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朝日記2380622  その4 ケンタン マイアスー講義

2023-06-22 16:41:43 | 絵画と哲学

朝日記2380622  その4 ケンタン マイアスー講義

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朝日記230622 翻訳と解説ケンタン マイアスー講義Time without Becoming 2008,

 

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  1. The principle of contradiction

矛盾の原理

 

さて、facticity(事実性)によって同定されたこのabsoluteについて我々は何を言うことができるか?

Facticity(事実性)とはそれがひとたびa limit(有限のもの)というよりもan absolute(絶対のもの)と考えるときそれは何であるか? 

 

その答えは time- facticity as absolute(絶対としての時間-事実性)であり、これを時間として考えねばならない、しかしa very special time(非常に特殊な時間)として、私はこれを AFで“hyper-chaos”超カオスと呼ぶ。

この語による意味は何か?

the absolute(その絶対)がtime(時間)であり、またはchaos(カオス)であるということはすこし陳腐で月並みかもしれない。

しかし我々が発見したこのtime(時間)は、私がこれまで言ってきたように非常に特殊な時間であって、これは通常のカオスとは違う。

Hyper-chaos(超カオス)はわれわれがそう呼ぶカオスのそれとは非常に異なるものである。

カオスによって我々はすべてのもののdisorder(無秩序)、randomnesss(ランダム性)、eternal becoming(永遠の成り)を通常意味するのである。

しかしこれらの特性はHyper-chaos(超カオス)のそれではない。

そのcontingency(偶然性)はradical(過激)であるので、becoming(成り)、disorder(無秩序)、randomness(ランダム性)でさえそれによって破壊され、そして order(秩序性)、determinism(決定性)、そしてfixity(固定性)に置き換わるのである。 

 

ものごとはHyper-chaos(超カオス)においてcontingent(偶然性)であり、そのtime(時間)はthe becoming of things(ものごとの成り)でさえ破壊することができる。

 

facticityがそれとしてthe absolute(絶対)であるなら、contingency(偶然性)はもはやdestruction or disorder(破壊や無秩序)の必要性を意味しない、しかしむしろorder and disorder(秩序と無秩序)、becoming and sempiternity(成りおよび永続性)にequal contingency(両偶然性)を意味することになる。 

なるがゆえに、私はsurcontingence, supercontingency(超偶然)という術語を使うことを好んでいるのである。これは単なる偶然性以上のものである。

 

われわれはtime(時間)に関するこのテーマはHeraclitanの哲学とは大変異なるものである。Heraculitusは私からすればひどくfixist(固定主義者)である。

かれのbecoming(成り)はbecome成らなければならない、そしてbecoming(成り)としてeternally永久性を保つものである。

なぜか?[このinterrogation(交差的質問)とつぎの文との間のリンクは設問としてひらかれている-Heraclitean becoming (Heraclitean の成り)がbecoming(成り)として永遠的に保持する理由付けでは、becoming or fixity(成りか永続固定)がappear or disappear(発現か消失)とはなりえないのである  ]   

 

これらの文章のなかで“not”や他の否定的な見失いもあるか?RB]

Becoming(成り)はfixity(固定性)がそうであるようにまさにfact(事実)であるので、それら双方ともappearing (発現)とdisappearing(消滅)との永遠の可能性を持つに違いない。

しかしHeraclieanの成りもまた、physical time物理的時間とおなじく特定の法則である法則の支配にあり、それは決して変わることのないphysical time(転換の法則)なのである。 

 

しかしある物理法則がある時間的に保持しえているのはなぜであるかの理由はない、今日だけでなく明日も、さらに数分先も。なぜならこれらの法則はまさにfacts事実であるからである;諸君はこの必要性を説明開示することができない-Humeはこの点を実に明解に公開開示したのであった。

しかし物理法則の必要性を公示することができないことは、私によればHumeが信じるようにreason理性の限界によるものである、かれによればこれは理性がfalse誤謬をおちているというfact事実である。 

私はrationalist(合理主義者)である、そして、reason(理性)は、諸君がnecessity of laws(法の必要性)をdemonstrate(公開開示)することができないことを明解にdemonstrate(公開開示)する。

そこで我々はreason(理性)をまずは信じるべきでありこの点を受け入れるべきであること:laws(法)はnecessary(必要ない)-それら(法)はfacts(事実)であり、そしてfacts(事実)はcontingent(偶然性)のものであり-それらはreason(理由)なしに変わることができる。 

Time(時間)は物理法則のもとに統治されていない、なぜならそれはmad time(正気でない時間)によって統治されたそれ自身でlaws(法)あるからだ。 

私がここで強調したいことはthe type of rupture(破裂のタイプ)であり、これは形而上学の原理の二つに関するものである:

端的にいえば“the metaphysics of substance”物質の形而上学と“metaphysics of becoming”(成りの形而上学)である。

私はつぎのように信じるものである;being (conceived as substrate)(基質として知識化された存在)とbecoming(成ること)との間の対立はprinciple of reason(理性原理)のなかに包含されており、この対立がthe operator of every metaphysics(形而上学の運転者)となるのである。 

これは一方でsubstrate(基質)としてのarchè(元)、Thales学派はたとえば水をすべてarchèとして考えたこと、他方でentity(実体)があらわれたり壊されたりすることが必然性のbecoming(成り)とするapeiron(無窮性)をarchè元と考えるAnaximander学派があり、この二つのあいだでの対立はPresocratics(前ソクラテス)時代以来からの対立である。 

 

 

Heraclitus NitezscheはThinkers of becoming(成りの思想家)でDeleuze-はanti-metaphyscians(反-形而上学者)としばしば考えられていて、

形而上学はfixed principles(基点化された原理)の哲学として考えられている、それはsubstances(物質 )と Ideas(理念)である。 

しかしmetaphysics(形而上学)は事実として、entities(実態)やprocesses(プロセス)のdeterminate necessity(決定された必要性)についてのits belief(その信念)によって定義される:ものごとはそれが何であるべきかまたは、それらは何に成ることに成るべきかがある、なぜならこれ(観念もしくは宇宙の創世)にはreason(理由)があるからである。

 

 

これが、becoming(成ること)の形而上学が何故two metaphysical necessities(ふたつの形而上学的な必要性)に信じおく理由である;

fixity(固定性)よりもむしろbecoming(成る)ことの必要性;そしてequally thinkable(均等に考える)というものよりもむしろsuch and such a becoming(それやこれやのように成る)必要性である。

他方、Hyper-Chaos(超カオス)のとらえかたはthe idea of a time(時間の観念)でありそれはそれを制約するものはなにもないという形而上学的な必要性から完全に解放されたidea(観念)である;becoming(成る)でもなくsubstratum(物質層のもの)でもない。

  

 

このhyper-chaotic time(超カオス時間)はbecoming(成る)をcreate(創だし) および destroy(壊し)たりをすることができ、また理由なしにfixity(固定) か movement(移動), repetition(反復)かcreatation(創りだし)さえできるのである。

これが、私をして究極的に matter of philosophy(哲学案件)をbeing(あること)

や、becoming(成ること)ではなく、representation(表象性 )や reality(現実性)でもなく、very special possibility(非常に特殊な可能性)のものであると考えた理由である、それはa formal possible(形式的な可能なもの)ではなく、a real and dense possible(リアルで密なる可能なもの)であって、私はこれを“peut-être”- the ‘may-be’(多分そう)とよぶものである。

このeven Peut-êtreと表現したが[? “This mere Peut-être”(この唯のPeut-être)か または “Even this Peut-être”( このPeut-êtreでさえ)か? ]、これは公開開示するには非常に複雑なものであり、もっとも近い意味としてはMallarmé’s Un Coup de dés(マラルメのサイコロの目)でいうPeut-êtreであろう。

フランス語ではL’affaire de la philosophie n’est pas l’être, mais le peut-être.つまり[哲学的関心としてはbeing(ある)についてではなく、the May-be(多分そうある)についてである]

 

 

 facticity(事実性)がthe absolute(絶対)であるなら、そこでfacticity(事実性)もまたhyper-chaos(超カオス)であり、合理主義者のカオスであり、それは逆説的には反合理主義者のカオスよりもおおきなカオスなのである。しかしこの点を受け入れたとしても、われわれは深刻な課題をもつようにおもう;このような概念でのancestrality(先祖以前性)の課題をわれわれは解決することが望めるのであろうか。

これはそれ自体でリアルである科学的知識としての整合性を基礎づけることができるようなan absolute(絶対なるもの)を発見するという課題なのである。

 

我々はいま、an absolute(絶対)を所有する、それは、わたしは信じるのだが、correlationism(相関主義))にresist(抵抗)することができるのであるが、しかし、このabsolute(絶対)はrational structure of being(存在beingの合理的構造)の反対側にあるようにみえる:  

我々はそれをつうじて、the reason for facts(事実のための理性)の説明を試みているにもかかわらず、それはthe principle of reason(理性原理)の破壊である。

いま、それはfacts(事実)のみがそこにあって、そしてもはやそこにはreason(理性)はないようにみえるのである。 

このような結果をともなう科学基礎を我々は如何に希望できるのか?

このあたらしい課題をひも解くひとつの筋があると私は考える。

我々はそれを如何にすすめうるか?

私のテーマはspecific conditions of facticity (事実性の特定条件)がそこにあるかであるが、わたしはそれを“Figures”(容姿)とよぶ。 

Facticity(事実性)とは私にとってはthings(物事)の唯一の必要性ではあるが、しかしfactual(事実的)であることがまさにanything(なにかあるもの)であることではないことを含むものである。

Factual(事実的)であるということはany sort of thing(なにか具体的なもの)へ適用されるものではない。

Some things(なにかの物事)が、もしが存在したとしても、factual(事実的)なentity(実体)としてあるべき厳密な必要な条件には従わないであろう。

それがthese things(これらの物事)が存在しえない理由であり;それらは存在できない、なぜならもし存在するなら、それらは必要であろうし、そして必要であることは、the principle of factiality(存在化原理)にもとづいて、不可能である。

 

 

After Finitudeでわたしが証明を試みたのであるがひとつの例を示そう、それはnon-contradiction(非矛盾)がcontingency(偶然性)の条件であること、contradictory reality(矛盾的な現実性)は変化しえない、なぜならそれはすでにそうでないものとしてあるとして織り込み済みであるからである。

さらに精密にいうと;ある存在があっていかなる矛盾を支持できるものであるということをimagine(想像)するか、むしろconceive(知覚)することをを試みることにしよう;それはproperty特性aを持ち、同時にそして全くおなじ条件において、それがaでないproperty特性をもつ。

そのobject(対象)は赤のみである、そして赤のみではなくて非赤でもある。

そしてそれは諸君が知覚できるいかなる特性にたいしても同じである:bであることとbでないこて、cであることとcでないこと,等々。

 

さて、このentity(実態)が変化しなければならないこと、それがいまあるもでないなにかになることを知覚することをこころみる、そのようなことは知覚可能であるであろうか?

無論できない、それがすでにすべてであり、そしてその逆のものである。

矛盾的なbeing(存在)は完全に必要である。

それはキリスト教でのGod(神)が一度は、なぜ彼が父にして、終わりなく、永遠であるものであり、そしてかれは神の子ではなく、人間でありそして死すべき者であるかというものであるかとなる。

もし諸君があるものを必要と考えたいなら、諸君はそれと矛盾するものを考えなくてはならない。その絶対がなりうる絶対の外側には何もないというものも考えることであり、そのあるもののalterity(代わり)という意味ではない。

これはまた究極的にHegelian Absolute(ヘーゲル的絶対)が結果的な矛盾となる理由である:なぜなHegelはあるbeing(存在)がリアルに必要である、つまり絶対ということになるが、その存在はそれがそれであらねばならないこととそれがそれではないことであって、そのことはそれがその外側に所有しているものをすでに自身内側にも所有していることを理解したのであった。

Such an absolute would have no alterity, and hence would be eternal (そのようなan absolute(絶対)はなんらalterity(代替)を持たないであろう、そしてそれはeternal(永遠的)であろう) しかしながらこれはa contradictory eternity(矛盾的永遠性)になるであろう)、which doesn’t have becoming outside itself-(その永遠性はそれ自身の外側に成るのではなく)、an eternal becoming(永遠的な成り) がeternally passing in to eternity(永久性へのなかで永久的に浸み込んでいくのである。)

 

一方、私は矛盾が不可能であることを保持する、それは私が合理主義者なるが故であり、かつ非矛盾性は過激なカオスつまりHyper-Chaosの条件であるがゆえに保たれるからである。

私が矛盾的な存在が不可能であるあることを意味しないことに留意されたい、なぜならそれはabsurd(不条理)であるからであり、a non-sense(無意味なこと)であるからである。

反対に、矛盾的な存在が無意味ではないと考えるのである:諸君はそれを厳密に定義でき、かつそれにreason(理由)をあたえうるのである。

 

 

諸君はリアルな矛盾が不可能であることを合理的に開示することができる、なぜならそれがnecessary being(必要な存在)であるからである。

換言すれば、その形而上学的な理性原理では絶対的誤謬であるがゆえに、非矛盾性の論理的原理は絶対的に真なのである。

すべてのものごとの完全なる“logicity”論理性はなにかあるもののための理由が絶対的に不在への厳密なる条件である。

それが私としてmetaphysics形而上学をひろく信じない理由なのである;形而上学はいつもいくつかある筋のどれかひとつを、理性の原理に於いて信じるのである; 

Metaphysician(形而上学者)は何故に物事がいまあるようにあらねばならないかを、物事が必然的に変化しなければならないか、そして何ゆえに物事がそれらのあるべき状態を劣化消滅するか、もしくは物事が変化するように変化しなければならないのかを説明することができると信じている哲学者である。

 

 

私は反対に、reason(理性)が以下のwhyを説明するべきであると信じるものである;物事がなぜそうあって、そしてなぜそれ自身がそうでないように常に成るかを、そしてなぜこのゲームのためにultimate reason究極理性がそこに居ないのかについてである。

この道筋において、“factial speculation”事実的思弁は依然としてa rationalism合理主義であるのだ、しかしそれは逆説的なものである;

なぜ物事が理由なくして存在しなければならないのかを説明し、それらが理由なくしてどのように存在しうるのかを説明するa rationalism合理主義でもあるのだ。 

Figures(容姿)はfacticity-の必要なmodalities (モード性)であり、そしてそのnon-contradiction(非矛盾性)は私が principle of factiality(事実性原理)から演繹する最初のFigures(容姿)である。

これはひとがthe absence of reason-(理性不在)についてreason(理由づけ)をし得るものとして開示することでもあり、理性についてまさにa profound transformation(その観念が深淵なる転換性)に関するものか、それが理性原理からの理性解放なのか、またはまさに;理性原理からのわれわれを解放する理性であるのかである。

 

Figures(容姿)それはfactiality原理からはじまり、自然科学の力から引きだす可能性であろうか?

つまり、それはway of mathematical discourse(数学的論述の道筋)でそれ自身におけるrealityを知るということであり、その論述によって私が意味する我々の世界を、Hyperchaos(超カオス)によってthe factual worldに事実上産み出されるようなものであり、

そしてour subjectivity (われわれの主観性)とは独立に存在するような内容のものである。 

さて、私のプロジェクトにはAfter Finitudeで解決しないひとつの問題がある、しかしそれは未来においで解決されることを望むものである;私はここでは厳密に問題設定はできないが、単純な質問によってまとめることはできる;

この非常に難しい課題に答えるためにはひとつの条件がある、それはancestrality(先祖以前性)の問題への事実的な解決の条件であり、そしてその条件こそが私の現作業の理論的終結となるものである。ご清聴を感謝する。

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