伊万里くん・窯元くん・桃寺くんと新宿「吉本」で一献。
開宴の第一声が「景気悪いねー」であるところなぞはもうおっさん丸出しなのであるが、おっさんなのだから仕方がない。「来年前厄だぜ」「やっぱ佐野厄よけ大師か」というような話も平然と出ようというものである。
イカと胡瓜の塩もみ
きのこの煮びたし
牡蠣の天ぷら
野菜の天ぷら
ブリの照り焼き
マグロのぬた
イカの一夜干し
お新香盛り合わせ
などをつまみながら、全国各地の地酒をくいくいとあけてゆく。幸せ。
せっかくなので気に入ったお酒は銘柄を覚えておこうと思ったのだが、すぐに酔っ払ってしまい「秋田桜」とか「山田山」とか実在しない銘柄しか脳内には残っていない。山田山って。
いい機嫌で思い出横丁「宝来家」に河岸をかえ、レバーだのぷにぷにのコブクロだのでチューハイをごくごくと飲む。幸せ。
なんかそろそろ百センセイのおっしゃる「酒の徳」が少し分かりかけてきたような気がしないでもない。
こういう気味合いはおっさんになってみないと分からないものだなあと、誠に当然のことをおっさんになってみて実感する。
窯元くんと桃寺くんはいずれも女児の父である。
窯元くんの方はこの間生まれたばかりだからさすがにそんなことはないが、桃寺くんの方は、令嬢が時折垣間見せるフェミニニティというか「おんな」の部分に狼狽することがあるという。
「最初は『てへっ』みたいな愛嬌でごまかそうとして、通用しないとわかると泣く」みたいな高等な手管を本能的に用いるのだそうである。
その点男児は、かつて自分の通ってきた道だけに、「○んちん」とか「○んち」とかいう言葉に狂喜するバカさ加減も含めて、大変にわかりやすい。ような気がする。歴史は繰り返す。
「男と男はいくら距離が遠くても同じ岸のこっち側にいるが、男と女はいくら距離が近くても対岸にいる」というようなことを書いたのも百センセイだったか。
はっ、内田百は「黒の舟歌」の本歌だったのか。
開宴の第一声が「景気悪いねー」であるところなぞはもうおっさん丸出しなのであるが、おっさんなのだから仕方がない。「来年前厄だぜ」「やっぱ佐野厄よけ大師か」というような話も平然と出ようというものである。
イカと胡瓜の塩もみ
きのこの煮びたし
牡蠣の天ぷら
野菜の天ぷら
ブリの照り焼き
マグロのぬた
イカの一夜干し
お新香盛り合わせ
などをつまみながら、全国各地の地酒をくいくいとあけてゆく。幸せ。
せっかくなので気に入ったお酒は銘柄を覚えておこうと思ったのだが、すぐに酔っ払ってしまい「秋田桜」とか「山田山」とか実在しない銘柄しか脳内には残っていない。山田山って。
いい機嫌で思い出横丁「宝来家」に河岸をかえ、レバーだのぷにぷにのコブクロだのでチューハイをごくごくと飲む。幸せ。
なんかそろそろ百センセイのおっしゃる「酒の徳」が少し分かりかけてきたような気がしないでもない。
こういう気味合いはおっさんになってみないと分からないものだなあと、誠に当然のことをおっさんになってみて実感する。
窯元くんと桃寺くんはいずれも女児の父である。
窯元くんの方はこの間生まれたばかりだからさすがにそんなことはないが、桃寺くんの方は、令嬢が時折垣間見せるフェミニニティというか「おんな」の部分に狼狽することがあるという。
「最初は『てへっ』みたいな愛嬌でごまかそうとして、通用しないとわかると泣く」みたいな高等な手管を本能的に用いるのだそうである。
その点男児は、かつて自分の通ってきた道だけに、「○んちん」とか「○んち」とかいう言葉に狂喜するバカさ加減も含めて、大変にわかりやすい。ような気がする。歴史は繰り返す。
「男と男はいくら距離が遠くても同じ岸のこっち側にいるが、男と女はいくら距離が近くても対岸にいる」というようなことを書いたのも百センセイだったか。
はっ、内田百は「黒の舟歌」の本歌だったのか。