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自分大好きでなにか悪いことがあるのか

2013-03-30 07:45:24 | 無題
もう考えが一周して、

自分大好き人間みたいでもいいじゃないか、

自分大好きでなにか悪いことがあるのかみたいになってきた。


考えてみれば、

自分大好きで嫌われている人っていないような?


自分が大好きで、

他人のことが見えていない人が嫌われているのではないだろうか。



そもそも、

そこまで私は好かれていないし、

人から声を掛けられるほどの人間じゃないんだから、

嫌われたって、

失うものはそれほど大きくないとも考えられるような。



他人の目をうかがいつつ、

よく見られようとするより、

自分のやりたいようにできるのが一番だ。



ブランディングでも同じような話がある。

多くの顧客に対応しようと顧客の要望に振り回されるより、

これというものを変らず行っていくほうが、

顧客が求めたときにいつもそこにいてくれる頼りになる存在になり、

これといえばの絶対的存在になれる。(第一想起)

そしてそれが他とは違うものであれば、ある分だけ、

希少価値が高まり、

ブランド力が確固たるものになっていく。



人気が出てくると、

人気の加速度は増していく、

比例の法則。



対外的な点を考えると、

そもそも私は自分大好きの人がそんなに嫌いじゃない。

最初は反発する感があるのだけれど、

やっぱ見ていると気持ちいいなみたいな。


でも、やっぱり共感できないことに

かわいいでしょ♡とか言われても引くかな。

おばさんとかが写りの悪い写真で―ああ;

でも気品のあるおばさんが微笑んで写っているのは―うーん、いい。

その違いはなんだ?


共感できないおばさんは基本的にお化粧とかしてなくて、

身だしなみもきちっとしてないように思う。

だみ声で、ゲラゲラ笑ったり、他人を思いどおりに動かそうと画策する感じ。

他人が思いどおりに動かないと機嫌が悪い。

気品のあるおばさんは紅もちゃんと引いて、

髪もちゃんとさせていつまでも美しくいようとしている感じ。

うふふって笑っていつまでも少女のような可愛らしさがある感じ。


そういう人って周りからもかわいいねって取り上げられるから、

自分で主張したり、写真を流したりする必要ないんだろうな。


私にもそういう流れがあるときがある。

知り合ったばかりだと慕ってくれて、

~しましょうよとかすすめてくれるんだけど、

私は結構乗らない。

それであとから乗るんだけど、

その頃には私に対するイメージも変ってて、

もうあんまり相手されなくなる。


悩みとか、相談ごととかを結構長くしてしまうから、

憧れのイメージもなくなってしまう。


大体いつもそうだ。


第一印象、見た目や社会的な対応で、

笑顔が素敵とか、

後輩がツイッターでこっそりいってたのを引用させてもらうと

かわいい大人女子と思ってくれるみたいだけど、

仲がよくなったと私が感じると、

私は自分のネガティブなところを出してしまう。

人からどう思われるかな?とか、

こんなことがあっていやだ、どうしようとか。

自分はこんなことやったという褒めてもらいたい話とか。

だいたいみんないい人たちだから、

褒めてもらいたい話なんかは、

イヤな顔はされないでむしろ取り上げて、

すごいやったじゃないですかと言ってくれるけど、

さすがに相談と思ってした話は愚痴になったりして、

それが幻滅させる原因かなぁと思う。


私も愚痴を聞いたときは、

結構しんどく疲れを感じるものなぁ。

その人が最初はかわいそうと思っても、

本人はすぐには癒されないから、

いつまでも自分の不遇を語って、

じゃぁ、こうしたら?といっても聞いてほしいだけの話だから、

解決にはならなくて延々と愚痴話がつづくという―

そしてこちらの話も聞いてほしいとか、

こっちのことも考えてほしいとか思ううちに、

その人の印象まで悪くなってしまうという。

もう2度と食事したくないーって。


一度そういう面を見せちゃっったなぁって感じると、

自分では反省して、

もう愚痴話はしないようにしようと思っても、

相手に警戒されてるんじゃないかなぁって思って。

自分からは積極的に誘えなくなる。


でもこれじゃぁいけない、また縁を失う、

またご一緒したいって思って、

半ばやっきになって思い切って誘ってみると、

~さんもいい?と言われて。

ああ、やっぱり2人きりだと、

愚痴話されそうでとか、

愚痴聞くにしても1人じゃ対応しきれないと思って

大勢かな?なんて思ったりして。


複数人は私が苦手なだけんだけど。

結局、いろいろ質問されても明るく返せないで、

引き気味に返答して、変な空気になっちゃう。


次の仕事決まってるんですか?

―忙しくて就活できていないです。

今、どんな仕事してるんですか?

―~さんの~っていう商品のキャンペーンのデザインやってます。

大手だから引いたのか、

私がもうこれ以上聞いてほしくないオーラを出していたからか、

それ以上つっこまれなくなった。

大体、私は仕事できなくて仕事ふってもらえない人だと思われてたんじゃないかなぁ。

だれかは後輩だと思ってましたって言ってたし。


いや、私がチャンスだとばかりに、

私は実はすごい仕事もしてるんですよアピール感を出していたのかもしれない。

だって頼もしい人って思われたいよぉ。

同性からでも。


理由はわかんないけど、

マンガを一方的に貸し付けてくるようなまで

急激に仲がよくなった人とは、

それっきりだなぁ。


バランスの取り方、

距離の取り方が

難しいなぁ。


ネット上に写真って

2013-03-29 00:28:11 | 無題
写真アップするかしないかで悩んでいたんだった。


かわいい、美人と小さい頃から言われなれてる人は、

臆せず、顔も広告塔にしてしまえる。

TwitterでもFacebookでも、

かわいい人のアイコンが見えると、

気持ちいいものである。

顔出しの写真が流れてきても、

かわいいなぁとか、

あいかわらず美人だなぁと

女の私もにやけてしまう。


それが微妙な人の写真やアイコンが流れてくると、

え?これって自分かわいいと思ってるの?逆効果じゃない?いいの?

せめてもうちょっと写りのいい写真とか、アングルなかったの?

とか思ってしまう。

決して口には出さないけど、

なんだか痛々しいなと感じてしまうのだ。

撮って出し(撮って吟味もせず右から左にすぐアップ)

できるようなものじゃないだろうと。



こんな他人目線の経験があるから、

私は今までネット上に顔を晒すなんて友達でもできなかった。

ダウンロードして悪用されたら怖いし。

と思っていた。

けれど、

最近、周りが顔さらし祭り状態で、

感覚がマヒしてきている。


私を不安にさせるのは、

Facebook上でお友達になっている人たちが、

このアイコン顔写ってないけど、

どんな人だっけ?

ってなってないかなってとこ。


それこそ自意識過剰だし、

思い出したいほどになったら、

会おうよって誘われるんだろうけど。

文面やこんなの経験しましただけで、

いい人そうだ、

趣味合う、

今度ひさしぶりに会おうよ

ってなる自信がこれっぽっちもないこと。


じゃぁ顔を晒せば会おうよとなるかといえば微妙だが、

笑顔が素敵と同性異性上司後輩とわず言われた経験があり、

写真に写った自分は実際の自分以上にひどくて気持ち悪くてイヤだった私が、

最近撮った写真で見ていると自分も明るく楽しい気持ちになる笑顔の写真があって、

それで迷ってしまう。



Facebok上では、

月に1回以上は、

誰かが誰かとごはんを食べにいったり、

なにかに参加したり、

なんとなく会っているのが伝わってくる。



でも私は誰ともなんの接点もない。

Facebook上で友達というくくられたカテゴリーに存在するだけだ。

実際友達でもないのに友達になった人もいるから仕方ないというのもあるけど、

世の中には、

Facebookを通して友達の仲を深めたという人もいるわけで。



大学時に友達ができればよかったのだが、

前記したように、

ただ一緒にいるだけの友達より1人でやりたいことがあったし、

郊外にあったから、

都心の話をするとそこの地元や地方から来た人にはやっかまれて気遣うのに疲れた。

サークルに入ればまた違ったと思うけれど、

家から大学まで遠かったので夜遅くに帰るのがいやで、

入らなかった。

大学では勉強に打ち込んでいればよくて、

高校までの友達つくってないといたたまれない感

(帰りもお昼休みもボッチで目立つ)

というのがなくてよかった。

高校まではなんとか話の合う友達となんとなく一緒にいることで

すごしてきたが、

今も交友がつづいているわけではないので、

それまでの仲だったということだ。



そういう問題なしでも、

友達ってなんなんだろう?と思う程に、

友達―人間関係なんて長続きがしない。


大学の友達の飲みにいったとかいうのをきくと、

いいなぁと思う。


社会人になってからの友達は、

打算計算がある関係で、

大学までにできた気の許せる感極まりない友達はできないという記事を読んだことがある。


確かにそうかもしれないが、

逆に社会に出てから、

優しくて親切な損得で考えない人と出合ってきたから、

私にとってはそれは悲しく思う。


私のお気に入りの人は、

その人にとっては私はお気に入りではないということで。



私は1対1でどこでもつき合おうとしてきた。

だからいつもの人が、

今日は~ちゃんたちと一緒になどと言い出したら、

ええ、と内心どぎまぎした。

いつもより口数も少なくなって、

質問されてもあいまいな答えしかできなくなった。


私は群れるのが苦手だ。

その理由を考えてみた。


無意識に、

相手の個人の反応を見ながら話しているからかもしれない。

複数人いると、

聞いている人同士の間で生まれる

新たな違う反応が生まれたり、

共鳴し合ってより大きな反応が返ってきてしまう。

もう1人の人の意見によって、

反応を変える人もいる。

そういう純粋じゃない、

大衆の力関係によって生まれたものは、

私にとって今まで醜いものしか経験がない。

大変乱暴に話がおもちゃのようにすすめられて、

人の悩みも娯楽にされてしまうのだ。


人によっては大勢の人に励まされてーなんて経験もあるかもしれない。


群れるのが苦手だという人はどうだろうか?

共感するところがあるだろうか。



それより写真どうしよう。

アップしたいけど、

アップできない。

自分大好き人間みたいで。

でも考えるの疲れてきた。




幸せ女子の共通点

2013-03-28 21:55:16 | 無題
幸せそうな女子の共通点


雰囲気かわいい

雰囲気イケメンならぬ、雰囲気かわい子ちゃん

ギャルでもなく、

清楚でもなく、

いわば雑誌の読者モデルにサンプリングとして登場しそうな。

そして、変じゃない?というパーツにある。

あごが出ていたり、

口の上に変なシワが寄ったり、

ちょっと出っ歯ですねって感じだったり。

そんなところも恋した人からすれば、

かわいいチャームポイントになるのだろう、か。



自信がある

基本的には自分の一挙手一投足に自信がある

けれど、ために大丈夫私?ということを、

他人に向けて発信したり、

ぷよ肉が気になっちゃうとか、肌荒れがどうとかいったりするところで、

自分なんてお近づきになれないかもという人も、

親近感が沸いて、

好感度アップ。

友達や、

いい寄る男性が増える図式。



受け入れ上手で拒み上手

ここは図式化できるほどはっきりといえないけれど、

寄ってくる虫もとりあえず受け入れるというところ。

変な虫がつきまとったり、

自分にとってイヤなことを言われたりしても、

そつなく対処するところ。

相手からしたらズルいやり方に写るけれど、

沈黙貫いたり、

気づかなかったという理由で無視をしたり。

そうしているうちに、

相手の方が自爆(騒ぎだして他の人から白い目で見られる)したり、

反応がないやとあきらめたり。

(いじめをする人は反応を期待しているっていうのに似てる)

でも大体うまいこと短く相手して切り返しているように思う。

それ内緒にしてたんだけど実は~などと言って、

本当のところを端的に返したり。



こういうセレブリティに盛り上がっている人のところには、

よく見ると、

ネガティブに絡んできている人がいる。

でも、わぁすごいね~っていって盛り上がっているところでは、

週刊誌的に真相を知りたい気持ちが薄く沸かされても、

ネガティブに絡む人の方がアウェイ感がハンパない。


逆に盛り上がっていないところでは、

ネガティブに絡んできた人によって、

よい方向へいきつつあった場も、

あ~やっぱりねぇみたいな残念な空気と共に、

シラケて、

その場のその人の人気はなくなってしまう。


こういうのを怖れるから、

高校デビューとか、

大学デビューとか、

社会人デビューとかがある。


自分にネガティブに絡んでくる人がいない新しい場で、

新しい―というよりなりたかった自分として生活していく。


ネット上でもそういうのがあると思う。

ブログデビュー、

Twitterデビュー、

Facebookデビュー、

各写真系SNSデビュー。



やっぱり、かわいさ重視だねというのが結論。

かわいいと盲目的になってなんでも許せちゃう感じ。



そして惹き付けるのが、振り回されないってところ。

傷ついたり、ネガティブになるとこもさりげなく表に出す。

女友達に話を聞いてもらう―ことまでFacebookでいっちゃうのは、なんでしょう?

愛された経験があるから、

他人から見て痛々しい程ではなく友達に慰めてもらうことで、

きっと復活するであろう安心感から、

傷ついている姿も、かわいく、かわいそうに愛でるように見れる感じ。

これがネガティブ女子だと、

どこまでも引きずったり、

元気そうにしていても、どこか痛々しい感じが漂う。

あれはなんだろう?

どういう違いなんだろう?


とりあえず、惚れさせ面では、

復活に男性を宛てにしていないところかな。

頼りにしている風に話し掛けるけど、

それ1本にしていないから、

かまってくれないときに、

爆発しちゃわない―のかな。



ベストパートナーについての著者

ション・グレイいわく

男性は喜ばれ、感謝されたい生き物だ。

男性は愛する人が幸せそうにしていると、

それはあたかも自分のおかげでようであり、

幸せを感じる。

愛する女性が不幸せそうにしていると、

それはあたかも自分が幸せにしてあげられないようであり、

自信をなくして、

愛する人の前から去ってしまう。

自分が辛いから。

逆に幸せそうな彼女を見ていると自信がつくから、

一緒にいたいというわけ。


そんな論理的に

自信がつくから一緒にいようと考えているわけではなくて、

無意識のところで、

この人と一緒にいるとなんだか楽しい=自信のある状態でいられる

というのがあるのだと思う。



さて、顔はこれ以上どうにもできないとして、

見た目だけでいいよって来た人もいるからして、

その次の段階について、

考えようと思う。


見た目だけで言寄ってくる人もいなかったという人は、

メイク、髪型(ヘアケア)、服装で

雰囲気かわい子ちゃんにはなれるから、

雑誌なんかで研究してみるといいと思う。


私も昔は見た目もざんない感じだった。

でも、研究してとりあえずはマシになった。

あとはコミュニケーション能力だな。




って、コミュニケーション能力って最近流行ってるよね。

求める能力として上げられる風潮って、なんかやだ。

コミュニケーション能力求めている時点で、

求めている方がコミュニケーション能力ないといっているようなものだ。


イケテル女子のお手本を探そうと思ったんだけどよくわからなくなってきた

2013-03-28 11:47:30 | 無題
ちょうど1年くらい前までは、

ネットで顔を晒すなんて、

どうかしている

と思っていた。


Facebookとかでも、

女の子が平気で顔をアップしていたりすると、

頭大丈夫か?

とか思ってたりした。


そのいっぽう、

そんなことしているのに、

高学歴な大学を出て、

彼氏もいて、

よい友達もいっぱいいるように見受ける人もいたりして、

もうよくわからなくなってくる。


普通は顔とかさらしちゃう女の人は、

ギャルで頭の軽いような人や、

精神不安定のかまってちゃんや、

尻軽女だったりするわけだが。


Facebookでは、どうやら違うのか。


超頭が良くて、

キャビンアテンダントから

大学で知り合って長期つき合った同士で結婚し、

高級ブランドの企業へ転職というような

かわいい女子が

Facebookで顔を晒して楽しそうに友達とやりとりしている。


他にも、

某大手企業へ就職した美人女子が、

顔を晒して友達何千人といる状況だ。

彼氏もいるらしい。

今もいるのかわからないが、

いると聞いたときには、

彼氏と食事行くとか、

彼氏の家族と食事とか話していたようだった気がするから、

悪くはないだろう。


一方、その女子と同期で入社したその人よりかわいくはないが、

人一倍がんばりやで、

営業1位を納めた女の子は、

なぜか希望していた東京から関西に転属され、

東京の彼氏ともお別れ。

Facebookに海外へ行った写真とかアップしていたけれど、

あまり知られてはいないが、

知ろうと思えば知れるTwitterアカウントでは、

自己嫌悪やネガティブ発言が目立っていた。




さらに引用するなら、

これまた高学歴で学の本まで出しちゃってて、

それとはまた違った分野の仕事で

大手会社に勤めている

個人ではラッパーとかやっちゃう人は

もちろん顔出しの男性だけど、

彼女も顔出しで、

つき合っていることも周りは知っているという状況。

Twitterでは相互フォローしている。

彼女の方は

新幹線で予約を取らなくて失敗した話を、

左の人はデブで、右の人は太っちょで

全然くつろげなかったし予約するべき

オセロだったら自分もデブになっていたところ

といいのけてしまう。

さらに、

”先方の上長陣に「とてもクリエイティブだね!」

「さすがクリエイター」って言ってもらえたので

「あざまーす!!!」って言っておいたけど、

クリエイティブってどういう意味なんだろね。”

といってしまうところが、

すごいなと。


ちょっと調べればその先方の人だって

Twitterのアカウントを調べられるのに。

(しかもかわいこちゃんなので、きっと調べてみようと思うのです。)


さらに、

早起きしたら、おばあちゃんに席譲ってもらったよ!

早起きは三文の得って本当!本当に三文程度!!

につづけて、

私は妊婦じゃない!!って憤慨してるけど、

え?そこ?おばあちゃんに席を譲ってもらったのに?

三文程度?の感情な上に、

憤慨するって?;


彼氏とうまくいっている人は、

コワいものなしになるのかな?


でもその妊婦じゃないのくだりに、

おめでとうっていわれて、ありがとう。って

私だったら、

心中複雑だな。


こんなそんなで、

もうリア充的ステキ女子って、

どういう人を理想とすればいいか、

本当にわからなくなってきている。


この流れを見ると、

彼氏とかに、

え・・・?それどういうこと?っていうような、

複雑な気分になったり、不安な気分になるようなことがあっても、

いちいち突っかからないで、

ほおっておくのがいいのかなっていうのが答え。



進路が真実味をもってせまるとき

2013-03-21 09:18:12 | 無題
私は高校は進学校と呼べる程のところじゃなかった。


塾とか行っていなかったし、

小学校のころから塾に通って進学高校へ行った人たちは、

将来すごい大学へ行って、

きっと上場企業へいくんだろうなぁと思っていた。


それは羨望と、悔しさの混じったものだった。

それを糧にしてかなんか、

進学校ではない高校にいながらも、

私はまじめに学校生活を送った。

試験前はそれなりに勉強もした。

受験のときのため―という考えは、そのときはあまりなかった。

でも、いざ進路をどうしようという時期になったとき、

自分のやってきたことによって、今いる立ち居値なら、

ある程度は選べることに気づいた。

やりたいことや、興味のあることに考えを巡らせ、

資料を見たりした。

そこで、はっと気づいた。

より上(とよばれる方)に行けば、

その後の進路の選択又が、より自由になるんだと。


私の周りにいた大人たちは、

大人になった今なら当たり前に思えることも、

教えてくれなかった。


勉強をした方がいいとか、

あなたの学力ならこことか、

漠然だったり、機械的だったりした。

そんな論理立てて、社会の、実社会の現状というものを、

教えてくれた人はいなかった。


ただ、母が大学へ行った方がいいということだけは、

ぎゃーぎゃーと騒いでいたから、

一時期、進学しない(―ちょっと前の時代なら、それもありの時代だった。

でも私の時代にはもう進学するのが当たり前というか、そうした方が得策の時代になっていた。)

ことを視野に入れて、

「進学しないかな」と軽くまだ言ってみた段階の私は、

「そんなの絶対にダメ!」と騒いだ母に驚いて、

進学するのは絶対を視野に入れた。


母はそのときには、もうお金を出すのをすごく渋る人だったし、

たしか幼稚園ぐらいのときに、大学ってなに?という話をした際に、

行っても行かなくてもどっちでもいいみたいな話だった気がしたから、

そんなにいうなんて、意外に感じた。


専門学校は就職に有利とか、手に職がつくという言葉から、

専門学校も視野に入れてよいことになったが、

母は、できたら大学へ行ってほしいと行っていた。


しかしこれは、あとから実体験として社会に出て感じるのは、

専門学校=就職に有利というわけではないということだ。

デザイナーだって、慶應出身の有名な人がいるだろう。

しかも企画から関わりたいとなったら、

それこそ、大学を出ている人の方がそのポジションに流れで就きやすいのだ。

そして慶應ぐらい出る人なら、

企画の人としての総合的な幅広い見解から、

実際に手を動かす人が必要な技術も独学でなんとか身につけてしまうてらいがある。

そんなわけで、慶応の人という学科が全く違うところから、

デザイナー&企画もやりますみたいな超有名人ができてしまうのだ。


なによりも、専門学校の授業の質は、

カリキュラムと、その教える先生の意欲もさることながら、

学ぶ本人が、なぜこの課題が出されているのかという、

課題の意図を汲み取り、それを解釈した上で、

どのように仕上げればいいのか、

そして、この課題で自分は何を身につけて行くことを目標とするのか。


くだらないような容易い課題から、

先生の気まぐれのような難解な課題まで、

目的意識を持って取り組むことが大事なのだ。


しかし高校を出たばかりの18歳ぐらいは、

―といってもこれは年齢のせいではなく、

まわりの環境がお金をかせぐという現実社会が見直に鳴く、

大人が教えないためだが。―

その課題がなにを意味しているのか、わからない。

自分の行きたい業界のことも調べてみるが、ふんわりとしか伝わって来ない。

まるでおとぎ話が見え隠れするみたいに。

だから課題と、社会に出てからこれがなにに役に立つのか、

またこんなくだらない課題を、社会に出てからどう活かせばいいのか、

考える余地もないのだ。


課題と社会は結びつかない。

高校の数学が実社会で結びつかないであろうとおぼろげに感じる感覚のように。


しかし、社会や、その業界を知っている人ならわかる。

くだらない基礎学習や、基礎訓練。

自分はもう知っている、ソフトの使い方の授業時間で、

自分はなにを目標にして、その時間を有意義化すればいいのか。

捉え方や、ちょっとした意識の違いで、

くだらない授業も、社会に出たときに役立つ技術に、

おもしろい授業も、ただその場だけ点を取れればいいというものにするのではなく、

実社会に出たときも活用できるものに、

なるのだ。


学生時代、出された課題をとりあえず点が取れるものを目指して取り組んだことはないだろうか?

また、締め切りがありながら、ダラダラとしてしまったことはないだろうか?

はたまた、合格点が取れればいいやと、

他人には見せられないけどというものを提出したことはないだろうか?

学生はこれが多い。


課題1つ、1つをまるで売っているもののようなクオリティを目指して作れば、

基礎課題だったとしても、

なにかのときにポートフォリオに載せられる。


もちろんその後の課題も、そのような勢いで取り組むのだから、

あとの方の制作物の方がクオリティも上がり、

最初の頃つくったものなんて、載せたくないやと、

自分の評価の目が言うのだが。

たまたまプロダクトデザイン的なことを、

基礎のときにやったけど、自分はグラフィック専攻だから、

その後はプロダクトデザイン的なことは課題でやっていないとする。

けれど、卒業間近になって、プロダクトへ就職したいとなったとき、

その課題でやったプロダクトデザイン的制作物を、

ポートフォリオに載せられるのである。


そんの初期の稚拙なものなど、載せるべきでないという意見もあるだろうが、

稚拙かどうかはやってみないとわからないわけだし、

就職に向けて、課題もこなしつつ就活の準備をする忙しさの中では、

1つでも助けになる作品が、自分の手元に既にある状態が、

非常に助かるのだ。


卒業間近の専門学生の中には、

課題も載せられないし、でもやる気もそんな出ないし、

急にやる気出てきたけど、もう時間的に絶対無理><;

みたいになっている人がいると思う。


そして先生に、どうするの?とか、

ほらやらないと、とか言われて、

しまいには若干見捨てられたように、

相手にされなくなっていく

(ちゃんと見てくれなくなる

もうダメだなこいつみたいな)

と、ああ、自分ダメなのかなぁみたいな、

そんな雰囲気に飲み込まれて、

どんどん腐っていってしまう。



そうでなく、勝ち組のように、

さっそうとポートフォリオを立派なものに仕上げ、

自己分析もして、自分の行きたい業界を絞り込める、

あのキラキラした人はなんなのかというと、

瞬時に作品を作れる天才的芸当を持っている人か、

入学当初、もしくは出遅れたとしても、間に合う段階で、

課題や、一回一回の制作するものへ対する意識が、

先に述べたように、目的あるものになっていた人だ。



だけど、

その勉強が、目指す業界で、どんな風に、どんな位置で役立つかなんて、

大変意外だか、だれも教えてくれない。

教えてくれたとしても、

「まぁ、会社によるけどね。」とか、

「今はどうかわからないけど。」といった、

大変曖昧模糊な、やはりおとぎの国の話のようにされてしまうのである。

だからなんとなく、ふわ~っと課題をこなして、

面接官に見せられる程ではないけど、

課題としては合格のできという、

ほわ~っとしたものができてしまうわけだ。