喜多圭介のブログ

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瀬戸内晴美の文学(二)

2007-02-17 09:10:07 | 文藝評論
『比叡』は文庫本で三百十頁で、それほどの長編ではないが、熟読しておきたいので四、五頁読むと眠ることにしている(文庫本は布団の中で読むにかぎる)。

合わせて藤沢周平著『義民は駆ける』文庫本三百七十四頁と松本清張著『点と線』、文庫本二百二十七頁を読んでいたが、この二冊は一晩で読んだ。『点と線』は若い頃から何度も再読してきた。

それにしてもと思う。『義民は駆ける』を一晩で読めても『比叡』は一晩では読めない。また性急な読み方はこの作品にふさわしくない。二作品の文体を比較してみよう。

俊瑛の全身に熱いものが駈けめぐった。欲情ではなく、叫びだしたいような切羽つまった激情であった。昨日から今日へかけての、自分の行動のすべてが、頭の中をフィルムを捲きもどすように猛烈な勢いで走る。なぜあれほど終始冷静でいられたのか信じられない。俊瑛は自分が今、全身に熱いシャワーを叩きつけられているように感じた。熱いしぶきは、俊瑛の躯の内部からもふきあふれ、躯の内側も目の前も、濠々と煙る湯気が渦巻きわきかえっているように見える。その湯気が静まった後に冷え冷えとした真空が、体内にも自分の周囲にも生れるのを、俊瑛は数えきれない経験で覚えていた。かつて、この湧きたつ熱情に打ち勝てたためしはなかった。道を踏み誤った時も、道を掻き開いた時も、過去の俊子を動かしてきたものは、この躯の震える得体の知れない熱情であった。

今、俊瑛をゆさぶっている熱情は、男への一途な憐欄であった。俊瑛はむっくりと寝床に起き上り正坐していた。獲物に飛びかかる瞬前の獣のように全身が緊張しきっていた。奥の部屋から、幸江の軒が、高くなったり低くなったりしながらまだつづいていた。立って襖ぎわにゆき、息を殺しその寝息をたしかめた。俊瑛はす早く寝巻の上に枕元のみだれ箱に畳んであった白衣を重ねた。白い男帯の結び方がまだのみこめず、法衣屋がしてくれたように前で折り畳む方法がわからない。あせった俊瑛は、男帯の要領で、背に小ぢんまりと三角に結びあげた。足袋を穿き、撫でるような速さで小はぜをはめ、道服を着け、輪袈裟を掛けた。頼りないほど軽い梅の数珠を左手に通した。無意識のうちにみだれ箱の中にあったものを片端から身につけた。どれを身につける時も不馴れでぎこちなかったが、俊瑛はそのどれひとつ残さなかった。最後に掛け蒲団の下にあったオレンジと紺のチェックの毛布をひきずりだし、頭からすっぽりとかぶった。腕を伸して灯を消すと、すっと闇の渓底に全身が沈んだような気がした。上った火の色に一瞬吸いこまれそうな目まいを覚えた。


清水は歎願の事情を根掘り葉掘り聞きただし、聞き終るとひどく感心した様子だった。
「しかし上野では、いくら願っても歎願書は受け取らんぞ」
と清水は言った。清水は、それを老中に歎願するしかないのだ、と諭し、それには公事宿というものもあるが、自分の親がそういうことにくわしいから、明日にでも訪ねて来たらどうか、と親切に猷曝げ住まいを教えたのである。

だが清水の親切も、奉行所与力という彼の身分を考えると、そのままには受け取れない節もあって、みんなは後で気味悪い思いをしたのであった。

江戸は翌日雲ひとつなく晴れた。彼らはやはり明け六ツに宿を出ると、上野の功徳院、本間光風、佐藤藤佐を訪ねるため、三組に分れて江戸の町に散った。清水主計の家には、結局誰も行かないことにした。用心するに越したことはないと考えたのである。

しかし佐藤藤佐の屋敷を訪ねた八日町村の四郎吉と升川村の与兵衛は、もっとも頼りにする藤佐に、いきなり眼から火が出るほど叱られたのであった。

座敷に通されると、四郎吉は、出府の目的を話し、また昨日上野山内の清涼院、護国院を訪ねた模様も言い、ゆうべの相談では結局御老中に訴えるしかないかということになったが、その方法もわからない。内々に指図を頂ければと思って相談に上がったと丁寧に言った。

いずれが『比叡』であるかは一読でわかるだろう。

藤沢周平は場面をくっきりと描くことに定評のある作家である。名文家である。もちろん瀬戸内晴美も名文家であるが、文体の相違は一読でわかる。藤沢の文章は「情報」としてすらすらと読めるのだが、瀬戸内の文章は一文、一文をゆっくりと咀嚼しないと、主人公の心理の綾が掴めない。

『比叡』の文章は会話体を含めて一文、一文に含蓄があるので、「情報」として読んでいては、瀬戸内文学を読む読者にふさわしくない。

瀬戸内寂聴が晴美を名乗って創作した最後の作品かとも思うが、経歴をチェックしていないので確かではない。

『比叡』は瀬戸内晴美が瀬戸内寂聴に再生する前後を描いた作品で、瀬戸内文学のなかで大きな節目を迎える作品である。それだけに作者のこの作品にかける精神は渾身のものであったろう。

こういう意味合いの作品だけに、一段落、一段落に籠められた文章は玩味に値する。したがって四、五頁も読むと私の頭脳が疲れ、心地よい眠気を催してくるので、一夜一夜と日を重ねてしまう。

十八歳で徳島の生家を飛び出し、在学中に結婚、その後中国に渡り、帰国後は夫と娘を捨てて家庭を放り投げ、そのときどきの男性遍歴、そして辿り着いたのが『比叡』であるが剃髪する間際まで最後の男がいた。剃髪前にはすでに作家瀬戸内晴美として活躍、テレビ番組にもレギュラー出演していたほどだ。

凄まじい人生行路だったと思うが、こうでなければ男性も女性も本来は大成しない。小心翼々では何も得られない。

瀬戸内晴美の文学(一)

2007-02-17 09:07:02 | 文藝評論
この作品は現在は尼僧であり作家としても反戦運動家としても活躍している瀬戸内寂聴さんが、瀬戸内晴美という一女性作家から尼僧に脱皮した当座を描いた自伝的作品である。もちろんフィクションを交えての内容だろうが。

尼僧になった俊瑛(しゅんえい)が眠られなくなったある夜、寝間にかつて身につけた着物を取り出して着装する場面である。私も着物を着る女性を扱うことがあるので、こういう場面は丁寧に目を通す。瀬戸内寂聴さんはたんに尼僧作家であるばかりか『源氏物語』の現代語訳にも取り組まれるほど古典に精通している。着物には詳しい。■はWINDOWSにない文字。

畳紙の山の中から、その一つを選びだすのはたやすかった。幾度も出し入れされた名残りで、畳紙がけばだったり萎えたりしている中で、その一つだけは、見るからに真新しく、折りたての熨斗(のし)のようにきっぱりした表情とゆたかな嵩(かさ)を保っていた。紙にとりつけられた白い木綿の紐も切りたてのように爽やかなまま、丁寧に結びあわされている。

蒲団を部屋の隅に片寄せ、俊瑛(しゅんえい)は灯の真下にそれを持ち運んできた。ひとつずつ紐を丁寧にほどき、折り合せた紙を壊れやすい硝子を扱うような手付で、四方に開いていくと、虫除けの匂い袋の香が甘く顔を打ってくる。昨日、この着物の山をつき崩した時、久しぶりで思いだしたなつかしい昔の香の匂いだった。出離を境に、匂い袋の香も、■衣(しい)にふさわしい淡泊なものに彼女はとりかえていた。

灯の真下に、濡れた獣の背のように、いきなり着物が盛りあがったように俊瑛の目には映った。

手織紬の布地の重さと光沢のせいばかりではなく、褄下(つま)から二つ折りにされた裾を横ぎって染めている七彩の弧線の重量感が、そう見せたのか。俊瑛は衿元(えりもと)に両掌をかけ、腕を撓(しな)わせて力いっぱい着物を振りさばいた。着物は彼女の膝前(ひざまえ)から畳にかけ、翅をひろげた孔雀(くじゃく)のように開ききった。七彩の虹は、薄縹(うすはなだ)色の地色を、冬の朝の空にでも見立てているのか、融けいるようなはかなさでいながら、それぞれの色は現実の虹よりもっと匂やかな色彩を互いに照り輝かして見える。ひとつの色から他の色に移るきわの微妙な色と色との■合(こうごう)のとけまじり方は、官能的でさえあった。

さすが瀬戸内文学と感心させられるほど精緻な描写だ。着物の着付けに長年親しんだ女性でないと書けない文章である。〈濡れた獣の背のように、いきなり着物が盛りあがったように〉、〈俊瑛は衿元に両掌をかけ、腕を撓わせて力いっぱい着物を振りさばいた。〉の表現は見事なものだ。

『比叡』の解説者は芥川賞作家の河野多恵子。実にいいことを書いているので、少し引用してみる。

芸術作品というものは、理窟で理解するべきものではない。理窟で理解しようとすれば、芸術作品に対していても、それに少しも触れたことにはならない。芸術作品を理解するには、理窟を手がかりにするのは禁物である。芸術作品は理窟を抜きにした時に、はじめて理解することができるのである。専ら感じることで、理窟を超えた理解が得られる。専ら感じるためには、理窟を事前に捨てておくことである。

音楽や美術を享受する場合でも、理窟を手がかりにする人がしばしばある。そういう人たちでさえ、音楽や美術の場合では、理窟を離れて対象と交わる歓びを随分多く味わっているものである。

ところが、対象が小説となると、もう理窟で読む以外の読み方などまるであるとも思っていないような人が少なくないのだ。なぜそうなるのかといえば、小説のなかには事柄で読ませる、つまり理窟で読むことで事足りる小説があるからである。そして、そうではない小説、つまり文学作品としての小説もまた事柄を用いないで書けるはずはないからである。で、小説を読むとは、事柄を事柄とし辿って、そこに理屈を見出すものと信じられがちになるのである。

ところが、文学作品で用いられている事柄、いずれも事柄としての目的のみをもって提出されているのではない。有機的な作用を妊んでいるのである。それぞれに、どのように、有機的な作用を妊んでいるか、その大半は理屈では説明できないことなのである。それを知るには、まず感じることであり、終始感じるしかないことになってくる。

これを読めば私が説明することは不要。前にあげた着物の場面は着物の事柄を説明しているのではない。その場面での俊瑛のこころ、心理を着物にこと寄せて描いている。

事柄のみを羅列し、あいだに会話体を挿入しておれば小説と考えているのなら、小説は主人公の、また人と人のこころ模様を描くものであることを再確認したほうがよい。

未熟な創作者は自らの体験、経験や見聞を「事柄」として読者に提供しようとするが、本当に文学を味読しようとする読者は事柄理解ではなく、「感じたい」のである。事柄理解は新聞、時事事典、百科事典で間に合う。これは私だけの経験、体験だから新聞には掲載されていないことだ、と主張されても、それは小説を愉しみたい読者のこころからはかけ離れている。読者との齟齬を埋める努力をしなければ、誰にも読まれない長編になってしまう。

鋭角的表現(14)

2007-02-17 00:27:59 | 表現・描写・形象
直木賞作家五木寛之の『風に吹かれて』の書き出し。大衆作家、流行作家だけに読みやすい。しかしこういう文体は私には物足りない。

赤線の街のニンフたち


ある作家から、
「きみはセンチュウ派か、センゴ派か」
と、きかれた。
ピンときたので、
「センチュウ派です」
と、答えた。

その作家は目尻にしわをよせてかすかに笑うと、それは良かった、と言った。

良かった、と言うべきではないかも知れない。だが、私には、その作家の言葉にならない部分のニュアンスが、良くわかった。

おくればせながらも、センチュウ派の末尾に位置し得たのは、良かったと思う。だが、良かったから元へもどせ、などとは言いたくない。滅んだものは、もうそれでおしまいだ。どんなに呼んでみたところで、ふたたび返ってきはしない。

後はただ白浪ばかりなり――。何の文句だったろうか。終ったお祭り。紀元節。失われた祝祭を復活させようとするのは、空しいことだ。私は、そう思う。

良かった、というのは、過去の記憶を飾るささやかなリボンにすぎない。センゼン派は皆、それぞれのリボンを頭に結んでいる。私のそれは、短くて貧弱だ。だが、風が吹くたびに、そいつが揺れるのを私は感じる。そのことを少し書こう。いわゆる赤線廃止のまえに、その巷に一瞬の光陰を過した〈戦中派〉の感傷である。

そのころ私は、池袋の近くに住んでいた。立教大学の前を通りすぎて、もっと先だ。

十畳ほどの二階の部屋に、十人ほどのアルバイト学生が住み込んでいた。私もその一人だった。

呆れるほど金のない連中ばかりで、何だかいつも腹をすかしていたように思う。

仕事は専門紙の配達である。業界紙とは言わずに、専門紙と言っていた。世の中に、これほど様々な新聞がある事を、私はその職場ではじめて知った。有名なものもあり、そうでないのもあった。