月刊ボンジョルノ

ほとんどツイートの転載です。

原宿まで行っチャイナ

2005-07-28 | Weblog
横浜公演終了後、中華街の「K昌閣・水龍宮館」で食事。
秋の公演シーズンまでひと段落ついたということで、今年の前半戦の打ち上げのようなものである。
ここは水路の上にしつらえたボックス席があって、足下を大きな鯉が泳いだりしている。
なんでも中学生未満の子供は入れてくれない席らしい。
その割に入口にはおみくじやら客の声を鸚鵡返しする竜やらがおもちゃとして用意されており、別にアダルトな雰囲気をウリにしようという意図は感じられない。
むしろインテリア的には明らかにイベント性の勝ったお店であり、お味の方も絶賛すべきほどではないがマアおいしいというところであった。

実は中華街で腰の据わった個性的なおいしい料理を食べるのはなかなか難しい。
観光客相手のお店が多いし、だからといって裏通りのこぎたない店がおいしいかというと、味の素てんこ盛りの雑うな料理でがっくりきたりする。
料理ライターの方に聞いたところでは、店主のプロ意識の高さにもんのすごく差があるそうである。
やはりおいしい料理を食べるには信頼できる筋のクチコミに如くはない。

食事を終えて外を歩いていたら外国人観光客が非常に多かった。
特にドイツ人。まあドイツ人が多いのはどこの観光地でもそうですが。
あのドイツ人の旅行好きはねえ、ナチ時代に政策の一環として旅行がすごく奨励されたかららしいですよお。面白いですよねえ。
しかし中華街にいる外国人観光客というのは、東京観光のついでにやって来た人たちなのか。
それとも中華街を最大の目当てにやって来た人たちなのか。
中国や香港に足を伸ばすのも大変なので、日本で手軽に中国気分を味わおうということか。
なぜわざわざ日本に来て中華街なのか。
京都や奈良とちがって東京近辺でコテコテの日本情緒を求めるのには限界がある以上、広い意味での異国情緒・アジア情緒供給地としては中華街はなかなか良い選択なのではないか。
紹興酒で杏仁豆腐状になった脳みそではいくら考えてもまとまりがつかず、あまつさえ数年ぶりに駅を三つ寝過ごしてしまったのであった。とほほ。

「台風一家」だと思っている人は意外に多い

2005-07-27 | Weblog
自分で更新できる気軽さからついちょこちょことこのブログに書いてしまうので、「風雲三宅坂劇場」(Bookmark『内田樹の研究室』参照)の更新が滞ってしまう。
なら一本化すれば?とおっしゃられても、違う場所に違うことを書き散らしているのが楽しいのである。

台風は拍子抜けだったが、まあ結果としてはその方が無事でよろしい。
だいたい「くるぞくるぞー」と大騒ぎしているときは大したことなくて、ほんとに大変なことはみんなが油断しているときに起こる。
会社にはどうでもいいようなことでいちいち大騒ぎしてまわっている人がいるが、あれはひょっとしてより大きな災厄を忌避するという呪術的な目的があってやっているのであろうか。
そういう人自身が災厄なのだが。

私は四国(紀伊半島側)育ちなので台風には慣れている。
というかあの独特の動物的な風情に愛着がある。
知らない人はうそぉと言うが、「台風の目」の通過も何度も経験したことがある。
屋根にぶち当たる雨音が弱まってきたなと思うと急にぴたりと雨風がやみ、雲が舞台転換のように一瞬に晴れて文字通り「雲ひとつない青空」になる。
スコーンと音がしそうな太陽が照りわたり、急にみんみんと蝉が鳴きだしたりする。
木々の緑が生々しいぐらい綺麗に見える。
気圧が急に高くなるのか、脳の毛細血管が掃除されたようにスカッと爽快になる。
それが20分とか30分とかすると、また思い出したように元どおりの嵐が始まる。
台風の目は大変劇的に自然の威武をデモンストレーションしてくれるのであるが、それが南方的というか熱帯的というかなんか大らかで、台風が行ってしまった後は実に実にすがすがしい気分になるとともに、そこはかとない夏の哀愁を感じてしまうのである。
台風が神様として擬人化された例をあまり知らないが、あれこそは「神様のお通り」というにふさわしいのではないかと思うのである。

浴衣がブーム

2005-07-21 | Weblog
であるらしい。
さすがに通勤電車では見かけないが、劇場では浴衣のお客様をちらほらとお見受け申す(ほぼ全員女性)。
大変結構なことであると思うのであるが、どうも私は浴衣=下着同然という感覚を拭いきれないので、自分が浴衣姿であちこち出歩くのには抵抗がある。
だいいち浴衣を着ていると暑い。夏にはとても着る気がしない。
昔の人は夏でも着物で暑くなかったのかとおっしゃる人がいるけれど、どんなに暑くても背筋を伸ばしてきちんとしたなりをしているのが昔の人だったに違いない。
それは明治生まれの人を見ればよく分かる。
あとたぶん江戸の気温は今の東京より5℃は低かったのではないか。
どうしたって今の東京の温度は異常です。

『髪結新三』で湯屋から帰ってくる新三のなりを見ると、浴衣が本来バスローブであったことがよく分かる。
そんなイメージもあってか、温泉旅館・夏祭りなどの限られたシチュエーションを除き、浴衣姿でひと様の前に出るのには抵抗を感じるのである。
かといって家で普段着にしているかというと洗濯が面倒なのでしてないんですけどね。
「難しいこと言わなくても日本の伝統が見直されるのは結構なことではないか」と言われればそうなんですけど、なんかもひとつ違和感を感じてしまう、和モノブームに眉唾の今日この頃。

緊急事態発生

2005-07-20 | Weblog
なにかと思ったら「巨大な蛾が現れた」という。
終演間近、客席天井付近を飛び回る黒い蛾を発見したスタッフから連絡が入る。
大きさは両手の親指と人差し指で輪っかを作ったぐらい、小さなコウモリぐらいはあるという。
なにが問題かというと、今月は宙乗りがあって、天井付近のワイヤーをつたって役者さんが引っ込むのである。

例えば、ワイヤーにとまった蛾が引っ掛かって宙乗り装置にトラブルが生じる。
例えば、役者さんの顔に蛾が張り付く。
それほどのことはなくとも、引っ込む役者さんの周りをコウモリほどの蛾がバサバサ飛び回っているだけでも芝居はぶち壊しになる。
はて困った。

困ったものの、これという方策は考えつかない。
「光に寄って行くはずだからライトに向かって行くんじゃないか」
「そうそう、きっと熱で死にますよ」
「でもライトに照らされている役者さんの方に行くという可能性も」
「網で捕れないか」
「どんな網だよ」
「扇風機でぶわーっと吹き飛ばすとか」
「皆さん落ち着いてください」
結局、当の役者さんや後見さんに「巨大な蛾がいますから気をつけてください」と伝えて、あとは蛾の気分に任せるしかない。
周りの者にできるのは、しょせんその程度なのである。

結局蛾は宙乗りの直前に照明装置の奥に姿を消してしまい、滞りなく終演を迎えることができた。
なんか、前世は人間、しかも役者だった蛾なのかもしれない。
それもあんまり意地のよくない役者だったというような。

で、終演後に観客アンケートを整理していたら、ご意見欄にこんなのがあった。

「蛾が飛んでいました」

そのとおりです。よく気がつきましたね。
その後ろでは、スタッフが飛びまわっていました。

「分かりやすく」は大きなお世話

2005-07-17 | Weblog
親子割引期間に突入したので、劇場には親子連れのお客様がどっどどっどとお詰め掛けになる。
小学生らしきおぼっちゃん・おじょうちゃんがたくさんロビーを歩いているのを見ると、ほんとうにヤツらを楽しませなきゃだめだよなあ、としみじみ思う。
歌舞伎について「子供には分からないよ」と言う大人はバカである。
子供が「詰まんねー」と言うものは大抵大人にも詰まらない。
大人に面白いものは大抵子供にも面白い。
なんだかよく分からなくても、なんとなく面白い。
芸能、ことに歌舞伎はそういうものである。
一方で、ヤツらを楽しませるだけのパワーのあるものをご提供できているのだろうか、「もう歌舞伎なんて一生こりごりだぜ」なんと思われやしないだろうか、という恐怖も感じる。
なんてったって世間には歌舞伎より面白いものがたんとある。
「歌舞伎は美しい衣裳を見ているだけで飽きない」とか言うけれど、しばらく見てればふつう飽きる。
「歌舞伎の舞台機構はすごい」とか言うけれど、ディズニーランドに比べればおならのようなものだ。
「歌舞伎には昔も今も変わらない人情や愛が描かれている」とか言うけれど、人の思考回路なんて江戸時代と今とでは全然違うし、歌舞伎にコンテンポラリーな愛のリアリティを求めても、それは無理。
そういう近代的な大人が考え出しそうな売り文句の嘘くささを、子供は本能的に看破する。
歌舞伎のエンターテインメントとしての破壊力は、「なんだかよく分からない異形のものが、ものすごいことを言ったりしたりしている」という一点に尽きる。
そういう前近代的な空間にぜひヤツらを連れて行って差し上げたいと思うのである。

デカメロン伝説

2005-07-16 | Weblog
たまーに歌舞伎座に行くと知り合いにバタバタと会う。
大学の1年先輩で、国文学研究室創設(明治10年ね)以来初めての女性助手だったH野さん。
めでたく都内女子大学にご就職なされたそうである。慶賀。
「K之助きれいですね」
「あら私はT蔵ファンなのよ」
そうだった。
以前T蔵が娘道成寺を踊ったとき「紅のついた懐紙が欲しいから花道七三脇の席とって」と無理難題をふっかけられたことがあったっけ。
M浦しをんさんをはじめ、実は私の顔見知りの妙齢のご婦人にはT蔵ファンがとても多い。
皆様良いご趣味でござると思うでござるよ。

フランス文学のT本先生ご夫妻にばったり。
「えーチケットとれたんですかーよかったですねー」
「K松さん(*この芝居の音楽担当)の関係でねーいやーラッキーでしたー」
ええとあの仕事が・・・と口ごもる先生を無理にごはんにお誘いする。
私のおかげで、どこぞの編集者が間接的に大迷惑を被ったことであろう。わははは。
奥方のM恵さんは食のプロフェッショナルであられるので、いつでも料理もワインも全部お任せしてしまう。
先生と私は足をブラブラさせながら「あ、それがいい」「おいしそうですねー」などと何の足しにもならないコメントを発するのみである。
懐かしのヴェルナッチャ・ディ・サン・ジミニャーノ(*『デカメロン』にも頻出するトスカーナの白ワイン)をごくごく。
冷え冷えでうまー。最近酒を飲むと意識がはっきりするのはちょっとまずい兆候かも。
生ハム、カルパッチョ、ウチワエビのリングイネ、南瓜のリゾット、子牛スネ肉の煮込みなぞをばくばくと平らげつつ、K治郎の可愛ゆらしさ、回り舞台の功罪、小田島訳の魅力、文学部の「美しき滅び」、「うそでもいいから世間を納得させなきゃ」論などについて語り合う週末らしい夜になった。
お二方、お付き合いありがとうござりました。

梅雨明けが待ち遠しい、色んな意味で

2005-07-14 | Weblog
学位論文の中間発表終わる。
「やっつけ番長」の名をほしいままにする私も、諸先生方のご炯眼の前ではうんこみたいなものである。詰めの甘さを懸命に糊塗しようとするが次々に露呈。
しかしまあ大枠としてはなんとかお目こぼしをいただけたようである。
傷口といっしょで、考えていることは外気にさらすのが一番。
誠に建設的なご指摘を多々いただき、やる気アップ。
やはりアカデミズムはとてもかっちょいい。
終了後N島先生・Sbineさんと「宮本」で蛸の唐揚げなどをついばむ。
Sbineさんと日本舞踊界の不条理について語りあい、先生と体の不調具合を自慢しあう。
気がつくと先生はしれっと禁じ物の煙草と酒を口にしている。
「○コレットも○コパッチもまーったく効かなかったね。わははは。しかし日本酒はうまいね」
わはははじゃありませんてば。

かまぼこ長者

2005-07-11 | Weblog
小田原の「鈴廣かまぼこ博物館」へ。
かまぼこ博物館というすっとぼけた響きからして、もっとスガれたショボい感じをひそかに期待していたのだが、大変立派な近代的建物が鎮座していてちょっとがっかり。
中の照明やディスプレイ装置もすごく本格的だが、いかんせんテーマはかまぼこである。
そんなに展示すべきネタがあるわけではない。
むしろポイントは「かまぼこ・ちくわ作り体験教室」にある。
一日4回予約制で開催されるのだが、毎回満員の盛況だそうだ。
理科室の実験机みたいのが並んでいて、天板がすべてプラスチックのまな板になっている。
手を洗ってエプロンと帽子をつけて待っていると、おねいさんが真っ白な魚のすり身をアイスクリームサーバーでぽこん、ぽこん、と置いていってくれる。
それを包丁様のコテでこねこねぺたんとこねくりまわして、例のかまぼこ板に盛り付けていくのである。
まず職人さんが見本を見せてくれる。
「えーっ、お客さんに見せるんだからやっぱりベテランの方がいっすよ」
「いやこういうのは若い人の方がうけるんだって」
「イトウくんなんかどうよ。もう十年やってんだから人前でやったって平気だろ」
「そうそう、男前だしさあ(笑)」
「なんでそこで笑うんすか」
「イトウくんで決まり決まり、爆笑トークで盛り上げてくれよ(笑)」
というような経緯で選ばれたのであろう、若手芸人のようなビミョーなシャベリの職人さんが登場。
しかし手元はさすがに鮮やか。
みるみるうちに例のかまぼこ型にきれいに成型されていく。
見よう見まねでやってみるがどうしてもイビツになって、大分空気も入ってしまっているようだ。
しかたないのでとりあえず表面だけツルツルに繕い、ペタペタと全体のバランスを調整して帳尻を合わす。
このへんかまぼこは性格を反映するようである。
かまぼこに比べるとちくわの方が簡単で、コテを使わずに手でこねくり付けていくというプリミティヴなやり方でもOK。
かまぼこを蒸したりちくわを焼いたりしてもらって、一時間後に完成品受け取り。わくわく。
その間敷地内のレストランへ。

そう、実はこの辺一帯は、博物館・売店・レストラン・工場などから成る鈴廣の一大かまぼこアミューズメントになっているのである。
体験教室のお客は出来上がりを待つあいだ必然的にレストランへと流れる仕組みになっている。
レストランは40分待ちの大盛況。予約しといてよかった。
地ビールをごくごく飲みながらのお昼ごはんの話題は「鈴廣の恐るべき資本力について」であった。
「しかしかまぼこでそんなに儲かるもんかね」
「実は結構単価高いでしょ、かまぼこって。一本二千円のとかあるし」
「慶弔関係とか贈答用とか意外にすごい流通してんのかもよ。あのほら『寿』って書いてあるかまぼことか」
「あるある、鶴亀がかまぼこで描いてあるやつとかね」
「すっごい地元の名士なんだろうな」
「そりゃそうだろう。『かまぼこ長者』が『かまぼこ御殿』に住んでるとみた」
「息子を養子として送り込むか。一生かまぼこ食べ放題だな」
酔っ払いの話はまことにくだらないが、料理はなかなかおいしかった。
当然だがかまぼこ料理がすこぶる美味。
「揚げかま」「かまぼこのカルパッチョ」にぐいぐいとビールのピッチャーが空になる。
まったくもう鈴廣の思うツボである。

自分で作ったちくわは香ばしくてまことに美味であった。
しかしかまぼこは案の定気泡が一杯で、原料が良いので味は悪くないのだが、奇妙な食感だった。
こんなにかまぼこのことを考えたのは今までの人生で初めてだ。

人寄せ場所の光と影

2005-07-08 | Weblog
目黒区美術館の入口に仮設のチケット売場ができている。
おそらく「スターウォーズ展」の窓口混雑緩和用であろう。
なんだか景気がよさそうだ。う、うらやましい。

美術館や博物館が、およそ今まで縁のなかったようなお客さんたちをターゲットに、親しみやすい・分かりやすい・ポピュラーな・くだけた・企画を実施している。
それには理由があって、「独立行政法人化」や「指定管理者制度の導入」によって、お金をバンバン稼がなくてはいけなくなったからである。
別に今まで稼がなくてもよかったという訳ではないのだが「国や自治体に頼ってないで自分とこの売り上げでなんとかしなよ」体制がすこぶる強化されたのである。
お金を稼ぐためには、より多くのお客さんにチケットを買ってもらわなければならない。
そのためには、より多くのお客さんがやって来そうな企画を実施しなければならない。
そういうことである。

「このままでは展示企画が凡庸低俗下劣になる一方で文化が滅びてしまう」と青筋たてて怒る方もいらっしゃる。
私はいちおう「そうだよなあ」とは思うけれど、それほどには悲観しない。
基本的に美術館や博物館は「人寄せ場所」であると思っていて、そういう場所が活気づいて賑わっているのを見るのが好きだからである。
「お、今年の芥川賞受賞作か。買っとこう」という人が決してそれを読了することがなくとも、無関心で買わないよりはいちおう買ってくれた方が文化的には「活気がある」。
その種の「お祭り」は文化にとって必要なものである。
特に日本の多くの美術館や博物館の空間は、なぜかよそよそしさを拭いきれない不思議な居心地の悪さとよどみ感をまとっている。
そこに一人でも多くの人が足を踏み入れて「換気」が行われるというのは、決して悪い話ではない。
「ボクの好きな美術館を下品なやつらが土足で踏み荒らしやがって」というのは勝手な言い分であって、そういう人はお小遣いで好きな絵を買って心ゆくまで眺めればよい。
スターウォーズ展の人だかりを「おっ、なんだか賑わっておるのう」と興味深く眺め、ラファエッロをみた後でダースベイダーも抵抗なくみられるような、そういう懐の広さがほんとに文化的なのだと思う。

とまあ表の現象だけみればそんな感想だが、実際裏の現場では困ったことが多いのも確かである。
赤字減らしのために企画予算はぱかぱか削られ、スペシャリストの学芸員は経済効率が悪いというので専門とは関係ない仕事にまわされたりあっさりクビを切られたり。
そんなに文化に金をかけるのが嫌なら口だけで文化文化言うな。オレには文化なんぞ必要ないのだと本心を大声で言ってみろ。やめちまえやめちまえ。
とお尻をまくるわけにもいきませんしね。はは。

ふたたびミミの件

2005-07-07 | Weblog
「防音室に子供の声が聞こえてくるのはおかしいでしょー」「管が開きっぱなしってのも怪しいよねー」という評判を受けて、改めて総合病院に行ってみた。
朝出遅れたので受付から会計まで3時間かかってしまったが、行って正解。
さすが防音室が静かですよ。ま、だから防音室っていうんですけどね。
検査も前はやらなかったことを色々やってくれるし、問診も丁寧。
鼓膜周辺の血液循環不良ではないかということで、末梢の血管と神経のお薬をいただいて様子をみることに。
疲労・ストレスが原因かもしれないし、ひょっとしたらそのカブキのヒョーシギですか?を聞いてしまったのが原因かもしれません。
いずれにしても寝不足や大きな音には注意してくださいね。
で、一日分お薬を飲んだら気のせいか幾分症状が軽減したような。
やっぱり面倒がらずにお医者には速攻行くべしですな。