月刊ボンジョルノ

ほとんどツイートの転載です。

思い出横丁の夜はふけて

2008-12-24 | Weblog
伊万里くん・窯元くん・桃寺くんと新宿「吉本」で一献。
開宴の第一声が「景気悪いねー」であるところなぞはもうおっさん丸出しなのであるが、おっさんなのだから仕方がない。「来年前厄だぜ」「やっぱ佐野厄よけ大師か」というような話も平然と出ようというものである。
イカと胡瓜の塩もみ
きのこの煮びたし
牡蠣の天ぷら
野菜の天ぷら
ブリの照り焼き
マグロのぬた
イカの一夜干し
お新香盛り合わせ
などをつまみながら、全国各地の地酒をくいくいとあけてゆく。幸せ。
せっかくなので気に入ったお酒は銘柄を覚えておこうと思ったのだが、すぐに酔っ払ってしまい「秋田桜」とか「山田山」とか実在しない銘柄しか脳内には残っていない。山田山って。
いい機嫌で思い出横丁「宝来家」に河岸をかえ、レバーだのぷにぷにのコブクロだのでチューハイをごくごくと飲む。幸せ。
なんかそろそろ百センセイのおっしゃる「酒の徳」が少し分かりかけてきたような気がしないでもない。
こういう気味合いはおっさんになってみないと分からないものだなあと、誠に当然のことをおっさんになってみて実感する。

窯元くんと桃寺くんはいずれも女児の父である。
窯元くんの方はこの間生まれたばかりだからさすがにそんなことはないが、桃寺くんの方は、令嬢が時折垣間見せるフェミニニティというか「おんな」の部分に狼狽することがあるという。
「最初は『てへっ』みたいな愛嬌でごまかそうとして、通用しないとわかると泣く」みたいな高等な手管を本能的に用いるのだそうである。
その点男児は、かつて自分の通ってきた道だけに、「○んちん」とか「○んち」とかいう言葉に狂喜するバカさ加減も含めて、大変にわかりやすい。ような気がする。歴史は繰り返す。
「男と男はいくら距離が遠くても同じ岸のこっち側にいるが、男と女はいくら距離が近くても対岸にいる」というようなことを書いたのも百センセイだったか。
はっ、内田百は「黒の舟歌」の本歌だったのか。

素人名人会

2008-12-12 | Weblog
山村楽正師が亡くなった。
もちろん舞台もよく拝見したけれど、楽正さんといえばなんといっても桂小文枝、大久保怜と並んだ「素人名人会」の審査員である。
関西電波圏以外で育った方はご存じあるまいが、一般人が登場して歌・踊り・落語・漫才などの芸を披露するノド自慢型の番組で、西川きよしの絶妙な司会と(さらにその昔は西条凡児の司会だったらしい)審査員との掛け合いがまことに面白く(特に歌の人が出ると「あ、大久保怜のコメントが聞ける」と楽しみだった)、日曜日のたそがれ時という感傷的な放映時間だったこともあって、私の記憶の中では古き良きテレビの時代を象徴する番組として輝きを放っている。
また素人出演者も、ことお笑いに関してはかなりレベルの高い芸を見せる人が多く、そこは関西だけにただイチビって笑いをとるような人は決して出なかった。
だから素人をいじって笑うというよりは、素人・司会者・審査員がそれぞれの持ち場で芸を出しあってほのぼのとした面白さが成立するという、今にして思えば誠に牧歌的でありながらハイレベルな芸能番組であり、それが受け入れられる時代だった。
おばちゃんがド演歌をバックに踊りたおしても「迫力があってよかったんとちがいますか」とにこにことコメントしていたのが楽正さんであり、私は子供心に「なんかエラそうな名前やのにこんな番組出てええんかいな」と思っていた。
心からご冥福をお祈り申し上げる。

またまた枕頭

2008-12-10 | Weblog
衝動的に『蝸牛庵訪問記』『私の見た明治文壇』『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』『堕落論』などをネットでまとめ買い。
風邪というか細菌性咽頭炎がおさまるにつれて、なぜか読書欲が増している。ほんとは読んでる場合じゃないんですけどね。
私は「つん読」(きゃあ、はずかしい)が苦手で、買ったまま読んでない本が置いてあるといつまでも気になるので、一旦買った本は追い立てられるような義務感を感じながらなるべく早く読んでしまう。たいていは枕元に積んどいて寝床でざくざく読んでいくので、面白い本にあたると睡眠時間が乱れて困る。

『蝸牛庵訪問記』(講談社文芸文庫)。
元岩波の編集者が露伴先生との交流を日記の体で書いたもの。
前に買おうと思ったらどこも品切れだったのだが、他の本を探していて、いつの間にか復活しているのを偶然発見した。復刊というわけでもないので、ごく一時的な品切れ状態だったらしい。
幸田文『父・こんなこと』(新潮文庫)には、これとほとんど同じ月日が娘の目から詳細かつ鮮烈に描かれているから、両方読むと面白さ倍増。
露伴先生の知的怪物ぶりと、たぶんそれゆえの空恐ろしい意地の悪さを再確認できる。
百先生も若干似たような路線の人か(ルックスを含め)ともちらりと思ったりするのだが、やはり一世代ちがうと決定的にスケールが違う。
しかし露伴先生の、ムズカしい考証なぞは申すに及ばず、『五重塔』みたいな小説さえも、このままどんどん読まれなくなっていき、教科書の文学史での扱いもどんどん軽くなっていくのだろうか。

明日はわが身

2008-12-09 | Weblog
このところ人に会うたびになぜか「それにしても病んでる人が多いね」という話になる。もちろん心のことである。
誰も彼もが口を揃えて言い出すところをみると、この国の社会にはよほど異常なことが起こっているのだろう。
いかにも景気のよさそうな大企業の人と話をしても
「会社に出て来られなくなる人が多くてね」
「それも失敗したとかいじめられたとか明確な理由があるわけじゃなくて、ふつうーに仕事してて、日常的にちょっとずつ蓄積したストレスがある日限界に達するらしいんだな」
とおっしゃる。
サラリーマンに限らない。大学の先生と話をしても
「いやーほんとに精神的に参っちゃってる学生が多いんだよ」
「昔も大学院に変わったヤツは多かったけど、こんなに病気になるヤツはいなかったように思うがねえ」
とおっしゃる。
かく申す私の周囲でも、心を病んで配属が変わったり仕事を休んだり辞めてしまったりした人がそうさな、この10年で8人は名を挙げることができる。
まあ経済的な問題は大きいものの、仕事を投げ出すことで健康が取り戻せるのならどんどん投げ出せばいい、死ぬよりはマシだ、自分より大切な仕事なんかこの世にない、お天道様に米の飯はついてまわる、と私などは甘い考えをもっているのだけれど、本人の身になればなかなかそうアッサリ色んなものをあきらめるわけにもいかず、結局病気になって取り返しがつかなくなるまでがんばってしまうのだろう。
上司を含め周囲の認識だって、昔に比べれば多少は進んだとはいえ、「同じ環境で他のみんなはがんばってるのに困ったやつだ」あたりが本音に違いない。そういう繊細さに乏しい帝国軍人みたいなやつは決して心を病んだりしないのである。

「親じゃわやーい」「チェエあんまりじゃわいな」

2008-12-05 | Weblog
洗面所で歯を磨きながら鏡を見て「あ、わしってもうすぐ四十か」と思ったら、帯屋のことを思い出した。

義太夫に『桂川連理柵』(かつらがわれんりのしがらみ)というのがあって、主に京都の帯屋を舞台にした話なので通称を「帯屋」という。
帯屋の後妻おとせは、なさぬ仲の長右衛門を追い出して連れ子の儀兵衛を帯屋の主人に据えようと企み、儀兵衛と組んで大金横領の罪を長右衛門になすりつけようとしている。
ところが長右衛門は、旅先の宿で衝動的にお向かいの信濃屋のお半ちゃんとデキてしまい、一回で妊娠させるというすごいんだかすごくないんだかよく分からないドジを踏んでいる。
悪いことはできないもので、「長さまへ」と書いたお半ちゃんからの恋文がおとせの手に入る。
おとせが「こんな奴はうちには置けぬ」とカサにかかって責め立てるところに奥さんのお絹さんが割って入り、「いえいえこれは長右衛門あてではなく丁稚の長吉あて、大きな間違いでございます」と殊勝にも夫をかばってコトをおさめようとする。
隠居の繁斎も「店の金をいくら使おうが主人の長右衛門の勝手じゃ」と長右衛門をかばって一旦はおさまるのだが、実は長右衛門は大名から預かった刀を悪者にすり替えられるというドジも踏んでいる。
家の中はごじゃごじゃとモメる。
家の外では不倫と妊娠。なまじ貞淑な奥さんが心を砕いてかばってくれるだけになお辛い。
大事な刀も見つからない。
疲れ果てた長右衛門は、とうとうお半ちゃんと手に手をとって桂川で心中してしまう、という誠に情けない話である。
このときお半ちゃんは14歳のおマセさん。
長右衛門は「四十に近き身をもって」。つまり38~39歳という設定で、今の私とほぼ同じなのである。

私は14歳の女の子と不倫しているわけでもないし脇差の行方に苦悩しているわけでもないが、なんか世の中のそれこそ「柵」がいろんな形でかぶさってきて息苦しくなり、なんかのきっかけで魔がさして普段なら絶対やらないような素っ頓狂なドジを踏んでしまい、くたびれた挙句に捨て鉢になって派手に破綻する、というようなことが起きるのは、この辺の年代なのかもしれない。
客観的にみればこの長右衛門という男は、ダメ男オンパレードの世話物の浄瑠璃の中でも「ダメ男ベスト3」には必ずランクインしようというダメ男なのであるが、全くの同年代と思うとなんかちょっとご同情を感じないでもない。
田町の飲み屋とかで、あえてお半ちゃんやおとせ婆の話題には触れずに、帯地の良し悪しの見分け方かなんかをぽつりぽつりと話しながら酒を飲んでみると、意外に「こいつなかなかいい男だな」と思うようなヤツかもしれない。


野田秀樹の勝海舟は好きだったけどな

2008-12-02 | Weblog
ひりひりするノドをかかえて鶴木戸先生と打合せ。
相変わらずシビアなご指摘を頂戴するが、なにせこの歳になると、一旦自分が考えたことをぐゎらりと方向転換するだけの柔軟性に乏しくなっている。
その分「おとしどころ」にソフトランディングする手管には若者より長けているはずなので、なんとかぐゎんばって形をつけなければいけない。残り時間はわずか。

今週の枕頭の書は『海舟座談』と『福翁自伝』。
「氷川の大法螺吹き」といわれただけあって、『海舟座談』には「あんた何を根拠にそのような」というデカい話が続出するが、まあ幕末の政局の渦中でキッタハッタをやっていた人にとっては、根拠などおならみたいなものなのだろう。
すべて物事の最後は気合で決まる。それはよく分かる。
西郷どんとの駆け引きのあたり。それから茶屋の女将や鳶の頭など、市井の要所要所に平生から金を使い、情報収集や有事の際の手がかりに顔をつないでおいたという話などがおもしろい。金の話が驚くほど多い。
それにしても聞き書きの文体が見事。
上手に聞き書きを取るというのは、戦後滅びてしまった文化的技術の一つだろう。

かたや諭吉っつぁんの方は、KO関係の方には誠に申し訳ないが、うんと粒が小っちゃいなあという印象が否めない。
書生時代の乱暴話なども「オレ結構むかしはヤンチャしててん」レベルである。
「でもなんでか成績はよかったけどな」みたいな。
知り合いの中に一人はいそうな、なんだか小才の利いた嫌味なヤツって感じ。
いや、あくまでこの本の読後感だけで言うんですから怒らないで。

そして『戦時演芸慰問団「わらわし隊」の記録―芸人たちが見た日中戦争』。
あー、せっかくのおいしいネタをもったいない。
南京大虐殺の問題などに中途半端に嘴を入れている間に、もっとわらわし隊の実像に深く突っ込むことができなかったか。