理神論およびカント的認識論を背景として聖書が啓示であることを否定する学者たちは、聖書を単なる歴史資料として扱った。理神論的・自然主義的観点からすると、福音書は歴史上に起こったとは到底思えないさまざまの奇跡の記事があるから、これらは「信仰のイエス」であり、これらを排除すれば「史的イエス」が浮かび上がると考えた。
福音書から「史的イエス」そのものの実際の姿を再現することは歴史学的には不可能であり、我々が新約聖書に読むことができるのは、イエスをキリストとして伝えるメッセージ(ケーリュグマ)だと結論した。つまり、ブルトマンの言葉で言えば「告知されるキリストは、もはや史的イエスではなく、信仰と祭儀のキリスト」なのである。
聖書が神のことばであることを信じないで、「史的イエス」の探求をしてきた学者たちは、それぞれのフレームをもって福音書を読み、それぞれのフレームにはまる限りのイエス像をもって「史的イエス」であると主張しているだけ
イエスにおける啓示も同様であって、神はひとり子を歴史の中に人性をまとわせて派遣され、御子はその生涯の言葉(ことば啓示)と行動をもって啓示をお与えになった(事実啓示)。そして、神は聖書記者たちの置かれた状況・能力すべてのことを摂理のうちに支配して十全な霊感を与えて、書簡や福音書を記述させて新約聖書を完成された(ことば啓示)。したがって、我々はことば啓示である聖書を、非聖書的な理神論のフレームでなく、聖書的な世界観のフレームで適切に釈義することによって、歴史の事実としてのイエスを正しく理解することが可能になる。
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