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共感を得たい

2011-11-01 03:17:07 | 無題
昨年、私はいろんなものを失ったことから、心理的に不安定になった。
どうにかしたいと思い、
心理学の本や自己啓発本を読んだところ、自分に変化が起こった。
そして世界が少し変わった。

それまでは、関わる人は、私を自分の欲求や、はけ口として近づく人が多かったが、
それからは、関わる人は、優しく気遣いある人が多くなった。

会話をしているとき、私が動揺したことを汲み取り、次の対応を私にとって楽に感じるものに変える人。
優しい口調で話す人。
よく誘ってくれる人。
一緒にいるだけで癒される人。
みんな優しくていい人たちばかりだ。

一方で、昨年人員整理にあって以降、就職が決まらない。
お金はなくなり、今度はまた違った形で心理的に不安定になった。

お金を払うほどは必要とされない人という概念に囚われ、
何かをして、ありがとうとか、嬉しいとか言われても、実感できなくなっていった。

そして面接に落ちることを重ねると、
次のチャレンジのための準備が無駄に思え、
無気力な状態が増えていった。

昨年は他にもショックなことがあった。
喪失体験と呼ばれるものだ。
そのときに味わった、胸焼けに吐き気、頭痛、具体的に自殺を考えるという日々が、
2ヶ月毎日つづいた。
そして少し落ち着いてきたとき、本を読んで癒され、乗り越えたと思っていたのに、
今度は、必要とされていないと感じるたびに、具体的に自殺を考えるようになってしまった。

そして、
これからの自分の展望に向けてポジティブに前向きに考えられる時と、
自殺を具体的に考えるほどの生きることへの欲のない時、
それがジェットコースターのように急激に切り替わるから、もう自分でも訳がわからなくなった。

一昨年以前は、親からの暴行、首を絞められたという経験から、悪夢や恐怖、憎悪といったものに私の人格は支配されていた。(今でも目上の人の言うことは聞けず、ちょっとしたことで憎悪や、得体のしれぬ恐怖に支配され、朝は悪夢にうなされて起きることがある。目上の人といくのがキーワードのようだ。親=目上の人という感覚なのか。)
それでも、自殺を具体的に考えたことはなかったから、これは危ないと思った。
一瞬考えたとしても、痛そう、苦しそう、だからイヤだ。とか、自殺はいけないことだ。とか、あんな奴のせいで自殺してたまるか、思うつぼじゃないかという考えが巡って、結論は“絶対しない”だった。

けれども、昨年からはそうではなくなってしまった。
言葉にするなら「落ちたとき」とするのが適当な、そんな状態になると、そういった考えがまったく巡らず、死ねば楽になれるという思いだけに支配されるのだった。


私は遂に―やっと、心理カウンセラーを受けた。
その先生は私を非常に心配してくれた。

話を聞いてくれ、それは辛いですねと言われたとき、少し気持ちが楽になった。
自殺なんてことを口にしたから、心配して電話まで掛けてきてくれた。
驚いたと同時に、嬉しかった。
それまで私は、同情されたり、心配されたり、共感された経験がほとんどなかったので、
(友達には辛い話や、愚痴は話せず、親は私に嬉しいことも辛いことも、共感や同情するということは、ほとんどなかったため。)
それだけで癒された。
そして、それだけで癒されたことに驚いた。
共感されることが、こんなにも気持ちを楽にしてもらえるものなのだと。

そして今日、そのカウンセラーの先生のすすめで、心療内科に行ってきた。
でも医師の先生からは、ほとんど共感を得た感じはなく、
なるべく薬は使わないで、カウンセリング中心がよいという希望を伝えると、
「なにしに来たの?」と冷たくイライラと言われた。
とても不安で恐い気持ちが、さらに不安で恐い気持ちになった。
私はその場からすぐに逃げ出したくなり、適当な理由―家から遠い旨をつげ、家から近い病院を紹介してもらえないか聞き、そこをあとにした。

私は帰りながら考えた。
カウンセリングと医師は別なのか。
医師は薬を処方する人で、心理や人の気持ちの流れを知る人ではないのか。
私はなにを得たいのか?
共感を得るとあんなに落ち着くのだから、それを得たい。

診察前はなかった、動悸、息切れ、頭痛、胸焼けの中、そんなことを考えながら、電車に揺られ帰って来た。