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月刊ボンジョルノ

プロフィールだけ更新してます。

大阪梅田の夜は更けて

2010-06-28 | Weblog
サントリー文化財団さんにお呼ばれ。
関西の新聞記者さんを相手に一席ぶつという、身の毛もよだつようなお座敷である。
なにしろこれまでのゲストの顔ぶれを拝見すると、政治・経済・教育・国際、各分野の錚々たる碩学の先生方が名を連ねていらっしゃる。
そこで若造が軟派きわまりない歌舞伎について喋るという、「あのー何かのお間違いではございませんか」という催しなのであるが、いただく仕事は断りません。
大阪にちなんだものを、というご注文によりまして、初代鴈治郎について一席。
上方の和事の第一人者にして時代物でも名舞台を残した名優、大阪名物の「ガンジロハン」というのが演劇史の共通理解であるが、どうやら若い頃は珍奇な芝居をして「危ないやつ」と思われていたらしい。
紙屋治兵衛や盛綱の陰には、そうした新時代の実験がひそんでいた、ということでなんとかお茶をにごす。
でも面白いですよね。鴈治郎の女学生。
お運びいただいた皆様、どうもありがとうございました。


お粗末でした @ 岡田山

2010-06-28 | Weblog
K戸女学院大学の集中講義、二日目終了。
皆さん土曜日にお疲れ様でした。

「古典」と呼ばれるものに対して「いやーほんとによく出来てんなー」と心の底から驚いたり敬意を抱いたりするには、知識の習得はもちろんですが、ある程度の年齢、つまり生活経験を重ねることが不可欠だと思います。
でも分かろうが分かるまいが「古典」に手あたり次第に体当たりし、「古典的なるもの」との向き合い方についていずれ考えるための基礎体力を養っておくには、学部生の時分はうってつけです。
文学や美術と違って、相手が常にずるずると形を変え続けている妖怪のようなものだけに、芸能の古典性について語るのは一筋縄ではいきません。
「古典」として差し出されたものを無批判に肯定し墨守することや、また「どんな古典も最初は新しかった」という主張のもとにいたずらに新しがった試みをすること。
どちらにも大きな落とし穴が待ち受けています。
その間で、わたしたちはどんな言葉を編み出していくことができるでしょうか。
またお会いしましょう。


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2010-06-24 | Weblog
神戸女学院大学・キャリアデザインプログラム2期生の企画運営によるトークイベントが開催されます(詳しくはこちら経由で)。
関西方面の皆様はぜひお誘い合わせの上おでかけください。


『まず、小さな夢の第一歩をこのワークショップで。』
~小さな夢から大きな夢へ~

日時:7月1日 18:30~20:30(予定)
場所:應典院(大阪・下寺町)
料金:500円(先着24名まで)



「ひゃくべっちゃす」の可愛いことといったら

2010-06-22 | Weblog
J民党現党首の醸し出す不愉快さはなんだろう。
誰の振り付けかは知らないが、完全に方向を間違えている。
ただひたすら与党の瑕疵を口汚く罵るばかりで、掲げるスローガンときたら「与党過半数阻止」と、かけっこでこける子供がついでに隣の子のズボンを引っ張りおろすようなレベル。
自M党政権時代の野党はよく「反対のために反対しているだけ」とか言われたが、今のJ民党よりはまだマシだった。
もはやひねり出す言葉さえ底をついたか。
でもそれって若手のキレ者にとってはまたとないチャンスではないのか。がんばれ若い衆。

今日になってやっとこさドブス事件が夕刊に載ったが、ネットに比べて新聞の足の遅さはもはや驚愕レベルである。ネットで発見した記事の取材をしてから入稿しているのか。
それにしても聞きっかじりの猿知恵で変に勘違いしてつけあがる学生というのはいつの世にもいるもので、そいつのドタマをぶっ叩いて「フンしはここですんねんで」と鼻ヅラを床にこすりつけるのが教師の役目ではあるまいか。
裏で学生を焚きつけていたインチキ教師について新聞が一言も触れていないのはどういうことヅラ。裏が取れなかったとかそういうことですか。知事にご遠慮なさったとかそういうことですか。
新聞に一体何が起こっているのか。
そして芸術批評系大学教員に何が…ってこれは昔からそうか。

さん喬師匠の「百川」を聴いては「はしご段にもたれて涙ぐんでちゃいけない」などというフレーズにクックッとしのび笑いを漏らしているわけだが、こういう注釈のたくさん必要な、視覚化の難しそうな落語はこれからどうやって生き残っていくのであろうか。
例えば「三枚起請」「五人廻し」をはじめ星の数ほどある廓の噺も一見難しそうだが、客をあやなすしたたかな女、手玉に取られる間抜け男、という構造自体はシンプルなので、舞台が江戸時代でも明治時代でも割にすんなり飲み込むことができる。
「百川」の場合も、まあ四神剣や常磐津や慈姑のきんとんが鮮明にイメージできなくたって、百兵衛さんの人柄と言葉の行き違いだけで話自体は楽しめるようなものだが、やはりディテールが分かると分からないでは楽しめる度合いが違ってくる。
目で見える歌舞伎と違って落語はその辺がつらい。
それほど心配しなくても、現に小三治・さん喬が見事にし活かしているように(そうするとイメージだけでいえば圓生の三遊亭から柳家にコンバートされたネタなわけか)、意外に難なくスムーズに伝承されていくのかもしれないし、「やっぱり細かいとこの説明が大変だね」ということになってしまうのかもしれない。
そしてそういう場合に立ち至っても、「じゃあ分かりやすく変えちゃえ」「省略しちゃえ」というのだけは勘弁していただきたい。
古典と名のつくものは、やはりそうあることで一番面白いように出来上がっているのである。


縁なき衆生は度しがたし。ああいい言葉だ。

2010-06-16 | Weblog
やけに無調整豆乳がおいしく感じられるので、日々豆乳ばかり飲んでいる。
体が大豆を欲しているのか。どんな体だ。
まあ一日5升も6升も飲めば体を壊すだろうが、お砂糖・薬品てんこ盛りの清涼飲料水とは違って、ふかし豆の絞り汁なら少々飲みすぎても害はなさそうである。

(圓生風に)「ああたはねえ、そういう面倒くさがるところがどうもいけません」と家人によく言われるのだが、しょうがない。
センスのない人にはいくら言葉を尽くして説明したって肝心のところは分かってもらえない、という話である。
「話せば分かる」は嘘。
「縁なき衆生は度しがたし」は本当。
分かる人なら二言三言で砂が水を吸うようにスーッとツボをおさえて飲み込んでくれるが、分からない人ときたら的外れの自説を繰り出すばかりで、その攻撃を右に左にかわしながら何万言費やした挙句、えーなんだやっぱりちっとも分かってないじゃん、がーっくり、というハメになる。
だいたいそういう人は少しやり取りをしていると様子ですぐに分かるもので、仕事なら仕方ないから我慢して話すべきことはとりあえず話してしまうけれど、もう途中から相手をつとめるのがイヤになって、「まあ適当にやっててください、あたしはあたしで適当にやっときますから」という気分になり、「頭がハゲることによってどんな生物学的なメリットがあるのか」とか「文房具の進化によってこの世から六角形の鉛筆が消滅してしまう日は来るのだろうか」とかいうところへふわふわと意識が飛んでいってしまう。
「いえいえ、そこをぐっとこらえてどんな相手にも分かっていただけるように言葉を尽くすのが大人の誠実さというものです」と言われても、それが仕事でない限り、私には到底無理である。
そんな風にムダに空気を吸ったり吐いたりしているよりは、一人で一生懸命鼻毛でも抜いている方がよほど時間の使い方としては有効ではないかと思ってしまう。
慢心とおっしゃるなかれ。深くて暗い川があるのは、男と女の間だけではありませぬ。

という風に私が抽象的でよく分からないことばっかり言っている時は、具体的な事例に対してすごく怒っている時なのである。

某自動車メーカーでは「♪◯産の未来は~」という替え歌があったとかなかったとか

2010-06-10 | Weblog
モーニング娘。及びつんくについて、一度きちんと総括しておくべきなのではないかと思い立ったので、まず手はじめにモーニング娘。のベスト盤を一枚買ってみた。
思い立ったきっかけの一つは、かねて畏敬する同窓生にして英文学者のN和センセイ(女性)が「まめにライヴに足を運んでいる」「モーニング娘。、ひいてはハロプロのありようは非常に興味深い」「あまり話題にならない最近の曲にも実は名曲が数多くある」などと絶賛の言辞を連ねられたからで、N和センセイがそんなにホメるのなら、これは何かあるぞ、と思ったことにある。

「LOVEマシーン」は忘れもしない1999年のリリースで、ミレニアムとかいって世間が中途半端に盛り上がりつつある時期であった(間違えてたらごめんなさい)。
モーニング娘。がテレビでちらちらと目に留まるようになった頃は「へえへえ、今度はそういう手でくるわけね」「まあそう長続きするとも思えないがね」と思った程度だったが、この「LOVEマシーン」に至って「これはタダモノではないかもしれない」と座り直した。「うまく分析できないけれど、これは何か文化的に解釈すべき奥行きをもった注目すべき対象なのではないか?」と非常に気になった。
二回三回と耳にするにつれ、これは「私の選ぶ21世紀に残したい名曲」に上位ランクインするに値すると思った。

ちょうどその頃、故ナンシー関さんと下北沢のカラオケで「いなかっぺ大将の唄」「仮面舞踏会」「傷だらけのローラ」「Zokkon命(命と書いてラブとよむ)」などを剣客の果し合いのように歌い合う機会があった(次の時にはぜひ『情熱の嵐』を、とリクエストをいただいたまま果たせなかった痛恨の想い出)。
その時に「LOVEマシーン」についてナンシーさんが
「『恋はDYNAMITE』のDYNAMITEを『ざいなまいっ』と歌わせたつんくは凄い。これは凄いよ」
と感に堪えたように発言したのが妙に印象に残っている。
その時は「ふーん、まあそれは確かにそうだけどな」と何ということもなく聞き流していたのだが、この計算づくでおバカで下品でふざけた意味不明の、ちょっと懐かしいリズムをもったメタ・フィクショナルな歌を、アイドルというには猥褻さの濃い少女たちが、キレはいいけど素人っぽい目新しいダンスとともに歌い踊るのをテレビで見るにつけ、要するにそういう「ざいなまいっ」なところにこの曲の魅力があるのかもしれないな、と改めて思った。

「恋愛レボリューション21」はなんと申してもモーニングおっさん。こと岡村さんのダンスが衝撃的だった。
自分と同い年の岡村さんが(武豊も同い年である)モーニング娘。のメンバーとまるで遜色のないシャープ極まりないダンスを繰り広げるのに驚愕し、驚異的な身体能力をもつ岡村さんへの尊敬の念を新たにした。
CMで取的が踊るのを見ても、やはり脳裏に浮かぶのは岡村さんの鮮やかな動きである。

さて改めてCDを聴いてみてどうかというと、こりゃまあやっぱり視覚的要素が伴わないと音だけでは七割がた詰まらない。
しかし「恋愛レボリューション21」のイントロ及び「LOVEマシーン」には相当の底力を感じざるを得ない。
誰だったか「LOVEマシーン」を「現代の労働歌だ」と言った人がいたが、抑えめのリズムと演歌的メロディラインが地を這うように感覚を刺激する。
この一曲だけでつんくの名は歌謡曲史に記すに値する。




実はいま志ん朝強化月間です

2010-06-07 | Weblog
K戸女学院。と打とうとしたら「頭女学院」と出た。あいかわらず頓馬な変換システムよのう。
に参上。
6週分の講義を土曜日2日間に凝縮してお送りするという反則技である。
この日程を組んだ時にはまさか転職するとは思っていなかったので、カタギの人の動けない平日を避けて土曜日に集中して入れるしかなかったのである。
その分本来の授業枠が休講になるとはいえ、若人たちのせっかくの土曜日をほぼ丸々付き合わせるというのは、いくら酷薄で知られる私でも良心が咎める。受講生諸君にはまことに申し訳ない仕儀でござる。
人間国宝、文化財保護、声明公演および民俗芸能公演の問題点などについて弁じるが、ちょいと細かい話に入り込み過ぎたかも。
次回はもうちょっとざっくりやんわりした話にしますね。

A明の短大ではざっくりやんわり、落語「船徳」を題材に、勘当・猪牙舟・四万六千日の話など。
「落語にみる江戸の社会」などと銘打ってはみたが、まあ要するに落語がどれほど面白いものであるかを若人たちに喧伝し、一人でも二人でも話芸の魔界へ連れ行かんという魂胆なのである。
志ん朝師の映像を見て感想を述べてもらうと、前半の船頭たちのしくじり話のところがよく聞き取れなかったという学生が複数いた。
早口なのと、3~4人の男たちが入れ替わり立ち替わり発言するので、どれが誰やら少し混乱してしまったらしい。
舟が出るくだりからはよく分かったし面白かった、とのこと。ふむふむ、勉強になるなあ。
「次はもうちょっと登場人物の少ないのを聴いてみたいです」「『饅頭こわい』を見てみたいです、話だけ知ってるけど本物の落語はどんなのか興味があります」などというポジティヴな声を聞きつつ、魔界の使者はしめしめニヤリと邪悪な笑みを浮かべるのであった。つづく。


「桃李もの言はざれども」とも申しますな

2010-06-01 | Weblog
謙虚であることは難しい。
特にフリーランスで仕事をしている人は、控え目におさまっていてはたちまち米櫃が空になってしまうから(というような表現もそのうち米櫃とともに滅びてしまうのであろうか)、なんとかして列の先頭に立とうとするのは誠に当然というものである。
しかし。
私の乏しい経験から申し上げて、優秀な仕事人は100%といっていいほど謙虚である。
どんなに仕事が集中して多忙をきわめ、世間に名を知られ、財をなし、「あんたならどんなに威張っても許されるよ」というような人物でも、やっぱり良い仕事をしている人は謙虚であり誠実である。
必要な連絡を怠らず、若造(私)にも丁寧に対応し、発注の意図をよく汲みとり、締め切りを守り、高いクオリティの仕事を提示してくださる。それはもうこちらが申し訳ないくらい。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」は誰がなんと言おうと真理なのである。私が保証する(と一気に怪しくなってしまうのだが)。
謙虚というのは何も実際より内輪に振る舞うということではなくて、虚飾をしないということである。
自分はこれだけの仕事をしてきました、これだけの仕事ができます、でもこの部分はしかとは引き受けられません、と掛け値なしのところを言う(それが掛け値なしであることは事後になって初めて確認されるわけだが)。
一方、スキあらば「わががわがが」と自分を売り込もうとチョコマカ動き回ったり、あるいは逆にふんぞり返って煙草の煙を鼻の穴から吹き出す(※イメージ)ような人で、ああいい仕事をしてくれた、という人には一度たりともお目にかかったことがない。
案の定、仕事のプロセスでは全く意味のない初歩的なトラブルが頻発し、「聞いていない」「言っていない」「誰の責任ですか」「そもそも予算が」などという不毛な言説が飛び交い、出てきた成果は中途半端に裃をつけたようなトホホ具合。
それでもご本人は「してやったり」とお思いかもしれないし、それで見事に通用するユルユルの業界およびネットワークも世間のあちこちに存在するのであろう。
しかしよっぽどのバカか、「まあ別にそれでもお金が回りゃあいいか」と割り切ったお付き合いをしている人以外、その人を避けるようになるのは理の当然というものだ。
仕事だからやむなくその時は笑顔で付き合うけれど、「わががわがが」が顔をのぞかせるたびに「またですか」と気分はどよんと沈み込み、ああこの人には二度と関わらないようにしよう、と決心が強固なものになっていく。
ちょっと考えれば損得は分かりそうなものなのだが、「わがが」の人はそれがどうしてもやめられないのである。
そして私がこういう抽象的なことばっかり言っている時は、具体的な事例に対してすごく怒っている時なのである。