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脳みその回路おかしい

2013-12-21 19:41:32 | 無題
毎朝、目が覚めると

「「私はなぜ生きているのかな?」」

という疑問が頭に浮かぶ。


私は生きる気力がない。


“必要とされていない”という感覚に覆われていて、

“なにをやってももう無駄だ”というおもいがある。

ほぼ固定観念に近い。


実際は、

たった1つのクライアントから、

少なからず毎月お金を頂いている。

そして新しいお仕事のご依頼もいただいている最中だ。


先月は、

以前知り合った方から1日だけの仕事だけど、

お誘いを頂いた。


カードをつくってみた。

初めての活版印刷で、

それに伴い人知れず勉強もした。

図書館で活版印刷に関わる本を片っ端から借りて読んだ。

ネット上でも調べて、

それからデザインに取り組んだ。

自分でデザインして、文字組し、

活版印刷を行っている知り合いの方に印刷を頼んだカードだ。

うれしいことに1人の年下の女の子から、

ほしいですと言われた。

いいよと気前よく答えた。


けれど、そのどれもに、

ほんとうにほしいのかという疑念がつきまとっているのかもしれない。

1つのクライアントさんが仕事を振ってくれるー毎月お金を払ってくれるのは、

私とお話がしたいから、私とつながりをもっていたいからだ。

私のデザイン能力とか、マーケティング能力とかの価値には興味がさほどない。

ひどい程度だったら、さすがに考えていたかもしれないが、

ひどくない程度だから気にならないのだろう。

「他にこうやって話しをしてくれる人がいないから。自分は友達が少なくて」

とはっきり言われたことがある。

自分は人見知りで、彼女にもあんまり自分を出せないと。

だから数少ない友達である私に価値をみいだしていいるのだ。


ところが私は、もうその人にほとほと嫌気がさしている。

本当はもう相手するのが疲れている程なのだ。

それを大人になりたいからとか、

クライアントさんだからといった理由で、

黙ってきいてきたのだ。

けれどもういい加減限界に達してきていて、

その人が求める”話を聞いてあげる自分“、“いい顔をする自分”に嫌気がさしている。

無理がきていて、それを伝えたこともある。

今日はもうちょっと疲れているからと。

それでもダダをこねるように、もうちょっとお話がしたいと言われたとき、

機嫌が悪くなった私に

怒ってるんですか?とか、僕のせいですか?といって、

話を長引かせることにさらに、イライラさせられたとき、

私はもう本当に限界だと思った。

でもその場、温厚に終わらすために、なんとか繕って、

Skypeを切ったのだ。

その後打ち合わせのメールもいつものようにおそい。

以前からメールのレスポンスが悪いのは特にとくにそうだった。

だから不信感はいっぱいなのだ。

不信感をもって、人を疑っている自分がいやだ。

心地よくない。

だからこんな状況から逃げ出したい。

やっぱりなかった話でと返信があれば、

それはそれでも、ああそうですか、もういいですとなれるのに、

今なぜムカムカしているのかといえば、

そうも言ってこないからだ。

なんとか薄くつなぎとめたり、

なんとかお金のかからない方法で、

自分の利益が得られないか=私が機嫌よく相手してくれないか

というところをさぐられているからである。


私の本意とは、どの点ともちぐはぐにづれている。

デザインの質やマーケティングの質でもなく、

私の機嫌というキャバ嬢のごとくがニーズとしてあり、

そこに値踏みされているのだ。

まだデザインやマーケティングの質に対して、

他の誰かと比較検討されるならよかったのかもしれない。

値踏みされること自体だって、

あまりいい気味ではないのに。


こういうとき、第三者からみれば、

そういうのはうまいことやって、

割り切ってお金もらうのがいいんだよと思うだろう。

確かにそうだし、せっかくの女の武器を使う手はないし、

女として価値をみいだしてくれていることに

そもそも喜びを感じてもいいといもいうものだが。

けれども、その人が価値を感じてくれている私がとってきた対応を

これからも提供するのは私には限界がきているわけで、

するとその先にあるのは、

どうして以前はしてくれたのにとか、

なにがいけないんですかとか、

冷たくなりましたねとかいった

非難や罵倒する言葉なのだ。

少なからずもう既にときどき言われている。

たまに冷たいですよねとか。

冷たいんじゃない。

そもそもそれがあなたに対する普段のベースの私で、

なんだか楽しいときは気前よく笑ったり冗談をいっているのが、

あなたが嬉しいと感じている“相手をしてくれる私”なんですよと。

ずっと相手をしたくないのに相手をしたきたわけじゃない。

楽しいと思うこともあるし、

興味を持つこともあって、

応援する気持ちもあったから

こうしてやってきたのだけれど。

その人が考える程、期待するさらなるなにか

=もっと相手するとか、顔文字を使う、もっと仲よくする

といったことは、

その人に対しては今のところできないということだ。

理由はさまざま。

メールのレスポンスが悪いとか、

たまに見え隠れする駆け引きみたいな感じとか、計算とか。

甘える感じや、依存する感じ=世にいう重いという感じか。

そのくせ心配して対応すると、

ケロッとしていて取り越し苦労をさせられ、

えへへと甘えてみせ、礼も言わないというか感謝も沸いてこないのかという、

人の心配心も知らずにと腹が立たされたりとか。

つまり、甘え。

礼も言わずに感謝も示さずに、

相手が心配して、飛んでくるように自分に対応してくれるのが日常化することに、

日常の幸せをみいだすという感じ。

相手が熱心に話を聞いてくれるその先に、

なにかの展開を期待していて、

さらに仲良くなれる日を展望を抱いているという。


―私は以前、そちらの立場だった。

私の話を熱心に聞いてくれる人がいて、

私はとてもうれしかったし、

その人を尊敬していた。

そして上記のように、もっと仲良くなれたらなという願望を抱いていた。

でも、その人はなぜか他の人より熱心に長時間も話を聞いてくれるのに、

友達のようにどこかへ誘ったりはしてくれなかったのだ。

それが不思議だった。

それはその人のはその人の事情があったからだ。

その人は他人から必要とされるということに価値を重く感じる人で、

だから私のように、熱心に悩みうちあけ、頼りにし、相談する人が、

自分のアイデンティティに関わる重要なことだったのだ。

だから相手をしていた。

ただそれだけであり、

それでもさらに私を自分からは積極的に求めなかったのは、

私が今、先にあげたクライアントに感じているように、

甘えを出しすぎてしまったからだ。

つまり―自分では手に負えないほどだというのが、

やりとりしていて垣間見えたから、

そのさき自分から積極手に関わろう、手助けしようとするのは、

非常に疲れることになるからやめようとなったのだ。

誠にお恥ずかしい話であり、

その人には気苦労をかけたであろうなと思うと申し訳ないことだ。

本当はイライラして、もう話とか聞きたくない、

自分に好意をよせている風をみせるけど、

それはいつも“自分”、自分中心で回ってきたことに

価値を見いだしていて、

そういう対応をしてくれることに価値をみいだしていて、

価値を見出してほしい点

=(その人ならおそらく・・・いや、わからない。)

きっと誰かを幸せにすること、必要とされることに幸せを感じるんだろうけど、

自分のどんなスキルにも尊敬を抱いてほしいだろうし、

私も尊敬は抱いているけど、

それ以上になにかを期待してしまった点で、

それ以上期待に応えられないというのがあるというだけだろう。

もっと芯のある女性なら。

その人が初期のころ、私がまだ対外的にその人の前でも強い女性でいたとき、

相談をしているときに、ふと見せた顔がある。

それが、甘えたいという顔だった。

頼りにして話をしにいっているのは私の方だったけれど、

甘えたいのはこっちの方だよというのがその人の本音だろう。

でも私はまじめな仕事の話をしていたから、

それを受け入れるそぶりもみせられなかった。

とっさのことで驚いたということもあった。

そして根底にある、私が甘えたい方、深くつき合うなら甘えさせてくれる人

というのがあったから、受け入れられなかった。

でも今思えば、その瞬間でも受け入れられたら、

その人が真の意味でフランクに接っせられる唯一の人になれたのかもしれない、

その人のオアシスになれたのかもしれないと思ったりする。

それが結果、私が求めている間柄じゃないことになったとしても、

そういう人になれるというのは、

いいことではないかと。

2人で話していたとき、まったく心をさらけ出さないわけではなかった。

その人が、僕だってこうですよと、本音をぶちまけるように言ったことは、

パフォーマンスと取られるには、

いささか無理があるわけで。

本音トークをされしてくれたのは、

うれしかったできごとだと思う。




1日だけだけど、以前の知り合いの方からお仕事を頂いた話。

お声がかかるというのは、

やはり嬉しいことなのだけれど、

それなのにやはり1日だけだからか、

私は今朝も起きると

「「私はなぜ生きているだろう?」」

などということを思ってしまう。

どうやら次の機会もお声をかけてくれるようなのだけれど、

それは不確かな確定要素。

私はその不確かなことに、

いつも不安や心配を抱いているのかもしれない。


宙ぶらりんな状態が、

いつも私を勝手に徐々に首を絞めるように苦しめる。

へびのなまごろしとはこのことかというような。


幼少期には幸せな家族(に見えた。)に生まれながら、

時は経って、

一家はバラバラ。

血のつながりのなんとかとか、世間がよくいうあたりまえのようなことは、

まったくもってあたりまえのことではなく、

ただの理想論であったことを、

身をもって体験してからからか、

不確定要素な幸せは、

いつも宙ぶらりんで、

私をさえなやませ、

不安の種を育てていることになっている

―という理由なのかもしれない。


無償の愛なんていうものはなくて、

なにかいいことをしてくれる根底には、

なにか利益

(お金だけれはなく、アイデンティティや自分の存在価値、重要性を与えてくれるといった

人間の欲求を満たしてくれるかということ)を

与えてくれるからという等価交換が働いていているのだろうという

勘ぐりが働いてしまっているのだろう。

ごく無意識に。


身体が目当てだから、

相手をしてくれるから、

求めてくれるから、

重要感を与えてくれるから

―これらがあって私は求められていて、

これを提供できない私=疲れていてそれが出せない私には、

不満どころか、非難や文句を浴びせる程で、

それが得られないなら、さっさと私から離れていくのだ。


無償の愛なんていうのを、

私も信じたいと思う。

けれど今のところ、そんなものには出会えたためしがない。


夢の中でー

女の子たちが私に声をかけてくれる。

そしてこれどう?とかどうする?とかいって、

話しあいにいれてくれる、意見を聞いてくれる。

男性が、つかずはなれず側にいてくれる。

またどこかへ行ってしまうのかな?と不安になるとき、

それでもそばにいて、たしかにそばにいる確信的な安心感を感じる。

逃げずに力強くその場にいる確かさに

私は安らぎを覚える。

そんな夢のような夢の中で、

私は一瞬だけ幸せを感じる。


そして目覚める。

そういえば現実でもそんな瞬間がなくはなかったことを思い出す。

けれどそれはついにはついえて、

今は手元にもうない幸せを、かみしめ、

“永遠のたしかな幸せ”などないことを、

無償の愛などないことを、

あらためてうわがきでうらづけることになっている。


そしてこの先、

人生の折り返しになってきたであろう地点から、

幾度失い、幾度探し、

幾度、自分の提供し続けられなかったことに対する悲しみ、自分へ対する失望を味わうのかと、

気が遠くなる。


もういい加減分かっている。

そのうわべだけ与えられる、提供価値には、無理があり、

そんな薄っぺらいもので、

なにかが展望することもないことを。


では私は健やかに生きて、

ありのままの自分で誰かに必要とされるのか?と。

答えは、

必要とされない。


カードがほしいといってくれた子に、

私は、いいよと答えた。

それは果たして彼女の求めた応えだったろうか。

いいよーとは偉そうではないか?

許可ではなく、

送るよ―といった応えや、

求めてくれて嬉しいという応えがよかったのではないか。

喜んでもらえることをしたことに、

嬉しがってもらえたら嬉しいというのがある。

いいよーとはなにか的外れで高慢に競り上がった鳩胸ではないか?


そもそも、

カードがほしいといったのは、

私とまだ交流してくれるのは、

自分がなにかを発表したときに、

同じく応援したり、ほしがったりしてほしいという期待があるからではないか。

私はそれに気づかなかった。

私はそれにこの先そういうことがあったとして応えられるかわからない。

その人に少なからずライバル心や、

仲良く楽しくやっている友達が私よりたくさんいることで嫉妬心みたいなのがあるからだ。

その子が何かを作りましたと発表したとき、

いいねといって、ほしいとか、

会場に見に行くねとか

言えない自分がいるようで。


私はその子のイラスト能力を認めている。

私よりすごい絵を描くときがある。

だからデザインフェスタなんかに出したら、

あっという間に私なんかより有名になって売れっ子になるだろうというのがある。

ただその子が実行能力=行動力がないだけで、

それが実現に至っていないだけだ。

その子は間違いなく売れる。

私なんか比じゃないくらいに。

それくらい実力があるのに、

ただ行動に移せてないだけで、

なんとなく私の方がそっちの方面でお仕事あるみたいな感じになっている。

私はその子に、私にもイラスト描いてよと言ったことがある。

だれか友達に絵を描いてあげたとかで、

その絵がすばらしかったからだ。

そのことは伝えたし、

なんども伝えた。

喜んでいた。

すいません、まだ描けてなくてと、ある日、しばらくぶりにメールがあった。

私は忙しいかもしれないし、気が向かないかもしれないのに、

何度もいうのは気が引けるからと、催促の1つもしていなかった。

ただほしいくらいにすごいよというのは伝わっていればいいかなという気分だった。

できたら本当にほしいというのはあって、

しばらくぶりに来たメールに、それでも驚いた。

そして、できましたというんでもなく、

まだ描けてなくてという他でもない、そういう用のメールに。

私は思っていたとおりに、

忙しいだろうから、無理しなくていいよと答えた。

私がここで重要なのは、

絵がほしいということよりも、

絵がほしいくらいに、うまいよということだったのだ。

そして彼女もそうなのだろう、

だからあえてできてないけれど、

期日もなにも儲けていない、ほしいといった一言に、

まだできてなくて、すみませんとメールをくれたのだろう。

私はまた再び伝えたかった。

忘れてないし、今も欲しいと思っているということ、

けれどお金を払うんじゃなし、

無理してこんつめて考えて描いても苦しいだけだろうから、

無理しなくていいよということ。

なんだったか、その後も、

「友達に描いていたイラストすごかったじゃん」と伝えるときがあった。

言うチャンスというか、それが最高のレスポンスだろという儲けられたような場だ。

つまり彼女は、認めてくれる人、言葉がほしかったのだ。

そんな彼女だから、

ほしくないものに、ほしいとはいわない人だけど、

その先に見返り的ななにかを期待しているようなところはある。

いいね!も最初のころは、

私もいいね!を押さないと、

私にいいね!を押さないというようなこともあったくらいに、

なんだか計算じみたところがあった。

今では、私がか、それとも彼女もか、

そういうのは気にしなくなったし、

そもそもFacebookにいる機会が少なくなったように思うから、

あんまり気にならなくなったけれど、

その子がデザインフェスタに出たいという願望を吐露して、

私のつくったカードがほしいという流れから、

私は嬉しいけど、ぬか喜びできないでいるのだ。


なんて気が狭い(心というより)のだろうか。



他にいいね!を押してくれる男性

ーというより、よくよくみると、

男の子がいる。

私からみたらそういう年だろうし、

その人が私の年齢を知ったらそうだろう。

よく、投稿にいいね!を押してくれる。

なんでもかんでも押してくれるわけじゃないところが、

またなんともありがたみをもたせてくれている。

けれど、そこからなにか発展があるかといえばない。

この先ーない―というのが、

もう長いと呼んでもいい人生、その経験上あるから、

無意識にぬか喜びしたり、期待してしまう自分を、

みじめに思う気持ちがある。


なんどとなく、この先を期待して、

なんどとなく、そんなことはなかった私は、

これから先いったいなにがあるのかということで、

「「なぜ私は生きてるんですか?」」

というのがある。



世の中ではちょうど今の時季、

赤や緑の暖色(緑は厳密には暖色じゃないが)や、イルミネーション、人肌といった

ぬくもりに囲まれて生きている人がいる。


私の知っている中で、

あの人も、この人も、きっとあの人も、なんだかんだいってあの人も、

なんやかんやいうけど、私とはぬくくならないあの人、

むしろ願い下げ程かもしれないあの人は

それなら1人ですごしたほういいという感じだろうなというあの人

そんなのを思い浮かべながら、

1人人気(ひとけ)のない屋根の下ですごす。

隣の大家族からクリスマスパーティ的なファミリーの盛り上がり声が聞こえる。

師走のいそがしくも、かわいた風が吹き抜ける。

商品がセールで飛ぶように売れていく―あの人に(家族や自分)プレゼントするなにかとか。


私は特にべらぼうに忙しいわけでもない仕事と向き合う、

そういえば確定している仕事でもないということを思い出し、

向き合うわけでもない時間をすごす、

向き合うための準備体操をすごす、

こうやって文章を書く、

お金にならないことをしてすごす、

お金はないので物は買えないし、

そもそもそういう欲求すらほとんど沸いてこない。

そういえば私ってなんで生きているんだっけ?と思う。

窓の外を見る。

人の明かりや気配がする。

けれど誰からも求められていないことを知る。

「自分から求めなきゃ」という、世に言うあたりまえとされる文言が浮かぶ。

これまでなんども必要ないとされてきた瞬間を思い出す。

学校でのいじめ―

家庭の排除ーという名の無償の愛のなさ―

恋人になりかけた人ー

友達だった―のだろうかという人たちー

社会、会社―

大好きだった会社から一斉解雇ー

新しい会社でのいじめ―



なじめない。

人が、コワい。



助けられて、

少なからず仕事を振ってもらえて、

ほしいと言ってもらえて、

それなのに、私は、

いつも「「なぜ私は生きているんだろうか?」」という

「必要とされていないのに、なぜ今日も目覚めたのか」

という疑問が浮かんでしまう。


0じゃないのに、

1なくないのに、

マイナスに感じる。



なにかやってみたいひらめきや、

新しいワクワクが浮かんでも、

“なにをやってもムダ”というのにかき消されて、

生きる気力がない。








ネットでは、

ネットだけではなく現実だって、

みんな気軽に人を叩く。

非難したり、

押しのけたり、

突き飛ばしたりする。


なぜそんなことができるのか?

そして私は誰かをそうさせていないか?

私はだれかの欲しているシグナルに気づくことができているか、

そしてそれが私の無理しない範囲で答えられているか。

みんな幸せだったらいい。


クリスマスの夜に震えて眠る人がいないといい。

だれかと寄り添って、

素敵な夜をすごせていたらいいなと思う。


だれかにイライラしたり、

みじめにかんじたりすることなく、

幸せな満ち足りた気分で、

人生がすごせますようにと思う。


幸せそうな人たちをみると、

よかったぁと思う。





相手の欲求をよくよく観察しよう

2013-12-06 07:49:46 | 無題
前回の記事で、成功体験として得たことを書いた。

無理して取り繕わない、

無理して解決して役に立とうとかしない、

解決してあげる必要ない、


だけど、かまってちゃんだと、それをすると余計ぐずりだすということがあって、

すごい疲れた、イライラさせられたっていうことを書く。


無理して取り繕わないで、元気がないときは、

それはそのまま出していいんだという成功体験があったから、

ある人と話しているときにもそのようにした。


成功体験以来、初めての別の人との会話だ。


最初は私も元気めにふるまえていたけど、

話がながくなってきていたので、

少し疲れ始めていた。

その人は冗談をいうのがすきで、

あれやこれやと寄り道をしたり、

打ち合わせ中なのに自分の話(僕話)をしていたりした。


むりをせず、特にがんばってリアクションしたり、返しやつっこみをすることなく黙っていた。

すると、どうしたんですかぁ?とか言い出したから、

以前から体調がよくないことは伝えてあったから、そういった。

すると、え~、とか、あ~とかいって、

会社復帰したんですか?とか聞いてきた。

恐らく、“会社という後ろ盾がある私が”好きなんだろうなっていうのが前々から感じられていたから、

気分悪いなぁと思いながら、

仕事しているよと答えた。

私より随分年下で、

頼りにしてます~なんていっているような人だから、

仕事してない、寝付けてないとか本当のことは言えないなぁって感じだった。

言ったら、仕事減らされそうと思ったからだ。

その人は出会った当初から、私の話を聞いて、

私が応援するよといっただけで、

もう万々歳で自分のしたいことも達成できると思っていたと言う程の人だ。

いくら広告業界につとめていたからといっても、

いくら認知度を4倍にアップすることが私ができたといっても、

クオリティの高いものや、

共感されるものを提供しないと売れないことくらいわかりそうなものなのに。

私は秋本康志じゃない、そういう仕掛人ではないんだから。

だけど私を業界の人と思っていて、それにおんぶにだっこできると思っていたらしい。

そういう人だから、

甘えがとまらない感じだ。


あねさん女房だか、お姉さんだかに甘えるみたいに

年上の女性に甘える感じが、

ほんとめんどくさいなと感じさせられるときもある。

楽しく会話しているときもあるけれど、

度が行き過ぎて、

さらにそこからダダをこねはじめたり、

もっととか、なんでとか言ったり、

こっちが大事な仕事のことを質問しているのに、

黙り込んで、う~んとか答えを出そうと努力せずに、

どう思います?とか私に投げ返しても、

私が知るようなことじゃないことを聞かれてもわからないから質問しているのにと、

ぐずぐずし出すと本当に腹が立つ。

イライラさせられるのだ。



しまいには、遅くなっているから早く眠りたいのに、

なにか質問ありますか?と聞けば、

えーう~んとか言って、

もっと話したいとか言い出した。

何時だと思ってんの?と思った。言ったかもしれない。

すると、黙った。

黙っている時間がもったいない。

それくらい寝たい。

もう何時間も話した。

怒ってるんですか?と聞いてくる。

自分ばっかりのことだ。

怒っているのが気になるのは僕ちゃんで、

私のために早く切り上げようという第一手段を選ばない。

自分が気になっていることを優先させてくる。

だから私は、「イライラしているのは寝起きに機嫌が悪い人と一緒だから、

質問がなければこれで終わるし、あれば早く質問して。」と答えた。

すると、じゃぁ、怒っているのは僕のせいじゃない?と聞いてきた。

また自分のための質問だ。


ついさっき、

元気ないですね、大丈夫ですか?

体調まだ戻ってないんですよ

って会話をしたばっかりなんだけど。

しかも元気な人でも限界に達するくらい遅くなってるんですけど。

無理っていってるんですけど。

伝わってないのかな?


イライラしている自分がいやだから、

早く終わらせたいっていうのもあった。

イライラしている自分を他人に見せるのも嫌だ。

だってそういう人をだれだって見たくないもんね。

怒ってるのだろうか?とか自分のせいかとか、余計な心配ごとを増やさせたくないもんね。


だから、さっさと終わらせたいし、そう何度も伝えているのに、

ぐずぐずするからどんどんイライラが増していって、

どんどんイライラする私を見ることになっているのに、

まだ余計な話で長引かせようとしている。


しかも体調が悪いのを隠さずにいると、

なんで?とかどうしたんですか?とか、

もっと返してくださいよと、

元気なときのリアクションを求めてくる。

無理だっていうのがわからないのかよと思った。

サロンの友達のことを思い出しながら、

◯◯だったらちゃんと察してくれるのにと思った。


私が元気なくしたのをそのまま隠さず表明すると、

余計なおもりが増える。

え、大丈夫ですか?と心配してくれるのは嬉しいけど、

よくなったら連絡くださいとか、

もう会社いってますか?とか、

なんで急に静かになったんですか?とか、

さっきまで元気だったじゃないですかとか、

かまって、かまってが増える。

元気がないっていってるのに、怒ってるんですか?とか何度も聞いてくる。笑かしてくれるわ。

「「「元気がないの!!体力がないんだよ!!!!!」」」

怒らす気かと思った。


怒りが込み上げてくると、体力がどんどん消耗していく。

余計疲れる。



この人の相手をちゃんとしたときがあったなと思い出す。

思い出すという程前でもないのだけれど、

友達ですか?と聞かれたくだりだ。

以前書いた気がする。

それで私はちゃんと答えた。どういう状況なのか。

普通はそんなこと聞かれたら、友達だよと答えておいて、

あとから聞かれたことで、友達か?と聞く割には・・・ということが浮き彫りになってきて、

めんどくさい人と距離がより遠のいていくということになるのが一般的なパターンだけど、

私はまじめに答えた、どんなことになっているのか、

自分はこう感じていて、友達かと聞かれたことで、こう感じて、

友達と今の状態が感じられないことに不満を抱くなら、

私は無理だからと、ちゃんと答えた。


それだけじゃないだろうけど、

そういった感じで私は、変にきまじめに人と向き合うから、

その人にとっては

数少ない相手をしてくれる人になったようだった。



他人を相手しすぎたり、気にしすぎたりするから、

私の方だって友達が少ないことになっているのに。

ありがたいことに、私は今は、

だれかにかまってちゃんをせずにいられるようになった。

以前の人たちにはご迷惑をおかけしたなぁと思う所存。

母に対してもそうだった。

私は、母の態度が冷たかったり、世間一般でいう“母”らしい反応じゃないとき、

だだをこねた。

なんでとか、こうしてほしいとか、

してくれない母に勝手に傷ついた。

世間や心療内科のお医者さんによれば、

母はやっぱり母性愛にかける人で、精神病らしい。

だから、私が今どうとかとか。

そうだろうなと思うし、

やっぱり他のお母さんみたいに、愛情あるメールとかもらってみたいなと思う。

成功したら一緒に喜んでほしいし、

失敗しても信じて励ましたり、

場合によっては無理するなと言ってくれたら嬉しいと思う。

母はどれも真逆だったけれど。



そこで隣の家の人のことを思い出す。

毎日、上から3番目の小学生の男の子がぎゃんぎゃんわめいて泣いたりしている。

ドタドタと走ったり、ボンボンボンとボールなんだろうか壁か床に打ち付ける音がする。

朝から、その子の母親が「起きろよぉ!」と怒っている声や、

何に対していってるのかわからないけど、その男の子

なんで!いやだ!!と叫ぶ声が聞こえたりする。

子供は全部で4人のはずなのに、

他の子供の声はたまにしか聞こえてこないし、

聞こえてきても金切り声ではない。


いつもぐずったり、ぎゃーぎゃーわめいたりするのがその子なのだ。

物の扱いもひどい。


長男は母親から「青年!がんばれよ!」などと、どこの青春かと思うよなセリフと

信頼を受けて育ってきた。

やーった、よしよしよしーとかいって一緒に大げさに喜んであげたり、

お兄ちゃんは偉いとか、手がかからないとかいった感じだ。

実際そんな言葉もいっていたと思う。

ちょっと気持ち悪いのが、

子供の方はいい加減大きくなったら、そういうのに大して引きそうなのに、

どこまで大きくなっていっても引かずに、

窓から手を振る母に、手を振り替えす長男なのだった…。

まぁ、でも信頼を受けて育つって、とっても健全なことだし、

仲良くできるって理想的でいいことじゃないかなと思う。


Twitterとかでよく、親かわいい話ながれてくるけど、

ああいった感じはいいよね。

この2人はいやだけど。



長女は母親からなぜか憎まれ口ばかり叩かれて育ってきた。

だからか、相応の年までは少し泣きさけんだような声が聞こえていたけど、

ぱったり静かになってしまった。

たまに姉弟同士で遊ぶときにきゃっきゃっと女の子の声が聞こえるというくらいだ。

だだをこねて、泣き叫んだりはしない。

「使えねーなー」とか、「女の子なのに、そういう気配りできないわけぇ?」などと

母親から言われて、

なにをやってもダメ、なんにもしなくてもダメという感じでいわれ、

女同士という意識から母親の嫉妬だろうか?

ドン引き&長女を心配になるほど、長男と扱いが違いすぎて、

もうなにかを悟っていてもおかしくないくらいだ。

私が母に大して不信感を抱き始めた年齢と一緒だから、少し気持ちが分からなくない。


そして3番目の子供は、幼いころは、目に入れてもいたくない程の扱いで育ってきた。

よーしよしよし、う~じゅぶじゅ~とかなんとか。

そういうのもあるよねと最初の頃は思っていたけど、

ちょっと度が過ぎているし、

他の子供より優先しすぎているし、

聞こえてくる様子が・・・。

目に入れても痛くないってこのことだなと自然と言葉が浮かんでくる程だった。

あやす声が聞こえてきて、

その横で長女を叱っている。

益々不安になった。

長女は私みたいになってしまわないか、

そして3番目の子供は甘えん坊で言うことを聞かない子になってしまわないか・・・。


(4番目の子もいるらしいけど分からない。)


そして月日は流れ、現在、

思っていた通り、

3番目は手もつけられない程のきかん坊になっている。

大声を出してわめいたり、ダンッダンッとじだんだを踏めばなんとかなると思っている。

毎日そんなになんのやなことがあるのか、

チャンネルあらそいなのか、

些細なことでもすぐ奇声をあげて、ぃやぁあだ!!と言っている感じだ。


最初の頃は、

それでも母親はそういうのをいちいちきいてあげて、

なんでもいいよいいよとしていた。

だけどそういうのから卒業する年齢というのが母親の中にあったのだろうか、

言うことを聞いてあげなくなり、

ダメと怒るようになった。

女性らしさなんかふっとんだ男口調でどすと金切りの混じった声で怒る母親と、

ダダをこねる子供の攻防みたくなっていて、

ちょっと頭痛い。


母と口論になって、傷つけられたときのことを想起させられて辛い。

床をボンボンボンとする音も苦手だ。

そういうの私は元々苦手だったのに、

私は母からほしい愛情を得ようとがんばってしまった。

それでそういう音が苦手だ。

今では自分がまったく関係ない人が町中で怒られていたとしてもダメだし、

扉をバタンと閉める音も苦手なほどだ。

すごくビクッとなるし、

とても怖いことがあったような感覚

(身が縮こまって心臓がぶるぶるってなるような)になってしまう。



さて、結論を書くと、

人によっては相手しすぎると、

そのあとこちらの事情で以前のように相手ができないときでも、

無理に、以前と同じような相手を求めてくる人がいるということだ。



育児で甘やかし過ぎはダメというのがある。

たしかにそうなのかもしれない。


精神病に、人に依存してしまう病気の人がいるという、

たしかにそうなのかもしれない。

それを病気と定義するならば。



私はこれで、どの立場からも経験した。

ダダをこねる立場、ダダをこねられる立場、その2人を見る第三者の立場。

ありがたいことに今回、私が冷静な状態でのサンプリングに成功した。


その結果、

人を気にするー気にしすぎるほどに気にする人、

すなわち思いやりがあるとかいわれちゃう人は、

もしかしたらひょっとして、

めんどくさい人かもよってこと。


人を気にするってことは、すなわち、

自分を気にしている―自分に興味が向いていて、どう見られているか気になる

という可能性が高いということ。

例)この人思いやりあるなぁとか、

よく話しかけてくる、メールしてくれるとかいうことがあったら、

それってもしかして、あなたに気がある、興味があるのではなく、

自分に気があるのかもねってこと。

―自分を相手にしてくれる人が好きなだけっていう。

ためしにその人が話していることを注視してみよう。

自分の話ばかりで、あなたの趣味も好きな食べ物、色といった基本的なことも知らなくて、

なのにすごく好意を持っているようなことを伝えてきたら、

あれ?それって変じゃないってことで。

また、体調が悪いときに、させたいようにしてくれるだろうか?

自分の欲求ばかり優先させようと試みてこないだろうか?



これからどうしていけばいいだろう?


こういう人たちと関わるのはしんどい。

数少ないクライアントだから相手するようにしてきたけれど、

ちょっとこの間のはしんどかったなぁ。


期待値として、けっこうな甘えを見せても許してくれるっていうのがあるみたいだ。

そしてそれを取り合わないようにすると、

冷たいといって非難してくる。

冷たいといわれると少なからず傷つく。

事実は冷たいかは疑問だし、疲れているから相手できないだけなのだと冷静に考えても、

心はちょっと痛む。

次冷たいと非難されたら、そのことを伝えて、

それでも求めてきたり、非難するようなら縁を切るしかない。

どんどん距離を置いて、どんどん冷たくなって。


その人から顔文字を使ってほしいとか、

もっとフランクに接してほしいと言われたことが何回かある。

私はこういう人だからと、

冷たく感じるなら、これが私だからと泣きそうになりながらいった。

事実半分だし、その人に対しては100%それが真実だ。

だけどあとになって考えてみたら、

気を許せる女の子や、だれもみていないであろうSNSでは、

顔文字も使うし、フランクに話したりする。

そして他の距離がある人に対して、もっとお近づきに=フランクに接するくらいの仲になれたらな

というのがあり、

なにもその人に話した人物像が私ではないことに気づく。


それに意識してそうしているというのもある。

仕事相手でもあるから、ビジネスめいた感じなのはそうだし、

友達だからという甘えられて(もっと安くしてとか、無理目なお願いとか)、

仕事がしんどくなるのも、

気持ち的にうやまわれてないと悩むのも嫌だからだ。

友達なら、尊重や尊厳をもって接してくれたり、

よりよくしてくれるものだという話もある。


相手したばっかりに―

こういうことってあると思う。


私は以前の人にあやまりたいなって思う程、

相手したばっかりに、若干つきまとうようなメール送っちゃったなと思うことがある。

今それを反省する。

された方ってこういう気分なんだ。


私には数少ない友達で、なにか疑問や衝突があったら、向き合わなきゃって思っていたけど、

それってめんどくさい。

相手に気があったらめんどくさくなくなるのだろうか?

今いえることは、すごく甘えられるのは私はダメだ。

私が甘えたい方なのに、甘えられるのってダメだ。

これはパートナーの話。


友達は、

たくさん増やした方が、1人1人に対する期待値=負担が高くならなくていい。

それは私にとっても、相手にとっても。

たくさんいる人は友達に困らない。

見える世界が違うんだろうな。

1人の人からの連絡や、近況にやきもきしなくていい、

そんなことを考えているうちに、

違う人から連絡が来たり、

他の人との約束に向けて準備したり、忙しいからだ。


SNS上でも、友達が多い人のタイムラインはすごい勢いで流れているという。

1人1人個別によくよく読んだり、

だれかの考えを考察したりするヒマなんてない。

いいなって思ったのを、すぐリツイートしたいり、

反応したりしないと追いつかない。

自分がどう思われるかなんて、時間をかけている暇はない。

一方、私のタイムラインは、

眺めている。

眺めているとやっと出てきたうんちみたいに、

1件とか表示される。

それを私は、うれしそうに開く。

さかのぼると、前回読んだところまでに追いつく。

つまり全部読める。

フォローしているあの人はこういう人だなぁ、

こんな状況だなぁ。

話しかけたいなぁ、でもアウェイかもなぁ、やめとこう

みたいな。


Facebookでぜんぜんみんなの近況がなくて、

企業やブランドページからの投稿ばかりが流れてくると、

悲しくなってくる。

みんなどうしているのかなぁ、とか、

人と接する機会がないから、

今はまさしくソーシャルネットワークがわたしの社会。

人気(ひとけ)がないと、

人気のないショッピングモールに来たみたいで、

さみしい。



友達をただやみくもに増やしても薄い繋がりがたくさんできるだけじゃないかという

怪訝がある。


名刺を発注している。

今度、交流会に行く。

名刺を交換するタイミングなんてほとんどなくて、

名刺を差し出されたら、差し出すくらいだろう。

フリーになる前は、

プラペートで名刺を突きつけられると、

痛いなというか、うざいなというか、いや、

あとでサイトとか見てみるのは楽しみだし、

名刺をコレクションしたり、よいデザインの名刺をみてほぉっとか思ったりするのは

楽しいんだけど、

なんというか・・・自分を売りたいんだなっていうか、

売り込まなきゃならないほど足りてない人なんだなっていうのがわかって、

いやだった。


また、メルアド交換とも違う、

一方的な連絡先に押し付けの裏に流れてしまう、

この番号を控えておけよ的な感じが、ぶしつけだなと思ってしまう。

また出会ったばかりに名刺を出されると、

ビジネスならそれでいいー打ち合わせとかなのだから、

これから始める拙者やおぬしは誰ものよということでいいのだけれど、

そうじゃない場合、

まだ知り合ってもいないし、

こちらのことも知らない、興味わくかわからないのに、

DMをばらまくがごとく渡されてもいい気がしないわけで。

それって、仕事、連絡は待っているけど、こちらからは連絡する気ないから、

あとYouたちに任せたよ的な。

任せられた部分っていうのが、

名刺に載っているアドレスや電話番号を携帯とかにちまちま入れたり、

勝手に知りたまえ的に載せられたサイトのURLを叩いて開くという作業。

そしてワシお前の仕事欲してるわけじゃないし。

仕事をぜひふってください的にこられる=名刺をよく知りもしないのに突きつけられると、

ちょっと気になる人だなぁって思っても、

近づいただけで、お金、お仕事発注を期待、要求されそうで怖い。

すなわち、近づきにくい。


そんなお金ありませんからと思ったところで、

ふと思う。

あれ?じゃぁ、いいのかと。

余計なお金のない取り巻きみたいのができなくて、

お金がある人とだけ友達ができるからいいのかな?と。


お金があったら友達のためにいっちょ一肌脱いでやろうかという気になるものかもしれない。

うーん、わからない。

少なくとも、私はもう少し友達のサロンへ悩むことなく行けたなと思う。


お金があると今度はそれを守りたくなるという話もある。

その友達のお兄さんは上場一流企業で、お嫁さんも一流企業のグループ会社だ。

家のなかにミネラルウォーターサーバーを置いて、

遠くのジムに通ったり、車を持っていたりして、

他にもなんだったか忘れたけどすごいなーと思った。

だけどお金が足りないと言っているそうな。

都会だから車はなくてもぜんぜん生きていけるし、

サーバーってどこの会社だよと思う。(会社になら置いてあるの見たことあるけど…。)

マンションの家賃がもったいないから、

その分で実家を建てなおすと。

で、妹である私の友達には自立してほしいと。

(友達はそれで、今まで一人暮らしさせないと言っていた兄が考えてほしいと言い出したから、

ひどいと言っていた。)

子供に負担かけたくないからと。

兄の言い分もわかる、わかる気がするけど、

う~ん、核家族でマンション暮らししている人もいるし、

福利厚生で住宅手当が出るらしいのに?

妹は追い出す感じなのに?

お金は守りたいと。

妹がいる実家もせしめるという感じに―友達がいうように見えなくないんですけど・・?

でも父とおばあちゃんのめんどうも見るってことだから、

うーん、そうかぁ、そうなのかぁ。


兄の立場になって想像してみた。

たしかに、自分が勝ち取った進路、一流企業、給与、

上り詰めた上場一流企業にいる自分がすべてのものをほっして、

なにが悪いのかという感覚にならなくない。

しかもその稼いだお金で、今まで働いてきた父、祖母のめんどうを見るという男気を見せられる、

いっちょまえの男としての―船長的気分。

だけれど自立していると言えるか怪しい収入の妹、

妹がなにか病気、けがしたとき、妹のそれまでの稼ぎ分だけじゃ見切れないから、

自分がみることになる。

同じ若さなのに、嫁も一流企業でつとめて稼いでるのに、

妹は、ぐれた過程を経て、仕事がきつかったとかで入院するまでになり、

サロンをやめて、満員になるわけではないサロンを自宅でやっている。

40代、50代になったとき、

息子がおばのめんどうまで見なきゃいけないなんてかわいそうだ。

自分たち家族が離れたマンションで核家族として暮らしていたとしても、

家を建てなおすほどの稼ぎがない妹に、

実家のことを任せることはできない。

今、実家に引っ越せば、マンション代も浮いて、家も建てなおせる、

帰る実家は残しておきたい

―となれば、この選択、自然かなと思う。

妹には自立してほしいという思い反面、心配もしてるんじゃないかな。

もし本当に妹が嫌なら、

縁を切って遠くに住むもんね。


妹にちっともわけてやらない気持ちになるんか…。

せつないな。

だって、そういう大きな一軒家で、よい大学、一流企業に勤めるほどの人になれば、

弱気家族も助けるー

そういえば、友達=妹は大学生のときにタバコ吸ったり、

なんか反抗したりして、ぐれてたって、友達言ってたなぁ。

そういう強いところを見てるから、

同情できないってことなのかもしれないなぁ。

私は優しい表情しかみたことないから、

タバコ吸ったりなんて想像つかないし、

言い争ったりするんやろうか?

家族同士だと遠慮ないからなぁ、

私はそれでボロボロになってしもうたけど。

どこも同じなんやろうか。


近くに住んでいた=実家が近くにある慶応出身の幼なじみを思い出す。

兄弟共に上場企業に就職したらしい。

兄は同じ大学出身のキャビンアテンダントさんらしい人と結婚して、

子供もできたけど、

ああいう家だったらどうなんだろう?

お母さんも優しい感じの人で、

2人の兄弟をどうやって叱ったりしたんだろう?

そうしてどうやって、あんなにまっすぐ絵に描いたような理想の人に育てたんだろう?


もう1人慶応の人を思い出す。

誰とでも仲良くするし、

本社へまた移動していくときに書いた全社員宛のメールに、

ウェルカムですといって自分の全SNSとメルアドをさらすって、

どないなってんのやろ。

かわいい大好きな彼女に愛されて、

友達もものすごい数いる。


この前1年ぶりにばったり駅ですれ違った。

私は有名人でもみつけたみたいな気分になった。

思わず、◯◯さんと声をかけた。

その前に一瞬目があったような気がするのだけど、

インナーイヤーのイヤホンをしていたせいか、

気づかなかった。

私は、どうしようと思うヒマもなく、

すれ違い前になったから思わず、その人の目の前で手を大きくふって、

もう一度、◯◯さんと声をかけた。

気づいて、イヤホンを外して、

最初だれだかわからなかったのだろうか、

真顔で見つめたあと、

お疲れ様ですといったので、私もお疲れ様ですと言った。

(私は仕事帰りじゃないんですけどと思いながら、

「こんばんは」でもなく、「どうも」でもなく、

「お久しぶりです」でもなく、

「お疲れさまです」だったことに、

なんだか昔―といっても1年前だけど、一緒に働いた仲間だった

感覚になった。そう思ってくれていたなら嬉しいけどと思うけど、

ただ仕事帰りだから、みんなにお疲れさまと挨拶していると、

流れで、ついて出る挨拶が、なんでもお疲れさまになる

あのパターンかもなと思う。

というかそうなんだろう。)

段々、目が開いていって、あ、ああみたいな顔になった。

笑顔にはならなかった。

もともとあまり笑わない、真顔がデフォルトみたいな人だから、

残念とかそのときは感じなかったけど、

今こうして書いていると、やっぱり残念だ。

私はそのまま歩き続けて、振り返りながら手を振った。

彼は立ち止まっていた、

え、え、行っちゃうんですか?みたいな感じはなくなかった。

そのまま2人とも移動しながら挨拶してすれ違ったらよかったのだけど、

その人が立ち止まって、

去っていく私の方面へ、社交辞令か、

前のめりになりながら見送ってくれたから、

なんだかそれで満足です。

ということにしています。

もちろん、そんな人が彼氏だったらいいし、

おお~どうしてますかぁ~って笑顔してくれたら嬉しかったし、

私が声かける前に気づいて、声をかけてくれたら、

女日和につきるってものです。


やっぱ私一緒に働いていた頃は、

ちゃきちゃきして、ちょっと怖い人だったかもしれないから、

いや、めんどくさそうな人の方かもしれない、

―まぁ、どっちでもいいけど、とにかく、

友達ほとんどいないし、かわいくないから、

仲良くしてもメリットないのだけれど。


どうして私には彼氏がいないのですか?

どうして好きになった人と結ばれないのですか?


他に相手してくれる人いないからといって私自身のことはなにも知らずに甘えてくる人ではなく、

他にたくさん人がいても、

私を選んでくれる人がいいです。


それには自立することが一番なんだろうけど、

それは無理そうだし、

人を頼るバランスもまだ分からないような感じだから、

好意がある人に好意を向けられるなんて、

そしてつき合うなんて、

そして永遠に一緒に歩んでいけることなんて、

無理そうです。



無理して取り繕わない

2013-12-06 03:58:53 | 無題
Webデザイナーを目指すと言い出した友達の話。


前々回くらいにそれを書いたと思う。

そのつづき。


無理につくろうのをやめて、

今の自分の状態をそのまま出すことを心得て、

サロンには足を運んだ。


出てくるなり、

「ひさしぶり~。え、ちょっと・・大丈夫?」と私の顔色を見て言った。

私はつとめて明るくしようとしないようにしようとしていただけだったのに、

その人は私が大丈夫じゃない状態なことを見破った。

すごいなと思った。

その人はそういうのも含めてお仕事だけど、

そういうの感知するのあるなぁとは前から思っていたけど、

そこまで大丈夫じゃないことが、

普通にしていただけで伝わるものかぁと思った。


「うん・・。」とか言いながら、

大丈夫とも言えないから、どう答えればいいかなぁと考えながら、

そう返事をしてごまかした。


そのあともなにか話があるんじゃないかと尋ねられたけど、

自分の中でこのことを人に伝えてわかってもらう自信も、

自分の中で整理もついていなかったし、

どうしてこうなったのかということに、

目を向けて、いやな思い出を思い出したくなかったから、

話すことはない。と答えて、

本当にサロンへ来たかったからと終止そう返事をしていた。

実際そうだったし。


自律神経失調症になってから、

首と肩が異様に張って、石盤のように固くなっていたから、

友達のサロンにネックコースがあったなぁと思って、

アロマサロンで癒したかったってわけ。


整体とかカイロプロテクスとかも悩んだけど、

今の私には高くて。

安くてよいサービス、高品質のアロマ、精油というのを大事にしている

その人のところへ行こうと思っていた。



いつ頃行こうかなぁ、前回重い話しちゃったしなぁ、

いやかなぁと迷っていたところに、閉店のお知らせ。

作ってくれたサイトを下ろしてほしいということだった。

ええーと思って、電話で返すと、

閉店の理由を教えてくれて、

今度お茶しようということだった。

お茶なんてめずらしいなと思った。

前回行ったときに誘ったら、遠慮されて、嫌煙された感じだったのに。

やっぱり自分が聞いてほしい話があると誘うものなんだなぁと思った。

なんだか家族のことや今後のことで話したいみたいだった。

そのときに、ちょうどサロンへ行こうと思っていたと話して予約をとったのだった。



心配していた「私にも簡単」っていう感じのはその日なかった。

私が元気がない様子を見て、ライバル心とかじゃなくなったのかもしれない。

あまりに弱りすぎていて、私も急性胃腸炎になったことあるという不幸張り合いもなかった。

そういうの言われるのも受け止められないほど、

今の私は弱っていたから、

どうしたの?なにがあったの?と聞かれても、

具体的になにがあったのか、どうしたのかと言えなかった。

なにを言っても、「私もこんなことがあった」とか、

同情できない表情をされるのも困るし

(それだけで辛いんだ)

だから、わからないと答えた。

実際私も今、よくわからない。

どうしたらそうならなかったのか。

ただのわがままとか、エゴとか、割り切って考えるべきとか、

そういうので片付けられなくないけど、

でも実際の私は今も心身共に健康とはいえない。


治ったと思った症状も、今もたまに吐き気があったり、

不規則な睡眠をとらざるえない状態になっている。

それを無理に規則正しい生活にしようとすると、

すごく疲れてしまうのだ。

寝込んで動けなくなってしまうほどに。

だから起きれるときに起き、動けるときに動くようにしている。

動けるだけまだました。

もう何十時間も寝ているのに起きれないときもあるのだ。

ごはんを食べることすらめんどくさい、つかれるほどに。

内蔵より外の気温の方が高く感じるのが気になる。

内蔵の存在を自覚するってどうだろう。

冷たい内蔵がぐるるるといって動く。

42度のお風呂に入ってもなかなかあたたまらない。

おふろのお湯と自分の体のさかえ目を感じる。

あたたかいお湯が皮膚の表面にあたっているのを感じる。


話をもどす。


その人はやはり張り合っていただけだったようだ。

よく話を聞いてみると、

Webデザイナーの職業訓練コースを受けて、

できれば事務につきたいということだった。

今まで裏方の仕事=事務をやってきたことがなく、

接客業、販売業ばかりだったから、

勉強のためにということだった。

私はそうかぁと思った。


前の記事に書いたと思うけど、

企業のWeb担当とか、事務をやりながら自社のサイトの更新も任せるみたいな仕事、

なくはないけど、数は少ないし、

どうなんだろう?

ああ、そうかぁ別にWebデザイナーになりたいわけじゃないから、

その仕事がおもしろいかどうかとか、

実績が先の仕事につながるかどうかは関係ないのかぁ、

とか考えたり、

未経験で事務につくこと自体が難しいことを思い出していた。

だから、

どうなんだろう?ということがめぐっていた。


私はかなりまじめに答えてしまった。

ぐさっと言うのでもなければ、楽観ていに大丈夫とも言わなかった。

本当はあとおしするような、大丈夫だよという言葉がほしかったのかもしれないと、

帰ってきてから思ったけれど、

今の私にそんな元気はないわけで。


でもその人はその話のときだけ一瞬不安そうな顔を見せただけで、

あとはすごく元気だった。

これからの新しいことに胸を膨らましている感じで、

家族のことについて一通り話きいてあげると、

ありがとう、話を聞いてもらったらすっきりしたと嬉しそうだった。

だからよかったかなと。


心配していたWebデザイナーにたいするバカにしたような感じのくだりもなかったし、

むしろ、私が元気なかったからなのか、

すごいよねー、うらやましい、とか、無い物ねだりかなとか、

私にもできた風なことを言っていたHtmlやCSSについて、

私、頭痛くなってきちゃうもんとかいっていた。

そこで、私が、Webデザイナーになるんじゃないのか?とつっこむと、

事務だよと話してくれたのだった。


私がWebデザインを学んだときのことを聞かれた。

どうだった?大変だった?と。

それで私は、う~ん…と慎重に考えた。

そのときのことを思い出しながら。

「私はやりたいことだったから楽しかったけど…、

一緒に学んでいた人の中には、もうダメーっていっていた人もいた。

人のよって・・違うのかも…。」

と答えた。


それは私も、どうなんだろう?と思うことがあるからだ。

同じ業種の人と仕事をしていると、

やはりお金のためにすきじゃないけどやっているという人もいたし、

好きだけど、こういうのじゃないっていう人がいたり、

人それぞれだなぁ、仕事の取り組み方というか捉え方もそれぞれだなぁと、

感じていたからだ。

だから、安易に私はやりたいことだったから楽しかったよだけで済まさずに、

おそらく経験したことしかわからないであろうことを答えた。

でも、その人が求めていたのは、そんな暗くなるような話じゃなくて、

あとおししてくれるような話だったかもしれない。


元気がない、会社をやめた私からは、

ぜんぜんウェルカムだよ、大丈夫だよとは言える状況じゃない訳で。

しかも人によっては、

私とはまた別の理由(一般的によく言われていること)で

この職業がいやになるという話を聞くので、

どうなんだろうなぁと思うとともに、

私はそういう一般的に言われている理由が直接の原因じゃなく、

心身を壊したことから、

せつなさを感じるわけです。


今回の成功体験としては、

無理に装う必要はない

ということです。


いつも辛いなぁとか、悪気はないだろうけど、ちょっと苦手なこと言われたなぁっていうとき、

あははっていって笑ってその場が流れていくようにごまかしてやりすごしていたけど、

体調が悪いことを隠す必要もないし、

自分のそのとき、できるかぎりのことで相手に対応すればいいんだなと思いました。

だから楽でした。


私は、私の話をとてもよく長時間聞いてくれた2名を思い出しながらしていました。

それぞれ別のところで出会った人たちで、

それぞれは知り合いではありません。

1人は私より随分年下の女の子。

もう1人は前々職の直属の上司の1人の男性(同じ年)です。

私はその当時から、

なぜその人たちが相手の話をよくここまで聞けるのかと気になっていました。

はいとか、そうですねとか言ってくれるので、

共感覚が得られるのが嬉しくて、

よく私はお話していました。

ときにはよく聞いてみると、そう思っていないときも、

そうですねって言っているときもあることを知って、

なんでだろう?と思っていました。

だって、自分を誤解されるのってやじゃないですかと思っていました。

けれど、今回その人たちのことを思い出しながら、

こういうとき、あの人たちならどういう風に対応するかな?と思い出しながら、

返答をしていました。

まるでその人たちになりきったみたいに。


そうしたら、楽だったんです。

その2人はなにかこちらが質問しても、しばらくーかなり長い間、

黙っていることがありました。

そしてやっと出てきた言葉は、真理をついた言葉だったり、

よく考えて発した言葉だったりしたのです。

だからこそ、私はまたその人たちに話ました。

この人に話せば、話は聞いてくれるし、意見をいってくれるときは、

適当なことじゃなくて、ちゃんと向き合って答えてくれる=真実が求められる

と感じていたからです。

でもときには、そんな期待に答えてくれないときもありました。

なんだか適当に相手されているように感じるのです。

そしてそれは実際そうだったのでしょう。

いつも通り話は聞いてくれているけど、

携帯の時計を気にしたり、反応がにぶかったりということがありました。

私の話が長かった、またネガティブな話ばかりだったというだけなのですが。

それはあとになって反省しました。

でもそのときは、誰かに聞いてほしいほど、じっとしていられないほど、

苦しかったのです。


今思えば、そのときの方がずっと幸せでした。

そんな愚痴が言えるのも、自慢になるようなほどのことだったのです。

今はそんな贅沢な愚痴や悩みなんてかかえられない、

叶うわけない状況、叶えられない身体にいるからこそ、

まだ上を目指せていたときの自分は幸せだったのだと思うのです。



答えに困ったり、自分にとってよくわからない話だったりしたら、

2人のそういったときの反応もまねしました。

あー、とか、う~んとか。

そうかもしれないねぇとか、

どうなんだろうねぇとか。

あいまいな言葉でもいいんだなと思いながら、応えました。

それで絆とか信頼が飛んで消えるわけはないし、

それで消えるなら、私には疲れるので他をあたってくれてかまわないという感じです。


見事、案の定、

見てきて答えられるところは答え、

見てきたことだけど、自分のインナーをえぐられる可能性のあることはどうだろう?とにごし、

確かになぁと思うことには、そうだねぇとあいづち、

対する家族の方の意見もわからなくないなぁということには、ああ、でもそうかぁなどと言い、

頭の中で2つ(その人とその家族)の言い分をめぐらせまじめに話を聞きつつ、

う~ん、見えないとこrはわかんないなぁということは、

そのまま、どうなんだろうねぇと、

こうなんじゃない?ということはなるべく控えて、

同調するように徹したところ、

その人はすっきりしたといいうことで、よかったなと。


変な返り討ちにあわなくて本当によかったなと思った。

こうなんじゃない?っていったことが、

話をしてきた人と違う意見だったり、イヤだと思うようなことだったりしたら、

今度は逆に私の方が攻撃(別の話題を通してだとしても。

例えば今回の場合はWebデザインなんてちょちょいのちょいだろう的な発言など)されるので、

それがなかったことが、

本当によかったなと思う。



元気な私だったら、ちょっと余計なことを言ってしまっていたと思うんだよね。

元気がないから、相手が気遣ってくれた分もあるかもしれない。

それはそれでまたよかったなと思う。

アロマセラピストだから、アロマを選んだら、

あまりにも元気がないことが選んだアロマからバレたみたいで、

驚いていた。

ええ・・ええ・・本当に大丈夫?って言ってくれた。

すごく心配そうだったけど、なにもしてあげられない

=ほどこす術がないほど、弱っている状態

とにかくゆっくり今は休みすかないというのが、

選んだアロマと、選ばれなかったアロマからわかったみたいだった。

なにもしてあげられないことで、真顔になってうつむいた。


選んだ精油と選ばれなかった精油の話をしてくれた。

だから今はこういう状態で、

このどれかの精油を選んだら、どうなりたいかっていうのとか、

どっちの方向へ回復していきたいっていうのがわかるんだけど・・・。

それがないから、

今は本当に休むしかない

無理にがんばろうとか、がんばってとかない方がよくて、

ゆっくり回復を待つしかない

って。


すごいなって思った。

もろバレですやんと思った。


私は会社をやめる1ヶ月前ほどにも、

そこへ行ったことがあった。

そのときも元気な風は装わないで行ったつもりだったけど、

そのとき選んだ精油とも違うし、

たしかにあのときは、あと半年、できれば1年ごまかしごまかししながらでも、

やっていけないかなぁと展望は抱いていた。

けれど1ヶ月、私は心身共に壊して、退職した。

今は、外にも出たくない、動きたい、希望も見いだせないほど、

生きる気力がない。


それがそのまま選んだ精油に出て、

その人は読み取ったのだ。

私は、すごいねって言った。

それが言えてよかったなと思う。

以前から、―開店当初から、すごいなぁって、

そういう知識もそうだし、自営業でやっていくっていうのもすごいなぁって思っていたんだけど、

なんかそう感じていることを伝えきれてないんじゃないかと、

感じていて、

それはたぶん、張り合ってくるからそう感じていたのかもしれないけど、

もっとちゃんと言葉に出して伝えたいなって思っていたから、

伝えるチャンスがあってよかったと思う。

そして伝えられてよかった。

今回、ことあるごとに伝えた。


Webデザインができるなんていいな、ないものねだりかなってその人が言えば、

◯◯には、アロマがあるよって伝えた。

肩こってるねって精油を塗りながら血行をよくして(マッサージに似てるけど、

マッサージとは呼ばない。マッサージは免許がないとできない。アロマサロン業界では、

これをトリートメントと呼ぶ。)

くれながら言えば、私はだから来たと伝えた。

サイト更新しない?とかいう営業ではなく、

話を聞いてほしいとかいうのでもなく、

本当にその人のアロマサロンを求めてやってきたことを、そうやって伝えた。


だからか、なんだか満足そうだった。

そういえば、ありがとう、満足した―だったかな?なんだか、

どっちがお客さんだったのかわからないような感想を述べられた。

これじゃ、お金返せって感じだよねとか言っていたけど、

別にそんなこと感じていない。

本当に気持ちよかったし、

言い当てたのもすごかったし、

出されたハーブティもめちゃくちゃおいしかった。

バラの花びらのジャムもおいしかった。

払える値段でよかった。

今のこのお金のない私に…。


だから、その人のお店のことを拡散してあげられない私は、

なんて無力なんだろうと思う。


反面、今回の成功体験が、

次のコミュニケーションの場面で役に立てばいいなって思う。



でも、かまってちゃんが相手だと、それもできずに疲れるなって思うできごとがあった。


それは次の記事に書く。


友達100人できるかな

2013-12-06 01:16:36 | 無題
Facebookの友達や、Twitterのフォロワーは

あいかわらず少ない。



Facebook

結構すごい人とも”友達”としてつながっているけれど、

その人たちからは、いいね!を押されたことがない。

私は、その人たちの投稿にいいね!を押したことが何回かある。


つながって1年くらいになるし、

特別感動したときなどにしか投稿してないけれど、

いいね!押されない。



いつもの常連さんは押してくれる。

0と1ではおおちがい。

1でもいいね!があれば、よかったと思い、

0だとこの世にいることを否定されたような気分になる。

私は、ここに、存在、しているのか―?


Twitterは知らない人ばかりフォローしていることもあってか、

だれからもリツイートされたことがない。

見ず知らずの人とつながっていっても、

いつか知っている人に見つかったり、

繋がってりするのかなぁと思っているからだ。


一年近くやっているけれど、

つぶやく回数も少ない。

まだ100にも達していない。


やみくもにフォローもしていない。

だからまだフォロー数も二桁だ。


それでも、フォロワーとフォロー数が倍違ってくると、

なんだか切なくなる。

フォローしてくれている人たちは、

フォロー返しを狙った人、

私がフォローしたからフォロー仕返した人というのがあって、

私に興味があったから自らフォローしたという人は、

まだいない。


ブログとか他からの流入元があればいいんだろうけど、

それをやったからといって、

私をフォローしてもらえる自信もない。


ブログをやってフォローされるには、

人が参考になるようなことを書けばいいんだろうけど、

そこで私の心の狭さが発動する。

ぎゅっと狭まっていって、

どうして自分でがんばって身につけた知識を、

ぼうぜんと見ているだけの人に提供しなければならないのかと。

それに私の知っている知識を得たがる人って、

私に仕事を頼もうと思う人ではなく、

同じ業界業種の人じゃんって。


よくこういうことについての本には、

ブログで情報を発信することが、

マーケティングになると書かれているけれど、

そうかな?と思う。


第一私はなにか1つのテーマで書くのが苦手だ。

私の興味関心は常にたくさんの中から移ろいでいって、

ブログはただの日記帳みたくなる。

つまりパーソナルなブログになってしまうのだ。


ブログをやるといいと書いてあったり、いう人は、

1つのテーマにしぼって、

それを楽しみに見に来る人の期待に応えることが、

リピートにつながるというのだ。


私は1つのテーマにしぼって書くのはいやだ。

たとえばMac。

このテーマにしぼって書いている人はもう随分前からいるし、

結構な人数いる。

たとえばデザイン。

私もいまだ、デザインについて書かれた記事に検索でたどりついたりする。

それにデザインがテーマなら英語ができないとおもしろくない。

海外の新しい情報もとりいれることでおもしろくなる。

見ている人=デザイナーはそういう新しい空気を求めている。


たとえばメイク。

これも既に強者というべき人たちが、

月に何万も化粧品代につかってブログを書いている。

それがまた楽しそう。

私もメイクは楽しいと思う。

だけど、そこまでお金かけないし、

それより今お金ないから無理だし、

あったとしても、そんないろいろ試すほど皮膚強くない。


ハンドメイド。

これは今少し考えている。

でも、Twitterとかで既にある程度活躍している人のツイートが流れて来たりすると、

私がこんなことしても無駄だって思う。

すごい量の作品が、バーッと並べられたかわいい写真とともに、

「もうすぐ、なんとかマーケット、お近くの方は是非来てね」

なんてリツイートが流れてきた日には、

こんな量作れない。

こんな量作らないと、儲かっていけないのかな、とか、

かわいいなぁ、あるじゃん、かわいいのあるじゃん、

私がやらなくてもあるじゃん

と思ってしまう。


それで、じゃぁ、その流れて来た写真の品がほしいかっていったら、

ほしくないんだよね。


私はハンドメイドのなにに魅力を感じているのか?


えげつないことに、

「売っているようなものでも、自分で作れる」

っていうのがある。

だから買わなくてもいいっていう。


つまり、お金かからないで済むし、自分の好きなように作れるから、

いいよねっていう。


でもこれを商売にしたら、実際はそう儲からない。

うまくいっている人は儲かっているんだろうけど。

材料はそう安くないし、

大量生産された既製品と比べると、

コストも、

手間もかかる。


割高なハンドメイド品と、

駅構内とかにあるおしゃれな雑貨屋さんに売っているアクセサリーだったら、

ぜったい後者を買う。

その方が、できばえのクオリティや安全性に信頼があるからだ。

ハンドメイドはどうしても、

壊れやすそうとか、

壊れないかなぁとかいう不安が私はつきまとう。

よっぽど気に入ったデザインで、

そこでしか売っていないというものだったら、

買うことを検討する。


この前、ハンドメイド作家さんを集めた展示販売があった。

ファッションビル内の本屋の横のスペースだ。

ちゃんときれいに作ってあって、

個性あるヘアアクセサリーや洋服などが並ぶのだけれど。

来ているお客さんは、(も?)

ハンドメイドに興味はあるけど、

そこまで崇高に思ってはいないという感じなのだろうか、

こったつくりのカチューシャを手に取っては、

かたっぱしから試着してみていた。

すこしがさつに見えた。


1点ものの高級なカチューシャだ。

芸能人が衣装で切るには映えそうだけど、

一般人がつけるにはちょっと・・勇気がいるデザインだ。

グスロリとかアンティーク調の服を着飾る人だったら、

似合うかもしれない。

そんな感じで、

値段もすごく高かったから、

鏡がおいてあったけれど、

「「これつけてみていいのかな?つけてみたいけど…。

高いしちょっと派手だから似合ってもつけていけるとこないから、

買わないけど。」」

と思って、つけたいなぁと思いながら、

眺めるだけにとどめたのだけれど。


私がたまたまみた来場者の人たちは、

おもむるの手に取って、友達と、あはは似合う~とかやって、

片っ端から試着してみるような人たちだった。


それを見て、私も試着してみる勇気がわいたんだけど、

そっと手に取って、そっと付けてみただけだ。

作った本人なのではないか?とおぼしき店員さんの目を盗んで。

前出の人たちは目なんて気にしていなかったけど、

その店員さんらしき人は、その棚とその先にある棚を行ったり来たりして、

陳列されている品を細々、レイアウトを整え直していた。

みんなが手に取って見るからだ。



ハンドメイドの―品って、

壊れやすそう、高そう―だし、

なにより人がちまっちまっと丹誠込めてつくったものだから、

なんか無造作に扱っちゃいけないって感じが私はする。


だけどみんなは、

そんな買う気もないのに、雑作もなくあつかって、

あははと言って去っていくのが、

なんか、なんだろう・・

いじめをうけたときのような嫌な気分になる。


心を込めてつくったもの、好きなものが、

乱雑に扱われてポイッと捨てられる、

対価も払われずに。

まるでそこになかったかのように。


価値観の違いーが自分の大切なものと、

他人の多くの大切なものとの違いとに、

剥離を感じて、

どうしてもどかしくなるんだろう?



よくいいものを作っても売れないとか聞く。


私の同級生だった知り合いも、

すごいいいサービスをすごい安く提供していたのに、

お客さんは連日満員というわけではなかったらしい。



認知が、広く広まっていないというのもあるし、

個人でやっていたから人気(ひとけ)があるように見えないと、

初めての人からすれば信用がないだろう。

だけど個人で自宅でやっているし、

体調を崩したからっていうのもあって個人で始めたから、

人がわっと来てもこまるし、

問い合わせやクレームに追われるのも疲れるというところ。

また人に紹介するほど、間違いなくすばらしいかっていったら、

「私はこれですごい満足だけど、このサービスに求めることって人それぞれだからなぁ」

っていうのがあって、

いいところ知らない?と聞かれでもしない限り、

あそこのよかったよ~なんて言えるほどじゃない。


またクチコミが怖いのか、

1つもクチコミサイトに登録していないから、

よかったという感想もかけず、

気にしいのその人のことを考えると、

なんか余計なことやって、私とその人の間で摩擦が起きるよりいいと、

なにもしないでいてしまう。


それでも一旦閉めるとこの前話があって、

私はツイッターで、すごくよかったと感想をつぶやいた。

お店のリンク付きで。

けれど、

あたりまえながら、

だれもリツイートしてくれないし、

私のフォロワーの属性は前述したとおり、

そういったことに興味のある人たちではないのだ。

私もそれにすごい肩入れしているわけではない。

でもすごくよかったんだ。

これで、あんな値段なんて、もうちょっと高くてもいいのにって自然と思った程だ。


その気持ちを精一杯、ツイッターの短い文にまとめた。


でも誰もみていない。

女性が対象だけど、女性のフォロワーほとんどいないし。


つまりつまり、

誰にも拡散できないのだ。

たくさんいる人の中(サービス)で私は叫んだけど、

私の言葉に信頼も、興味もないんだ。


面と向かった人や、

既に信頼関係がある人に、よかったらいってみてとか、

男性には、彼女にとか言ったことがある。

即答で「行かない(笑)」と言った人が結構多かった。

その対象がうさんくさく見えたのだろうか。

たしかにお店によっては勧誘とかあるらしいけど。

違うんだ。

本当にそういうのとかないし、

そういうの一切しない、安くて、自分が受けたいと思ったサービスを詰め込んだサービスにしたい

っていうのを実現させたものなんだ。


まぁ、たしかにその人たちの家から遠いけど。


そういう理由かなぁ?


でも私は思うんだ。

リア充と呼ばれるような人たちは、

あそこいいよーとか言うと、

え、じゃぁ今度言ってみようかなぁとかいって、

気軽に人もお金も動くんだ。


だれかがライブを開けば、気軽にノリで遊びにいくし、

そして、行って当人同士会った写真をFacebookにアップすると、

ものすごい数のいいね!がつくんだ。

わかる。

いいね!と私も思う。だから私もいいね!を押す。

けれどなんでだろう?

そういう感じじゃない人たちだと、

いいね!って押しにくい。


パーリー感や友情感がいいね!っていうのがあるのに対し、

内輪感があって入っていけないねっていうのと一緒に、

そうはいっても大して盛り上がってないでしょ的なのがある。


その人の背景なのか。

働いている会社、雇用形態、職種ーお金が安定しているように見えるからか?

盛り上がっていってるところには参加しやすいっていうのもある。

たくさんいいね!がつけば、

いいね!しやすいのは集団心理とかで片付けてしまっていいのだろうか。

まだ、少ないいいね!に、いいね!するとき、

特別な自分を見てほしいという気持ちがなくなかったりするのに。

大勢のいいね!の中にも私を見つけてほしいと思いながら、

そんなの無理だけどと思いつつ、

素直に祝福していいね!を押す自分がいる。

なんだろうか?

いいね!されなくても、

いいね!と思うといいね!を押してしまっている。

だけれど、それでもいいね!は押されない。


私はなんだろうか?

私はただの盛り上げ、取り巻きの一部になってしまったのか。

外からみればそうだけれど、

内からみたら、なんだろうか?


素直にいいね!を押している自分と、

いいね!を押しているから、ちょっとは私の方にも

いいね!を押してくれればいいのにと思う自分がいる。


以前の私=Facebookをはじめる前の自分は、

外からみてそれを、かわいそうな人と思っていた。

今、私も自分のことを

かわいそうな人と思っている。

かわいそうじゃなに人にしてあげたい。


けれども以前選んだことがあるような道=いいね!をもう押さない

というのは、どこか違うような気がするし、

今までそちらを選んで発展したことはないから、

これはパスだ。

それに素直にいいね!と思っているのに、

今度はまたステレルス的に傍観に徹するなんて、逆にめんどくさい。


どこからからネタを拾ってきて投稿するような、

小手先の方法をとるのはイヤだし、

自分の言葉じゃないものを発信しても、

それは自分をいいね!と思ってもらえたり、共感してもらえたりしたわけではないので、

いいね!されたりリツイートされたりしても、

私は嬉しくないだろう。

むなしいだけだ。


だけど商売や集客のそれには、

そういった自分がどうとかにこだわることなく、

どっかからパクってきたようなのを、

ちゃちゃっとして手間ひまかけないで、

目的や拡散を広めるのが大事とされたり、

事実そちらの方が成功したりする。



検索結果が、今の私をささやかに癒してくれる

2013-11-30 22:42:43 | 無題
友達のサロンに行こうかなぁと以前から思っていたから、

お茶しようって言われたときに伝えたけど、

この2日程で、行きたくないと思っている。


理由はその人がサロンを移転させるために、

お金儲けのためにWebデザイナーになるとか言い出しているからだ。


友達が同業種を目指し始めるって、どう?

いい気持ちしないんだけど。

憧れてたり、尊敬の念があってなるならいいけど、

その人は前々からちょっとバカにしたようなところがあったから、

それがすごくやだ。

手軽に稼げる職業みたいに思われているみたいで。


「今度お茶しよう、情報交換しよう」とか言われたけど、

は?って感じ。

私が作ったものとか興味ないし、尊敬の念もないのに、

なんの情報を交換するの?

私に聞かない方がいいんじゃないの?

電話ごしでも、質問しておきながら、そうなんだよね~とか言って来て、

もう答え出てるなら、質問しないでほしい。

すごい苦手だわぁ、こういう人。

もう会ってどんな表情で、どう返したらいいかわからない。

愛想よくし続けられる自信ないし、

嫌味いっちゃいそうだし、

その人がしゃべればしゃべるほど、

私は内心、めちゃくちゃ傷ついて、落ち込んでかえってくることになるからやだ。


そのくせ、その人はなんだか晴れ晴れしい前向きな気持ちで、

夢を抱いてすがすがしい感じでいるから、

もっとやだ。

そしてブログに後日、他の友達と食事したことを書いて、

前向きな友達と会うと気持ちいいとか綴るから、

遠回しに嫌味ですかって思っちゃう。


急性胃炎になったことを話したら、

「ああ~あれ苦しいよね~私もなって入院してさぁ」とか

すぐ自分の話をしてきて、

同情とかいっさいなし。


自分の業界がとにかくひどいことを話して来たり、

友達にWebデザイナーいるけど、大変な業界らしいね~って言って来たり、

なんなの?と思う。

それなのに職安でWebデザイナーの職業訓練を勧められたから、

それに行って、アルバイトするつもりとか。


挙げ句の果てに、

「いざとなったら派遣とかいけばいいじゃん」とかアドバイスしてくる。

アドバイスの形をとったバカにしているってどういうこと?

自分でバカにしているのが伝わっているってわかってないのかな?


アメブロでお金を払ってでもカスタマイズしたい人いっぱいいるって言ってきて、

「だけど紹介はごめんね、できない」って、

なんなの?嫌がらせに聞こえるんだけど。

じゃぁ、自分はWebデザインできるようになったら、

その知り合いなのか、ただそういう人をネット上で見かけただけなのかしらないけど、

その人たち相手に商売するの?

紹介できないのは、私だから?それともネット上で見かけただけの話を言ってるの?

どこからそんな仕事あるよって勧められるほど、自信が出てくるの?



そういう風に思考がつながっちゃうんだけど。

それで、私よりその人の方が、人付き合いうまそうだから、

技術とか知識とか劣っても、

私より商売うまくできそう。

サロンの方はそんなにお客さん来なかったみたいだけど、

家の事情とはいえ、移転させるって言うんだから、

自信があるんだろうな。


しかもデザイナーとしてのこだわりとか、信念とかないから、

これデザイナーの仕事かな?とかいう葛藤とかなく、

なんでもすぐ引き受けて、

だから既にいるお友達から「画像を丸く切り抜いて、周りをボカしてほしい」とか言われたら、

「いいよ!やってあげる!」とか言って、

そうやって仲良しこよしやっていくんだろうな。

より友達と仲良くなり―みたいな。


私は元々の友達が少ないから、

お金を出してでも、画像を丸く切り抜いて、周りをボカしてほしいだけの人も多いとか言われても、

そんなことお金を出してまで望んでいる友達なんて、

出会ったことないんですけど。

そもそも、周りの人たちも、

アドビのソフト使える人ばっかりだし。

同じ学校、業界の人が友達だから。

違う業界の人だと、

まだ駆け出しだったり、

Webにお金をかける意味がないと思っている人ばっかり、

「「そう、お前(=その人)みたいにな!!」」


ちょっとその人目線になっていたから、忘れてたけど、

よく考えれば、周りをぼかすとかいう写真加工なら、

スマホのアプリでいくらでもあるじゃないか。

そして、周りをボカスだけじゃなく、

いくらでもおしゃれな感じになるフィルターがたくさんある。

画像加工を望んでいる人って、

今どき、そういないと思うんですけど。


フリーソフトもあるし。


そして、

そんな感じで、Webとかパソコンのスキルが低い人が、

Webデザイナー目指すとけ言い出しているから、

え?大丈夫なの?って思っちゃう。

そして心配してあげるなんて、してあげる必要ないと気づいてからは、

笑っちゃうなっていうのと、腹立たしさが沸いてる。


サイトの相談されていたときの、ネットリテラシーの低さに、

どん引きしたことを思い出す。

ネットはわけのわからない怖いものっていう意識がハンパなくて、

そのくせメルアドとか直載せしてるから、

迷惑メール来まくりで。


デザインスキルのなさ、センスのなさにも愕然としているよ。

配色がひどいし、

レイアウトがひどいし。

チラシとか、スタンプカードとか、ブログとか、

嬉しそうに見せてくるけど、

毎回、感想言うのがまんしてるんだからね。

営業っぽくなるから。

タダでデザインの知識だけ与えて仕事発注しないっていうのも嫌だから。


いいとこどりしようっていう感じが、

ちょくちょく見え隠れするのが、

イヤだ。

だけど、”優しい人”、”人を癒すことを仕事にしている人”、っていうのがその人の売りだから、

メンツを立てたまま会話していくのがしんどい。

本当は、グサリと言ってやりたい。

バカにしてるよね?とか、

ちょくちょくひどいこと言うねとか。


でも、以前、

「私優しそうって見られちゃうんだよね~。ぜんぜんそんなことないのにさぁ。

勝手に思いこんでて、ひどいとかって言われちゃうのってしゃくだわ」

とか言っていたから、

嫌味を言っても、グサリとしても、

逆上しそう、効果なさそう、逆に心の中で私を責めそう、

反省しなさそうっていうので、

やだなぁって思う。


お店のブログでも、なにか困ったことあると、

だれか助けてくれないかなぁって書いてたし。

中には私が助けられることもあったけど、

そうやって遠回しに、

チラッチラッと見ながら、

助けてほしいっていうのが、

無料でなんとかならないかと思っているのが、

やだ。


だからなんだろうか、

結婚して家を出た

お兄さんから、ちゃんと自立しないなら、

家出ていってもらう、

実家は建て直すと言われちゃうのは。


そんな古くなってない立派な家なのに建て直すって、

しかも結婚して家を出たばかりなのに、

戻って来て、建て直して、お嫁さん共々、お父さんとみんなで住むとか。

そして妹には自立して生活できるように出て行ってほしいとか。

どないやねん。


まぁ、でもそうかぁ。

稼ぎが安定しない妹1人じゃ、お父上やおばあさまになにかあったとき、

家を何十年か後に建て直さなきゃってなったときに、

建て直せなくて、兄としては心配かな。

一軒家ってそんなに建て直さないとだめなの?

うちの近くの一軒家も最近建て直しているところ多いんだけど。




こういうイライラって誰にも相談できないから、

会うまで、

会いたくないなぁ、対処したくないなぁと、

モヤモヤしてすごすことになってるなぁ。


みんなはこういう悪気はないみたいだけど、

苦手だなぁっていう人の対処法どうしてるの?



キャンセルして都合悪いって言っちゃったらいいんだろうけど、

会っといて、適当にごまかしてその場フェードアウトしたいわ。

Webデザインの勉強の相談とかされてきたら困るわ。

答える気ないし。

それなら金をくれと思うし。

尊敬もなければ、誰かを紹介してくれることもない、

ちょっと小バカにしたような人に、

自分の死活問題に関わることに関して情報なんて渡したくないわ。

せこいかもしれないけど、

そんな心広くなれないわ。


友達じゃないんだろうから、

友達というか、知人というか、

縁切れるんだろうな。


違う業界業種同士だったときから、

ライバル心燃やすタイプだったから、

同じ業種になったら、

もっと嫌味が増すだろうなぁ。




◯Webサイトを作ることと友達に関しての質問
http://w3q.jp/t/3948

◯なぜ人は「IT業界人」に無償でのアドバイスを求めるのか



http://it.slashdot.jp/story/11/09/25/0451202/


これらを読んで共感感覚を得られて、

少しスッとした。

内容は違うけど、

友達に頭を悩ませている人いるんだな。

これは心を強くもたないとな、

という気になった。



よし!考えついた。

なんか訊かれたら、

「本当に私にアドバイス求めようと思ってる?」

っていおう。

その前に「どうかなぁ、わからないなぁ。」って答えよう。

それを繰り返したら、あきらめるだろう。

でも、知識ないんだな、やっぱりとか思われるのしゃくだ。

でも、今までも知識を疲労したら、サロンのための話をしているのに、

負けずと話と関係ないけど、自分の専門知識を脈絡なく話はじめてたからなぁ。

私なんて眼中にないんだろうな。

自分、いつでも自分が大切なんだろうな。

私も自分が大切だけど。


恋愛相談したときのことを思い出すと、

大丈夫だよいっちゃえ的なことをすごい押して来て、

誘うといいよっていうお店まで紹介してきたけど、

今になって考えると、

ぜんぜんイケイケどんどんじゃない状況なのに、

いけいけって言ってたな。

無駄にポジティブなところがあるし、

発言に対して、少なくとも私より責任感がないということがわかったな。


私はアドバイスするときはすごい考えちゃうし、

断言はしないけどな。

あの大丈夫だよとかいう楽観主義に流されると痛いことになるから、

流されないように気をつけないといけない。

うさんくさい投資家みたいな感じだな。

そんなことしてもあの人には利益ないと思うんだけどなぁ。

人が自分の言った言葉通りにした行く末を見るのが楽しいのかもな。

うまくいったら、自分のアドバイスのおかげだし、

うまくいかなかったら、ププッみたいな。

人の不幸をおもしがるところがあるから気持ち悪い。



「アドバイスを求めてくる」で検索すると出る検索結果が、

今の私をささやかに癒してくれる。