月刊ボンジョルノ

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明治期歌舞伎際物の興行宣伝と受容 ― 『皐月晴上野朝風』をケーススタディとして (下)

2007-07-24 | 伝統芸能
次に、本作の登場人物のモデルとなった上野戦争の従軍者やその親族・関係者の動向について述べたい。本作には上野戦争にゆかりのある当時現存の店や存命の人物が多く登場する。例えば序幕に隊士らが参集する料理屋松源楼は、六二連の主要メンバーでもあった梅素薫の画になる引幕を贈った。

○新富座 今度同座にて演ずる上野戦争の狂言に広小路松源の場が有るにつき、松坂屋源七より引幕を送り、開場次第惣見物を為由。又同所数寄屋町の芸妓も土地の狂言ゆゑ 引幕惣見物の相談中なりとぞ。(『新報』第1125号、明治23.4)

○新富座の幕 同座へ下谷広小路の松源より贈る引幕は梅素薫(ばいそかほる)氏の作にて、櫓紋を中央 へ見せ、地は光琳百図中の屏風松島の図をそつくり出したる趣工なりと云ふ。(『新報』第1129号、明治23.5)

「土地の狂言ゆゑ」とあるように、上野の花柳界・商店・料亭は総見物を行って興行を支援している。

○下谷連の新富座見物 今回新富座に於て上野の戦争演劇をなすに付、下谷区にては夫々組を分けて総見物をなす相談中なりと云ふ。今其重なる所を挙ぐれば、第一数奇屋町 同朋町の校書(げいしや)連中、第二守田治兵衛氏の連即ち仲町連中、第三湯屋佐兵衛氏連即ち竹町連中、第四は松源連中、第五は大茂連中、第六は松坂屋連中、第七は鴈鍋連中等なるよし。(読売新聞、明治23.5.24)

○惣見物五百人 とは外でも厶(ござ)らぬ、越前屋佐兵衛と云人、今回(こんど)の新富座に菊五郎が同 人に扮(な)るので、佐兵衛大奮発にて人数を募集し、惣勢五百人にて来る十二日同座の茶屋相摸やより繰込由。尤も此人数は湯屋仲間ではなく、池の端の宝丹主人が指揮(さしづ)にて当人が奔走し、下谷区で然るべき人々が募りに応ぜしなりと云。(『新報』第1137号、明治23.6)

松坂屋、雁鍋ともに上野戦争では新政府軍の拠点となった家として知られる。「池の端の宝丹主人」とは胃腸薬宝丹の販売で知られる薬舗主人守田治兵衛。引札・看板類の執筆や宣伝用冊子『芳譚雑誌』の発行なども行った。
同様に彰義隊ゆかりの人々や旧幕臣による芝居見物もしばしば紙上の話題になっている。

○静岡県下二百名の幕士新富座を見物せんとす 目下新富座に於て上野戦争の狂言を演ずるに付、静岡浜松辺に住する旧幕の士四五名が発起人となり、賛成人二百名程を募りて、近日博覧会見物を兼ね新富座見物のため上京せんと企て、最早八九十名程も賛成者ありとの報、同座の或る方へ達したる由なれば、何れ不日当地へ着の上は花々しく見物す る事ならんとのことなり。(読売新聞、明治23.6.8)

○昨日の新富座 昨日の同座は日曜といひ、殊に雨天なりしためにや、近来になき大繁昌にて早速売切れとなり、且当日は成福の演ずる上野輪王寺宮(北白川宮)殿下の御兄上に渡らせらるゝ陸軍大将小松宮殿下も御見物あらせられ、尚ほ東本願寺の門跡大谷光瑩師にも見物せられたり。(同 6.16)

○新富座 同座は未(いまだ)相応の入にて、一昨日の日曜は中々の景気なりしと。殊に同日は彰義隊に縁故の人々五拾余名が、土間十間を打抜、茶屋相摸屋より見物したり。何れも袴羽織を着用し、見物中は酒を廃し、当日の周旋は例の越前屋佐兵衛父子が奔走せしと云ふ。(『新報』第1146号、明治23.7)

本作の登場人物を強く想起させる存在である彼らが観客として見物に訪れることは、他の人々の本作に対する関心をかき立てずにはおかなかっただろう。
また記事中の越前屋佐兵衛は湯屋主人塚谷佐兵衛で、上野戦争敗北により輪王寺宮が寛永寺を脱出した際に、宮を背負って戦火を逃れた人物。本作二幕目・下谷竹町湯屋の場はまさにこの佐兵衛経営の湯屋を舞台としており、五幕目・三河島不動前の場は、輪王寺宮を僧光仁に仮託して宮の奥羽落ちを脚色した場面である。舞台では菊五郎の扮したこの佐兵衛の行動は、特に多くの話題を提供している。

又爰に一つの珍説は、同狂言に竹町湯屋の場と言ふが有るを同湯屋の主人が聞込み、一体如何言ふ脚色(しくみ)か、上野の戦争に付ては同家の主人は大いに関係の有る事なりとて、手続きを経て音羽屋の宅へ至り、当時の話しを見るが如く語りしに、其侭(そのまゝ)音羽屋へ這(はま)る筋にて、二幕ばかりは立派に作るにつき少し脚色を直して右の役を音羽屋が勤めると言ふ。(『新報』第1125号、明治23.4)

○又 同座にて下谷竹町(今は下谷町)湯屋の場を演ずるにつき、同家の主人越前屋塚谷佐兵衛が上野の戦争に付ては非常の尽力を為(なし)たる事を作者が聞込み、本人に就て委敷(くわしく)聞しに依り、佐兵衛も殊の外喜び、音羽屋にも面会して尚其折の容(さま)を見るが如く物語りしゆゑ、少し筋の改(かは)りし所も有る由なるが、一体片市の役なりしが音羽屋に成しと聞、佐兵衛は殊更に喜び、同人より幕を贈と言ふ。此幕は守田治兵衛氏が筆を震はれ、同氏も大いに肩を入て夫等(それら)の計画に奔走されると言ふ。(『新報』第1126号、明治23.5)

菊五郎と其水が佐兵衛に面会し、その談話を受けて脚本を改変、配役も片岡市蔵から菊五郎に変更になったという。

○梅幸への贈りもの 菊五郎が今度新富座にて彰義隊の組頭天野八郎を勤むるに付ては、此のほど越前屋佐兵衛氏より、輪王寺の宮(今日の北白川宮)下山の際御用ひ相成りたる泥附の草鞋と、同殿下御自筆の「知足」の二字ある幅を菊五郎に与へたる所、同優は熱心 にも其草鞋と幅を床の間に掲げ、出勤の都度朝夕三拝して居るといふ。然るに越前屋にては更に菊五郎の熱心かくの如くなりと聞くや、更に東叡山中堂大伽藍の棟上にありし十六菊の御紋付瓦一個を贈りたるよしにて、同優の喜び此上無く、いと重宝がりて居ると云。(読売新聞、明治23.5.25)

このように越前屋佐兵衛の動向は特に注目を集め、菊五郎との間には度々交流が行われた。なお1893年(明治26)4月18日付読売新聞は越前屋佐兵衛の訃報を伝える。

○越前屋佐兵衛死す 彰義隊戦争の折、身を捨てゝ上野の宮を扶(たす)け参らせし有名なる越前屋佐兵衛氏は、其後家事の都合ありて千住元中組へ移転したる由は当時の紙上に記せしが、去十四日老病起たず終に夕の落花と共に散りて、可惜(あたら)江戸の一名物を失ひたり。法号は釈得道良栄居士。

「江戸の一名物」とあるように、この越前屋佐兵衛は上野戦争にまつわる記憶をたどる際には欠くことのできない指標となる人物であった。それゆえに本作の中にも重要な役として取り入れられたが、劇作にあたっては当人から直接聞き取った談話が大きな影響を与えたとともに、興行中には彼の観客としての行動が報じられることによって、興行成果にも間接的に関与することになった。
元彰義隊士など直接に戦争に関与した者の動向も取り沙汰されている。高木原源吉の名で登場する剣客榊原鍵吉は元幕府講武所師範。彰義隊に所属はしなかったが、上野戦争に参加し輪王寺宮の上野脱出を助けた。維新後は道場を経営しながら1873年(明治6)に「撃剣会」を組織して撃剣興行を創始、断髪せず髷を守るなどの逸話で市井によく知られた人物であった。

○榊原健吉氏 今度新富座に於て上野彰義隊の戦争を演ずるに付、下谷車坂町の撃剣家榊原健吉氏には門弟一同を率いて総見物に出懸る由なるが、当日は何れも稽古着に野袴を着すると云ふ。 (読売新聞、明治23.4.30)

○榊原健吉氏 同氏にも今度新富座の脚色(しくみ)に関係有れば、開場次第門弟中と倶に惣見物を催ふされると云ふ。(『新報』第1126号、明治23.5)

元彰義隊士秋元寅之助は作中に秋元虎之介として登場するが、彼も菊五郎および其水に体験を語ることで劇作に影響を与え、また立廻り等の指導を行っている。役者ではない者がこうした具体的な演技指導を行っていることは、戯曲のみならず演技のレベルでも本作が上野戦争を写実的に再現しようとする指向をもっていたことを示す例として指摘しておきたい。

○上野戦争の説明 元彰義隊の一人たりし秋元某と云へる人は、当時万端指揮(さしづ)をなし居たる因にて、今度或る人の周旋に拠り、菊五郎は自宅へ同人を聘し、去る九日十日の両日、同氏の記憶せし当時現場の有様、並に戦争の模様より勇士等の実伝を聞きたりと云。又其時同席したる河竹其水氏は必要の箇所を一々筆記したる由なれば、脚本中多少増減する所あるべしと思はる。(読売新聞、明治23.5.13)

○秋元倉之助氏(ママ)の熱心 今度の新富座に於ては、元彰義隊の組頭なりし同氏を秋元富之助(ママ)と仮称し、坂東家橘が勤むることとなりしに、付ては同氏は日々同座へ出張し一番目狂言の顧問となり、家橘始め一同へ、立廻りの振、其外総て懇ろに教へ居らるゝ趣きなり。(同 5.26)

一方では次のような悶着も伝えられるが、これもまた本作の人気を裏付けるものといえるであろう。

○上野の戦争 今度新富座に於て演ずる上野戦争の脚色(しくみ)中に、同隊に関係なき者が非常の働きを為し、又た戦争と聞て直ちに逃走したものが戦功を立てたる様になり居りて、大 分事実相違の廉あるに由り、同戦争に与り尚ほ現存し居る人々は、之を心よからぬことに思ひ、目下右に付き協議中なりといふ。(同 5.11)

このように、本作においては人気役者が舞台上で存命の人物を多く演じ、肉体をもった人間として観客の眼前に登場した。それは実在の人物が舞台で活躍するという興味を惹起しただけではなく、本作の場合には特に当の人物や縁者の観客としての行動がさかんに報道されることにより、劇中では彼らの23年前の行動が再現され、また同時に本人が観客の立場からそれを見物する、さらにそれを他の観客が外から見守るという三重の関係を生じさせることになった。これは先に述べた彰義隊士追悼の法要・墓参と同じように、興行の広報宣伝という役割を自ずと果たすことになるが、それのみならず本作の舞台作品としての受容の面においても独特の効果を有していたと考えられる。
同時代の観客の耳目を集めた事件を劇化することは近世以来頻繁に行われ、歌舞伎をはじめとする日本の芸能において重要な創作方法であり続けた。そこではほとんどの場合、脚色を加えながら事件の経緯を部分的に再現するという方法が取られるため、舞台上に表出される時間・空間は、題材とされる事件の実際の時間・空間と観客の意識の中で重なり合うこととなる。したがってたとえ「世界」の採用によって全く異なる時代背景に劇を仮託することがあっても、少なくとも実際に起きた事件に関わる部分については、劇的興味の中心は事件の再現と観客によるその追体験にある(5)。
本作の場合には、それに加えて、全編の題材たる上野戦争に直接関与し、なおかつ劇中人物のモデルとなった当人あるいはその関係者が客席に数多く来場し、またその行動が新聞・雑誌によって広く報じられることにより、彼らが他の観客の視界には劇受容の一要素として介入してくることになった。いわば舞台上で再現される時間・空間をかつて生きた戦争の当事者が、23年間という時間を経て、演劇ではないあくまでも現実のレベルで観客の目や耳に触れることによって、観客の意識の中で舞台と現実とが急速に接近することとなる。本作においては、上野戦争の記憶を直接的に担う、とりわけ上演の折に存命である人々が介在することにより、舞台上で再現される上野戦争当時の空間と、1890年(明治23)という本作上演当時の現実の空間とが心理的に極めて接近する、あるいは直接に交じり合うという効果を生み、単なる宣伝にとどまらず作品受容において重要な意味があったと考えられるのである。このように、実在の人物が、演劇的要素として舞台上に形象化されると同時に、観客と地続きの現実世界にも姿を現して観客の意識に直接に触れるという両義的な性格をもち、いわば双方の世界を媒介する役割を担ったのが本作の重要な特色であるといえる。
以上、『皐月晴上野朝風』上演にあたっては、第一に芝居関係者が関与して彰義隊士の法要や墓参がさかんに行われたこと、また第二に登場人物のモデルとなった人物の動向がしばしば報じられ注目を集めたことについて述べ、本作の興行および受容の一側面を示した。
これらの舞台外における交流によって、上野戦争当時を知る者はその記憶を再構成・再確認し、また知らぬ者は新たな関心を呼び起こされ、観劇の大きな契機となったであろうことが想像できる。したがってこれらの交流は観客動員に一定の役割を果たしたと思われ、まずは興行宣伝策としての性格を指摘することができる。また一方では、本作が戦争関係者の存在を媒介として上演当時の現実を重ね写しのように取り込むことによって、台帳のテクストが生み出す空間・時間の枠組みを大きく逸脱しつつ、人々の過去にまつわる記憶やイメージを喚起し、あるいはその共有を確認させるという特色をもっており、本作を実際に観劇することによって、観客は上野戦争当時の模様をきわめて具体的かつ視聴覚的なイメージとして追体験することにもなったと思われる。特に本作の場合に特徴的なのは、その際に本稿で述べた舞台外における様々な交流が大きな役割を果たしたことである。
本稿では専らそうした交流に着目して興行の一側面を述べるにとどまったが、このようないわゆる「当て込み」の事例は明治期歌舞伎の劇作法や演出・演技を検討する上で軽視しがたい事象であると思われ、本作は単に過去を回顧的に再現したことによって評価されるのではなく、近代の歌舞伎における歴史的記憶の表現と受容を考える上で再検討されるべきであろう。



(1)明治期の観劇団体の一つ。観劇のほか引幕贈呈等による劇場・役者への支援、『歌舞伎新報』への劇評の投稿、『俳優評判記』の発行等を行った。
(2)わずかに神山彰「明治の『風俗』と『戦争劇』の機能」(『近代演劇の来歴』、森話社、2006年、160-173頁)が本作に言及している。
(3)榊原鍵吉の考案による木刀の一種。廃刀令を憚って杖と称した。
(4)本作で後藤鉄次郎を演じた小團次も後藤のために法要を計画した(『新報』第1135号、明治23.5)。なお小團次については後藤鉄次郎の弟が兄の形見の刀を寄贈したことが報道され、「渡譲証(ゆづりわたししやう)」の文面がすべて掲載されている(同 第1134号、明治23.5)。このように関係者遺族が役者に遺品を贈呈することによって役者と遺族との間に交流が行われることもあった。
(5)上野戦争物として本作の先行作にあたる1870年(明治3)8月守田座初演・河竹黙阿弥作『狭間軍記鳴海録(はざまぐんきなるみのききがき)』においては、上野戦争が桶狭間の合戦に、天野八郎が水間左京之助に仮託されたが、「その田楽ヶ窪雨中合戦の場は、上野の戦争を暗示し、当時はやった戦争錦絵の画面を舞台に写し、茶屋の暖簾などであらかじめそれを暗示したので非常な評判になった」(演劇百科大事典、『彰義隊物』の項、渥美清太郎執筆)と、やはり上野戦争の再現部分に興味が集まったという。


(『文化資源学』第5号、文化資源学会、2007年3月)