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人の幸せは、自分の不幸という人種

2013-04-17 13:41:27 | 無題
FacebookがAndroid向けアプリを日本でも使えるようにした

というニュースが流れた。


コメント欄では、

リア充を見せつけたり、見せかけるための祭りツールとして、

流行らないと嫌煙されている。


私も以前そうだった。

わぁ、食べたものとか載せて、いいね!とかもらおうとしてるとか、

海外旅行行きまくりだなとか、

私には無理と思っていた。


でも最近はそれが気にならなくなった。

”友達”の人がそういう見せつけの人が少なく、

むしろ更新頻度も少ないからかもしれない。

もっと更新してほしいと思うし、

この前海外旅行行ったらしいのに、

その写真が1枚も掲載されていないことに、

ちょっとがっかりしている。

ちょっと楽しみにしたいたから。


さらに、むしろ、

更新頻度が少なくなってきていて、

寂しいと思う。

あとは前回の記事に書いた通りだ。


個人情報のせまくりはマズいと思うけど。


そんなひがんだり、

いいね!と思わない、思いたくない人種に囲まれるより、

いいね!と思ってくれる人種に囲まれる方が、

はるかに豊かな気分になれる。



自分と他人の格差を感じずにいられないところもあるけれど、

そういう憧れる人と同じ空間にいたり、

同じグループやチームにいたりすると、

考え方や前向きさや、自分との向き合い方も、

よい方向へ向かってくる。


逆に、足の引張り合いや、

“自分の方が上”みたいな、

力の誇示に執着するような人のところへは、

ストレスが溜まることばっかりだし、

結局その人は、爽やかなグループの人たちのところでは頓挫された。



私は“自分の方が上”みたいなばっかりのグループというか組織にいたことがある。

今になれば、なんであの頃、あんなにストレスがあったのだろうと思う程だが、

考えてみると、

そういった“自分の方が上”ということにこだわった人ばかりに囲まれていたからだ。

人間関係に悩まされていた。

解決しようといろいろ試行錯誤するのに、

まるでシャドーボクシングのように、

結果はあらわれず、

気に入られた、気に入られていないだけの2つの分かれ道に入ると、

それ以降はどうがんばっても、どうにもならなくて、

仕事にも集中させてもらえなかったからだ。

自分の仕事の邪魔をしてきたり、

仕事を押し付けてきたり、

仕事のやりかたに口出ししてきたり。

偉そうにしたいから、

なにか目につくところをいつも探しているといった感じだった。

ある日、「それ~してよ!」と言われた。

手元が見えなかったのだろう。

私はまさしくそれをしていた。

していますよといって、手元を見せると、

バツが悪そうな表情をしたあと、

「やって!」と捨てゼリフを残して、立ち去っていった。

やっているのに、やってってと思わず笑いそうになった。

こんなにあからさまな話はそう多くないが、

この一件で、ああ、やっぱりそうなんだと確証を得たことだった。


辞めたときは最高に爽快な気分だった。

長くつづけることがいいことと言われてーたしかにそういう一面もあるかもしれないが、

もっと早く辞めてもよかったんじゃ?と思う程だった。

しかしそのときの継続年数があるから、

今転職のとき書類で落とされないのかもとも言える。


それから月日は流れ、

他のところで働いたとき、

そこよりちょっとは自分の仕事に真面目に取り組んでいる人たちと出合った。

これだよ!やっぱり正社員ばかりの大手は違うなぁ

(よく考えれば以前のところも、そこまで有名じゃないが上場している大手だった。

違いはアルバイトばかりで構成されているかいないかだろうか。

しかし正社員の人も―というかその人のせいもあって、最悪な人種が多かった。)

と思った。


さらに転職したのだが、

そこもアルバイトばかりで、大手グループなのに、

みんな目が違った。


なぜか?―それは上司から認められている面が、

どんな新人にも、どんな未経験者にもあるからだ。

期待されている。

やりたいと手をあげれば、任せてくれる風土があるからだ。

正社員も、アルバイトもわけへだてなく、

みんな自分の仕事、そして各個人の人生の目標のために、

がんばっていた。

人間関係に悩まなくていいから、

仕事に集中できた。

これは私だけじゃなくーってコレ、前にも書いたっけ。


そんな、

“自分の方が上”みたいな足の引張り合いのない人種の集まりでは、

思考もポジティブになるし、

人の喜ばしいことも、

祝える気分になった。

ただ唯一、1人“自分の方が上”みたいな力を誇示しようとする人がいたときだけ、

その人に関する喜ばしいことは、

会社にとっても喜ばしいことでも、

まったく喜べなかった。


自分すごい=自分えらい=自分えらくしてもらわなくちゃ=自分のいうこときいてくれなきゃ

みたいな。

結局、その喜ばしいことも後に墜落して、

その人個人で別に行っていた目標も潰えて、

その人は去った。


思わず心の中でガッツポーズをした。

そんな風なやり方でうまくいくはずがないと思っていたから。

でも途中から、ああいうやり方でもうまくいくもんなのかな世の中ってものは…と

思うときもあった。

それくらい長くその人の繁栄が続いたように感じられた。

うんざりするほどだったのだ。

実際は数ヶ月だった。



よく外国人のスレで、

なぜこれが笑えるんだ?とか、

喜ばしいことじゃないか、というのがある。

日本人は足の引張り合いが好きだからと、

解説が入る。

まさしくそうだろう。

人の喜ばしいニュースを、

そんなのいらないとかいったり、

うざいと言ってしまう感覚は、

どうにかならないのかなと思う。


自分がそういう風に思い、言うことで、

自分が喜ばしいことがあっても、

人と分かち合って喜んでもらえないかもしれない、

共感してもらえないかもしれないという

恐怖が生まれるのだ。


そしてやはり賛同してもらえなかったときの悲しみと、寂しさといったら。

そして自分の中で闇と闘うことになる。

うざいとか思われているのかな、

そんなの喜ぶことのほどじゃないと思われているのかな、

発表しなければよかったな。


そうして“共感”を得たいという人間の根本的な欲求がありながら、

もうするのやめようとなり、

人間お互い同士で与え合いをして解消することができる欲求も、

解消されることなく、

グツグツと煮え立つばかりなのだ。


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