http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Keyaki/5429/yasudashinpuave.htm
だから、それで、イエズスさまは、その悪いファリザイ派の人びとや、それから、律法学者というものをネ、それを批判しておるのであります。「人びとの前で、天の国を閉ざすからだ」と書いてある。「自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも、入らせない」ということも書いてあります。だから、今日の日本の教会の様子を、具体的に考えて見ると分かるようだ。まあ、わたしの目からすれば、今日、口語体の祈りというものは、本当に神さまの意図を、十分に表さないで、人間の考えを指し入れて、そして、もう、この口語体の祈りを作って、これをみんなに強制しておるのである。この祈りを唱えなければ、破門される、ということであるらしい。
だから、信者たちは、みんな恐れて、なにも考えないで、そのように祈っておるのである。
そのような、変えられた祈りを唱えても──。神さまというものは、あくまでも真理であります。正しいものである。正しい祈りをもって、わたしたちは神さまに願うことは正しいけれども──。間違った祈りをもって、人間がネ、この混ざりものを加えて、人間の混ぜものを加えて、そうして、この何ですか、純粋さを失った祈りを唱えても、神さまは、それを喜ぶことはできません。
(神さまは)真理でありますから。
だから、今日のイエズスさまの説教を、当てはめて考えると、「あなたたち偽善者は」と書いてある。そのとおりです。偽善者というものは、いかにも神さまの前に善なるものとして(ふるまう)、このような指導者であるのです。
(彼らは)この口語体の祈りをネ、変えたのは、最も素晴らしい祈りだ、と。神さまのかわりに、じぶんたちは、神さまの代理者である、と。それは、神さまに忠実じゃなくてネ──。
それは、今までの祈りはネ、古い祈りであるから、今はネ、新しい時代である、とネ──。
そして、今はネ、この刷新の時代であるから、祈りも変えなければならない、と言ってネ、自分たちのネ、考えで、おそらく変えたのであります。それは、あきらかに人間的混ざりものであります。そのようにして、わたしたちは、この祈りを唱えても、神さまは喜ぶことはできないのである。決して喜ばない。それは、権利に従順であると言っても、その間違いに従順というものは、神さまは喜ぶことはできないのであります。
それでネ、「天の国を閉ざしてネ、自分が入らないばかりか」と書いてある。
それは、偽善者であるからネ。入ろうとするネ、この羊たちをもネ、このネ、何も知らない信者達が、それに、従って入ろうとネ、入ろうとする人びとを入らせないのである、と書いてある。それは、イエズスさまは、その当時の律法学者とかファリザイ派の人びとの偽善的行いをネ、その現実に行なわれていることをみて(言っているのである)。
それで「愚かで、物の見えない者たち」と書いてある。それは、本当の信仰のないもの、そして、偽りの人間的な信仰のあるものはネ、人間的に見てネ、見えておるけれども、神さまのは見えないものである。だから、教皇といっても、人間的に物を見てネ、そしてネ、信者たちを、羊たちを導くのであれば、これは、目の見えないネ、その案内人であるということを、イエズスさまは言っております。
すべての祈り、というものは、正しく神さまの前に、(約束を)果たさなければならないものである。それで、今、「天使祝詞」を口語体文に変えてネ、人間の考えによって変えた祈りというものは、神さまの前には、約束ではないのである。
これは、ちょっと考えると、神さまを侮辱するものでしょう。本当に、わたしたちは知らないで、神さまを侮辱しておるのであります。その悪い偽善者(たち)によってネ、それで神さまは、そのことをネ、わたしたちは、大目に見て、許して下さるんでしょうかネ。それで、わたしたちはよく考えて、心から神さまにお詫びして、祈らなければならないということをネ。罪の痛悔が必要である。
だから、それで、イエズスさまは、その悪いファリザイ派の人びとや、それから、律法学者というものをネ、それを批判しておるのであります。「人びとの前で、天の国を閉ざすからだ」と書いてある。「自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも、入らせない」ということも書いてあります。だから、今日の日本の教会の様子を、具体的に考えて見ると分かるようだ。まあ、わたしの目からすれば、今日、口語体の祈りというものは、本当に神さまの意図を、十分に表さないで、人間の考えを指し入れて、そして、もう、この口語体の祈りを作って、これをみんなに強制しておるのである。この祈りを唱えなければ、破門される、ということであるらしい。
だから、信者たちは、みんな恐れて、なにも考えないで、そのように祈っておるのである。
そのような、変えられた祈りを唱えても──。神さまというものは、あくまでも真理であります。正しいものである。正しい祈りをもって、わたしたちは神さまに願うことは正しいけれども──。間違った祈りをもって、人間がネ、この混ざりものを加えて、人間の混ぜものを加えて、そうして、この何ですか、純粋さを失った祈りを唱えても、神さまは、それを喜ぶことはできません。
(神さまは)真理でありますから。
だから、今日のイエズスさまの説教を、当てはめて考えると、「あなたたち偽善者は」と書いてある。そのとおりです。偽善者というものは、いかにも神さまの前に善なるものとして(ふるまう)、このような指導者であるのです。
(彼らは)この口語体の祈りをネ、変えたのは、最も素晴らしい祈りだ、と。神さまのかわりに、じぶんたちは、神さまの代理者である、と。それは、神さまに忠実じゃなくてネ──。
それは、今までの祈りはネ、古い祈りであるから、今はネ、新しい時代である、とネ──。
そして、今はネ、この刷新の時代であるから、祈りも変えなければならない、と言ってネ、自分たちのネ、考えで、おそらく変えたのであります。それは、あきらかに人間的混ざりものであります。そのようにして、わたしたちは、この祈りを唱えても、神さまは喜ぶことはできないのである。決して喜ばない。それは、権利に従順であると言っても、その間違いに従順というものは、神さまは喜ぶことはできないのであります。
それでネ、「天の国を閉ざしてネ、自分が入らないばかりか」と書いてある。
それは、偽善者であるからネ。入ろうとするネ、この羊たちをもネ、このネ、何も知らない信者達が、それに、従って入ろうとネ、入ろうとする人びとを入らせないのである、と書いてある。それは、イエズスさまは、その当時の律法学者とかファリザイ派の人びとの偽善的行いをネ、その現実に行なわれていることをみて(言っているのである)。
それで「愚かで、物の見えない者たち」と書いてある。それは、本当の信仰のないもの、そして、偽りの人間的な信仰のあるものはネ、人間的に見てネ、見えておるけれども、神さまのは見えないものである。だから、教皇といっても、人間的に物を見てネ、そしてネ、信者たちを、羊たちを導くのであれば、これは、目の見えないネ、その案内人であるということを、イエズスさまは言っております。
すべての祈り、というものは、正しく神さまの前に、(約束を)果たさなければならないものである。それで、今、「天使祝詞」を口語体文に変えてネ、人間の考えによって変えた祈りというものは、神さまの前には、約束ではないのである。
これは、ちょっと考えると、神さまを侮辱するものでしょう。本当に、わたしたちは知らないで、神さまを侮辱しておるのであります。その悪い偽善者(たち)によってネ、それで神さまは、そのことをネ、わたしたちは、大目に見て、許して下さるんでしょうかネ。それで、わたしたちはよく考えて、心から神さまにお詫びして、祈らなければならないということをネ。罪の痛悔が必要である。