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友達100人できるかな

2013-12-06 01:16:36 | 無題
Facebookの友達や、Twitterのフォロワーは

あいかわらず少ない。



Facebook

結構すごい人とも”友達”としてつながっているけれど、

その人たちからは、いいね!を押されたことがない。

私は、その人たちの投稿にいいね!を押したことが何回かある。


つながって1年くらいになるし、

特別感動したときなどにしか投稿してないけれど、

いいね!押されない。



いつもの常連さんは押してくれる。

0と1ではおおちがい。

1でもいいね!があれば、よかったと思い、

0だとこの世にいることを否定されたような気分になる。

私は、ここに、存在、しているのか―?


Twitterは知らない人ばかりフォローしていることもあってか、

だれからもリツイートされたことがない。

見ず知らずの人とつながっていっても、

いつか知っている人に見つかったり、

繋がってりするのかなぁと思っているからだ。


一年近くやっているけれど、

つぶやく回数も少ない。

まだ100にも達していない。


やみくもにフォローもしていない。

だからまだフォロー数も二桁だ。


それでも、フォロワーとフォロー数が倍違ってくると、

なんだか切なくなる。

フォローしてくれている人たちは、

フォロー返しを狙った人、

私がフォローしたからフォロー仕返した人というのがあって、

私に興味があったから自らフォローしたという人は、

まだいない。


ブログとか他からの流入元があればいいんだろうけど、

それをやったからといって、

私をフォローしてもらえる自信もない。


ブログをやってフォローされるには、

人が参考になるようなことを書けばいいんだろうけど、

そこで私の心の狭さが発動する。

ぎゅっと狭まっていって、

どうして自分でがんばって身につけた知識を、

ぼうぜんと見ているだけの人に提供しなければならないのかと。

それに私の知っている知識を得たがる人って、

私に仕事を頼もうと思う人ではなく、

同じ業界業種の人じゃんって。


よくこういうことについての本には、

ブログで情報を発信することが、

マーケティングになると書かれているけれど、

そうかな?と思う。


第一私はなにか1つのテーマで書くのが苦手だ。

私の興味関心は常にたくさんの中から移ろいでいって、

ブログはただの日記帳みたくなる。

つまりパーソナルなブログになってしまうのだ。


ブログをやるといいと書いてあったり、いう人は、

1つのテーマにしぼって、

それを楽しみに見に来る人の期待に応えることが、

リピートにつながるというのだ。


私は1つのテーマにしぼって書くのはいやだ。

たとえばMac。

このテーマにしぼって書いている人はもう随分前からいるし、

結構な人数いる。

たとえばデザイン。

私もいまだ、デザインについて書かれた記事に検索でたどりついたりする。

それにデザインがテーマなら英語ができないとおもしろくない。

海外の新しい情報もとりいれることでおもしろくなる。

見ている人=デザイナーはそういう新しい空気を求めている。


たとえばメイク。

これも既に強者というべき人たちが、

月に何万も化粧品代につかってブログを書いている。

それがまた楽しそう。

私もメイクは楽しいと思う。

だけど、そこまでお金かけないし、

それより今お金ないから無理だし、

あったとしても、そんないろいろ試すほど皮膚強くない。


ハンドメイド。

これは今少し考えている。

でも、Twitterとかで既にある程度活躍している人のツイートが流れて来たりすると、

私がこんなことしても無駄だって思う。

すごい量の作品が、バーッと並べられたかわいい写真とともに、

「もうすぐ、なんとかマーケット、お近くの方は是非来てね」

なんてリツイートが流れてきた日には、

こんな量作れない。

こんな量作らないと、儲かっていけないのかな、とか、

かわいいなぁ、あるじゃん、かわいいのあるじゃん、

私がやらなくてもあるじゃん

と思ってしまう。


それで、じゃぁ、その流れて来た写真の品がほしいかっていったら、

ほしくないんだよね。


私はハンドメイドのなにに魅力を感じているのか?


えげつないことに、

「売っているようなものでも、自分で作れる」

っていうのがある。

だから買わなくてもいいっていう。


つまり、お金かからないで済むし、自分の好きなように作れるから、

いいよねっていう。


でもこれを商売にしたら、実際はそう儲からない。

うまくいっている人は儲かっているんだろうけど。

材料はそう安くないし、

大量生産された既製品と比べると、

コストも、

手間もかかる。


割高なハンドメイド品と、

駅構内とかにあるおしゃれな雑貨屋さんに売っているアクセサリーだったら、

ぜったい後者を買う。

その方が、できばえのクオリティや安全性に信頼があるからだ。

ハンドメイドはどうしても、

壊れやすそうとか、

壊れないかなぁとかいう不安が私はつきまとう。

よっぽど気に入ったデザインで、

そこでしか売っていないというものだったら、

買うことを検討する。


この前、ハンドメイド作家さんを集めた展示販売があった。

ファッションビル内の本屋の横のスペースだ。

ちゃんときれいに作ってあって、

個性あるヘアアクセサリーや洋服などが並ぶのだけれど。

来ているお客さんは、(も?)

ハンドメイドに興味はあるけど、

そこまで崇高に思ってはいないという感じなのだろうか、

こったつくりのカチューシャを手に取っては、

かたっぱしから試着してみていた。

すこしがさつに見えた。


1点ものの高級なカチューシャだ。

芸能人が衣装で切るには映えそうだけど、

一般人がつけるにはちょっと・・勇気がいるデザインだ。

グスロリとかアンティーク調の服を着飾る人だったら、

似合うかもしれない。

そんな感じで、

値段もすごく高かったから、

鏡がおいてあったけれど、

「「これつけてみていいのかな?つけてみたいけど…。

高いしちょっと派手だから似合ってもつけていけるとこないから、

買わないけど。」」

と思って、つけたいなぁと思いながら、

眺めるだけにとどめたのだけれど。


私がたまたまみた来場者の人たちは、

おもむるの手に取って、友達と、あはは似合う~とかやって、

片っ端から試着してみるような人たちだった。


それを見て、私も試着してみる勇気がわいたんだけど、

そっと手に取って、そっと付けてみただけだ。

作った本人なのではないか?とおぼしき店員さんの目を盗んで。

前出の人たちは目なんて気にしていなかったけど、

その店員さんらしき人は、その棚とその先にある棚を行ったり来たりして、

陳列されている品を細々、レイアウトを整え直していた。

みんなが手に取って見るからだ。



ハンドメイドの―品って、

壊れやすそう、高そう―だし、

なにより人がちまっちまっと丹誠込めてつくったものだから、

なんか無造作に扱っちゃいけないって感じが私はする。


だけどみんなは、

そんな買う気もないのに、雑作もなくあつかって、

あははと言って去っていくのが、

なんか、なんだろう・・

いじめをうけたときのような嫌な気分になる。


心を込めてつくったもの、好きなものが、

乱雑に扱われてポイッと捨てられる、

対価も払われずに。

まるでそこになかったかのように。


価値観の違いーが自分の大切なものと、

他人の多くの大切なものとの違いとに、

剥離を感じて、

どうしてもどかしくなるんだろう?



よくいいものを作っても売れないとか聞く。


私の同級生だった知り合いも、

すごいいいサービスをすごい安く提供していたのに、

お客さんは連日満員というわけではなかったらしい。



認知が、広く広まっていないというのもあるし、

個人でやっていたから人気(ひとけ)があるように見えないと、

初めての人からすれば信用がないだろう。

だけど個人で自宅でやっているし、

体調を崩したからっていうのもあって個人で始めたから、

人がわっと来てもこまるし、

問い合わせやクレームに追われるのも疲れるというところ。

また人に紹介するほど、間違いなくすばらしいかっていったら、

「私はこれですごい満足だけど、このサービスに求めることって人それぞれだからなぁ」

っていうのがあって、

いいところ知らない?と聞かれでもしない限り、

あそこのよかったよ~なんて言えるほどじゃない。


またクチコミが怖いのか、

1つもクチコミサイトに登録していないから、

よかったという感想もかけず、

気にしいのその人のことを考えると、

なんか余計なことやって、私とその人の間で摩擦が起きるよりいいと、

なにもしないでいてしまう。


それでも一旦閉めるとこの前話があって、

私はツイッターで、すごくよかったと感想をつぶやいた。

お店のリンク付きで。

けれど、

あたりまえながら、

だれもリツイートしてくれないし、

私のフォロワーの属性は前述したとおり、

そういったことに興味のある人たちではないのだ。

私もそれにすごい肩入れしているわけではない。

でもすごくよかったんだ。

これで、あんな値段なんて、もうちょっと高くてもいいのにって自然と思った程だ。


その気持ちを精一杯、ツイッターの短い文にまとめた。


でも誰もみていない。

女性が対象だけど、女性のフォロワーほとんどいないし。


つまりつまり、

誰にも拡散できないのだ。

たくさんいる人の中(サービス)で私は叫んだけど、

私の言葉に信頼も、興味もないんだ。


面と向かった人や、

既に信頼関係がある人に、よかったらいってみてとか、

男性には、彼女にとか言ったことがある。

即答で「行かない(笑)」と言った人が結構多かった。

その対象がうさんくさく見えたのだろうか。

たしかにお店によっては勧誘とかあるらしいけど。

違うんだ。

本当にそういうのとかないし、

そういうの一切しない、安くて、自分が受けたいと思ったサービスを詰め込んだサービスにしたい

っていうのを実現させたものなんだ。


まぁ、たしかにその人たちの家から遠いけど。


そういう理由かなぁ?


でも私は思うんだ。

リア充と呼ばれるような人たちは、

あそこいいよーとか言うと、

え、じゃぁ今度言ってみようかなぁとかいって、

気軽に人もお金も動くんだ。


だれかがライブを開けば、気軽にノリで遊びにいくし、

そして、行って当人同士会った写真をFacebookにアップすると、

ものすごい数のいいね!がつくんだ。

わかる。

いいね!と私も思う。だから私もいいね!を押す。

けれどなんでだろう?

そういう感じじゃない人たちだと、

いいね!って押しにくい。


パーリー感や友情感がいいね!っていうのがあるのに対し、

内輪感があって入っていけないねっていうのと一緒に、

そうはいっても大して盛り上がってないでしょ的なのがある。


その人の背景なのか。

働いている会社、雇用形態、職種ーお金が安定しているように見えるからか?

盛り上がっていってるところには参加しやすいっていうのもある。

たくさんいいね!がつけば、

いいね!しやすいのは集団心理とかで片付けてしまっていいのだろうか。

まだ、少ないいいね!に、いいね!するとき、

特別な自分を見てほしいという気持ちがなくなかったりするのに。

大勢のいいね!の中にも私を見つけてほしいと思いながら、

そんなの無理だけどと思いつつ、

素直に祝福していいね!を押す自分がいる。

なんだろうか?

いいね!されなくても、

いいね!と思うといいね!を押してしまっている。

だけれど、それでもいいね!は押されない。


私はなんだろうか?

私はただの盛り上げ、取り巻きの一部になってしまったのか。

外からみればそうだけれど、

内からみたら、なんだろうか?


素直にいいね!を押している自分と、

いいね!を押しているから、ちょっとは私の方にも

いいね!を押してくれればいいのにと思う自分がいる。


以前の私=Facebookをはじめる前の自分は、

外からみてそれを、かわいそうな人と思っていた。

今、私も自分のことを

かわいそうな人と思っている。

かわいそうじゃなに人にしてあげたい。


けれども以前選んだことがあるような道=いいね!をもう押さない

というのは、どこか違うような気がするし、

今までそちらを選んで発展したことはないから、

これはパスだ。

それに素直にいいね!と思っているのに、

今度はまたステレルス的に傍観に徹するなんて、逆にめんどくさい。


どこからからネタを拾ってきて投稿するような、

小手先の方法をとるのはイヤだし、

自分の言葉じゃないものを発信しても、

それは自分をいいね!と思ってもらえたり、共感してもらえたりしたわけではないので、

いいね!されたりリツイートされたりしても、

私は嬉しくないだろう。

むなしいだけだ。


だけど商売や集客のそれには、

そういった自分がどうとかにこだわることなく、

どっかからパクってきたようなのを、

ちゃちゃっとして手間ひまかけないで、

目的や拡散を広めるのが大事とされたり、

事実そちらの方が成功したりする。




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