月刊ボンジョルノ

ほとんどツイートの転載です。

「風雲三宅坂劇場」バックナンバー

2005-03-12 | 「風雲三宅坂劇場」
ウチダタツル先生の旧HP「内田樹の研究室」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3949/ に間借りして書かせていただいた「風雲三宅坂劇場」のバックナンバーです。
2003年9月~2004年3月分。
なお2004年3月にはウチダ先生のHPがブログになってお引っ越し
http://blog.tatsuru.com/ 。
「風雲三宅坂劇場」は引き続きNAGAYAコーナー
http://nagaya.tatsuru.com/ に掲載中です。

2004年2月~3月

2005-03-12 | 「風雲三宅坂劇場」
3月29日

ドクター佐藤政務次官様。
幽霊(らしきもの)というのは、実際に見ているときは「こわー」じゃなくて「なんじゃこりゃ」ですよね。
私はフィレンツェ滞在時の自宅の洗面所で見ました。
詳しくは申しませんが、旅の帰りに電車を乗り換えたボローニャの駅でちょっと説明しにくいような経験をしました。
その後フィレンツェの自宅に帰ってからもかなり不自然なことがいくつか発生しました。
翌日家人と電話のついでに「いや実はちょいと不思議な体験をしてねえ」と喋っていたら、ドアを開けっぱなしの目の前の洗面所に、白い霧か煙のようなものがモヤモヤモヤっと現れて、ちょうど視線ぐらいの高さでバスケットボールぐらいの大きさになり、普通に会話を続けながら凝視していると「ふー」とゆっくり消えてしまいました。
私はそれまでこのようなものを見たことがなかったのですが、そのモヤモヤを見ている最中にこういうことを考えました。

1.これは世にいう幽霊というものに違いない。
2.この間からの一連の不自然な出来事はこの人が原因だったに違いない。
3.私はこの人をボローニャ駅から連れて帰ってしまったに違いない。
4.全然人のかたちには見えないが、きっと霊感の強い人なら表情とかまではっきり見えるのだろう。霊感微弱で本当によかった。
5.しかしこういう人に近づいて来られるのはあまりよくないことである。電話で実況中継して電話の相手に何か影響を与えてはいけないから、いま話題にはしないでおこう。
6.気の毒だがお引取りを願った方がお互いのためであろう。この電話が終ったらきちんと筋を通してお話してみよう。

で、電話が終ってから

1.あなたと私は住む世界が違うこと
2.私に何か言われても何もしてあげられないこと
3.私は困惑するばかりなのでもううちには来ないでほしいこと

を、空中に向かって真剣に日本語で説明してみました。
拙いイタリア語よりは日本語の方が誠意が通じると判断したからです。
分かっていただけたのかどうだか、このテの話の再現ドラマのオチのようなエピソードを最後に残して(このときは私も『髪の毛が一本立ちになったような気がした』@内田百間センセイ)、それから妙なことは特に発生しなくなりました。

もう関わり合いにならないためにこの話題は今後扱わないようにしよう、と思ったが徐々にこわくなってきたので、たまたま泊まりがけで遊びに来たペルージャ在住の文化人類学徒松嶋さんに一部始終を話してビビらす。
私は「鉛の時代」のことなど詳しく教えてもらって少し賢くなる。
二人で色々話していると、やはりすべては「何者かの意志による必然」であったのだろう、というような結論に落ち着いた。
人の思いというのは恐ろしい。
必然を生み出す力をもっている。
ボローニャ駅の人については「誠に気の毒であるが私にはなんともできかねる。自分で納得したら行くとこに行ってね」と重ねて申し上げたい。
「業が尽きたら仏になれ」(@民谷伊右衛門 in 東海道四谷怪談)。
ということで、私は霊感担当審議官を僭称させていただきます。

わが社では4月1日と10月1日に定期人事異動があり、ことに4月の異動は大規模なので社内は蜂の巣をつついたような騒ぎとなる。
私はこれを「人事異動祭り・春の大祭」と呼んでいる。
4月1日の正式な辞令発令に先立って「内示」という儀式がある。
上司に呼ばれて「今度こういう辞令が出るからそのつもりでいてね」と耳打ちされるのであるが、この時点で社内の異動の全貌が明らかになるわけである。
たいていの祭りは前夜祭が賑やかで、本チャンの祭儀は静粛なものだ。
わが社の廊下では内示の数日前から「呼ばれた?呼ばれた?」のささやき声が飛び交い、当日の午後には力作の一覧表が出回って奪い合いの狂騒状態となる。
私はこれを「人事異動祭り・春の大祭・前夜祭」と呼んでいる。
祭りは惰性化した日常生活をリセットし、衰えた生命力を再び活化させる働きをする。
しかしお祭り好きの私もこの祭りだけは苦手である。
だってほとんど根拠のないタダの業務命令じゃん。
ざわざわざわと騒がずに、われら組織の犬は黙って仕事こなしません?ばう?
という冷ややかな気持ちで祭りをやり過ごす春秋なのであるが、こういう感覚はもしかしてサラリーマンとしては非常にマズいのであろうか。わんわん。

奈良出張。
上記祭りの影響もあって三月は出張ばかりしている。
某寺院の法要を見学するのが目的なのであるが、せっかくなので民俗学の吉野裕子先生ご夫妻をお食事にお誘いする。
2年前に宮内庁楽部と韓国国立国楽院との雅楽競演という公演があって、先生には「陰陽五行思想と雅楽」という観点からシンポジウムへのご参加とプログラムへのご寄稿をお願いした。
その機会に旦那様ともどもお近づきになって以来、私はお二人のファンである。
ご婦人への礼儀として内訳は秘すが、お二人の年齢は足して182歳。
まことに重畳と申すよりほかなく、それだけの時間を生きられたお二人のお話が詰まらなかろうはずがない。
先生は気を遣われてしきりに私に話をふろうとなさるのであるが、私はとにかく珍しいお話を聞きたいのでお二人に思い切りボールを投げ返す。
どんな本にも載っていない話が次々に繰り出され、特に旦那様の「昭和八年前後の商船南米航路乗務ばなし」はまさに映画を見るようである。
「南米のパリ」と呼ばれた全盛期のブエノスアイレスでアルゼンチン・タンゴを踊っていらしたそうである。
篠田鉱造の「百話」シリーズみたいな聞き書き本を作れたら間違いなく一巻中の目玉となるであろう。
たっぷりお話を伺って満足満腹だったが、出張本来の目的である肝心の法要は期待に反してスカだった。
いくらなんでももうちょっと真剣にやろう、お坊さんたち。仏罰が当たるよ。
 

3月14日

沖永良部島出張。
「こないだは鳥取で今度はおきのえらぶですって。出張ばっかりで結構なご身分ですこと。きーっ」などと赤目を吊り上げてはならぬ。
物見遊山ではなく仕事である以上、決して楽チンなものではないのである。
ま、たまにはおいしい地酒が飲めたりしますけど。
沖永良部には奄美大島とも沖縄とも違う唄が残っていて、しかも伴奏に胡弓を使うことがある。
沖縄の宮廷音楽を別にすれば、他の島々で胡弓を使うことはまずない。
しかもしかも海岸に漂着した椰子の実を胴にして弦を張った「椰子の実胡弓」を手作りしてナニゲに弾いていたりするのである。
大変面白いので劇場にご出演願おうという魂胆である。
地元の民俗資料館のS田先生にお引き回しいただいて、Y下さんとN田さんにお目にかかる。
S田先生は島の民俗・伝承の収集記録に情熱を注いでおられる研究者である。こういう真摯な仕事に打ち込んでおられる方にお会いすると、半チク興行師としては本当に頭の下がる思いである。
さて小さいのはコブシ大から大きいのはソフトボール大まで、拾ってきた椰子の実をパカッと二つ割りにして、片面に蛇皮を張る。
ヘタの部分だろうか何だろうか、どの胡弓も裏面にはごく小さい穴が二つと大き目の穴が一つ開いていて、ちょうど人の顔のように見える。
「ウタの神様ですね」
「そう。正月から弾かずにほっといたから、今日はご機嫌が悪くて鳴らない」
椰子の実は大変に硬くて丈夫なので、胡弓に使わない方の片割れはかつて製塩の水汲み柄杓に使ったそうだ。平らな塩田ではなく石灰石の岩場に海水をかけて天日にさらした。
皮には美濃紙に芭蕉のシブを塗ったものを使うこともあった。そのシブは旧暦の決まった日、潮の満干差が一番少ない日に採ったのでないとダメだという。
「なんでだか分らないが、昔の人が言うことに間違いはない」。御意。
そうして作った胡弓は丈夫な上に響きも上々だそうだが、今は全く残っていない。S田先生のところで復元をお考えとのことである。
弓は木または竹に馬の尻尾を張る。島に馬がいなくなったので今はもっぱらナイロン糸である。他の胡弓と同じく松ヤニを塗りつけて用いる。
弓型に削った駒をのせて弦を三本張り、ヴァイオリン式に弦の上から弓を当てて弾く。
羽海野チカ『ハチミツとクローバー』に森田が馬頭琴(モンゴルの胡弓)をかっちょよく弾く場面があるが、人が胡弓を弾く姿には箏や三味線や尺八とはまた違う色っぽさがある。
「三線(さんしる)は男で胡弓(こーちょ)は女だな」
「はあはあ、女を鳴かしておるわけですな」
「若い男女が集まって、三叉路や十字路で唄遊び(ウタアシビ)をする。唄うたいは両手が空いておるから色んなことができるな。ところが胡弓弾きは両手がふさがっておる」
「はあはあ」
「だから足を使って色々するわけだな」
「楽器を弾けない者は『女のかわりに蘇鉄でも抱いとけ』と言われたもんだ」
「三線を弾ける者はヨソの集落にも自由に出入りできた。女を取られるのがイヤでそこの男どもには嫌がられるが」
うむうむ。モテたい→ギターという発想はまさに歌垣の民俗的記憶をひきずっておるわけですな。
ちなみにヨソの集落に自由に出入りできるのは、境界にいる魔物を三線が払ってくれるからともいう。
「彼女の家の前に行って弾くと、ちゃんと他の人と音を聞き分けてくれる」
「楽器がよく鳴ってる日はもったいないから家に帰ってからも何時間も弾き続ける。そりゃ気持ちいい」
音楽が男女の情や魔物や自然の運行や身体の周波数とみっちりからみ合っていた。
そんな時間がついこの間(といっても50年以上前ですが)まで生きられていたことに愕然とする。
こういう時間をせっせと書き留め記録するのはわれわれの重要な仕事ではないのか。過ぎ去った時間との対話を可能にするもの。記録するということは、過ぎ去った時間とそれを生きた人たちとを「供養」することになるのだろう。
奄美大島の技巧的・装飾的な唄と違い、沖永良部の唄はスッキリとシンプルで、シンプルな表層から二、三枚下に潜んでいる力強さを感じさせる。
唄遊びに培われた複数掛け合いのイキとリズム感が素晴らしい。
これに「人の声に最も近い」といわれる胡弓(*しかも椰子の実)がからむのだから見もの聞きものである。
公演本番の日を垂涎だらだらでお待ちあれ。
垂涎といえば黒糖焼酎「はなとり」がうまい。
焼酎ブームというが、奄美諸島でしか醸造されていない黒糖焼酎にはもっともっとがんばっていただきたいものである。

 
3月6日

鳥取出張。
鳥取市の円通寺というところに三人遣いの人形芝居が残っていて、大変面白いので劇場にご出演願おうという魂胆である。
わが劇場では「民俗芸能公演」というのをやっている。
地域のお祭り・年中行事などで伝承されている芸能を、舞台での公演として興行するのである。
こういう興行は近世の見世物にもあるが、近代的劇場での舞台公演ということになると、実は柳田国男・小寺融吉らによる日本青年館での郷土芸能大会にルーツがある。
「神社・路上など特定の意味のある空間の、まさに土の上でやっている芸能を、劇場の舞台に上げて観客に見せる」ことにはちょっと考えても無理があり、公演の現場では現実に様々な問題が発生する。
「現地で見るのが一番」というのはまことにごもっともだと思う。
「では一体民俗芸能公演にはどういう意味があったのか/あるのか」というのは大変に面白いテーマなのであるが、それはまた改めて。
民俗芸能公演のプロデューサーは、口先三寸と法外に安いギャラでおじさん・おばさんたちを連れきたり、東京の舞台でお客様に見せて切符代を頂戴する。
全く「人買い」の沙汰である。
違うのは「晴れの舞台」ということでご出演の皆様に少しは喜んでいただける(らしい)こと、そして興行としては哀しいほどに儲からない=大赤字だということである。
民俗芸能公演には金がかかる。
大勢の人が長距離を移動し東京のホテルに泊まるのだから当然である。
金がかかる割にはお客様の入りがよくない。
その昔は「民俗芸能公演はそういうもんだよははは」「赤字でも意義のある公演をすればよいのだよふふふ」ということだったらしいが、この世知辛いご時世にまさかにそんなことは許されない。
予算のやりくりがプロデューサーの胃痛のタネとなる。
ご出演者のための経費もさることながら、スタッフの出張旅費がまたバカにならない。
わざわざ出張しなくとも手紙や電話やFAXやメールで連絡をとりあえば用は済むのではないか。合理化推進。
はい、駆け出しの頃は私もそう思いました。
しかし「顔をつきあわせて話さなければうまくいかないこと」というのが世間には山ほどあるのだ。
かくして民俗芸能プロデューサーは、どんな僻地にも動じない旅行の達人となるのである。
当然のことながらすべての企画は現地調査から始まる。
資料調査で目星をつけておいて、厳選したもののみを現地まで見に出かける。
まず芸能史的に意義のあるものかどうか、次に舞台で上演できるかどうか、が問題となる。
所要時間は。最低限必要な人数は。登退場の方法は。飾り物はどうする。カットの必要があるか。あるならどこをどう切るか。
公演全体のプランが描けたところで現地の皆様に接触する。
当方の企画意図にご賛同いただけたら、改めて演出プラン(民俗芸能を舞台バージョンに変換するには緻密な演出が必要なんです)、上京から帰郷までの移動方法やスケジュール、金銭関係等々をご説明申し上げる。
旅行というものは何かと出費がかさむから、いくら出演料・旅費・宿泊費をお支払いするといっても、結局はご出演者の持ち出しになってしまうのが現実であろう。
またたいていは保存会等がチーム一丸となって活動しているから、当方の言う「最低限必要な人数」だけが上京・出演して、他の人は居残ってくりゃれ、という訳にはいかないことが多い。
そうなると超過人数分の方々には手弁当で参加していただくことになる。
なんともはや申し訳ない話なのであるが、あとはひたすら誠意と頓智をもって縋りつきお願い申し上げるしかない。
かくして民俗芸能プロデューサーは、人とムニャムニャお話をしながらなんとなあく折り合いをつけていく達人となるのである。
で、鳥取。
山と川とに挟まれた典型的な城下町で、近世の古地図どおりの区画と町名が残っているという。
またJRの駅前に温泉が湧いているという稀有な所である。
公演の相談もうまくまとまったので、早速銭湯「日ノ丸浴場」でホコリを流し、テラテラの顔で濡れタオルをぶらさげて赤ちょうちんへ。
ノドグロ(赤ムツ)を軽く炙った刺身でいただき、頭の部分を塩焼にしてもらう。
刺身は脂がたっぷりとしていて餅を食べているよう。塩焼はパリパリパリとあくまで軽く、そのあとを地酒「鷹勇」が爽やかな辛口で洗い流していく。
こりゃあ東京では味わえない口福ですな。うっしっし。

 
2月24日

A日カルチャーセンターで「雅楽入門」の一席。
こういうお座敷はフィレンツェでイタリア人相手に「文楽」と「和太鼓」を講じて以来久方ぶりである。
「教壇はステージ、講師は女優よ」が私のモットー。
わざわざ足を運んでくださったお客様には、2時間なら2時間を十分に楽しんでいただきたい。
あわよくば「ああ今日はこんな話を聞いたわあ」と少しでもお土産をもって帰っていただきたい。
さらにそれをきっかけにして劇場の新しいお客様になっていただければ申しようもない喜びである。
古典と名のつくものを享受するには最低限の知識と経験とが必要である。
こういうお座敷は「興味はあるけどなんとなく敷居が高くて」「切符の買い方もよく分からないし」といわれがちな伝統芸能にとっついていただく絶好の機会である。
だから職場の同僚に「またアルバイトかよ」「ヒマなのかね」と言われようがどうしようが、伝統芸能のためには大変重要な仕事であると信じていて、わたくし的にはかなりリキを入れている。
しかーし。
久しぶりというのは恐ろしいものである。
お客様との無言のコミュニケーションがいまいちうまくいかない。
口ではもっともらしいことを喋り続けながら「ああ今ちょっとダレてるな」とか「おっ、いい感じに温度が上がっているな」とか、場の空気をビシビシ感じながら即妙に対応していくのが講師の仕事である。
しかるにそのビシビシ感の受信度がいまいち弱い。
お客様がいま何を考えているのか、よく分からなくて息苦しい。
で、そういうビミョ~な焦り感というのはお客様にも確実に伝わる。
思い切って途中で発声のトーンをカチャッと変えてみたらあら不思議、空気がまことにスムーズに流れるようになった。
こういうときに例えばお客様に質問をふってみるとか全然関係ない話題に脱線するとか、話の構成進行上のワザというのもある。
しかしそういうワザも話の中身というよりは、煎じ詰めれば声とか仕草とか体勢とか、身体的・演劇的な変化が実は効果を発揮しているのではあるまいか。
顔と顔をつき合わせて行われる生のコミュニケーションというのはまことに動物的でオソロシイものである。
特に大勢を相手にするときは、うっかりすると集団の気が塊となってこちらが呑み込まれてしまう。
スピーカーとしてまだまだ修行が足りぬ、と反省いたしました。
またの機会には一層腕によりをかけて喋りますので、これに懲りずにまた来てくださいね。


2月13日
 
お茶の先生から沢庵漬をいただいた。
帰宅して袋を開けてみると、これがもんのすごくくさい。
といってもゆめゆめ不快な臭いではない。
いわゆる糠味噌のにおいとはまた違っていて、まろやかな中にほのかな酸味があって、大変に食欲をそそる匂いである。
その匂いを嗅いだ途端に、内田百間先生の確か「伊勢こうこ」といった随筆を思い出した。

西日本では沢庵漬のことを「こうこ」「おこうこ」という(私の郷里では「こんこ」「おこんこ」だった)。
百間先生が小さい時分に岡山で食べていたおこうこは、東京風のむっちりした大根漬とは違い、くちゃくちゃと細くひねこびて皺だらけの皺の中が茶色に詰まっているような漬物だった。
いつも女乞食が勝手口に来てはおこうこのヘタをズダ袋にもらって帰った、いかにもそんな思い出に似つかわしい漬物だったようだ。
しかしそのしょっぱさの中に、噛みしめるとえもいわれぬ滋味があったという。
上京以来久しくお目にかかっていなかったそのおこうこが、友達におよばれした食卓にのぼる。
そういうおこうこに「長年あくがれていた」先生は、ボール箱におこうこを詰めてもらっておみやげにする。
寝台列車で帰京する先生はうっかり包みを足元に置きっ放しにしたために、おこうこが暖房で蒸されて車両中がむせかえるようになってしまう。
充満したおこうこの臭いは寝台に眠る他の客にどんな夢を送ったろう、というような話である。

いま握っている沢庵漬はぶっとくて百間先生のおこうことはルックスが幾分違うけれど、多分その時のにおいはこういう種のものだったのだろうと、台所で突っ立ったまま一人合点した。
百間先生の随筆にはおいしそうなものが山ほど出てくるけれど、その味や匂いははかりしれない。
さくら鍋やカツレツやおからやシュークリームや、瓶ビールにしたって今のビールよりはなんだかおいしそうである。
おいしいものの話を聞いてああどんなにおいしいだろうと想像するのは、卑しき所業かもしれぬが実に楽しい。
沢庵漬は炊きたてのご飯に添えて食べたら想像以上にうまかった。
こういうまろやかな発酵臭は動物性の食材では得られない。
なおかつばりばりばりと奥歯より大脳に響く大根の歯ごたえが誠に爽やかで、噛むごとに淡い酸味と奥のふかーいエキスのような味が鼻腔・口腔にじんわり広がる。
日本酒のアテには申すにおよばず、辛い白ワインでも泡盛でもぐいぐいいけそうである。
ぜひそのおいしさをご想像くださいませ。ごくり。

(大家注:「内田百間」先生の「間」の字は、ほんとは「もんがまえ」のあいだが「日」ではなくて「月」なのであるが、このワープロでは出ないので、「百間」をもってかえさせていただきました。先生の筆名は岡山にある川幅百間の「百間川」から取られたのであります。)

問題は「『文化』って何?食べたことなーい」という人たちである。
文化資本をもっている人たちはよい。
文化資本を獲得しようとがんばる人たちもよい。
問題は文化資本などという言葉からは何万光年も離れたところで生きている人たちである。
例えば「そういう人たちはいつの時代にも一定の割合ですべからく存在するものだよ」とか「階層社会化の進行またはその忌避にほとんど影響力をもたない人たちなので勘定に入れなくてよい」というような構えをとるならば、すでにそこでは階層が自明の前提になっている。
松・竹・梅の大きな階層分化をいったん認めた上で、「松の並」「松の上」、さらに「板長おすすめ松の上スペシャル」といった二次的・三次的な階層分化を問題にするのか。
文化資本・階層社会化をめぐる議論は、こういう人たちをどう扱うことになるのだろう。

文化資本=教養と呼んでも大きくは外れまい。
教養とは品性のことである。
教養のない学者もいるし、教養のあるおサルさんもいる、と書いたのは池内紀先生だったか。
教養の欠如はしばしば他者への暴力的な言辞や振る舞いとして現れる。
私は暴力的な言辞や振る舞いを見聞するのがイヤだし、その行使の対象となるのはもっとイヤなので、著しく教養の欠如した人たちとはなるべく接触したくないと思う。
しかしあいにくそういうヤバい人たちは確実に増えつつあるような気がするし、暴力に宿る邪悪な攻撃性も増しているような気がする。
気がするだけで全然そんなことはないのかもしれないが、できればそういう邪気には触れずにすませたいと思う。
こういう考え方は、自分がある程度上の階層にいられることを確信しつつ、階層社会も悪くないんじゃないのという発想をもつことに容易につながる。
「自分を守りたい」という動機は日本の階層社会化を推進する大きな力になるかもしれぬ。
少なくとも東京をはじめとする大都市においては。
 
人々が文化資本の獲得に雪崩を打って殺到すれば、「一億総プチ文化資本家」は果たして成し遂げられるであろうか。
そんな雪崩が起こっていることなどラーメン煮えたもご存知ない人たちが実はものすごくたくさんいたとしたら。
私が心配なのは「『文化』って食べたことなーい」という人たちの動向である。

2003年11月~2004年1月

2005-03-12 | 「風雲三宅坂劇場」
1月20日

私はウチダ先生のおっしゃる「日本社会は文化資本の偏在によって階層化するであろう」に両手を挙げて賛成である。
後から言うのはずるいけれど、この命題はかねてよりヒシヒシと身につまされつつ考えていたことであって、わが子にはそんな社会でも楽しーく生きていける人になってほしいと、切に願っていたところである。
イタリアもれっきとした階層社会である。
階層によって職業や住所や言葉や服装や仕草が全く違う。
とびこみの日本人にも一目瞭然なぐらい違う。
当然どの階層に属するとみなされるかによって応対も違ってくる。
イタリア人は無駄におしゃれをしているわけではなくて、ぱりっとした装いはお互いに誤解と混乱を招かないために必要な看板(の一つ)なのである。
でそういう様子を見ていて、「ん。もしかしてこういう方が実は『文化的』なのかも」と思うことがしばしばあった。
ミソもクソも一緒くたという、「なんでもあり」的な、メリハリのない状況は、他者に対する不安を生み出す。
目の前のこやつが一体何者なのか、自分に損害を与える存在なのかどうか。
階層が一目瞭然に表現されていれば、第一次遭遇でのそういう不安は大幅にクリアされる。
日本にもたぶん昭和初期ぐらいまではそういう表象をともなう階層分化があったのではないかと思う。
階層は、アカの他人が限られた環境で円滑に暮らしていくための文化的な知恵と考えればいいのではないか。
それで社会がうまく回っていくのならそれはそれで結構なのではないか。
そんな風に思うことがしばしばあった。
しかし一方では「そういうのは真っ先に自分を安全圏におくゴーマンな考え方ではないの。それで立ち行かなくなったから今の日本になっているのではないの」といううしろめたさを感じる。
しかし一方では「こりゃ間違いなく階層社会が出来上がるぞお」という確信がある。
日本が階層社会化するとすれば、それはかつてそうであった状態への回帰なのだろうか。
ヨーロッパ・モデルを忠実になぞることになるのだろうか。
それとも予想もつかない階層社会の形態をこれから経験することになるのだろうか。
ワカメ酢と都こんぶと寒天を食べながらウジウジと考えてみよう。

 
1月6日

そういえば伝統芸能の新作の話をほったらかしにしていました。

伝統芸能業界ではこういう主張をしばしば耳にする。
古典も最初は新作だった。
「卒都婆小町」も「六段の調」も「忠臣蔵」も、もとはといえばみんな新作である。
芸能の歴史は、常に新作を作り続けてきた歴史である。
古典作品=決まったレパートリーだけを繰り返し繰り返しやっていると、必ずや縮小再生産に陥り、そのジャンルは退廃してしまう。
ゆえに伝統芸能においては新作を作り続けることがぜひとも必要なのである。
 
ふむなるほど。
しかし「ほんとにぃ?」という一抹の思いを払拭しえないのはなぜか。
古典以上におもしろい新作をほとんど見たことがないから、ということもあるが、それはまあ本質的な問題ではない。
どうも上の主張には暑苦しさというか押し付けがましさを感じてしまうのである。  
伝統芸能業界での「新作」という言い方は「主に伝統的な技法を用いて上演されるか、あるいは伝統芸能の慣習にのっとって上演される新しい創作作品」ぐらいのユルい意味合いで使われている。
技法・慣習とは、発声・所作・修辞文体・音楽・装置・衣裳・上演場所(例:能楽堂でやるから能なのだ)・興行形態(例:「初春大歌舞伎」と銘打っているから歌舞伎なのだ)などなどなどをさしている。
しかしかような様式性の多寡を基準にとった言葉遣いは、はなはだこころもとない。
新作に対して「果たしてこれが歌舞伎か?」「これを落語と呼んでいいのか?」という声が挙がるものの、議論が全く建設的な展開をみせないのも、そもそもベースになる芸能自体を明確に定義する妙手がないからである。
どっからどこまでが歌舞伎で、どっからどこまでが落語なのか。
きちんと境界線を引くことができない限り、新作歌舞伎も新作落語も厳密には規定できない。
 
ありゃりゃ。これではデッド・エンドになってしまうぞ。
仕切り直して。

「卒都婆小町」も「六段の調」も「忠臣蔵」も、確かに初演の時は新作だった。
しかしそれを見る同時代の人たちにとって、能や箏曲や人形浄瑠璃はコンテンポラリーな(あるいはドラスティックな)芸能であって、決して「伝統芸能」ではなかったはずだ。
ならば「卒都婆小町」も「六段の調」も「忠臣蔵」も「伝統芸能の新作」とはいえまい。
観阿弥は「伝承を重んじる能楽界の活性化と振興」を目指して卒都婆小町を書いたのではない。多分。
いま演劇やCDや映画でごく普通に新作が作り続けられているように、作者はただただ普通に「新しくて面白そうなもの」を作ったのである。
しかるに初めの主張は「伝統芸能というジャンルにおいては伝統を守ることが大変大事なのだけれども、それだけではヘナチョコになってしまうから、常に新しい演目を作ってゆかなくてはならぬのだ」という意味である。
伝統芸能の伝統とは繰り返しのことである。
古いものをやっているから伝統芸能なのである。
言葉に即して理屈をいえば、「伝統芸能」の「新作」というのは矛盾している。
しかし現実には野田秀樹や瀬戸内寂聴やいとうせいこうによって作られた新しい作品が上演されている。
なぜか。
それは歌舞伎や能や狂言が、伝統芸能であると同時に同時代芸能としてのパワーを失っていないからである。
新作が作られるのは、体力を保持している芸能の特権である。
逆にいえば、体力のある芸能なら放っておいても新作ができる。
特に伝統芸能は修辞や身体技法の無限の宝庫であるから、有能なクリエイターは放置しておかない、と私は楽観している。
芸能の延命のために精出して新作を作れ、というのは本末転倒というものである。
私が上記の主張に息苦しさをおぼえる原因はここらにある。
そんなにムリムリ捻り出した作品が果たして面白いだろうか。
それに芸能の歴史は新作の歴史であると同時に、滅びていった芸能たちの死屍累々の歴史でもあることを忘れてはいけない。
歴史学的には惜しいことであるが、寿命の尽きた芸能はあっさりと消えていくしかないのである。
 
そして初めの主張には「芸能を博物館のガラスケースに入れるな」という言い回しがオプションで付くことがある。
美術品を死蔵するようにただ古い芸能を保存したってしょうがないじゃないか、という意味であるが、まずこれは博物館に対して失礼である。
博物館というのは基本的に「結構な物がたんとある」(@幸田露伴)所であって、大変にエキサイティングな空間である。ショボい博物館にもそれなりの味わいがあるというものだ。
そして芸能は観客との交感の上に成り立つものであるから、「ただ保存してもねえ」というのは一応ごもっともなのだが、「だから伝統を墨守するのは困りものなのよ」と出てこられると「ちょっと待っておくんなさいな」と言いたくなる。
伝統芸能にとっては「伝統を固守しようと努めること」が体力保持の秘訣なのである。
 
「奥が深い」という言い方は手ズレがしているが、実際伝統芸能で繰り返し上演される古典的演目というのは実によくできていて、奥が深い底なし沼である。
その辺は名作と呼ばれるあらゆる芸術作品と同じである。
目の前の演者がスーッと視線を移しただけで、その登場人物を取り巻く世界の網の目がするすると出現してしまう驚き。
なんべんも見た同じ演目の同じ場面が、まるで違う種類の人間関係の緊張をはらんでいたことに突然気付く。
それは実は作品自体に仕込まれた爆弾のようなもので、演じ手の身体がそれを掘り出して炸裂させてくれるわけである。
私はこういう掘り出しの興奮が大好きであるが、これは古典・伝統の世界でしか味わえない興奮である。
しかし古典・名作と名の付くすべてのものと同じように、伝統芸能を理解するには最低限の知識と経験が必要である。
「伝統伝統っていわれてもよー」というのはそれをすっとばして「とにかく私に分かるようにしてよね」という発想であって、結構な物の並ぶ博物館を「なんだか暗くて静かでやーねー」と早足で通り過ぎるのと同じである。
そういう人の肩をポンポンと叩いて「モシ旦那、面白いのがありやすぜ」と耳元でささやくのがわれわれ興行師の仕事なのである。
世智辛くてキナ臭い世の中で、今年も私は仕事をするぞう。ウッキー。


12月31日

かねがね考えているのであるが、人間は鼻水を一年分まとめて出すことはできないのであろうか。
その日は「おこもり」と称して学校・仕事の公休が認められ、それこそ飯も食わず家族にも会わずに部屋に閉じこもり、ひねもすズビズビと鼻水を排出し続けるのである。
苦行であろうが「これで一年間鼻水とはおさらばさ」と思えば安いものだ。
間断なくあふれ出る鼻水というものは、かような妄想を抱かせるほどに勤労者にとってストレスの種である。
会議室でも頭の中は「鼻水が落ちませんように」で一杯だし、だいいちビシッとしたことを言ってもハナタレでは説得力のかけらもない。

風邪で寝込んでいる間に山崎豊子「白い巨塔」第一巻・第二巻を読み、続いてフジのドラマを再放送で見る。
前半のテーマは「財前五郎助教授が首尾よく教授になれるかどうか」。
国立大学医学部教授選の票取りをめぐって、分かりやすいキャラ付けの人たちがごじゃごじゃと裏工作を展開する。
1978年のドラマ化はバカ売れし、「白い巨塔」は大学医学部の閉鎖性を示す慣用句になり、財前五郎は故田宮二郎の畢生の当たり役になった。
当時は「閉ざされた医学界のどす黒い内幕を暴く」みたいなセンセーショナルな売れ方をしたが(児童だった私はよく覚えていないが)、いまの私の目からは、カネだのポストだのをエサにしたこのような裏工作は全くもってふ・つ・うーのことである。
といっても別に私が袖ノ下のやり取りを日常的に行っているという意味ではなくて、「悪いことだけどまあ世間には当然そんなことする人もいるわいな」という意味である。
ある程度の規模の組織の中で仕事をしている人なら、誰しもそう思うのではあるまいか。それとも私の腹が黒すぎるのか。
まあ当時は舞台が「国立大学医学部教授選」だったからこそ好奇の的になったのであろう。
いまや国立・大学・医学部・教授の、どれ一つとして神通力をもたないご時世である。
内田百間先生は「私は官僚的なものが好きである」と言っておられるが私にもそのケがあって、官僚的なものにはスタイリッシュな魅力を感じるし、権威主義的なものは世界を活性化するために必要であると思っている。
国立・大学・医学部・教授の皆様にはぜひ頑張っていただきたい。
 
テレビの方は「真珠夫人」を踏襲するコテコテの脚本と演技。
台詞もほぼ原作に忠実に作っているのが功を奏している。
脇役男優陣が総じて快演だが、西田敏行は見ているのがつらい。
財前五郎(婿養子ね)の舅財前又一は、個人医院の経営に水も漏らさぬ手腕を見せ、お客をバリバリバリと診察して、音曲の一つも嗜み、料亭の女将を長らく囲い者にしている、大阪のど真ん中に生まれ育ったバイタリティあふれる旦那である。
しかるに今回の西田敏行は無知無教養で粗暴なだけの田舎者である。
原作とキャラが違っても別に構わないが、「金持ちで下品な大阪弁の男」の拙劣なカリカチュアでしかないのではブチ壊し。
西田敏行に正しい大阪弁を喋れというのも無理な話で、これは役作りとかなんとかいう前にキャスティングした方が悪い。
これに対し特記すべきが二人。
医師会の岩田会長を演じる曾我廼家文童。
このキャスティングには絶賛快哉、あまりのリアルさにひいひい喜んでしまった。
舞台出身の役者がテレビに出ると往々にして芝居が画面からはみ出してしまうのだが、こういう大芝居型のドラマだと舞台で鍛えた底力がいかんなく発揮される。
発声にもご注目ください。
ああいう骨格のああいう声は「大阪の小賢いオヤジ」の一典型なのである。
そして大河内教授を演じる品川徹。
常に正論を述べて譲らぬ謹厳実直頑固一徹の病理学者。
「鶴のような痩身」と書かれるまさに原作そのままで、よくこんなにぴったりのルックスの人がいたなと思う。
この二人に象徴されるように、「白い巨塔」はキャスティングの時点ですでに勝負あった、というドラマである。
つまり「ニン」と「役柄」が適合するかどうかが決定的な力をもつ、まさにこれは「歌舞伎」なのである。

 
11月28日

宣伝です。
一年間滞在したイタリアでのおもしろ体験を月イチで掲載しています。その名も「月刊ボンジョルノ」。ありかはこちら。

「京劇カフェ 極楽茶館」
http://www.bekkoame.ne.jp/~maomi/

友人の京劇役者・魯大鳴さん(おっとこまえ~)のHPに間借りしております。細き流れの幾間借り末は田川へ入谷村(@河竹黙阿弥)。
こちらの方もなにとぞご贔屓のほどを。

イラクでイタリア大使館に砲撃。
この間はイタリア軍司令部で自爆テロがあり、イタリア人・イラク人26人が死亡した(その後増えてるかも)。
短期間とはいえイタリアに寝起きしすこぶる好感を抱いた者としては胸が痛い。
イタリアから派遣されているのは「カラビニエリ」という組織で、厳密にいうと軍隊ではない。
ちょうど軍隊と警察の中間的な存在で、町をパトロールして噴水に飛び込んでいるアメリカ人観光客を注意したりもすれば、こうやって軽武装でイラクに派遣されたりもする。
広ーい意味での治安維持活動に従事するわけである。
「花の駐在さん」的な警察官のいでたちと違い、町で見かける彼らは実にファッショナブルな制服でキメている。
動きにくいんじゃなかろうか、というぐらいカッチリ身に合った黒の制服で、徽章や革ベルトタスキ掛けが時代錯誤スレスレのマッチョなゴージャス感を醸し出す。
車は濃紺のスポーツカー。ボディには真っ赤な稲妻ラインに「CARABINIERI」のロゴ。
フィレンツェの中心街には騎馬警官ならぬ騎馬カラビニエリもいて、観光客の撮影にご陽気に応じてたりする。
たぶん仕事の方はイタリア名物のお役所仕様なんだろう(知らないが)。
カッコばっかで役に立たないカラビニエリ(常に二人連れなのがポイント)をおちょくるジョークが山ほどある。
広場でヤクの売人を取り締まろうとしたカラビニエリが、逆に取り囲まれてパンツ一丁で放り出された、てな話も聞いた。
いずれにしてもイタリアに暮らす人にとっては大変なじみの深い人たちなのである。
なじみの深い人たちが直接の交戦国でもない戦地(ですよねどう見ても)に送り込まれて殺される、というのは「巻き添え」という言葉でしかとらえようがなく、割り切れない苦しい体験である。
自分がすっかりイタリアにかぶれているのを再認識した。とあえて狭小な結論で終了だ。
ちっ、ブッシュめ~。


11月19日
 
雅楽公演が終了。創作曲が主体の公演であった。
「雅楽で創作曲?」と思われる向きも多かろうが、こういう創作活動は昭和40年代以来コツコツと行われているのである。
ちなみに新作雅楽の金字塔とされているのが武満徹の「秋庭歌」。
初演は国立劇場委嘱で宮内庁楽部の演奏、と聞くと「へぇ」って感じですよね。
それで確かに名曲なんだこれが。
そうなると私は「伝統芸能の新作って一体何じゃらほい?」と考えざるをえないのである。
「伝統芸能の新作」が基本的に嫌いなのにもかかわらず。
「伝統芸能の新作」というのは、関係者にとっては厄介な問題である。
お客様にとっては「今度は新作かあ。どうせつまんねえから見なくてもいいや」てなもんだが、作る側にとってはそういう訳にもいかない。
「伝統芸能には新作が必要だ」。この命題は正か否か。

2003年9月~10月

2005-03-12 | 「風雲三宅坂劇場」
10月29日

『仁義なき戦い』の「第一部」「広島死闘編」「代理戦争」「頂上作戦」「完結編」全五作をたて続けに見る。
「70年代の伝説」(ビデオパッケージより)といわれるこの名シリーズ、「おとぼけ映画批評」にもきちんとのっかっている。
なので「けっ、なにをいまさら」と言われそうであるがそこはそれ。
素人がぬけぬけとものを言えるのもネットならではのことである。
タランティーノのオマージュとこの「風雲三宅坂劇場」のおかげで、深作作品のレンタル貸出も増えようというものである。わははは。

第一部のオープニングはなんと原爆のキノコ雲。
『仁義なき戦い』は、ヒロシマの原爆で幕を開けるのである。
原爆ドームの姿はどの作品にも必ず登場するし、原爆スラムと呼ばれる貧民街の息苦しい風景も印象的。
原爆、ヤミ市、MP、復員兵。
『仁義なき戦い』はこういう近代史のアイテムの中から生まれ出でた。

出てくる役者がだれもかれも濃い。
とりわけ「広島死闘編」の成田三樹夫のカッコよさには腰が抜けた。
何が良いって、その姿である。
スーツ姿の美しさには、松田優作『探偵物語』の時すでに子供心にときめきを感じたものだが、その着物姿のスッキリしたことといったらもうあなた。
まずもって着こなしがカタギの町人ではない。
かといってヤクザぶったキザさや嫌味やルーズさがない。う、美しい。

内田先生もちゃーんとお書きになっているが、これも「広島死闘編」の千葉ちゃんが抜群におもしろい。
梅川昭美(※昭和54年三菱銀行籠城事件の犯人)を連想させる衣裳で登場(って連想の順序が逆ですが)。
声が頭のてっぺんからスコーンと出ていてお見事。キレキレぶりに絶妙のリアリティを与えている。
千葉ちゃん演じる大友勝利は、めちゃめちゃに見えて実は言ってることが論理的である。
論理的であるが現実的ではない。
これはつまり子供っぽいということである。
千葉ちゃんを見ていて私の脳裏に浮かんだのは「子供の破壊的な屁理屈にタジタジの大人」というイメージである。
これってきわめて「戦後」的な風景なのではあるまいか。

組長菅原文太収監中につき留守を守る若頭伊吹五朗も良い。
派手なシーンが全くなく演技も実に行儀がよいのであるが、「オヤジは留守だし時代錯誤のオジキはうるさいし若い衆は暴れたがるし金はないし、とにかく今は辛抱辛抱。でも状況次第では黙っとらんけんね」という、ジッと様子を伺っている冷静さ&知性&凄味みたいなものが伝わってくる。部下に欲しい。
 
任侠道のしきたりが面白い。
おなじみの「指ヅメ」は謝罪の象徴として想像以上に強力な価値を持つらしい。
江戸時代のお女郎さん(時には素人の男女)も指を切った。
変わらぬ愛の心中立てに「指切りゲンマン」するのであるが、そうそう指を切っていてはプロは勤まらない。
細工師にこしらえさせたニセ小指をあちこちの客に進呈して「指何本あんねん」というツッコミを受けたやり手さんもいたそうである。
「忠臣蔵」六段目で、祇園に売られていく娘お軽に向かって老母が
「色街ではヤレ指を切れの、髪を切れのというそうなが、髪は切っても生えるもの。指など切ってたもんなや」
というようなことをかきくどく。
田舎暮らしの老母の慈愛があふれ出すまことに良い台詞で、いつも切なくなってしまうのである。
以上指ヅメこぼれ話でした。
で、お女郎さんの指ヅメとヤクザの指ヅメとは、文化史的にどこかで直接つながるのだろうか?

盃をもらう・盃を返す。
象徴的な表現ではなくて、文字通り盃を与えたり返却したりする。
奉書に「右の者侠道にあるまじき行為を・・・」など墨蹟淋漓としたためた、破門状や絶縁状がやり取りされる。
そして気になるのが神道との関係である。
儀礼の場では床の間に「天照皇大神」の軸がかかり、榊、八足台、御神酒徳利が並ぶ。事務所には御神燈。
芸者さんの置屋にも御神燈がつきものであるが、極道の方はたぶん乾坤一擲、博打の方のつながりで神様とつながっているのではなかろうか。
ナショナリズム、などという単語もちらつくが、古来の任侠道には「日本」という国家は存在しないはずだ。
オヤジ・ネエサン・アニキ・オジキ・舎弟。
擬似血縁制度によって成り立つ「一家」のネットワークがあって、それぞれに縄張りという地縁が結びついている。
国家と神道と博打と任侠道。自分でやるのは恐いので誰かフィールドワークしてくれないかな。
 
弱い組は強い組を後ろ盾にして生き残りをはかる。
強い組は弱い組を取り込んで勢力拡大をはかる。
こっちはあっちと兄弟分だし、あっちとこっちは先代からのお付き合い。
人間関係のパワーゲームがハンパじゃなくややこしい。
相当クレバーでないと、この蜘蛛の巣の上を渡っていくのは不可能だ。
そしてこの感覚は、国家間の政治的かけひきに酷似している。
国民国家じゃなくて極道国家だね。なんだかよく分かりませんが。


10月14日

声明公演が無事終了。
お運びいただいたお客様、ご出演のお坊様、皆様ありがとうございました。
おかげさまで良い公演になりました。
前売券は発売初日に完売という景気のよさ。
「よく売れてるねえ」「ほら、声明はいまブームですから」などという会話がチラリと耳に入ってくる。
さして深い考えのない会話にしても、軽々しくブーム扱いするのは勘弁してほしい。
ブームブームと言われるようになった時点で、その言われたモノはすでに「終わっている」。盛りのパワーを失って惰性で動いている。いわゆる「消費された」状態である。
いや「ブーム。」と指さされることによってパワーを失う、といった方が正しいか。
ブームの呪いに捕らえられた者は、罪があろうとなかろうと不幸になるのだ。
だから私は「雅楽がブームですね」なんと言われると血相を変えて否定する。縁起でもない。鶴亀鶴亀。
ブームという単語はヤング・ハッスル・バカウケなどの棲息する「懐古型小ネタ語の世界」に属している、と思っていたのだが、マジな文脈で「いまブーム」を口にする人(50台後半から60がらみの男性)が私の周りには結構いる。
こういう物騒な呪文を気軽に使わないでいただきたい。
うっかり「癒し系音楽・声明がひそかなブーム」なんてダサダサの見出しをつけられたらどうするんです。

そんな呪いをはねかえすぐらい、相変わらず声明は結構でした。
御導師の説得力に満ちた美声は言うに及ばず、若手のお坊様たちが驚くほどウデをあげていて(僭越ですみませんが)ボリュームだけでなく声にツヤがある。倍音出まくり。いや良かったです。
 
終演後、舞台でお供物として使ったリンゴとミカンをみんなでいただく。
声明を浴びると果物の糖度がアップする。
かどうかは知りませんが、リンゴもミカンも非常においしゅうございました。功徳功徳。


10月7日

申し遅れました。
私、東京の某劇場で伝統芸能公演の企画制作をしております。
「えーなんでもこちらの長屋におタナが空いてるって承ってきたんスけどねぇ、あちしみたいなモンでも借りられますかね?」
「はいはい、どなたであろうと貸し物借り物、明日からでも勝手次第にお入んなさい。ただし看板だけはあたしが決めさせてもらうよ」
というわけで内田センセイから頂戴した看板が、劇場の在り処にちなんで「風雲三宅坂劇場」。暗雲でなくてよかった。

便宜上「プロデューサー」と呼ばれもし、また名乗ることも多いのですが、実は英語のproducerとは全く仕事の内容が違います。
企画をたて、予算を組み、演出を考え、出演交渉をし、ちらしの原稿を書き、チケットの売れ行きを見守り、道具や楽器の手配をし、リハーサルに立ち会い、本番当日は舞台裏でパシリと化し、その合間にロビーで爽やかな笑顔を振りまく。
劇場の隙間隙間に出没する謎の生命体、それが日本の劇場プロデューサーなのです。

声明公演の稽古を行う。
といってもエクササイズではなくリハーサルのことである。
稽古場はおもしろくも恐ろしい空間である。
「異界への入口」が、ぽっかり開けているというよりは、ちょろっ、ちょろっと顔を出したり引っ込めたりしている感じ。
ご出演の皆様が「おはようございま~す」「ちや~す」と普段着でわらわら集まってくる。
時間がきて「じゃ、よろしくお願いします」となった途端、稽古場は日常から非日常へポンとジャンプする。
いま・こことは違うもう一つ別の世界が、演者の体からムラムラと立ち上がってくる。
演者はユニクロのポロシャツだし、背景はのっぺらぼうの壁とパイプ椅子、足元に「まろ茶」のペットボトルが置いてあったりする。日常臭いアイテムが満載。
だからこそ、芸という絵空事が非日常の世界をパタンパタン織り出していくさまを、手にとるように感じることができる。
それは例えば歌舞伎や落語なら「幕末江戸の大川端」みたいな具体的な状況だったり、雅楽なら「ぐるぐる回る多色のらせん物体」だったりするのだが、ジャンルを問わず、私はこの「別の世界」がいかにはっきりと見えるかを芸の上手・下手の基準にしている。
しかもとびきり上手な人だと、「別の世界」がはっきり見えるうえに、まぎれもない生の本人の姿が重なって見えたりする。
だから

身体が世界を描ききった瞬間、その身体はかき消えてしまう。
描かれた世界に、創造主たる身体は存在しないのだ。

てなフレーズを思いついたが、これはウソである。
芸能する身体はどこに存在するか。
ややこしや~、ややこしや。

そんなことより声明である。
言葉の音と意味と旋律とリズムとが、一体となってうねり寄せてくる。
しびれるう。
この稽古場での時間を幸いといわずして何といいましょうか。ふふふのふ。

 
9月30日

明恵上人の「涅槃講式」である。
まずは義太夫なら大序というところ。

「それ法性は動静を絶つ。動静は物に任せたり。如来は生滅なし。生滅は機に約せり」

「今月今日を迎ふる毎に、四座の法莚を開演して、泣く泣く双林入滅の昔を恋ひ、ねんごろに現在遺跡の徳をしのぶ」

長唄の「娘道成寺」、あるいは講談の語り口を思い出す、そのリズムの快さ。
八十歳を過ぎたお釈迦様は、旅中に重い病を得て入滅を覚悟する。
二月十五日、菩薩から小鳥・昆虫にいたるまで五十二類のものたちが集まり、お釈迦様の最後の説法に耳を傾ける。アッシジの聖フランチェスコだね。

「禽獣は花茎樹葉をふくんで、双樹の間を往詣し、如来の前に集会す。悉く汗を流して満月の尊容を瞻仰し、各々涙を連ねて微妙の正法を聴聞す」

法要の道場には入滅の場面を描いた涅槃図が掲げられる約束だが、象だの虎だの猿だの、集まってきた動物たちの様子が大変いじらしくかわいらしい。
あんまりかわいらしいのでポスターに加工して自分の部屋に飾ることにしたぐらいだ。
涅槃講式は、いわばこの涅槃図を「絵解き」していくわけである。
 
「面々に憂悲の色を含み、声々に苦悩の語を唱ふ。諸天龍神の涙は地に流れて河となり、夜叉羅刹の息は空に満ちて風に似たり。漸く中夜に属して涅槃時至れり」

お釈迦様は耐えがたい全身の痛みに襲われながら、説法を終え入滅する。

「遍身漸く傾き、右脇にして臥す。頭北方を枕とし、足は南方を指す。面を西方に向え、後東方を背けり。即ち第四禅定に入って、大涅槃に帰したまいぬ」

「青蓮の眼閉じて、永慈悲の微笑を止め、丹菓の唇黙して、終に大梵の哀声を絶ちき」

明恵上人は法要の途中この部分で感極まって絶句し、そばにいた弟子が咄嗟にフォローしたというエピソードがある。自作の名文に思わず泣いちゃったのである。明恵かわいい。

「跋提河の浪の音、別離の歎を催し、沙羅林の風の声も、哀恋の思ひを勧む。凡そ大地震動し、大山崩裂す。海水沸涌し、江河涸渇す」

まさに森羅万象がお釈迦様の入滅を哀しみ嘆き、SFXばりの凄まじい光景が展開されるのである。
 
「まことにおもんみれば、八苦火宅の中にも忍びがたきは別離の焔なり」

八苦火宅の中にも、忍びがたきは別離の焔なり。なんだか身にしみるなあ。
バカ学生の時分は「いつか別れるのが人間ってもんだ。当然じゃん」と悟りすましたつもりでいた。自分が死ぬのもちっとも怖くなかった。
しかし年々、自分も含めた「ひと」への執着が増しているような気がする。
年とってやっとこさ人間らしくなってきた、ということか。とほほ。

 
9月19日

声明の話のつづきです。
法要(法用)はコース料理のようなものである。
食前酒から前菜・メインを経てデザートまで、様々な声明曲を数珠つなぎに組み合わせることによって次第(プログラム)ができあがる。
どの法要にも登場するおなじみの声明があるかと思えば、決まった法要にしか使われない特別な声明もある。
その組み合わせが法要全体の目的や格式を決定するわけだ。
そして料理と同様、その演出・構成は実によくできている。

今回の「常楽会/四箇法用付涅槃講」は、お釈迦様の入滅をテーマにした法要。
その中心に据わるのは、1215年に明恵上人が作った「涅槃講式」という声明である。
お経は梵語や漢文をそのまま音読みしていくものが多いので、耳で聴いただけでは意味が分からない。
しかし「講式」という声明はストーリー性の高い読みくだし文を朗唱するので、聴いただけでもある程度意味が分かる。
和文にフシがつくとなると、これはもう「芸能」にぐっと接近する。
当然平曲・謡曲など後のカタリモノは、講式に大きな影響を受けている。
むしろ講式から平曲や謡曲が生まれた、と言ってもよい。
さらにそれが義太夫など近世の浄瑠璃にまでつながってくる。
声明は日本のカタリモノ芸能のチョー偉大なご先祖様なのである。
 
話がとぶがフシといえば思い出す。
明治生まれの祖母は新聞などを読むときにフシを付けて小さな声に出して読むことがあった。
義太夫の「帯屋」で儀兵衛が「伊勢ーまーいーりーのー下向ーみーちー」と手紙を読む、あれに近い抑揚だったように記憶している。
フシというものは世の中から段々減っているのかもしれない。
縁日でも啖呵売なんか見たことがないし、電車のアナウンスはほとんど機械化されてしまった。「車内アナウンスの物真似」は伝統のマイク芸をしのぶ貴重な資料になるだろう。
デパートからはエレベーターガールがいなくなった。たまにいてもかつてのような謎めいた鼻声とフシ回しは聞けない。
バスガイドさんとかはどうなんだろう。
イタリアの特急電車の車内アナウンスは「シニョーレ・シニョーリボンジョールノォ」で始まるが、やはり妙なフシがついていておかしかった。
多くの人に向かって定型的なフレーズを言おうとすると、人はフシを付けずにはいられない。その方が発声が楽な上に効果的なのである。
セールスの人には会話に変なフシの付いているのがいるが、発話が自動化している証拠である。
不特定多数向けのアナウンスとは違って、一対一のコミュニケーションでこれをやられるとあまり気持ちのいいものではない。
 
で、明恵上人の涅槃講式。
これがまことに気持ちのいい名文なのである。


9月9日

職場の海外研修で滞在していたイタリア・フィレンツェから一年ぶりに帰国。
翌日出勤すると、物置と化しながらもかろうじて自分の机が残っていた。
しかも復帰第一弾の仕事は真言宗豊山派の声明公演。ラッキー。
制作の仕事はどのジャンルにも違ったヨロコビがあるが、特に声明は勉強になることが多くて楽しい。

声明が劇場の舞台に初めて登場したのは昭和41年11月8日。
東京・国立劇場の開場公演として、天台宗の「魚山秘曲三十二相」と真言宗の「大般若転読会」が上演された。
上演?
そう、上演された。
その後声明公演は国立劇場で細々と、しかし定期的に行われることになる。
なにしろ昭和40年代に声明をショウミョウと読める人は少なく、「過激派が犯行声明」のセイメイとよむ方が普通の感覚だった。
だから当時のチラシ・ポスターでは、声明の「声」にわざとややこしい「聲」を使ってある。
セイメイではないことをアピールするための苦肉の策だったという。
ちなみに今は「声」に戻っている。
舞台公演はバンバンあるわCDは出るわで声明の知名度がアップし、あえて存在をアピールする必要がなくなったからだ。

公演開始当初は幕の内外で色々と議論があったそうだ。問題は主に二つ。
「大切な声明を、お金をとって舞台で見世物にするのはいかがなものか」
「宗教行為を公の場で行うのはいかがなものか」
しかし劇場という空間で声明を取り上げる以上、答え方は自ずと決まっている。
「声明公演はあくまで声明の芸術的側面に注目し、伝統音楽・伝統芸能としての声明を舞台公演として紹介するものである」と突っ張るのが劇場のとり得る唯一のスタンスだ。
「それは変でしょう」と言うことはいくらもできる。
しかしこの建前の上にこそ「声明公演」というものは成り立つことができた。
おかげで声明というものすごいお宝が陽の目を見ることになったわけだ。
声明や民俗芸能など、本来舞台で演じられるものではないパフォーマンスを舞台にあげることには大きな疑念がつきまとう。
しかしいま声明に瞠目しているわれわれにとっては、「声明公演」の誕生は実に幸いだったと評価するのが妥当ではあるまいか。