どんどん日が伸びて9時過ぎまで明るいこの頃。
しかも日中の陽射しの強さといったら目も眩むばかりです。
しょうがないので現地人の真似してサングラスをかけて歩いていますが、これがコテコテの東洋人には似合わない似合わない。大泉滉みたいになってしまいます。
知り合いに「どうこれ」と聞いたら「日本のことはよく分からない」と言われました。
さてイタリアといえば解剖学。
レオナルド・ダ・ヴィンチをはじめ芸術家たちが人体解剖学に熱中したのも有名な話です。
しかし昔は遺体を保存する技術が発達していない。
なんとか標本として残せないものか。
そこで本物の人体標本の代わりに、精巧な蝋細工がたくさん作られました。
これらは美術品ならぬ美術品として注目を集める一方、いまだに医学部の教材としても使われているのですが、この解剖蝋細工のメッカだったのがフィレンツェ。
フィレンツェ大学の動物学博物館には500点を超えるコレクションが残されています。確か以前『芸術新潮』だかで特集がありました。
で、中でも高名なのはクレメンテ・スシーニという蝋細工師。
日本でいうと江戸時代の後期に活躍した人なのですが、このスシーニの良質な標本コレクションが、サルデーニャ島の州都カッリャリにも残っているという情報をキャッチ。
折しも島内最大のお祭りが開催されるとあって、その取材かたがたサルデーニャ島に行って参りました。
サルデーニャはイタリアの長靴の膝あたりの沖に浮かぶ、四国より少し小さい島。
イタリア語とは似ても似つかぬ言語や面白い民族音楽が残っていて、独自の習俗文化で名高い秘境です。
ちなみに名物はワイン(赤白とも実にうまい)にカラスミ(スパゲティが最高)に羊乳のチーズ(最高級のは生きた蛆虫入り)。
すみません食べ物に触れずにはいられないもので。
ここで何より恐ろしいのは「目当ての場所に行ってみたら閉まってた」という事態。
これがイタリアでは実に多く、「行く直前に直接確認。確認しても安心するな」が鉄則です。
ご近所ならともかくサルデーニャくんだりまで足を運んで空振りでは泣くに泣けません。
早速コレクションを所蔵する博物館にメールを送ったところ、館長にしてカッリャリ大学教授のリーバ先生が直々にお返事をくださいました。
しかも宿をとるなら紹介しよう、館内ガイドも引き受けようとのありがたーいお申し出。ここは遠慮なくお世話になることにしました。
カッリャリに入ると目の前が港。大型フェリーがずらり並んで停泊していて、そこから山の急斜面にしがみつくように町が広がっています。
当然急勾配の坂道ばかりでなかなかハードですが、久々に潮風を吸って海好きの私は上機嫌。ここの年寄りは体が丈夫だろうな。
さて約束の場所に行ってみると、手を振りながら「ここ!ここ!」と叫んでいる半ズボン・サングラスで頭の大きなオヤジが。
メールの繊細でエレガントな文面とだいぶ印象が違うぞ。
少しビビりながらどうもどうもと握手をして早速博物館へ。
山のてっぺんの昔お城だった所に博物館や美術館が集まっていて、町と海が一気に見渡せます。
いくさになるとここから大砲をぶっ放したそうで、立派な城壁の一部がきれいに残っていました。
しかしこの教授、どうも恐ろしくせっかちなお人のようで、多弁早口のうえに体のどこかが常に高速で動いています。
「で。で。演劇が専門の君がなんで解剖標本なんぞを見に来たのかね。ん?ん?」
「はあえーと日本の伝統的な演…」
「ほおほお」
「大衆的な興行というか展示とい…」
「はいはいそれで」
「人間の体を標本にし…」
(急にスチャッとポーズをつけて)
「ところでここのコレクションの歴史は知っとるかね」
(もう教授のペースから逃れられない)
「えーとインターネットですこ…」
(ポーズを変えて)「ナポリ王の弟がサルデーニャ王としてやって来たのがなぜかというと。当時この島は…」
途中「分かってる?ついて来てる?」というのを挟みながら立ちっ放しで30分。
まずは博物館の歴史をみっちりと拝聴いたしました。
要するに18世紀末のカッリャリ大学の教授が、王様の命を受けて国内各地で解剖学の武者修行。
フィレンツェにいる時にスシーニの標本を買い上げて船でカッリャリに運び込んだ、というわけ。
この標本はその時教授がフィレンツェで実際に行った解剖をもとに作られたんだそうで。
「で。で。君はフィレンツェの博物館のコレクションは。何度も見たか。しかしこの顔を見たまえ。フィレンツェのとは比べものにならん。どうだ。このリアルさときたらもう。な。な。凄いだろう」
確かに。フィレンツェの標本の多くが生きているかのような顔とポーズなのに比べ、こちらのはとことんリアルに死体を追求しています。
どろんと開いた半眼、緩みきった頬の筋肉、唇の間からちらりと覗く前歯。
髪の毛は当然本物の人毛で、男の顎には伸びかけのヒゲの根がチクチクと微妙な盛り上がりを見せています。
腕や足の断面が台に接する部分は、肉の重みでぶにょんと平らにひしゃげていて。いや凄い凄い。どっからどう見ても死体だあ。
死体には「ごろーん」とか「どてーん」とかいう感じの独特の緩み感があって、どんなにうまい役者でも生きている人には出せないものですが、この微妙な緩み感があますところなく表現されています。
感心して見入っていると教授もご満悦のご様子。
「ほら。写真を撮ってもいいんだよ。遠慮せずそらそら。そっちは逆光だな。ケースの方を動かしちゃえ。えい(ゴトゴト)」
このハイテンションのまま、コレクションを一つ一つじっくりと解説してくださいました。
まずは「実際には存在しない、間違って作っちゃった器官」という面白い標本から始まって、手・足・目・耳・喉・舌・消化器・泌尿器・生殖器とパーツごとの標本。お約束の「胎児入り子宮」もあります。
「ここがなあ。解剖するときは難しいんだここが。メスが入らなくて」
「そういえば私、医学部の解剖実習を見学したことがありまして(かなり自慢)」
「なに。そりゃ珍しい。貴重な経験だぞそれは。なにしろ人体というのはこの上なく美しいものだ」
「そうですよねえ。神様ってスゴいっすよねえ(自慢する割に結論がバカっぽい)」
燦燦と陽の差し込む部屋でリアルな色彩の人体パーツを眺めていると、それがもぞもぞ動いているかのような不思議な気分になってきます。
まあこれのモデルになったモノは元々もぞもぞ動いてたわけで。うーむ生命の神秘。

▲顔。来日経験あり。
続いて頭部顔面二つ割。
これは数年前日本で開かれた「大顔展」という催しに出品されたものだそうです。
飛行機の貨物にすると温度差で蝋が傷んでしまう。
そこで機内手荷物の大きさに収まるものしか運べない、ということになり、この頭が晴れて代表選手になったんだそうです。
私ならわざと怪しい物入れといて、税関の係官に箱を開けさせるね。「開けてもいいですか?」「どうぞ(ニヤリ)」とかいって。
やっぱり顔は一番インパクトがありますね。
ところでいざ日本に着いて開けた時には、木製の台に蝋が一滴固まっているのを日本側スタッフが見つけ「日本の気候で蝋が溶けたあ!」と大騒ぎになったそうですが、「こりゃスシーニが垂らした蝋で元からあったものだ。だいたい日本人は心配し過ぎなのだ。」
そりゃするって。あんたたちがしなさ過ぎなのだ。
これまた見事な若い女性の上半身。
両足の付け根から下が切断され、なおかつキカイダーみたいに半身は皮膚が剥がされて筋肉・脂肪がよーく見えるようになっています。
「それ、そこの足の間から覗いてみ、なんと中は空洞になっている」
「え、どれです?」
「見えないかね、それそれ中が」
「はあはあなるほど」
サルデーニャの昼下がり、へっぴり腰で懸命に女陰を覗く男二人。
なるほど、あばら骨の表から裏へ明るい光が透けて、筋肉の紅色が裏側から鮮やかに見えます。
これどうやって作ったんですかね?やっぱり石膏で型取りして?
「そこだ。蝋細工師はウデで勝負の職人。皆自分の技術を知られるのを嫌がったのだな。ゆえに細かい作り方まではよく分かっていないのだ。あと最大の問題は時間。とにかく急いで作らないと死体が傷んでしまう」
そりゃそうだ。しかも作業ができるのは冬の間2~3ヶ月だけ。これはかなりシビアな職人芸ですな。
あとここのコレクションは使ってある蝋がフィレンツェの物とは全然違うのだとか。
カッリャリは暑い所なので、いつもの蝋ではドロドロに溶けてしまう。
そこで高温に強い中国産のとびきり高価な蝋を取り寄せてじゃんじゃん使わせたんだそうな。
おかげでこれの購入金額が一説にはスシーニの年収の10倍とか。
解剖標本にどかどか大金をつぎ込む王様。やっぱり王様はこうでないと。文化支援とか言ってる貧乏臭い連中に聞かせたいね。やるじゃん王様。ビバ王様。
教授渾身の解説付きでじっくりたっぷり標本を堪能し、マニアの私も大満足。
三日後の出発の時は空港まで送ってくださるという教授に、ただもう御礼を言って握手をして、幸せな気持ちで博物館を後にしました。
ふと帰り際に教授の方を振り返って見たら、迷い込んで来た観光客をつかまえて「(スチャッ)ここのコレクションの歴史を知っとるかね」とやっておりました。結局好きなのね、喋るのが。
この手の解剖蝋細工コレクションはイタリア内外を問わずあちこちに山ほど残っているのですが、私の解剖双六はまだまだふりだしを出たばかり。なんとか国内のだけでも見尽くしておきたいものです。変ですか、こんな情熱。
さてイタリアは知る人ぞ知るお祭り大国。
特に4月~6月はお祭りシーズンで、カトリックの厳粛な儀式から土着のミョーな祭りまで、各地で見切れぬほどのお祭りが行われます。
サルデーニャを含めて大小様々、私も芸能を追いかけてたくさんの祭りに足を運んでおります。
そんな訳で次回はイタリアの愉快なお祭り事情を。
多分ミョーな祭りの方でお届けします。
(2002年6月号)
しかも日中の陽射しの強さといったら目も眩むばかりです。
しょうがないので現地人の真似してサングラスをかけて歩いていますが、これがコテコテの東洋人には似合わない似合わない。大泉滉みたいになってしまいます。
知り合いに「どうこれ」と聞いたら「日本のことはよく分からない」と言われました。
さてイタリアといえば解剖学。
レオナルド・ダ・ヴィンチをはじめ芸術家たちが人体解剖学に熱中したのも有名な話です。
しかし昔は遺体を保存する技術が発達していない。
なんとか標本として残せないものか。
そこで本物の人体標本の代わりに、精巧な蝋細工がたくさん作られました。
これらは美術品ならぬ美術品として注目を集める一方、いまだに医学部の教材としても使われているのですが、この解剖蝋細工のメッカだったのがフィレンツェ。
フィレンツェ大学の動物学博物館には500点を超えるコレクションが残されています。確か以前『芸術新潮』だかで特集がありました。
で、中でも高名なのはクレメンテ・スシーニという蝋細工師。
日本でいうと江戸時代の後期に活躍した人なのですが、このスシーニの良質な標本コレクションが、サルデーニャ島の州都カッリャリにも残っているという情報をキャッチ。
折しも島内最大のお祭りが開催されるとあって、その取材かたがたサルデーニャ島に行って参りました。
サルデーニャはイタリアの長靴の膝あたりの沖に浮かぶ、四国より少し小さい島。
イタリア語とは似ても似つかぬ言語や面白い民族音楽が残っていて、独自の習俗文化で名高い秘境です。
ちなみに名物はワイン(赤白とも実にうまい)にカラスミ(スパゲティが最高)に羊乳のチーズ(最高級のは生きた蛆虫入り)。
すみません食べ物に触れずにはいられないもので。
ここで何より恐ろしいのは「目当ての場所に行ってみたら閉まってた」という事態。
これがイタリアでは実に多く、「行く直前に直接確認。確認しても安心するな」が鉄則です。
ご近所ならともかくサルデーニャくんだりまで足を運んで空振りでは泣くに泣けません。
早速コレクションを所蔵する博物館にメールを送ったところ、館長にしてカッリャリ大学教授のリーバ先生が直々にお返事をくださいました。
しかも宿をとるなら紹介しよう、館内ガイドも引き受けようとのありがたーいお申し出。ここは遠慮なくお世話になることにしました。
カッリャリに入ると目の前が港。大型フェリーがずらり並んで停泊していて、そこから山の急斜面にしがみつくように町が広がっています。
当然急勾配の坂道ばかりでなかなかハードですが、久々に潮風を吸って海好きの私は上機嫌。ここの年寄りは体が丈夫だろうな。
さて約束の場所に行ってみると、手を振りながら「ここ!ここ!」と叫んでいる半ズボン・サングラスで頭の大きなオヤジが。
メールの繊細でエレガントな文面とだいぶ印象が違うぞ。
少しビビりながらどうもどうもと握手をして早速博物館へ。
山のてっぺんの昔お城だった所に博物館や美術館が集まっていて、町と海が一気に見渡せます。
いくさになるとここから大砲をぶっ放したそうで、立派な城壁の一部がきれいに残っていました。
しかしこの教授、どうも恐ろしくせっかちなお人のようで、多弁早口のうえに体のどこかが常に高速で動いています。
「で。で。演劇が専門の君がなんで解剖標本なんぞを見に来たのかね。ん?ん?」
「はあえーと日本の伝統的な演…」
「ほおほお」
「大衆的な興行というか展示とい…」
「はいはいそれで」
「人間の体を標本にし…」
(急にスチャッとポーズをつけて)
「ところでここのコレクションの歴史は知っとるかね」
(もう教授のペースから逃れられない)
「えーとインターネットですこ…」
(ポーズを変えて)「ナポリ王の弟がサルデーニャ王としてやって来たのがなぜかというと。当時この島は…」
途中「分かってる?ついて来てる?」というのを挟みながら立ちっ放しで30分。
まずは博物館の歴史をみっちりと拝聴いたしました。
要するに18世紀末のカッリャリ大学の教授が、王様の命を受けて国内各地で解剖学の武者修行。
フィレンツェにいる時にスシーニの標本を買い上げて船でカッリャリに運び込んだ、というわけ。
この標本はその時教授がフィレンツェで実際に行った解剖をもとに作られたんだそうで。
「で。で。君はフィレンツェの博物館のコレクションは。何度も見たか。しかしこの顔を見たまえ。フィレンツェのとは比べものにならん。どうだ。このリアルさときたらもう。な。な。凄いだろう」
確かに。フィレンツェの標本の多くが生きているかのような顔とポーズなのに比べ、こちらのはとことんリアルに死体を追求しています。
どろんと開いた半眼、緩みきった頬の筋肉、唇の間からちらりと覗く前歯。
髪の毛は当然本物の人毛で、男の顎には伸びかけのヒゲの根がチクチクと微妙な盛り上がりを見せています。
腕や足の断面が台に接する部分は、肉の重みでぶにょんと平らにひしゃげていて。いや凄い凄い。どっからどう見ても死体だあ。
死体には「ごろーん」とか「どてーん」とかいう感じの独特の緩み感があって、どんなにうまい役者でも生きている人には出せないものですが、この微妙な緩み感があますところなく表現されています。
感心して見入っていると教授もご満悦のご様子。
「ほら。写真を撮ってもいいんだよ。遠慮せずそらそら。そっちは逆光だな。ケースの方を動かしちゃえ。えい(ゴトゴト)」
このハイテンションのまま、コレクションを一つ一つじっくりと解説してくださいました。
まずは「実際には存在しない、間違って作っちゃった器官」という面白い標本から始まって、手・足・目・耳・喉・舌・消化器・泌尿器・生殖器とパーツごとの標本。お約束の「胎児入り子宮」もあります。
「ここがなあ。解剖するときは難しいんだここが。メスが入らなくて」
「そういえば私、医学部の解剖実習を見学したことがありまして(かなり自慢)」
「なに。そりゃ珍しい。貴重な経験だぞそれは。なにしろ人体というのはこの上なく美しいものだ」
「そうですよねえ。神様ってスゴいっすよねえ(自慢する割に結論がバカっぽい)」
燦燦と陽の差し込む部屋でリアルな色彩の人体パーツを眺めていると、それがもぞもぞ動いているかのような不思議な気分になってきます。
まあこれのモデルになったモノは元々もぞもぞ動いてたわけで。うーむ生命の神秘。

▲顔。来日経験あり。
続いて頭部顔面二つ割。
これは数年前日本で開かれた「大顔展」という催しに出品されたものだそうです。
飛行機の貨物にすると温度差で蝋が傷んでしまう。
そこで機内手荷物の大きさに収まるものしか運べない、ということになり、この頭が晴れて代表選手になったんだそうです。
私ならわざと怪しい物入れといて、税関の係官に箱を開けさせるね。「開けてもいいですか?」「どうぞ(ニヤリ)」とかいって。
やっぱり顔は一番インパクトがありますね。
ところでいざ日本に着いて開けた時には、木製の台に蝋が一滴固まっているのを日本側スタッフが見つけ「日本の気候で蝋が溶けたあ!」と大騒ぎになったそうですが、「こりゃスシーニが垂らした蝋で元からあったものだ。だいたい日本人は心配し過ぎなのだ。」
そりゃするって。あんたたちがしなさ過ぎなのだ。
これまた見事な若い女性の上半身。
両足の付け根から下が切断され、なおかつキカイダーみたいに半身は皮膚が剥がされて筋肉・脂肪がよーく見えるようになっています。
「それ、そこの足の間から覗いてみ、なんと中は空洞になっている」
「え、どれです?」
「見えないかね、それそれ中が」
「はあはあなるほど」
サルデーニャの昼下がり、へっぴり腰で懸命に女陰を覗く男二人。
なるほど、あばら骨の表から裏へ明るい光が透けて、筋肉の紅色が裏側から鮮やかに見えます。
これどうやって作ったんですかね?やっぱり石膏で型取りして?
「そこだ。蝋細工師はウデで勝負の職人。皆自分の技術を知られるのを嫌がったのだな。ゆえに細かい作り方まではよく分かっていないのだ。あと最大の問題は時間。とにかく急いで作らないと死体が傷んでしまう」
そりゃそうだ。しかも作業ができるのは冬の間2~3ヶ月だけ。これはかなりシビアな職人芸ですな。
あとここのコレクションは使ってある蝋がフィレンツェの物とは全然違うのだとか。
カッリャリは暑い所なので、いつもの蝋ではドロドロに溶けてしまう。
そこで高温に強い中国産のとびきり高価な蝋を取り寄せてじゃんじゃん使わせたんだそうな。
おかげでこれの購入金額が一説にはスシーニの年収の10倍とか。
解剖標本にどかどか大金をつぎ込む王様。やっぱり王様はこうでないと。文化支援とか言ってる貧乏臭い連中に聞かせたいね。やるじゃん王様。ビバ王様。
教授渾身の解説付きでじっくりたっぷり標本を堪能し、マニアの私も大満足。
三日後の出発の時は空港まで送ってくださるという教授に、ただもう御礼を言って握手をして、幸せな気持ちで博物館を後にしました。
ふと帰り際に教授の方を振り返って見たら、迷い込んで来た観光客をつかまえて「(スチャッ)ここのコレクションの歴史を知っとるかね」とやっておりました。結局好きなのね、喋るのが。
この手の解剖蝋細工コレクションはイタリア内外を問わずあちこちに山ほど残っているのですが、私の解剖双六はまだまだふりだしを出たばかり。なんとか国内のだけでも見尽くしておきたいものです。変ですか、こんな情熱。
さてイタリアは知る人ぞ知るお祭り大国。
特に4月~6月はお祭りシーズンで、カトリックの厳粛な儀式から土着のミョーな祭りまで、各地で見切れぬほどのお祭りが行われます。
サルデーニャを含めて大小様々、私も芸能を追いかけてたくさんの祭りに足を運んでおります。
そんな訳で次回はイタリアの愉快なお祭り事情を。
多分ミョーな祭りの方でお届けします。
(2002年6月号)