国教となったキリスト教は、当然のことながら、新たな宗教的な地位にふさわしい、新しいタイプの宗教建築を必要とした。これは新たに獲得した宗教的な権威を建物の形として示すためだけではなかった。キリスト教が公認された当初は、しばしば神殿の建物をそのまま教会として(献堂し直して)使っていたものの、キリスト教が国教となり、それまでのギリシャやローマの神々に対する信仰が禁止されれば、神殿の建物は数として余っていたからである。神殿という建物は、その内部へ入るのは神官だけで、一般の人々は外から拝むだけだったから、キリスト教のようにミサの集会に信者の全員が内部に入る必要がある宗教施設としては、神殿のほとんどが小さすぎたのだ。そして、このことがキリスト教が新しいタイプの建築を必要とした大きな理由であった。
初期のキリスト教においては、ローマ帝国においてそれまで造られてきた、さまざまなタイプの建築物が新たな教会建築のモデルとなった。円形や正多角形をした皇帝の陵墓は、殉教者を祭った礼拝堂のモデルとなり、浴場建築は洗礼堂のモデルとなった。そして裁判所、市場、集会場、皇帝の謁見の場などに使われた集会施設のバシリカと呼ばれる公共建築が、キリスト教のバシリカ(つまり教会)のモデルになったのである。
***
フランク王国の宮宰の職にあったカール・マルテル指揮下のフランク族の軍隊は732年、トゥールとポワティエの近くでアラブの大軍に決定的な勝利を収め、ここにキリスト教世界としての西ヨーロッパの文明が首の皮一枚でつながった(この勝利がなければ、ヨーロッパはイスラム世界の一部になっていたかもしれない)のだった。
(カロリング朝ルネッサンス)カール・マルテルの子ピピンは、ローマ教皇の支持のもとに王となり、カロリング朝を創始した。そして、その子のシャルルマーニュ(カール大帝)は、ナポリまでのイタリアおよび西ドイツをフランク王国に加えた大帝国を建設し、西暦800年のクリスマスの日に行われた戴冠式において、教皇レオ3世からローマ皇帝の称号を授けられ、これを契機としてローマ教会もまた、この新たなローマ皇帝の庇護の下に、再び勢力を確立していくことになる。
***
ヨーロッパの人々が恐れていた紀元1000年は、一転して、至福の1000年へと劇的な変化を迎えた。そして、至福の1000年を契機として、西ローマ帝国の崩壊以降、500年に亘って失われていた人々の意欲と自信が力強く蘇ってきたのである。
***
この時代、社会の中心はカトリック教会だった。信者を増やし、土地や財産を蓄え、急速に拡大していたカトリック教会は、ローマの指令の下、西ヨーロッパの全域に対して支配力を及ぼす国際的な組織だった。知力に優れた男子が、聖職に叙任されカトリック教会の一員になることは、無名の存在から一躍、有力者に成り上がることを意味した。木造のあばら家に住んでいた当時の人々にとって、巨大な石造建築であるロマネスクの大聖堂や修道院教会の建設を目にすることは、カトリック教会の圧倒的な支配力と財力を実感することに他ならなかった。
***
(巡礼教会堂)中世の人々は、今では想像もできないほど、迷信にとらわれていた。とくに、聖人の遺体や身に付けていたものなど(=聖遺物)には、特別の霊力が宿っていると信じていた。聖遺物を所有する教会には多くの巡礼者が訪れただけでなく、これらの巡礼者は多額の寄付をもたらしたから、司教座教会(大聖堂)だけでなく多くの教会が、聖遺物を所有していた。聖遺物は、遠い外国から手に入れたものもあれば、地元の殉教者のものであることもあり、高い価格で取引されたりもした。
教会建築のプランは、できるだけ多くの巡礼者に聖遺物を拝ませるべく、進化していった。聖遺物は、教会の宝であったから、通常はクリプト(crypt)と呼ばれる地下の礼拝堂に安置されたが、地下への階段を2ヶ所に設け、その間を一方通行にして、多くの巡礼者を捌く工夫をしたりしている。
http://inoueyutaka.web.fc2.com/archi_history-2.html
モダンデザインの建築には、大きく分けて2種類ある。第1は、建築構造の合理性と建築の機能を追及し、装飾などの"機能的な無駄"をできるだけ排除した、いわゆる機能主義の建築。第2は、建築全体をあたかも一つの巨大な抽象彫刻作品に見立てたような建築である。
モダニズムの建築は歴史上かつて例をみないほどの新しい建築形態を創造してきた。しかし、同時に、歴史上かつて例を見ないほどの醜い建築と街並みを創造してしまったのも事実である。これは、モダニズム建築のほとんどが、建築の"美"や"歴史と風土"に対して無頓着であったこと、そして合理性や便利さといったこと以外の、人々が建築に抱いてきた"気持ち"に無関心すぎたことにある。
http://inoueyutaka.web.fc2.com/archi_history-4.html
(ローマ)ローマはカトリック教会の大本山の門前町として、巡礼者がもたらす多額の寄付金(悪名高い免罪符は1300年祭で販売された。免罪符はその後も25年ごとに販売された)の恩恵を受けていたものの、教皇のアヴィニョン捕囚(1308-77)やその後の教会大分裂(1378-1417)により、長いこと繁栄の機会を奪われていた。因みに、ルネッサンスが始まった15世紀のはじめのローマの人口は、1万3千に過ぎず、10万人の人口を擁して地中海の東方貿易を支配していたジェノアやヴェニスはもとより、商工業の中心地だった人口5万5千のフィレンツェや人口9万のミラノなどと比べれば、廃墟のなかに横たわる小さな町に過ぎなかった。しかも、当時はローマの支配を巡ってナポリ王の略奪を受けたり、共和制を求める市民の反乱があったりして、町はひどく荒廃してもいた。
ローマが繁栄への道を歩みだすのは、教会大分裂が終わり、教皇ニコラウス5世(在位1447-55)によってローマの支配が確立する15世紀半ば以降である。彼は古代ローマの道路監督官を復活させ、道路舗装などのインフラ整備を進めていった。しかし、堂々とした街路や広場の整備などのローマの都市整備が形を見せるのは16世紀、盛期ルネッサンスになってからである。
***
バロック建築は、反宗教改革の本拠地のローマで誕生し、イタリア・スペイン・ポルトガル・オーストリア・南ドイツのバイエルンといったカトリック信仰に忠実な国々に広がり、発展していった。このようにバロックは、反宗教改革を象徴するカトリックの建築様式であったから、北ドイツや北欧などのプロテスタント国には全く見られない。また、合理主義の思想的な影響が強かったフランスでもあまり発達しなかった。しかし、プロテスタント国のイギリスでは、イタリアや南ドイツのバロックとは違っているものの、かなり力強いバロック的な装飾をもつ建築がつくられている。
http://inoueyutaka.web.fc2.com/archi_history-3.html
初期のキリスト教においては、ローマ帝国においてそれまで造られてきた、さまざまなタイプの建築物が新たな教会建築のモデルとなった。円形や正多角形をした皇帝の陵墓は、殉教者を祭った礼拝堂のモデルとなり、浴場建築は洗礼堂のモデルとなった。そして裁判所、市場、集会場、皇帝の謁見の場などに使われた集会施設のバシリカと呼ばれる公共建築が、キリスト教のバシリカ(つまり教会)のモデルになったのである。
***
フランク王国の宮宰の職にあったカール・マルテル指揮下のフランク族の軍隊は732年、トゥールとポワティエの近くでアラブの大軍に決定的な勝利を収め、ここにキリスト教世界としての西ヨーロッパの文明が首の皮一枚でつながった(この勝利がなければ、ヨーロッパはイスラム世界の一部になっていたかもしれない)のだった。
(カロリング朝ルネッサンス)カール・マルテルの子ピピンは、ローマ教皇の支持のもとに王となり、カロリング朝を創始した。そして、その子のシャルルマーニュ(カール大帝)は、ナポリまでのイタリアおよび西ドイツをフランク王国に加えた大帝国を建設し、西暦800年のクリスマスの日に行われた戴冠式において、教皇レオ3世からローマ皇帝の称号を授けられ、これを契機としてローマ教会もまた、この新たなローマ皇帝の庇護の下に、再び勢力を確立していくことになる。
***
ヨーロッパの人々が恐れていた紀元1000年は、一転して、至福の1000年へと劇的な変化を迎えた。そして、至福の1000年を契機として、西ローマ帝国の崩壊以降、500年に亘って失われていた人々の意欲と自信が力強く蘇ってきたのである。
***
この時代、社会の中心はカトリック教会だった。信者を増やし、土地や財産を蓄え、急速に拡大していたカトリック教会は、ローマの指令の下、西ヨーロッパの全域に対して支配力を及ぼす国際的な組織だった。知力に優れた男子が、聖職に叙任されカトリック教会の一員になることは、無名の存在から一躍、有力者に成り上がることを意味した。木造のあばら家に住んでいた当時の人々にとって、巨大な石造建築であるロマネスクの大聖堂や修道院教会の建設を目にすることは、カトリック教会の圧倒的な支配力と財力を実感することに他ならなかった。
***
(巡礼教会堂)中世の人々は、今では想像もできないほど、迷信にとらわれていた。とくに、聖人の遺体や身に付けていたものなど(=聖遺物)には、特別の霊力が宿っていると信じていた。聖遺物を所有する教会には多くの巡礼者が訪れただけでなく、これらの巡礼者は多額の寄付をもたらしたから、司教座教会(大聖堂)だけでなく多くの教会が、聖遺物を所有していた。聖遺物は、遠い外国から手に入れたものもあれば、地元の殉教者のものであることもあり、高い価格で取引されたりもした。
教会建築のプランは、できるだけ多くの巡礼者に聖遺物を拝ませるべく、進化していった。聖遺物は、教会の宝であったから、通常はクリプト(crypt)と呼ばれる地下の礼拝堂に安置されたが、地下への階段を2ヶ所に設け、その間を一方通行にして、多くの巡礼者を捌く工夫をしたりしている。
http://inoueyutaka.web.fc2.com/archi_history-2.html
モダンデザインの建築には、大きく分けて2種類ある。第1は、建築構造の合理性と建築の機能を追及し、装飾などの"機能的な無駄"をできるだけ排除した、いわゆる機能主義の建築。第2は、建築全体をあたかも一つの巨大な抽象彫刻作品に見立てたような建築である。
モダニズムの建築は歴史上かつて例をみないほどの新しい建築形態を創造してきた。しかし、同時に、歴史上かつて例を見ないほどの醜い建築と街並みを創造してしまったのも事実である。これは、モダニズム建築のほとんどが、建築の"美"や"歴史と風土"に対して無頓着であったこと、そして合理性や便利さといったこと以外の、人々が建築に抱いてきた"気持ち"に無関心すぎたことにある。
http://inoueyutaka.web.fc2.com/archi_history-4.html
(ローマ)ローマはカトリック教会の大本山の門前町として、巡礼者がもたらす多額の寄付金(悪名高い免罪符は1300年祭で販売された。免罪符はその後も25年ごとに販売された)の恩恵を受けていたものの、教皇のアヴィニョン捕囚(1308-77)やその後の教会大分裂(1378-1417)により、長いこと繁栄の機会を奪われていた。因みに、ルネッサンスが始まった15世紀のはじめのローマの人口は、1万3千に過ぎず、10万人の人口を擁して地中海の東方貿易を支配していたジェノアやヴェニスはもとより、商工業の中心地だった人口5万5千のフィレンツェや人口9万のミラノなどと比べれば、廃墟のなかに横たわる小さな町に過ぎなかった。しかも、当時はローマの支配を巡ってナポリ王の略奪を受けたり、共和制を求める市民の反乱があったりして、町はひどく荒廃してもいた。
ローマが繁栄への道を歩みだすのは、教会大分裂が終わり、教皇ニコラウス5世(在位1447-55)によってローマの支配が確立する15世紀半ば以降である。彼は古代ローマの道路監督官を復活させ、道路舗装などのインフラ整備を進めていった。しかし、堂々とした街路や広場の整備などのローマの都市整備が形を見せるのは16世紀、盛期ルネッサンスになってからである。
***
バロック建築は、反宗教改革の本拠地のローマで誕生し、イタリア・スペイン・ポルトガル・オーストリア・南ドイツのバイエルンといったカトリック信仰に忠実な国々に広がり、発展していった。このようにバロックは、反宗教改革を象徴するカトリックの建築様式であったから、北ドイツや北欧などのプロテスタント国には全く見られない。また、合理主義の思想的な影響が強かったフランスでもあまり発達しなかった。しかし、プロテスタント国のイギリスでは、イタリアや南ドイツのバロックとは違っているものの、かなり力強いバロック的な装飾をもつ建築がつくられている。
http://inoueyutaka.web.fc2.com/archi_history-3.html