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朝日記2380622  その2 ケンタン マイアスー講義

2023-06-22 16:23:13 | 絵画と哲学

朝日記2380622  その2 ケンタン マイアスー講義

 

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つづき

 

  1. The problem of the arche-fossil.

  アルシェ‐フォシルの課題

私のゴールは非常に単純である:私はcorrelationism(相関主義)のすべての形式を拒絶することを試みる、

ここで相関主義とは非常に特定な条件のもとで、thinking(その思考)がany act of subjectivity(主観性のどのような行為)とも関係なく、reality as it is in itself(それ自身のなかにあるようなリアリティ)にaccess(アクセス)することができるということを開示しようということを言っているのである。

別のことばでいえば、私はan absolute(絶対な何か)を保持しているという姿勢である。

ここでのan absolute(絶対)はthe subject(その主観)とはabsolutely separate(絶対的に全く別のもの)としてのreality(リアリティ)であり、それをthe subject(その主観)によってbe thought(考え)得るというものである。

私のゴールは非常に単純である:私はcorrelationism(相関主義)のすべての形式を拒絶することを試みる、

そこで、私はこの主張について二つのことを説明しなければならない:

第一は、なぜ私が相関主義によってそれのimperative(命題性)が破れると考えるのか?

この点を説明するために、私は“problem of ancestrality”(先祖以前性の問題)と私が呼ぶところの特定問題を設定しよう。 

第二には如何に我々はcorrelational circle(相関性循環)の手ごわい議論を拒否することができるかを説明しよう。

このために、私はひとつのspeculative principle(思弁的原理)を説明しよう、これは私がprinciple of faciality(フランス語“principe de factualité” )(事実化性の原理)と呼んでいる。 

まず第一の点からはじめよう。

 

相関主義とは私によれば、ある深刻な問題に対してもたらされたものである、それを私は“problem of the arche-fossil”, または the “problem of ancestrality”(先祖以前性の問題)と呼ぶのである。

Fossil(化石)はpre-historic life(前史の生命)の痕跡をのこす物質である:しかし私がこれを“arche-fossil”とよぶのは生命以前にも至る“ancestral” phenomena(先祖以前の現象)の痕跡を残している物質のことである。

 

 

私は“ancestral”と呼んでいるのは地上の生命体以前に生存していたa reality- a thing or event-(リアリティ-モノまたは事態)のことである。

科学は目下 先祖以前リアリティを記述して言明を産み出すことができる、ここでは“ancestral statements”と言っておくが、放射性アイソトープはその劣化の変化率が岩のサンプルの年齢の指標を提供するし、また蛍光性はその星明りにたいしてその遠方の星たちの年齢の指標を提供するのである。

科学はこの道筋で言明を生み出す、たとえば、この宇宙は140億年の年齢で、この地球は

45億年の年齢を形成するというものである。

そこで私は率直な設問をする:単純に問う:先祖以前についての言明を可能にする条件は何であるか?

これは超越論的スタイルでの式化の問題であるが、それはいわゆる超越論的問題への魅力をもつが、しかし私の言いたい点はCritical philosophy(批判論的哲学)がこの問題に対応できないということである。

 

私の設問をより厳密にすれば:もし相関主義が、さまざまな版において先祖以前言明への感覚と意味を与えうるかである。

そして私が証明を試みるは相関主義にたいしてそれが不可能であるということである。それは風通しを良くするためのこの議論のさまざまな試みに関わらずである。

自然科学での意味をあたえるためにarche-fossilsを先祖以前的言明にむけてくれた相関主義に対して感謝をするものである(放射線アイソトープ、星体発光) 

 

もしtime(時間)はsubject(主観)とのcorrelate(相関性)のひとつであるなら、そこでは何ものも実際にその主観に先行することができない。それは時間以内で個別種にして人間種としてよりラジカルなものとしてでもある。

 

その主観のためのその主観の前に存在したその主観の前に何が存在したかである。

 

Intersubjectivity(間主観性)への説明はここではしない、なぜなら問題の時間は各各個人に先行する時間ではなく、その時間は社会的な次元であり、それはsubjective temporality of ancestors(先祖の主観的時間性)から出来上がる、しかしある時間は生命すべてに先行するそしてすべての人間社会にもそうである。

私は相関主義のさまざまな版でこのアポ―リアを却下したり、マスクを掛けたりすることを試みたのであるがそのような道すじはいくらでもあるのである、私はこれらを After Finitude.にてdeconstruct(脱構造化)を試したのである。

しかしこのdenial(却下)はある確かなものから来ている:先祖以前の問題へはリアリストや唯物主義的解はない。

しかしそのような解が存在することを支持する:それは私が見ることができ、明らかにして述べることができるからである:

相関主義は先祖以前の言明の意味を与えないし、そして必然的に言明を産むことができる科学への言明をあたえない。

科学は世界をgiven-to-a-subject(与えれられた主観)として説明還元される。

もちろん、私もまた、超越論的哲学や現象論がつねにバークリー派の粗い観念論とは基本的に一線を画すものであることをつねに注意するものである。

しかし私がAfter Finitude においてデモンストレーションを試みたのはすべての相関主義がこの粗い観念論へと落ちていくことである、これは相関主義が先祖以前の意義を考えようとするときにおこる。

 

 

私が私の知的世界での好敵手を置くに、よく馴染んだ語たとえば“idealism”(観念主義)などにせず、“correlationism”(相関主義)の語を選んだのか?

それはtranscendental philosophy(超越論主義哲学)と(現象論)を使って観念主義への糾弾から救い出すためにこれまで使われてきた弁論が筋として不適切として取り外したいと考えたからであった。私はそれを次のように応答する:「カント派の批判哲学はsubjective idealism(主観的観念論)ではないかったからであり、彼の著Critique of Pure Reason (純粋理性批判)においてidealism(観念主義)を否定しているからである」;

または「phenomenology(現象論)はdogmatic idealism(教条的観念主義)ではない、なぜならintentionality(意志性)がradical(ものごとの本質性)をexteriority外部性に指向しており、そしてそれはsolipsism(自己が存在を知るすべてとする孤立主義)でもない、なぜならその object(対象)がgivenness(所与)であることを含んでいて、これは、Husserlによるのであるが、intersubjective community(間主観的集団)を参照している。」 

 

必然的に、相関主義は先祖以前性について言いうることのすべては然るべき過去のsubjective representation(主観的表象)ということである、しかしながらこの過去はその客観的対象や事態それ自身伴なう存在としては実際上にも不可能であるというものなのである。

相関主義はあくまでも単純明快に一般的につぎのことを要求する;先祖以前性の言明は唯一つの道において真であり、それは普遍的言明である、その道とは特定の物質(たとえばstarlight, isotope)についてこのpresent experiences(現在での経験)の上になるものである。

しかしもしそれが首尾よくいったとしても、相関主義はこれらの言明の参照先が実際に存在したことについては却下されねばならないであろう、

なぜならいかなる人も生命体種以前の記述となるので矛盾となるからである。

相関主義者のために、先祖以前はreality prior to the subject(その主観に先行するリアリティ)ではありえない、それはsubject as prior to the subject(その主観に先行としての主観)によって言われ、そして考えられるリアリティに限られる。

それは人類のためのひとつの過去であり、それは実際の人類に厳密に相関している人類過去以上にはなんら有効性をもたない。

 

しかしこの主張はもちろんカタストロフィである、なぜならそれは科学的言明のセンスを破壊しているからである。科学的言明はそれらが意味するものをまさに意味するからである。

先祖以前と科学的言明は、なにかが主観性のために主観性以前に存在したことを言っているのではない、 

しかし主観性以前になにかが存在した、それ以上何もない:

先祖以前言明はリアリスティックな意味を持っており、それ以上のことを意味していないのである。

まさに諸君のために諸君以前に存在するモノとは、諸君がこの過去を意識して存在する条件によっており、それは諸君の以前に存在するものは何もないといことを言っているのである。

それは先祖以前が何を意味するかの逆をいうことであり:

reality in itself(それ自身のなかでのリアリティ)がyour own past(諸君自身の過去)としてexisted(存在した)のであって それは、諸君のperception(知覚)とはindependently(独立であり、かかわりなく)である。[1] [2]

 

your past(諸君の過去)が諸君の過去になるのは、それは諸君がそこに立ち会わなかったa present(現在)としてそこに有るとされてきたものに限って、ひとつの過去として有効であるとしたのである、諸君が語るときはいつもそのような過去であった、しかしretrojection(回想)のようなものからうまれたan illusion(幻想)はその現在に絶対的に先行する過去としていま産みだされた過去である。 

 Kantカントは, Diderotディドロに続いて、the existence of things outside the subject(主観の外側にあるモノの存在)を証明することが今を以ってして確立していないのは哲学のスキャンダルのひとつと考えたのであった。

私はこの古い問題を復活させることで糾弾をうけるのであろうか、これは一般的に陳腐化されたものとされているのか? 

ハイデガーのSein und Zeit,存在と時間はカントの提言の逆問題である。

 

この主張はphenomenological subjectivity(現象論的主観性)のまさしくstructure(構造)によって説明される:フッサール主義のintentionnality(意志性)やハイデガー主義のDasein(現存在)のbeing-in-the-world(世界内存在)や、さらにサルトルの外側のもの、それ自身に向かってのconsciousness’s “exploding”(意識の爆発)によって説明されているが、これらはintrinsic solipsist subject(個々固有な孤立者のもつ主観)に余分に付け加わった要素からはかけ離れたものである、そのような孤立的な主観ものは、どちらかといえば陳腐でばかげた外的リアリティの証明に与するものである。

敢えて言えば現象論以降でさえ、そして現象論のなかにおいてさえ、なおこの設問が継続しているのである。

なぜなら現象主義者はconsciousness(意識)が本来的にcorrelated(相関化)されており、a world(ひとつの世界)に開かれていると言うことができるにもかかわらず、ancestrality(祖先以前)について、なにが人類以前および動物以前について語りうるか、ここではany subject(如何なる主観)も欠落している非⁻相関性領域の領域になるのである。

 

科学はこの領域についてどのように精密に語ることができるであろうか、ここでこの領域とはもはや懐古遡及的な幻想以上のなにものでもないのであるが?

我々がいない自然とはどんなものであるか?

我々がもはや居ないとしたら自然のなかになにが残っているか?

 

この設問は現象にたいする陳腐化とは程遠いものである、つまりHeidegger自身の三十年代での大設問となっていたのである。

かれのElisabeth Blochmann, on the 11th October 1931 の書簡: 「私は自らに問いかけてきた、これは長年の間での私の基本設問であった、それは自然はどのようなものが人を伴わずにかれ(hindurschwingen)を通してそれとresonate(共鳴」せずに、それ自身の最大の能力に達するか?

個の手紙においてHeidegger彼自身がこの設問を取り下げしえなかったことをいま発見するのであり、そしてかれ自身の解答の試みは神秘的でありそして多分Schellingian metaphysics(シェリング派の形而上学)によって刺激をうけたであろう<術語“potency”, Potenz?(ポテシャル[3])>。

われわれはHeideggerが先祖以前問題を取り下げるか解決することから遠い位置にあったことを知るのである。

人が伴わない自然とはなにかそして我々は時間についてその時間のなかで主観や現存在を生み出す、そのような時間を如何に捉えるか?

< Références: Diderot, Lettre sur les aveugles à l’usage de ceux qui voient, Garnier, 1964, p. 115. Kant, CRP, préface à la seconde édition, B XXXIX; Etre et temps, §43>

しかし諸君は私の戦略でのancestrality(先祖以前)のこの設問の正しい意義を理解できるにちがいない。

私にとって非常に重要なのことは、私はancestralityによってcorrelationism(相関性)を拒否する素振りをしないということである。

Ancestralityの設問は相関性を拒否するものとして持ち込んだものではない、決してそうではないのである。

事実、After Finitudeの第1章では、私は単純にひとつのアポ―リアとして説明したのであり、それは拒否のためではない、つまり、

一方、ancestralな声明を産み出すために自然科学の力を、correlationism(相関主義)を通して考えることは不可能のように見える;

しかし、他方で相関主義者の地位を拒否することもできなようにみえる、なぜならそれは我々がそこに居ないときになにが存在するかをを知ることが可能であると言いうることも不可能のようにみえるからである。

 

われわれはモノを見る目をもたずして色彩の存在を想像できるのであろうか;聞く耳をもたずして音の存在を想像できるのであろうか?

時間と空間の意味をわれわれはどのように考えることができるか、それを過去、現在、そして未来の意識であるa subject(主観)や、または左と右との違いの意識であるその主観[4]を持たずそれらの意味を如何様に考えるかである。

そして何よりもまず、この世界がどのようなものに似ているかを見るために、もし人間誰もそこに居らず、そしてそれを感知する存在もないとしたらそもそもその設問はなりたつか?

一方、correlational circle-(相関性循環)の議論を拒否することは困難のようにみえる、その拒否とはそれは我々が何かを考えるときに、考えるのはまさに我々であるということを忘れるためにそうするようにみえるからである、しかし一方でcorrelationist(相関主義者)に自然科学を理解させるのは不可能のように思えるのである。

このあきらかに単純にして実際にnaïve problem(素朴な課題)を通じて、私はphilosophical naïvety(哲学的素朴性)の課題をあえて取り上げたい:つまり哲学での“to be naïve”(素朴にあること)の意味とはいったい何であろうかという設問である。

哲学でのnaïvety(素朴性)は今日的にはfavoured form(好意的な形式)としてあげられている:thinking(思考)とbeing(存在)との間にある可能なるcorrespondence(対応性)の信仰はあるが、ここに持ち込まれるa being(存在)は正確にはthinking(思考)とは関係のない存在となっている。

 

近代哲学の全体的な努力は真理の概念をつかわずおこなおうとしてきたこと、または興味あることに、this concept(この概念)を基本的に再定義するように向かっていたといえよう、ここでは真理のかわりに法則とのlegality(適合性)(Kant)やintersubjectivity(間主観性)(Husserl)や翻訳(hermeneutics解釈学)で、考えた真理へのadequation(等価性)に置き換えてきたのである。

しかしわたくしはAFにおいて証明をこころみたのは、ancestralityのなかに、anti-adequation model(反-等価性モデル)すべてに対して、ある奇妙な抵抗があるということにである。  

この抵抗というのは科学理論の真理性について直接的に関するのではないが、むしろそれらの意味についてである。

 

この点を説明しよう。

われわれが科学的理論、ここでは自然科学の場を意味するが、それが“true”真理のような何かであるということを無邪気に信じることは断じてできない。

これは科学への懐疑主義からではなく、むしろ科学のまさにプロセスの徳力によるものである。

その歴史の過程でみるなら、このプロセスは絶え間ない自己理論の破壊において特殊な開明性をしめしてきたのである。それはもっとも基礎的なものを含み、それらの新しさは非常に極端であるので誰もこれらの容姿の当初がどうであったか想像できないほどのパラダイムで置き換わっている。

現在の理論のためにもそのコースは同じであり、特にcosmological ones(宇宙学のそれ)がそうである:われわれは宇宙学の未来理論がどうであるか、ancestralityの未来理論は、その過去がどうあるか、人が言うように、それは予想外のものである。

 

我々はこれらの理論が未来において真として保持するかどうか知らない、しかしこれを取り除くことの可能性はないのである、なぜならそれはそのような理論の意味することのひとつの条件であるからである。

 

真理、そしてリアリティと対応するこのようななにかあるものを真理と考えると、これは理論の意味のひとつの条件ということになり、そのひとが他の仮説よりもprefer(好む)仮説ということになる。

ひとが真理へのcorrespondence(対応性)を提供するものとして、これらの論で理解しようとしてそれを試用するならたちまち混乱を発生することになる。

たとえば、諸君はancestral truth(先祖以前での真理)がpre-human reality人類以前のリアリティをrestitution再構成することよりもむしろintersubjectivity(間主観性)によって定義するなら、

諸君はなにか似たモノのことを持ちだすにちがいない:これまで人間性に先行して、anything like a Universe(或る類似宇宙)は存在しえないとしてきた、そこでは我々がeffectively know-(効果的に知る)これこれ然々と決定されたものはそもそもnever existed(存在しない)としてきたのである、これは単に問われている理論についてのlegitimates(つじつま合わせ)を科学者間で論議するものに過ぎないのである。

ひとは同じ文脈でつぎのことを保持している、それは科学者がひとつの理論を受け入れるための固い理由をもっていること、そしてその理論はあるan object(対象)を記述している、それがこの地上以前での生命の場であったとしよう、するとそれはnonsense(ばかげたこと)になるので記述としての対象としても存在しないことになる。

我々はここで Lacanian real(ランカン学派のリアル)に立っている:現代の哲学者にとってrealism(リアリズム)やcorrespondence(対応性)は不可能なものである。

 

しかしリアリズムはancestral(先祖以前)理論のためのsense(体感能力)の条件であるようにみえる(事実、すべての科学的理論のための条件であると私は信じるがここでは深入りしない)。

それはnaïvetyの観念が変わったという理由である:我々はcorrespondence(対応性)を受け入れることがnaïve概念自身でもあるということになるのだ。

anti-adequation(反-等価性)という教条主義はあの古色な前カント的教条主義と同様の問題性を表すのである。

 

 

しかし現実的な困難としては、私によれば、adequation(等価性)ということが古い形而上学的概念へまたは分析哲学が拘るnaïve realismに復帰することは不可能である。

我々はcorrespondence(対応性)を再定義する必要がある、それはadequation(等価性)の概念とは全く異なるものを見出すことである。 

なぜなら、correlation(相関性)の外側で発見するのは、things(モノ)の、properties(特性)およびrelations(関係)の素朴な概念の(相関性)correlationとはまったく異なるものである。  

それは与えられたリアリティとはまったく異なるものである。

これが私をして、究極として、realism(リアリズム)でなく、speculative materialism(思弁的物質主義)の哲学として記述することになる理由である:なぜならFoucaultの文を思い起こすからである、彼は言う:「私はmaterialist(物質主義者)である、なぜなら私はレアリティを信じないからである」<Référence: ?>

 

かくして、私によれば、我々は手ごわいアポ―リアに遭遇することになる:correlation(相関性)とarche-fossilが拮抗するアポ―リアである。

これは 著After Finitudeで解決しようと私がこころみたアポ―リアであり、correlationism(相関主義)をeffectively(効果的に)排除することを可能にする戦略として、そこに“principle of factiality”(事実化性原理)と私がよぶ原理を基礎に置くscientific materialism(科学的物質主義)の新種の登場である。

さてこの原理が意味することが何であるかをみよう、そして相関主義が説くところのなにが不可能になるのかを見よう:これは我々が居ないときに何があるのかを知るということである。

 

 

 

[1] Humeのa-prioriを意味していると理解するものである。われわれが知覚するのは起因結果の結果のみであり、起因ではない。結果から起因を探すのが人間の認識行為とする立場で、カントの認識批判哲学や、スピノザの倫理学へ決定的な影響をあたえたといわれる。参考として、国分功一郎 スピノザ-読む人の肖像― 岩波文庫1944, 2022

[2] Humeanism, from Wikipedia A, the free encyclopedia, May,2022

[3] 荒井訳 potential

[4] 主観


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