レオナルド・ダヴィンチは人体解剖マニアだった。解剖のスケッチだけで一冊の画集が出来上がるほどだ。余白には几帳面な字で書き込みがしてある。中には性交する男女の断面図もあるが、これは知識を一生懸命に足し算して描いた想像図だろう。万能の天才といわれれば近寄り難いが、この解剖スケッチには絵柄にどこやら愛嬌がある。
人の美しいポーズや劇的な動きはどこからやってくるのか。レオナルドのみならず、同時代の多くの芸術家が解剖学に熱中し、その知識は絵画や彫刻へと次々に取り込まれていった。いわばルネサンスを支えた柱の一つが解剖学だったわけだ。人間が骨や筋肉や柔らかい管からできている、極めて合理的な構造物であることが明らかになった。情熱的な探究心あるいは好奇心によって、無数の人体が切り開かれた。
以来イタリアは解剖学の総本山となる。国内各地には、近代に至るまでの解剖学の雰囲気と水準とを物語る証拠物件がそれこそ山と残されている。
その一つが大学の「解剖学教室」である。パドヴァやボローニャに残る16~17世紀のものが有名で、いずれも擂鉢状の壮麗豪華な階段教室。擂鉢の底に解剖台が置かれ、周囲を見学席が高く取り囲むという共通の構造を持つ。ローマのコロッセオ(円形闘技場)をぎゅっと小さくしたような具合だ。
これをイタリア語で「テアトロ・アナトミコ」、つまり「解剖劇場」と呼ぶ。人体解剖は「劇場」という名の空間で行われたのである。
人の視線もまた重力にはあらがえないものらしい。かたずをのんで解剖を見つめる人々の視線は、おのずと擂鉢の底へ底へと吸い込まれ収斂していく仕掛けになっている。彼らがどんな顔でこのスペクタクルに立ち会ったかは、お国が違えどレンブラントの名画「トゥルプ博士の解剖講義」がいささかユーモラスに伝えている。さながら黒マントの魔術師に魅入られた子供といったところ。
薄い刃が乾いた皮膚をさっと切り開いた瞬間、この部屋にはため息とも声ともつかない音が満ちたことだろう。黄色い脂肪が、赤い筋肉が、血管や神経が、手際よく仕分けられていく。無数の視線の矢が、解剖者の白く細い指先に注がれ続ける。人々の目は一つの塊になり、人体のさらに奥を目指して潜り込んでいった。この何とも視覚的密度の高い非日常空間は、まさに劇場の名にふさわしい。
もう一つは「人体標本」である。ホルマリンによる保存が行われる前、医学者と職人たちは、優れた標本を作り上げることに心血を注いだ。現物を加工して、あるいは精巧な作り物によって、目の前の人体を永遠に残そうとした。
特に18世紀末にフィレンツェの工房で製作された蝋細工標本は、芸術作品と言ってよいほどの美しさで有名である。モデルがモデルだから、この職人芸には何よりスピードが要求される。しかも仕事ができるのは気温の下がる冬の間だけ。名匠クレメンテ・スシーニは驚くべき要領のよさで、まるで生きているかのような死体を作り続けた。フィレンツェ大学動物学博物館、通称ラ・スペーコラで対面する彼らは、心臓や胃袋や大腸をさらけ出しているにもかかわらず、声を上げ身をよじって踊っているかのように見える。とりわけなまめかしい姿態/死態の女性は、光栄にも「ヴィーナス」の異名を頂いている。しかもおなかの中には胎児が眠っているから、さしずめこちらはキューピッドということになる。
スシーニの蝋細工は各地に散らばっているが、サルデーニャ島のカッリャリ大学には19世紀に入ってからの作品コレクションが残っている。フィレンツェのとは違って、ここの標本は死体に限りなく近づいている。うつろな半眼、唇からのぞく前歯、肉の重みでひしゃげている腕の断面。男のあごには無精ヒゲがちくちくと盛り上がっている。つまりはリアルなのだ。悩ましげに身をよじる死体などあり得ない。死体を生きているように作るか、死んでいるように作るか。スシーニの人体観が大きく変わったと見るべきだろう。
フィレンツェ大学にはほかにも解剖学博物館がある。ラ・スペーコラはガイドブックにも載っていて観光客の姿がちらほら見えるが、こちらは医学部のキャンパス内にあって訪れる人がほとんどいない。ここには蝋細工以外にも本物の人体標本が保管されている。
入り口に立つと戸棚いっぱいにしゃれこうべが詰まっているが、これは骨相学流行の名残。頭蓋骨の形で人の特徴が決まると考えられていた。
続いてミイラの要領で作られた大小様々の乾燥標本。部位を分かりやすくするために赤や青で彩色されたものもあって、かつての教室での講義風景をほうふつさせる。
「人間は一本の管に過ぎない」というのは文学的な警句だが、ここでは文字通りのものにお目にかかれる。頭部と、あとは消化器だけを残した標本。つまり口から直腸までがつり下げられてひと目で見られるようにしてある。何しろ目の前に現物があるのだから、この警句はもろ手を挙げて肯定するしかない。
そして世にも謎めいた標本、「ピエトリフィカツィオーネ」。日本語なら「石化」だが、見る限りその標本に硬く冷たい感じは全くない。鮮やかな色と質感とを見事に保っている。
若い女性の頭皮がある。まばゆいばかりの金髪が洗いたてのように輝いている。かつらでない証拠には、真っ白な両耳がちんまりくっついている。
上等のシルクの布に包まれた、少女のものとおぼしき乳房。ピンと張り切った丸みには静脈が透き通って、毛穴の一つ一つがまだ呼吸をしているようだ。
この「石化」、実はいまだに技術の詳細がよく分かっていない。発明者ジローラモ・セガートが死の直前に、すべての研究資料を灰にしてしまったからである。今まで何人かの研究者が模倣を試みたが、セガートの作った標本よりも上質のものは決してできなかったという。錬金術のにおいがぷんぷん漂うこの男に、現代の科学者が手玉にとられている。
才能のほかに茶目っ気もたっぷりあったとみえて、セガートは愉快な標本を残している。例えばトスカーナ名物サラミの薄切り。紅色の肉の中に白い脂や粒コショウがのぞいているところは、市場に並ぶサラミとちっとも変わらない。しかし指先でつまんでみると、硬くてひやりとしてすべすべしている。お次は自分の血液を固めて作ったブローチ。半透明の暗褐色はこんな色の石があるのだとしか思えないが、果たしてこれをプレゼントされた女性は喜んだろうか。要するに彼にとっての標本作りとは、人をあっと言わせるためのエンターテインメントだったのだ。
これらの解剖にまつわる品々を前にして、我々はどう振る舞えばよいのだろう。
現代の解剖学に言わせれば、今さら19世紀の人体標本から学ぶものなどない、ということになるのだろう。医学史上の一里塚、歴史上のこぼれ話に過ぎない。
一番厄介な問題は、死があからさまになることへの嫌悪だ。たとえ作り物であっても、死体を人目にさらすというのはいかがなものか。現物ならなおのこと。趣味がよくないし、第一気持ち悪いではないか。
実はそこのところに意味がある。人体がなぜ気持ち悪いのか。しかし人はなぜこれほどまでに人体を切り開くことに固執してきたのか。事情は日本も同じことだ。死体の腐敗進行や病人の症状を克明に描いた絵巻物がある。近世には多くの解剖図が描かれ、木製標本も作られた。ついでに言えば、解剖的感覚を戯画化するセンスには驚かされる。落語の「疝気の虫」は人体構造を熟知して男の体内で生き延びているし、「地獄八景亡者戯」では人をのんだ鬼の内臓の仕組みが分かるようになっている。
人は人の体の中をのぞいてみたいという欲求を持っている。抑え難い強烈な目の欲望。それを実現する究極の行為が解剖である。そして標本を作るということは、解剖を「見る」から「見せる」へと大きく転回させる。セガートの標本はとびきり魅力的な見せ物だ。しかし解剖をエンターテインメントと考えたのはセガートだけだったろうか。劇場という名の教室、あるいは小型のコロッセオ。ラ・スペーコラの踊る死体たち。多少とも見せ物のにおいを帯びてはいないか。
解剖をめぐる物件の数々には、「ヒトがヒトの身体をどのような視線で見つめ解釈したか」という重要な文化史的意味が潜んでいる。
初夏になって、改めてフィレンツェ大学解剖学博物館の見学を申し込んだ。担当の教授が「午後は暑くて中にいられないので、早朝にしてほしい」と言う。盆地のフィレンツェは寒暖の差が激しい。この時は気温が40度近くにまで上がり、実際、博物館の中も息苦しいような蒸し暑さだった。素人考えですが、これだと大事な標本が傷んでしまうのではありませんか?
「お金がなくて温度や湿度を管理することさえできないのです。今の保存状態が標本にどんな影響を与えるのか、正直なところ分からないとしか言えない。とにかくお金がないのです」
傍らにある空っぽの展示ケースは、国立公文書館が廃棄したものをもらい受けてきたのだという。「重過ぎて不便だけど、タダだから」
建築物である解剖学教室がしばしば文化財的な扱いを受けているのに対し、ここの標本たちはほとんど忘れ去られた存在だ。「もっとよく見てもらえるようにしたいけど、とにかくお金がなくてお手上げ。どうしようもありません」。博物館といってもだだっ広い部屋にガラス戸棚を並べただけの、倉庫といった方がいいようなしらじらとしたスペース。もちろん解説パネルなどは一切ない。
視覚文化史の証言者である貴重な標本の数々が、酷寒酷暑の部屋にひっそりと息を殺している。これはあまりにもったいない。私の頭には日本人らしく「浮かばれない」などという言葉が浮かんでくるのである。
(『世界週報』、時事通信社、2003年8月5日号)
人の美しいポーズや劇的な動きはどこからやってくるのか。レオナルドのみならず、同時代の多くの芸術家が解剖学に熱中し、その知識は絵画や彫刻へと次々に取り込まれていった。いわばルネサンスを支えた柱の一つが解剖学だったわけだ。人間が骨や筋肉や柔らかい管からできている、極めて合理的な構造物であることが明らかになった。情熱的な探究心あるいは好奇心によって、無数の人体が切り開かれた。
以来イタリアは解剖学の総本山となる。国内各地には、近代に至るまでの解剖学の雰囲気と水準とを物語る証拠物件がそれこそ山と残されている。
その一つが大学の「解剖学教室」である。パドヴァやボローニャに残る16~17世紀のものが有名で、いずれも擂鉢状の壮麗豪華な階段教室。擂鉢の底に解剖台が置かれ、周囲を見学席が高く取り囲むという共通の構造を持つ。ローマのコロッセオ(円形闘技場)をぎゅっと小さくしたような具合だ。
これをイタリア語で「テアトロ・アナトミコ」、つまり「解剖劇場」と呼ぶ。人体解剖は「劇場」という名の空間で行われたのである。
人の視線もまた重力にはあらがえないものらしい。かたずをのんで解剖を見つめる人々の視線は、おのずと擂鉢の底へ底へと吸い込まれ収斂していく仕掛けになっている。彼らがどんな顔でこのスペクタクルに立ち会ったかは、お国が違えどレンブラントの名画「トゥルプ博士の解剖講義」がいささかユーモラスに伝えている。さながら黒マントの魔術師に魅入られた子供といったところ。
薄い刃が乾いた皮膚をさっと切り開いた瞬間、この部屋にはため息とも声ともつかない音が満ちたことだろう。黄色い脂肪が、赤い筋肉が、血管や神経が、手際よく仕分けられていく。無数の視線の矢が、解剖者の白く細い指先に注がれ続ける。人々の目は一つの塊になり、人体のさらに奥を目指して潜り込んでいった。この何とも視覚的密度の高い非日常空間は、まさに劇場の名にふさわしい。
もう一つは「人体標本」である。ホルマリンによる保存が行われる前、医学者と職人たちは、優れた標本を作り上げることに心血を注いだ。現物を加工して、あるいは精巧な作り物によって、目の前の人体を永遠に残そうとした。
特に18世紀末にフィレンツェの工房で製作された蝋細工標本は、芸術作品と言ってよいほどの美しさで有名である。モデルがモデルだから、この職人芸には何よりスピードが要求される。しかも仕事ができるのは気温の下がる冬の間だけ。名匠クレメンテ・スシーニは驚くべき要領のよさで、まるで生きているかのような死体を作り続けた。フィレンツェ大学動物学博物館、通称ラ・スペーコラで対面する彼らは、心臓や胃袋や大腸をさらけ出しているにもかかわらず、声を上げ身をよじって踊っているかのように見える。とりわけなまめかしい姿態/死態の女性は、光栄にも「ヴィーナス」の異名を頂いている。しかもおなかの中には胎児が眠っているから、さしずめこちらはキューピッドということになる。
スシーニの蝋細工は各地に散らばっているが、サルデーニャ島のカッリャリ大学には19世紀に入ってからの作品コレクションが残っている。フィレンツェのとは違って、ここの標本は死体に限りなく近づいている。うつろな半眼、唇からのぞく前歯、肉の重みでひしゃげている腕の断面。男のあごには無精ヒゲがちくちくと盛り上がっている。つまりはリアルなのだ。悩ましげに身をよじる死体などあり得ない。死体を生きているように作るか、死んでいるように作るか。スシーニの人体観が大きく変わったと見るべきだろう。
フィレンツェ大学にはほかにも解剖学博物館がある。ラ・スペーコラはガイドブックにも載っていて観光客の姿がちらほら見えるが、こちらは医学部のキャンパス内にあって訪れる人がほとんどいない。ここには蝋細工以外にも本物の人体標本が保管されている。
入り口に立つと戸棚いっぱいにしゃれこうべが詰まっているが、これは骨相学流行の名残。頭蓋骨の形で人の特徴が決まると考えられていた。
続いてミイラの要領で作られた大小様々の乾燥標本。部位を分かりやすくするために赤や青で彩色されたものもあって、かつての教室での講義風景をほうふつさせる。
「人間は一本の管に過ぎない」というのは文学的な警句だが、ここでは文字通りのものにお目にかかれる。頭部と、あとは消化器だけを残した標本。つまり口から直腸までがつり下げられてひと目で見られるようにしてある。何しろ目の前に現物があるのだから、この警句はもろ手を挙げて肯定するしかない。
そして世にも謎めいた標本、「ピエトリフィカツィオーネ」。日本語なら「石化」だが、見る限りその標本に硬く冷たい感じは全くない。鮮やかな色と質感とを見事に保っている。
若い女性の頭皮がある。まばゆいばかりの金髪が洗いたてのように輝いている。かつらでない証拠には、真っ白な両耳がちんまりくっついている。
上等のシルクの布に包まれた、少女のものとおぼしき乳房。ピンと張り切った丸みには静脈が透き通って、毛穴の一つ一つがまだ呼吸をしているようだ。
この「石化」、実はいまだに技術の詳細がよく分かっていない。発明者ジローラモ・セガートが死の直前に、すべての研究資料を灰にしてしまったからである。今まで何人かの研究者が模倣を試みたが、セガートの作った標本よりも上質のものは決してできなかったという。錬金術のにおいがぷんぷん漂うこの男に、現代の科学者が手玉にとられている。
才能のほかに茶目っ気もたっぷりあったとみえて、セガートは愉快な標本を残している。例えばトスカーナ名物サラミの薄切り。紅色の肉の中に白い脂や粒コショウがのぞいているところは、市場に並ぶサラミとちっとも変わらない。しかし指先でつまんでみると、硬くてひやりとしてすべすべしている。お次は自分の血液を固めて作ったブローチ。半透明の暗褐色はこんな色の石があるのだとしか思えないが、果たしてこれをプレゼントされた女性は喜んだろうか。要するに彼にとっての標本作りとは、人をあっと言わせるためのエンターテインメントだったのだ。
これらの解剖にまつわる品々を前にして、我々はどう振る舞えばよいのだろう。
現代の解剖学に言わせれば、今さら19世紀の人体標本から学ぶものなどない、ということになるのだろう。医学史上の一里塚、歴史上のこぼれ話に過ぎない。
一番厄介な問題は、死があからさまになることへの嫌悪だ。たとえ作り物であっても、死体を人目にさらすというのはいかがなものか。現物ならなおのこと。趣味がよくないし、第一気持ち悪いではないか。
実はそこのところに意味がある。人体がなぜ気持ち悪いのか。しかし人はなぜこれほどまでに人体を切り開くことに固執してきたのか。事情は日本も同じことだ。死体の腐敗進行や病人の症状を克明に描いた絵巻物がある。近世には多くの解剖図が描かれ、木製標本も作られた。ついでに言えば、解剖的感覚を戯画化するセンスには驚かされる。落語の「疝気の虫」は人体構造を熟知して男の体内で生き延びているし、「地獄八景亡者戯」では人をのんだ鬼の内臓の仕組みが分かるようになっている。
人は人の体の中をのぞいてみたいという欲求を持っている。抑え難い強烈な目の欲望。それを実現する究極の行為が解剖である。そして標本を作るということは、解剖を「見る」から「見せる」へと大きく転回させる。セガートの標本はとびきり魅力的な見せ物だ。しかし解剖をエンターテインメントと考えたのはセガートだけだったろうか。劇場という名の教室、あるいは小型のコロッセオ。ラ・スペーコラの踊る死体たち。多少とも見せ物のにおいを帯びてはいないか。
解剖をめぐる物件の数々には、「ヒトがヒトの身体をどのような視線で見つめ解釈したか」という重要な文化史的意味が潜んでいる。
初夏になって、改めてフィレンツェ大学解剖学博物館の見学を申し込んだ。担当の教授が「午後は暑くて中にいられないので、早朝にしてほしい」と言う。盆地のフィレンツェは寒暖の差が激しい。この時は気温が40度近くにまで上がり、実際、博物館の中も息苦しいような蒸し暑さだった。素人考えですが、これだと大事な標本が傷んでしまうのではありませんか?
「お金がなくて温度や湿度を管理することさえできないのです。今の保存状態が標本にどんな影響を与えるのか、正直なところ分からないとしか言えない。とにかくお金がないのです」
傍らにある空っぽの展示ケースは、国立公文書館が廃棄したものをもらい受けてきたのだという。「重過ぎて不便だけど、タダだから」
建築物である解剖学教室がしばしば文化財的な扱いを受けているのに対し、ここの標本たちはほとんど忘れ去られた存在だ。「もっとよく見てもらえるようにしたいけど、とにかくお金がなくてお手上げ。どうしようもありません」。博物館といってもだだっ広い部屋にガラス戸棚を並べただけの、倉庫といった方がいいようなしらじらとしたスペース。もちろん解説パネルなどは一切ない。
視覚文化史の証言者である貴重な標本の数々が、酷寒酷暑の部屋にひっそりと息を殺している。これはあまりにもったいない。私の頭には日本人らしく「浮かばれない」などという言葉が浮かんでくるのである。
(『世界週報』、時事通信社、2003年8月5日号)