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月刊ボンジョルノ

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解剖学の総本山 イタリアに眠る文化財

2005-03-14 | イタリア
 レオナルド・ダヴィンチは人体解剖マニアだった。解剖のスケッチだけで一冊の画集が出来上がるほどだ。余白には几帳面な字で書き込みがしてある。中には性交する男女の断面図もあるが、これは知識を一生懸命に足し算して描いた想像図だろう。万能の天才といわれれば近寄り難いが、この解剖スケッチには絵柄にどこやら愛嬌がある。
 人の美しいポーズや劇的な動きはどこからやってくるのか。レオナルドのみならず、同時代の多くの芸術家が解剖学に熱中し、その知識は絵画や彫刻へと次々に取り込まれていった。いわばルネサンスを支えた柱の一つが解剖学だったわけだ。人間が骨や筋肉や柔らかい管からできている、極めて合理的な構造物であることが明らかになった。情熱的な探究心あるいは好奇心によって、無数の人体が切り開かれた。
 以来イタリアは解剖学の総本山となる。国内各地には、近代に至るまでの解剖学の雰囲気と水準とを物語る証拠物件がそれこそ山と残されている。
 その一つが大学の「解剖学教室」である。パドヴァやボローニャに残る16~17世紀のものが有名で、いずれも擂鉢状の壮麗豪華な階段教室。擂鉢の底に解剖台が置かれ、周囲を見学席が高く取り囲むという共通の構造を持つ。ローマのコロッセオ(円形闘技場)をぎゅっと小さくしたような具合だ。
 これをイタリア語で「テアトロ・アナトミコ」、つまり「解剖劇場」と呼ぶ。人体解剖は「劇場」という名の空間で行われたのである。
 人の視線もまた重力にはあらがえないものらしい。かたずをのんで解剖を見つめる人々の視線は、おのずと擂鉢の底へ底へと吸い込まれ収斂していく仕掛けになっている。彼らがどんな顔でこのスペクタクルに立ち会ったかは、お国が違えどレンブラントの名画「トゥルプ博士の解剖講義」がいささかユーモラスに伝えている。さながら黒マントの魔術師に魅入られた子供といったところ。
 薄い刃が乾いた皮膚をさっと切り開いた瞬間、この部屋にはため息とも声ともつかない音が満ちたことだろう。黄色い脂肪が、赤い筋肉が、血管や神経が、手際よく仕分けられていく。無数の視線の矢が、解剖者の白く細い指先に注がれ続ける。人々の目は一つの塊になり、人体のさらに奥を目指して潜り込んでいった。この何とも視覚的密度の高い非日常空間は、まさに劇場の名にふさわしい。
 もう一つは「人体標本」である。ホルマリンによる保存が行われる前、医学者と職人たちは、優れた標本を作り上げることに心血を注いだ。現物を加工して、あるいは精巧な作り物によって、目の前の人体を永遠に残そうとした。
 特に18世紀末にフィレンツェの工房で製作された蝋細工標本は、芸術作品と言ってよいほどの美しさで有名である。モデルがモデルだから、この職人芸には何よりスピードが要求される。しかも仕事ができるのは気温の下がる冬の間だけ。名匠クレメンテ・スシーニは驚くべき要領のよさで、まるで生きているかのような死体を作り続けた。フィレンツェ大学動物学博物館、通称ラ・スペーコラで対面する彼らは、心臓や胃袋や大腸をさらけ出しているにもかかわらず、声を上げ身をよじって踊っているかのように見える。とりわけなまめかしい姿態/死態の女性は、光栄にも「ヴィーナス」の異名を頂いている。しかもおなかの中には胎児が眠っているから、さしずめこちらはキューピッドということになる。
 スシーニの蝋細工は各地に散らばっているが、サルデーニャ島のカッリャリ大学には19世紀に入ってからの作品コレクションが残っている。フィレンツェのとは違って、ここの標本は死体に限りなく近づいている。うつろな半眼、唇からのぞく前歯、肉の重みでひしゃげている腕の断面。男のあごには無精ヒゲがちくちくと盛り上がっている。つまりはリアルなのだ。悩ましげに身をよじる死体などあり得ない。死体を生きているように作るか、死んでいるように作るか。スシーニの人体観が大きく変わったと見るべきだろう。
 フィレンツェ大学にはほかにも解剖学博物館がある。ラ・スペーコラはガイドブックにも載っていて観光客の姿がちらほら見えるが、こちらは医学部のキャンパス内にあって訪れる人がほとんどいない。ここには蝋細工以外にも本物の人体標本が保管されている。
 入り口に立つと戸棚いっぱいにしゃれこうべが詰まっているが、これは骨相学流行の名残。頭蓋骨の形で人の特徴が決まると考えられていた。
 続いてミイラの要領で作られた大小様々の乾燥標本。部位を分かりやすくするために赤や青で彩色されたものもあって、かつての教室での講義風景をほうふつさせる。
 「人間は一本の管に過ぎない」というのは文学的な警句だが、ここでは文字通りのものにお目にかかれる。頭部と、あとは消化器だけを残した標本。つまり口から直腸までがつり下げられてひと目で見られるようにしてある。何しろ目の前に現物があるのだから、この警句はもろ手を挙げて肯定するしかない。
 そして世にも謎めいた標本、「ピエトリフィカツィオーネ」。日本語なら「石化」だが、見る限りその標本に硬く冷たい感じは全くない。鮮やかな色と質感とを見事に保っている。
 若い女性の頭皮がある。まばゆいばかりの金髪が洗いたてのように輝いている。かつらでない証拠には、真っ白な両耳がちんまりくっついている。
 上等のシルクの布に包まれた、少女のものとおぼしき乳房。ピンと張り切った丸みには静脈が透き通って、毛穴の一つ一つがまだ呼吸をしているようだ。
 この「石化」、実はいまだに技術の詳細がよく分かっていない。発明者ジローラモ・セガートが死の直前に、すべての研究資料を灰にしてしまったからである。今まで何人かの研究者が模倣を試みたが、セガートの作った標本よりも上質のものは決してできなかったという。錬金術のにおいがぷんぷん漂うこの男に、現代の科学者が手玉にとられている。
 才能のほかに茶目っ気もたっぷりあったとみえて、セガートは愉快な標本を残している。例えばトスカーナ名物サラミの薄切り。紅色の肉の中に白い脂や粒コショウがのぞいているところは、市場に並ぶサラミとちっとも変わらない。しかし指先でつまんでみると、硬くてひやりとしてすべすべしている。お次は自分の血液を固めて作ったブローチ。半透明の暗褐色はこんな色の石があるのだとしか思えないが、果たしてこれをプレゼントされた女性は喜んだろうか。要するに彼にとっての標本作りとは、人をあっと言わせるためのエンターテインメントだったのだ。
 これらの解剖にまつわる品々を前にして、我々はどう振る舞えばよいのだろう。
 現代の解剖学に言わせれば、今さら19世紀の人体標本から学ぶものなどない、ということになるのだろう。医学史上の一里塚、歴史上のこぼれ話に過ぎない。
 一番厄介な問題は、死があからさまになることへの嫌悪だ。たとえ作り物であっても、死体を人目にさらすというのはいかがなものか。現物ならなおのこと。趣味がよくないし、第一気持ち悪いではないか。
 実はそこのところに意味がある。人体がなぜ気持ち悪いのか。しかし人はなぜこれほどまでに人体を切り開くことに固執してきたのか。事情は日本も同じことだ。死体の腐敗進行や病人の症状を克明に描いた絵巻物がある。近世には多くの解剖図が描かれ、木製標本も作られた。ついでに言えば、解剖的感覚を戯画化するセンスには驚かされる。落語の「疝気の虫」は人体構造を熟知して男の体内で生き延びているし、「地獄八景亡者戯」では人をのんだ鬼の内臓の仕組みが分かるようになっている。
 人は人の体の中をのぞいてみたいという欲求を持っている。抑え難い強烈な目の欲望。それを実現する究極の行為が解剖である。そして標本を作るということは、解剖を「見る」から「見せる」へと大きく転回させる。セガートの標本はとびきり魅力的な見せ物だ。しかし解剖をエンターテインメントと考えたのはセガートだけだったろうか。劇場という名の教室、あるいは小型のコロッセオ。ラ・スペーコラの踊る死体たち。多少とも見せ物のにおいを帯びてはいないか。
 解剖をめぐる物件の数々には、「ヒトがヒトの身体をどのような視線で見つめ解釈したか」という重要な文化史的意味が潜んでいる。
 初夏になって、改めてフィレンツェ大学解剖学博物館の見学を申し込んだ。担当の教授が「午後は暑くて中にいられないので、早朝にしてほしい」と言う。盆地のフィレンツェは寒暖の差が激しい。この時は気温が40度近くにまで上がり、実際、博物館の中も息苦しいような蒸し暑さだった。素人考えですが、これだと大事な標本が傷んでしまうのではありませんか?
 「お金がなくて温度や湿度を管理することさえできないのです。今の保存状態が標本にどんな影響を与えるのか、正直なところ分からないとしか言えない。とにかくお金がないのです」
 傍らにある空っぽの展示ケースは、国立公文書館が廃棄したものをもらい受けてきたのだという。「重過ぎて不便だけど、タダだから」
 建築物である解剖学教室がしばしば文化財的な扱いを受けているのに対し、ここの標本たちはほとんど忘れ去られた存在だ。「もっとよく見てもらえるようにしたいけど、とにかくお金がなくてお手上げ。どうしようもありません」。博物館といってもだだっ広い部屋にガラス戸棚を並べただけの、倉庫といった方がいいようなしらじらとしたスペース。もちろん解説パネルなどは一切ない。
 視覚文化史の証言者である貴重な標本の数々が、酷寒酷暑の部屋にひっそりと息を殺している。これはあまりにもったいない。私の頭には日本人らしく「浮かばれない」などという言葉が浮かんでくるのである。

(『世界週報』、時事通信社、2003年8月5日号)

ヴェネツィアとピサにみるイタリアの橋文化

2005-02-26 | イタリア
ヴェネツィアの運河の上を人々が歩いて行く。年に一度の祭りの日、一日だけの橋がここに出現する。水の上を一直線に渡り、対岸の教会目指して参詣人の列が進む。祭りが終れば翌日にはすべてが元どおり、橋はきれいに消え失せる。昨日この足で歩いたはずの水面には穏やかな波が揺れているばかり。いつものように観光客を満載した水上バスが行き交う。白昼夢のような、といえばいささかロマンチックに過ぎるが、このゆかしい祭りももとはといえばペストの大流行がきっかけで生まれた。
14~15世紀のペストの蔓延で、一説にはヨーロッパ全体の人口が三分の一、およそ三千万人減ったという。老若男女貧富を問わず、当時の人々にとってペストの恐怖はわれわれの想像を絶するものだった。
干潟に杭を打ち込んで、半ば無理やりに人々が移り住んだ。だからヴェネツィアではあらゆる建物が海水からにょっきり生えている。大潮の季節になると塩水が膝までのぼってくる。びしょびしょと濡れた土地は疫病の流行にも影響を与えたはずだ。ヴェネツィアだけで2年間に5万人が犠牲になった。ヴェネツィア-疫病という連想は、トーマス・マンの「ベニスに死す」まで尾をひいている。
この町でペストとの長い戦いが終わったことを記念して建てられたのが「レデントーレ教会」である。レデントーレ(Redentore)とは救世主キリストのこと。ペストからの救い主に限りない感謝を込めてこの教会が捧げられた。
教会の建つジュデッカ島は日本刀のようにおそろしく細長い。もっとも島といっても水面から顔を出した中洲を橋で継ぎ合わせたようなものだ。運河を挟んでヴェネツィア本島と向きあっている。教会の設計を任されたのはパドヴァ生まれのアンドレア・パッラーディオ(1508‐1580)。ローマ仕込みの腕が買われてひっぱりだこだった。名建築ぞろいのイタリアの教会の中ではとりたてて特徴はないが、絶えることのない信仰を集めてきたのだろう、中の雰囲気がいかにも練れていて居心地がいい。ティントレットなどご当地おなじみの画家が壁を飾っている。この教会が年に一度、聖なる橋でヴェネツィア本島と結ばれるのだ。
「レデントーレの祭り」は1577年、教会の着工とともに始まったという。今は7月の第三日曜日が祭日になっている。橋は本島側のザッテレという岸から架けられるが、その昔は小舟をずらりと並べ、その上を渡って教会までお参りをした。さぞかし揺れたことだろう。善男善女がへっぴり腰で手を取りあってミサに詰めかけた。おっちょこちょいの男がどぼんと水にはまって大笑いされた。今では小舟ではなく立派なイカダ型の専用機材を使っている。金属製の頑丈な手すりもあってうっかり運河に落ちこむ心配はなくなったが、その分風情に欠けるのはしかたがない。
橋長は333.7m。幅員は3.6m、海面から床までの高さが1.2m。34基のイカダが、16の分割ユニットから成る橋本体を支えている。橋の真ん中が山型に盛り上がっていて、許可を得た船なら下を行き来できるようになっている。
渡り初めは夜の7時。大勢の人が橋を目指して集まってくるが、日の長い真夏のこと、太陽はまだカッカと照りつけている。油溜まりのような水面がギラギラ陽を照り返して、サングラスなしではめまいがするほどだ。傍らの船着場では水着姿の大家族やクルージング・クラブの男たちがバーベキューの準備に忙しい。これから自家用クルーザーの上で夜っぴいて大宴会を繰り広げるのである。気の早いグループは沖へ出て缶ビール片手に歌を歌っている。神聖なお祭りの日に、と眉をひそめるには及ばない。どこの国でも祭りに大騒ぎはつきものだ。かたや岸にいる渡りぞめ組はそろって道端に座りこみ、呆けたように水と橋とを眺めている。
陽射しが少し弱まった頃、前の方の人たちがぼつぼつとお尻を払って立ち上がりはじめた。時間になったとみえて神父さんが橋に祝福を与えている。背のびして見ていたら、聖職者とスーツ姿の紳士連中を先頭にするすると行列が進む。にわか信者になって神妙な顔でしずしずと歩いた。橋にそっと足を乗せると横板を渡した床はごく安定していて、波の揺れをほとんど感じない。浅い運河の底に杭を打ち込んで固定しているのだろう。水上の333メートルは目の前にすると意外に長い。真正面に教会の真っ白なファサードが見える。大勢で教会を目指して歩いていると「巡礼」などという言葉が浮かんできた。真ん中辺りで振り返ったら、波の上まっすぐに伸びた橋を老若男女がこちらに向かって歩いて来る。一直線の行列が本当に水面を歩いているように見えたら、不意に目と鼻の間が熱くなった。
もちろん普段の運河は船で渡る。そこにわざわざ橋をかけてぞろぞろ歩いて渡る、ということには意味があるのだろう。そういえばイエスは湖水の上を歩いてみせた。水の上を歩くのは一種の行(ぎょう)とも見える。火渡りならぬ水渡りといったところ。おぞましいペストが過ぎ去ったとき、生き残った人々はどんな気持ちで運河を歩いて渡っただろう。生きているということは揺れる小舟のように頼りないものだ。いつ誰がひょいと踏み外しても不思議はない。
無事渡りきった所には救い主が御手をさしのべている。目の前に高い石段があり、その上に教会が鎮座している。信心薄いバチあたりでも否応なしに振り仰がざるを得ない。石段の上から見下ろすと、人の頭が続々と橋の上をやってくる。初詣の光景にちょっと似ているが、周り一面は海であって、参詣人は水の上を渡ってくる。
扉を押して教会の中に入ると石作り独特のひんやりした空気が肺に入ってくる。数え切れないほどのお灯明がともっていて、白いロウソクをつまんだ人々が空いた燭台を探してウロウロしている。かつては火が光そのものであったこと、そしてそれが救済のしるしであったことが、教会の中では身にしみてよく分かる。いかめしいお説教もイタリア語だと弾むような明るさがある。賛美歌に合わせて口をムニャムニャしていたが、いやしきわが身にはバーベキューの方が気になる。ミサの途中でそっと抜け出した。
おばあちゃんたちが一枚一ユーロの慈善くじを売っている。「福引」というのんびりした言葉がいかにも似つかわしい。景品交換の小屋をのぞくと、ヒナ段の上に絵葉書、人形、目覚まし時計、お皿、花瓶などがずらりと並ぶ。小さな紙切れの束を握りしめた人たちが自分の番を待っている。「なんだか知らないが、とにかく何かは当たる」そうだ。「運がよければキャンピング・セットだって当たる」。景品運びのシニョーラが息をきらして右往左往している。ものは試しと一枚だけ買って渡したら、「ハイおめでとう」と女物の長靴を持ってきた。履いてみようとしたが足が半分しか入らない。あきらめて隣にいた女の子に進呈した。
ようやく日が暮れる頃にはクルーザーが目の前の運河を埋めつくしている。大音量のCDに合わせて甲板で踊っている男がいる。何を焼いているのか火事と見まごうばかりにもうもうと煙をあげている船もある。日本なら岸一杯に屋台が並ぶところだが、あいにく店らしきものは見当たらない。クルーザーの上の缶ビールを羨ましそうに眺めた。橋の上は教会に行く人帰る人でまだ行列が続いている。いささかくたびれて石段に腰をおろしたら急におなかがすいてきた。ひょいと立ち上がって、晩御飯のためにいそいそと橋をひき返した。
水上の大宴会がまずひと段落という頃、夜11時半からは打ち上げ花火が始まる。レデントーレの祭りといえば、今はこの花火を目当ての人が多いそうだ。世界一の花火を見慣れた日本人の目からは全くもって物足りないが、舞台装置はとびきりだ。花火をユラユラ映す墨のような波、やんわりと上下に揺れる船、そして明日には消え失せてしまう橋。それこそ「ベニスに死す」のリド島から眺めた。あんまり男一人でいるべき所ではないだろう。桟橋に座って足をブラブラさせたら、靴が脱げそうになって泡を食った。昼間の長靴を思い出して首をすくめた。
あまりにも映画めいた風景。しかしどんなにお金をかけても、テーマパークではこうはいかないものだ。すべからく祭りというものには、人々の生活した時間が地層のように積み重なっている。祭りのあとには酒瓶が残る。翌朝の運河は驚くばかりのゴミで埋めつくされる。水上バスも空き缶やワインの瓶をかきわけるようにして進む。手馴れたもので市のゴミ回収船が運河を縦横に走り回っている。レデントーレの祭りでは、花火とお灯明とバーベキューと、天・地・人の三つの火が並んで燃えている。その真ん中には例の一日だけの橋が架かっている。
民俗学では橋はもっぱら「境界」のシンボルということになっている。橋を隔ててこちらとあちらは別の世界。「橋を渡る」ことは「あちらの世界へ行く」ことを意味する。とすると橋は分断の象徴であると同時に、交通のカナメでもある。だから戦になると橋を奪い合う。
ピサに行けばその名も「橋取り合戦」という祭りがある。イタリア語ならジョーコ・デル・ポンテ(Gioco del Ponte)と可愛らしい響きだが、その昔は随分物騒な祭りだったらしい。
イタリアの都市はどこも小さいが、それがもっと小さないくつかの地区に分かれていることが多い。それぞれの住人はわが地区に絶大な誇りをもっていて、シンボルの旗をかついでは何かにつけてお隣と競い合う。ピサの中央部はアルノ川をはさんで4地区に分かれており、お祭りではその中央に架かる“中央橋”(Ponte di Mezzo)を両側から奪い合う。昔は文字通り生身と生身でぶつかりあったから死人やケガ人がゾロゾロ出た。戦ではないから勝ったからといって橋を占領するわけではない。象徴としての橋を奪い合うのである。今では橋に敷かれたレールの上に一見レガッタ船のような専用の装置が用意されていて、力自慢の男たちがそれを両側から押し合うことで勝負を決める。むしろ見ものなのは、力較べの前のパレードだ。中世の衣裳を身につけて練り歩く。太鼓とラッパの楽隊が先払いをする。大きな旗をくるくる回しながら投げ上げて上手に受け止める曲芸は、トスカーナ地方のお祭りではおなじみのものだ。お小姓を従えた馬上りりしい騎士は、血統正しい地元の名士だそうだ。派手な衣裳の着こなしはもちろん、気の立った馬を操る手綱さばきも堂に入ったものだ。「馬に上手に乗れるのは上流階級の紳士の条件だ」。隣のおじいさんがしきりに話しかけてくる。「日本の紳士は馬に乗るかね?」。日本のどこか照れ臭そうな時代行列と違って、誰もが中世の人になりきっている。なにより顔が立派だ。岩のような男たちは橋を攻めあう選手。チームカラーで統一された応援席から一際大きな歓声が起きる。
レデントーレの橋と違って、こちらは何の変哲もない橋だ。しかし祭りの本当の主役は橋である。人の真ん中にでんと橋が架かっている。何百年もの間、一本の橋の周りで人間が入れ替わり立ち代わりめまぐるしく動き続けている。
一方のレデントーレの橋は、祭りの間だけ出現し、祭りが終わると消え去ってしまう。つまりは山車祭りの飾り物や、おみこしを据える「お旅所」のようなものだ。橋を架けること自体が祝祭になっている。とすれば、すべての行事が終わるとあっという間に撤去されてしまうのは当然のことである。船の行き来に邪魔になる、という現実的な理由だけではあるまい。かりそめの橋は、どうしたって夢のように消えてしまわなくてはならない。
距離にして3.3km、シチリア島とイタリア半島とはいまだに橋でつながっていない。技術的には造作もないことなのに、メッシーナ海峡横断の架橋計画は一向に進展しないまま今日に至っている。だから半島を南下して長靴の先っぽにたどり着いた電車は、車両ごとに一台一台コマギレにされ、連絡船で乗客ごとシチリアに渡される。船で上陸した電車は、また元通りに一台一台つながれて、おもむろにシチリアの土の上を走り出す。おそろしく手間をかけるものである。しかし手間をかけてでも、こうでなくてはならない理由があるのだろう。橋が架かるのを望まない多くの人々がそこにいる。
そもそも橋とは無遠慮なものだ。橋を渡って攻め込んでくるのは敵兵だけではない。文化もまた橋を渡ってやって来る。人の思いも橋を渡って行き来する。

(『土木施工』、山海堂、2004年4月号)

※タイトルは編集者が付けたものです。