の間の温度差を測る

親愛なる康全さまへ

両目の白内障の手術を挟んで執筆をされたとか、かすんだ眼で見るのとクリアに見える世界は、入ってくる情報量の違いがでてきますね。情報量も「はかれないもの」ですね。

毎日の料理はこの「はかる」という作業の積み重ねです。まずは何人で何を食べるかで、材料は何を使いどれだけの分量が必要かを考えなくてはなりません。ある女優さんが結婚するまで料理を作ったことがなかったそうですが、早くに美味しい料理を作れるようになったそうで、いまはネットを検索すれば料理のレシピが出てくる世の中。書かれた分量に添ってきっちりと作れば美味しいものが作れ、わたし失敗しないので、と。女性の方が元気で長生きできるのは常日頃から「はかりごと」をしているからかもしれませんね。

小さじ1杯(15㏄)、大さじ1杯(30㏄) 1カップは200㏄、お米1合は180㏄と決まっていますが、料理の言葉には面白い表現がたくさんあって、塩少々は親指と人差し指で軽くつまんだ量、ひとつまみは親指と人差し指と中指でつまんだ量です。他に、きっちりとは量れないような、ひたひたに鍋に水を入れて煮るなど、口伝のような言葉もあります。慣れてくると次第に適当な感覚や目分量で作れるようになります。また、理科系男子や定年後に始めた男のかたの中には、レシピに忠実に作るので味が安定して美味しく作れるという話も聞きます。

私の所属する短歌会の主催の佐佐木幸綱先生は、ご結婚された時からずっと朝食のお味噌汁はご自分で作っておられるそうで、夜のうちに煮干しと昆布を準備され、だしをとって作るそうなのです。これでもう美味しいお味噌汁が想像できてしまいますね。

「はかれないものをはかる」話から飛躍していきますが、もっともはかれないのはひとのこころで、それゆえにずーっと考え続けているのが宗教や哲学なのでしょうか。南米の少数民族で、文明と交わらずにきた人達の言語に、過去や未来をあらわす言葉がなく、その人たちは不安を抱かずに暮らしていたそうですが、文明が入り、不安をいだくようになったというのです。

未来に希望を抱く者もいれば不安をおぼえる者もいるわけですが、未来への不安が減れば、多少なりとも世界の争いごとも減るのではないかと考えるこの頃です。  

いろはより

 

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