gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

人脈が大事

2013-11-28 11:21:16 | 無題
同級生だった友達が、

サロンを辞めて自宅でサロンをやっている話を前の記事で書いた。


その友達が、

サロンを今年いっぱいで終了すると知らせがあった。

知らせに気づくより先に、

たまたまその人のブログを読んだら、

そんなことがあって、

常連の方にはメールでもお知らせしましたがとあり、

ひょっとして、でも私にはないかと思いながら、

サイトを下ろすことを、

どんなメールで送ってくるだろうかと、

携帯を見ずにいた。

でも、ひょっとしてと思ってようやく携帯を見たら、

メールが来ていた。

こざっぱりとしたメールの内容だった。

だから私はぞっとした。


携帯を見てみようと思い立つ前に、

ブログを何度も読み返した。

そこからなぜ終了になるのか理由を読み取りたかった。





私が今思うことは、

私のせいじゃないだろうかということと、

まかりなりとも私の初めてのサイト制作のお客さんで、

私の中では今も、クライアントさんの1人として数えていたのに、

それが1つ減ってしまうということ、

そして、

自営で行っているという励みになっていたのに、

どのような理由なのか一旦終了するということで、

心の支えが1つなくなってしまうということです。


動揺。


サイトは、プロになる前で、

はじめは無料でつくるよと言いました。

サロンのコンセプトを決めるところから、

サイトに載せる文言のアドバイスや校正などもしました。

「私以上にサロンのこと考えてくれて嬉しい。ありがとう。」と

メールをもらったこともありました。


サイトが完成して、1年くらいたったとき、

新しいメニューを載せてほしいと要望がありました。

そのときはさすがにお金を頂きました。

でも、打ち合わせのあとに見積もりのメールを送ったら、

驚いていました。

「そうだよね、タダ働きになっちゃうもんね」と。

一文追加するだけならよかったのかもしれませんが、

グローバルメニューに関わるところだったので、

他のお客さん同様見積もりを送ったのですが、

私の説明不足だったようで。

驚かれたことに、驚きましたが、

すべてタダになると思っていたようで。

私は、申し訳ないなと思い、

もうそれ以降はサロンの調子どう?とか、

営業っぽい感じになるので、

連絡をひかえていました。


事実、チラシとか、スタンプカードとか、

発注してくれたらいいなぁという気持ちがあり、

でも、お金を掛けたくないと開業当初から言っていたことと、

格安で良質のものを使って提供したいと言っていたので、

自分でチラシや、スタンプカードを作っているのをみても、

なにも言えませんでした。

もっとこうしたら素敵になるのになと思っても。


私ができたのは、開業当初のサロンの方向性決めと、

サイトを制作するだけでした。

その後、広告代理の会社で働いて、

ネットでの広告展開のについての知識がついたのですが、

お店の調子どう?と聞く度に、

はぐらかされているような、

本当は私ともう関わりたくないんじゃないだろうかというような気がして、

そして、私もその人のお店に幾分もお金を落とせず、

お客さんを呼んであげるだけの人脈と影響力もなく、

その人も私にお金を落とすこともなく、

新しくお客さんを紹介してくれることもないんだろうという気がして。

なんともいえない距離感になっていました。


ただただ、作ってしまったサイトだけは今も存在して、

ブログや他の紹介サイトに、私の作ったサロンのサイトのURLは貼ってあって―

どうなんだろう?

知り合いに頼んだ結果、

本当はもっと違うサイトや、サイトを他で一新したいという思いがあるのに、

知り合いに頼んだ故に、そう言い出せずにここまできてしまって、

ついには、お店を閉めるという形に一旦して、

新しくお店を他ではじめるのじゃないだろうかという

―不安。



ここで思うのは、

私にもっと人脈や影響力=人から好かれて、人が好んで動く力が

あればよかったということ。


DとかHとかRとかたくさん広告会社やコンテンツ会社はあるけれど、

そこのどこを見ても、

タモリさん1人見ても、

そこにはご縁あって、たくさんの人に慕われて、

その人が言うなら、その人がよかったというなら、

少なからず、そのシェアされたり、リツイートされたりした記事を見たり、

そこへ実際足を運べなくても、お金を落とせなくても、

さらにその記事をいいね!したりシェアしたりリツイートすることで、

さらに多くの人に知ってもらうことで、

実際に足を運べる人や、お金を落とせる人に情報を

伝える人にはなれるということ。


けれど、

私は人望も人脈もなく、

慕ってくれている人も、

私のツイートを見ていたくてフォローしている人も、

私が発することに関心があって友達申請してくる人も

いないので、

なにも影響力がなく、

ツイートしようが、タイムラインになにか流そうが、

その友達のサロンへ1人送り込むことさえできないのです。

そしてFacebook上にインフルエンサーであるFacebook上の“友達”がいるにも関わらず、

その人は私には興味がないーどころか距離を置きたいと思っているのではないかと私は感じており、

何千人も“友達”がいる彼のタイムラインは、

すごい早さで流れているのだろうとうことで、

インフルエンサーと繋がりがあっても、

その人にいいね!を押してもらって、拡散することなんてないのです。


もし、私に人望があって、

その人によいイメージを抱いてもらっていたら、

なにげない投稿でもいいね!を押してもらえたでしょう。

でも、事実、1回もいいね!を押してもらえたことはありません。

インフルエンサーの内1人は、私へ自分から友達申請をしてきた人ですが、

その人も恐らく、私の記事は見ていないでしょう。

その人の目的は、自分が発信するものをより多くの人に見てもらうということであり、

私が発することや、私に興味関心があったりしたからです。


広告業界やメディアの真ん中でなにが行われているかということを考えるに、

その真中心はまだ私にはわかっていないかもしれませんが、

少なからずその業界の円心では、

結局のところ1人1人、個人個人のつながりで、

仕事や情報の行き交いが行われているのです。

だから何が流行るとか、

なにを流行らせるとかいうのも、

個人個人の繋がりが、あの人ともこの人とも繋がりがあって、

これいいよねが共鳴して大きくなって、

それがそれを取り巻く周りに漏れていって、

これが今流行っているらしいになり、

これが今流行っています、になるのです。


グラフィックデザイナーの横尾忠則という人は、

何冊も装丁を手がけていますが、

その多くは知り合いである著者から直接依頼が来たものばかりで、

出版社から来たのは少ないと言っていました。


最近私が、モヤモヤ考えているのは、

“人脈”です。


最近受けた仕事は恩師である知り合いからです。

私がここでわめこうが、

Twitterやサイト上でお仕事くださいと叫ぼうが、

来る仕事なんてたかが知れていると思うし、

なにより、

先月、体調を崩して会社をやめたばかりの私にとって、

見知らぬ人からダイレクトに問い合わせが来ることを考えたとき、

怖いなというのがあります。

これが、知り合いから来た仕事となると、

なんだかそれだけでも、気持ちが違います。

どんな人物かということを探る必要がないので、

1つ仕事が減る訳です。

人と仕事をする上で、私にとって一苦労なので、

間合いをとるということです。

そして、「あ、この人苦手かも」とかなったとき、

そこからがさらに大変で、

この人の顔見ていたくないといったこともこれまでに何度かあったのです。

そうなると、がまんとかそういう問題ではなく、

どんどん精神的に追い込まれていってダメなのです。


私はつきあっていける人間が限られているということに、

ここに来て気づいてしまったのです。

気づいてしまっただけでなく、

そのダメなときのダメ具合が刻々と強くなっていっていることに、

この前気づきました。


見知らぬ人とテーマを決めて雑談するというのがあるのですが、

「この人苦手かも」と思ったときに出る拒絶反応が、

もうがまんできないというほどしんどくなって、

その場で

そうですねと相づちをうつだけで、

どうしたらいいのかわからず、

気のきいた一言も、以前なら出てきていたような、

話を掘り下げる言葉の返しもできず、

笑顔ではなく、顔が引きつって、

苦笑いがせいいっぱいになってしまっているのです。


私は以前は、自分が賛同できないような話でも、

リポーターにでもなったかのように、

根掘り葉掘り掘り下げて質問し、

聞き出すことがきできました。

その人の考えや、その内容の真なるところ。

ところが今は、

「「この人の話したことに賛同できない」」ということがあると、

そこから先、もう興味がなくなってしまうのです。


考えが浅いなぁとか、

この話の結末の先には、私に利益のあることはないな、

それどころかこっちが疲弊させられる=利用されるだけだなとか。



こんなに損得勘定ありきで考えている人がいったいどれだけいるでしょうか?

興味を持ったものの先にも、

それを極めても、お金が入って来る可能性が低いなと思うと、

極める意欲もなくなってしまいます。


そんなんでは、人脈なんてできないのにと思います。


でも、仲良くなれば自分も得することがあるかもしれない

インフルエンサーである、すごい人と関わり合いを持つのにも、

臆してしまうのは、

自分が打算計算があり、そんな汚い自分を認めてしまって実行に移してくないからでしょう。


事実、

元上司のツイートが私にとってはとてもおもしろく、

私の中で今一番おもしろいメディアはその元上司のツイッターであるという程にも関わらず、

フォローするのをためらっているのは、

力のない人がそういった力のない人にすり寄って、

なんらか恩恵を受けようとしているみたいに見えないか、

そう見えるのがイヤだというのがあります。

そしてそこで、自分に問うてみます。

そういう気持ちが0%なのかと。

すると、0%ではなく、

少なからず幾らか、あればいいなぁという気持ちがなくないというのが返ってきます。

そして、それだけでなく、

そのツイートがおもしろすぎて、

絡まずにただフォローするだけなんて嫌だという思いがあるからです。

しかし、絡んだところで、その上司が絡み返してくれるかというと、

恐らく返してくれないでしょう。

それどころか、なんやねん気色悪と思うでしょう。

それは一緒に仕事をしていたときのやりとりを思い出すにあたり、

一緒に仕事をしていたときは、さほどその上司に同調していなかったからというのもあります。

生意気なことを言ったこともあります。

上司は私に期待はしていたようですが、

あつかいにくいやっちゃなとは思っていたと思います。

だから一緒に仕事しなくなるとなったとき、

ちょっとほっとしたのではないでしょうか。

かわいい部下だったとは言えないでしょう。

かわいい部下だったのは、私の先輩の方であり、

それを証明するような出来事もありました。

証明するというより、その出来事があったから、

ああ、先輩は目に入れてもいたくない程だったんだなというのがあります。



私はどちらを向いても、

“一歩距離を置いておつきあいしたい人”のようです。

幸いなことに、1人だけ私少し興味を持ったり、

かまってくれる人がいます。

そのことを今幸せだなと思います。

けれど、その人も、私と同じく、

人とうまくやっていけない人ーと本人が言っていました。

人とうまくやっていけないから、このように心を許して話せる人が貴重なのだと。

なので、その人に私がなにか発信したとしても、

その人は他の誰かにそのことを伝えてくれたり、

影響力があったりするわけではないのです。

私は、いつか影響力になる人になると―思っているのですが。

なにも根拠がないし、

確かに今の実力や実行力度合いじゃ、影響力は出せないなと。

いつか売れると思っている割には、

じゃぁ、私はその人にお金を出して、その人が発信したものを買うかといったら、

今発信されているどのものも、お金を出して買いはしないのです。

私がお金がないーというのも一理あります。

お金があったら、それくらい買っていたかもしれませんが、

そもそも私は自分を究極、自分を癒してくれるものにしか、

お金を出さないところまできてしまっています。

服も、ああいう格好してみたいなというのがあっても、

今そろっているものでいいかと思い、

音楽でさえ、図書館で借りてしまう始末です。


他の人もそうでしょうか?

自分の損得を基準に、

人付き合いのための出費、

買っても買わなくてもいいような出費=買わなくても生きていけるものに対しての出費

に対して考えるとき、

勢いや惰性で出費するというのは―


ここで中断して別に、「出費するものしないもの」について考えた。

それはあとで書くとして。




ここで書きたかったことは、

人脈すらないとなんて無力で役に立たないんだろうと思う。

ということ。


せめて繋がりくらいあれば、

せめて私自信、もしくは私が発するものに少なからず興味を持ってくれる人がいれば、

できるなら、その人を動かせるだけの力があれば、

私はもうちょっと力になれたのではないかと思う。



そうしたら、サロンの友達は、

もうちょっと仕事を続けられたんじゃないかということ。



そして少なからず、

人脈を頼りにして近づいてくる人も、

幻じゃなく実際にいるということ。

それを最近実感したから、

なおさら、”人脈”や繋がりの大切さが身にしみた。


今までは、そんな、そういうすり寄るような、

自分の力じゃないところへ寄るようなことは、

よくないと思ってーというか、地で感じてしまって、

本当はそうしたいのに、そうできないということがよくあった。


でもそうやって、最初の関わりあいに1つつい立てを立てて、

あんまり馴れ馴れしくならないように、

すり寄っている感じにならないように、

頼りにしてしまわないようにと、

一歩引いていしまっていることで、

あとあと、やっぱりいい人だなとか、

共感できるところがあるから、友達になりたいなと思っても、

最初の―仲良くなっていく過程の自然な流れ、タイミングで仲良くならないと、

あとでフランクになっても、

無理があって、

どっか引いたような付き合いしかできないってこと。


そうして、Facebook上とかでな”友達”であったとしても、

実際はいいね!ももらえなければ、

コメントもつかないようなことになって、

拡散したいことは届かないということ。


それだけじゃないだろうけど。


やっぱり感じてしまうのは、

層があるなってこと。

リア充という言葉がもう一般的になってきている程だけど、

そういう人たちは、やっぱり繋がりをリア充に求めている。

信じたくないけど、そうだ。


最近、どうもそうっぽいとか、なんとなく感じていたことが、

信じたくないけど、そうなんだということが解った。

自分のこともそうだし、

人間はきれいごとを言っている人もいるけど、

打算計算しているところがある。


打算計算と思わずして、地で行く人たち。

損得なんて考えてないという人はいくらでもいるだろうけど、

考えずして取捨選択していると思う。

ずっと観察してきた結果だ。



お金を得るとか、人脈の形成とか、

なぜ汚く感じるんだろう?

本当は生きていく上で大事なことじゃないか。

誰がこの価値観を植え付けたんだろう?

どこで植え付けられたんだろう?

今はそれのことでモヤモヤしている。



あたり前で、以前から大事だ大事だとあちことで言われてきたことだけれど、

人脈が「クモの糸」ほど大事。

そして繋がっているだけじゃなく、

その人になにか任せてみようとか、その人に頼んでみようとか、

その人の役に立てばいいなとか、

そういう行動に移してもらえるだけの好かれるなにかがあることが大事だということ。


それがなんでか、

コネとかずるいとか、

そういう汚い世界みたいになってしまっている。









最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。