喜多圭介のブログ

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鋭角的表現(8)

2007-02-07 19:13:00 | 表現・描写・形象
谷崎饒舌文体をものにできなかった私は進むべき人生に確信の持てない、情緒不安に苛まれていたといってよい。志賀文体に戻って模倣をしたものの、どうもこの文体も奥が深くて難しそうだ。それに当初抱いた短文の積み重ねが私の気質に合わないという不満があった。そこで当時既に若手のホープ、大江健三郎の文体に注目することになった。『死者の奢り』冒頭から。

死者たちは、濃褐色の液に浸って、腕を絡みあい、頭を押しつけあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている。彼らは淡い褐色の柔軟な皮膚に包まれて、堅固な、馴じみにくい独立感を持ち、おのおの自分の内部に向って凝縮しながら、しかし執拗に躰をすりつけあっている。彼らの躰は殆ど認めることができないほどかすかに浮腫を持ち、それが彼らの瞼を硬く閉じた顔を豊かにしている。揮発性の臭気が激しく立ちのぼり、閉ざされた部屋の空気を濃密にする。あらゆる音の響きは、粘つく空気にまといつかれて、重おもしくなり、量感に充ちる。

死者たちは、厚ぼったく重い声で囁きつづけ、それらの数かずの声は交りあって聞きとりにくい。時どき、ひっそりして、彼らの全てが黙りこみ、それからただちに、ざわめきが回復する。ざわめきは苛立たしい緩慢さで盛上り、低まり、また急にひっそりする。死者たちの一人が、ゆっくり躰を回転させ、肩から液の深みへ沈みこんで行く。硬直した腕だけが暫く液の表面から差出されてい、それから再び彼は静かに浮かびあがって来る。

僕と女子学生は、死体処理室の管理人と医学部の大講堂の地下へ暗い階段を下りて行った。階段の磨滅した金属枠に濡れた靴底が滑り、そのたびに女子学生は短かい声をたてた。階段を降りきるとコンクリートの廊下が低い天井の下を幾たびも折れて続き、その突きあたりのドアに死体処理室と書きこんだ黒い木札がつりさげてあった。ドアの鍵穴に大きい鍵を差しこんだまま、管理人は振りかえって僕と女子学生を検討するように見つめた。広いマスクをつけ、ゴムびきの黒い作業衣を着こんだ管理人は小柄でずんぐりしてい、骨格が逞しかった。聞きとりにくい声で管理人が何かいったが、僕は頭を振り、管理人のゴム長靴をはいた頑丈な両脚を見おろした。僕も長靴を履くべきだったのかもしれない。午後からは忘れないで履いて来よう。女子学生は事務室で借りた大きすぎるゴム長靴を履いて歩きにくそうだったが、額にたれた髪とマスクの間で鳥のように力強い光のある眼をしていた。

なんと魅力的な文体ではないか、単細胞の私は即座にこれに飛びつき、原稿用紙に筆写を開始。ひたすら書き写した。これまでの作家と異なり、ひどく高尚な文体に思えてくる。私までが東大卒の秀才になったかのように酔いしれたが、筆写を離れて自分の文章を書き始めるとどうも大江文体にならない。大江の文体は句点の多い谷崎饒舌文体に類似しているのだが、谷崎、太宰、野坂とも異なるのは、それでいて饒舌ではないということである。どこか志賀文体の堅調にも通じている。

大江文体を修得できないのは、大江との知性の差異ではないかと絶望的結論に達してしまった。大江にはとてもかなわないぞ、という諦めが早めにやってきた。

またも迷路をさまようことになった。あと二年もすれば三十代になるというのに人生行路が定まらなかった。

こうした不安定時期に、私はある事情で一年間英国に滞在することになった。語学の頼りない私であったが、まぁあとは野となれ山となれ、の心境で日本を脱出した。

英国の暮らしは買い物一つ、乗り物一つ英語である。それでもたどたどしい英会話一つで英国はスコットランドの果てからイングランドの果て、ドーバー海峡を渡り、フランス、スイス、スペイン、ここから飛行機でアフリカ大陸に降り立ち、モロッコ、カサブランカと放浪し、また英国に戻ってきた。自分の体内から自然と日本語の情緒が干涸らびていった。

帰国すると私は肉体面のことではなく、丁度涙が涸れてしまったかのように、精神的に重い女性不感症に陥った。妙なことになったものだと気づいたが、この症状は四十代初期まで継続した。そして不思議なことだがこの時期に私は小説を多作することになった。帰国第一作、『秋止符』は「文学界」同人誌評で評論家の松本道介氏に注目され、1700ほどの作品の中でベスト5に入った。このとき私は初めて自分の文体を自覚するようになった。しかしまだ不安があったので即座に大阪文学学校の昼間部生となった。H賞受賞詩人、井上俊夫氏が講師として担当された。自作『逃げるのだ』は学生誌に掲載され、五木寛之の早稲田露文当時からの親友、作家の川崎彰彦氏の講座で20名ほどの学生によって討論材料にされた。20名のうち12名は女子大生とも思える若い女性であった。

『逃げるのだ』はサラリーマン暮らしにやり切れなくなった男が出張帰りに夜の海岸通で女性を襲うのだが失敗するという内容で、女性陣からコテンパにされるだろうなと思っていたが、女性たちに好評であったのは意外だった。

次に創作したのは『観音島』で、これは朝日新聞の同人誌評で作家の北川荘平氏によってかなりの行数を使って評価して貰った。特異な文体と書かれてあった。

女性不感症の時期に多作できたということは宦官(中国清の時代にペニスを切り取られた官吏、官吏として優秀であった)の心境にでもなっていたのだろうか。

四十代初期までに書き上げた作品群は私の財産になっていて、いまでも推敲、改稿を継続している。

鋭角的表現(7)

2007-02-07 13:15:48 | 表現・描写・形象
志賀直哉と谷崎潤一郎と野坂昭如

私の時代の「文章の神様」は志賀直哉ということになっていた。が、私には短文を並べていく志賀文体が物足りなく思えた。読みやすく、理解しやすいのだが、この読みやすく、理解しやすい文体が食い足りなかった。磨き抜かれた志賀文体の秀逸が見えていなかったのである。以下は著名な『城崎にて』の書き出しから三段落目である。

一人きりで誰も話相手はない。読むか書くか、ぼんやりと部屋の前の椅子に腰かけて山だの往来だのを見ているか、それでなければ散歩で暮していた。散歩する所は町から小さい流れについて少しずつ登りになった路にいい所があった。山の裾を廻っているあたりの小さな潭になった所に山女が沢山集っている。そして尚よく見ると、足に毛の生えた大きな川蟹が石のように凝然としているのを見つける事がある。夕方の食事前にはよくこの路を歩いて来た。冷々とした夕方、淋しい秋の山峡を小さい清い流れについて行く時考える事はやはり沈んだ事が多かった。淋しい考だった。然しそれには静かないい気持がある。自分はよく怪我の事を考えた。一つ間違えば、今頃は青山の土の下に仰向けになって寝ているところだったなど思う。青い冷たい堅い顔をして、顔の傷も背中の傷もそのままで。祖父や母の死骸が傍にある。それももうお互に散歩で暮していた。散歩する所は町から小さい流れについて少しずつ登りになった路にいい所があった。山の裾を廻っているあたりの小さな潭になった所に山女が沢山集っている。そして尚よく見ると、足に毛の生えた大きな川蟹が石のように凝然としているのを見つける事がある。夕方の食事前にはよくこの路を歩いて来た。冷々とした夕方、淋しい秋の山峡を小さい清い流れについて行く時考える事はやはり沈んだ事が多かった。淋しい考だった。然しそれには静かないい気持がある。自分はよく怪我の事を考えた。一つ間違えば、今頃は青山の土の下に仰向けになって寝ているところだったなど思う。青い冷たい堅い顔をして、顔の傷も背中の傷もそのままで。祖父や母の死骸が傍にある。【後略】

その頃私は谷崎潤一郎の文体に魅力を感じ、それを原稿用紙に筆写していた。なんとか谷崎文体を模倣したいと考えた。以下は『痴人の愛』からの書き出し冒頭から二段落まで。



私はこれから、あまり世間に類例がないだろうと思われる私達夫婦の間柄に就いて、出来るだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いて見ようと思います。それは私自身に取って忘れがたない貴い記録であると同時に、恐らくは読者諸君に取っても、きっと何かの参考資料となるに違いない。殊にこの頃のように日本もだんだん国際的に顔が広くなって来て、内地人と外国人とが盛んに交際する、いろんな主義やら思想やらが這入って来る、男は勿論女もどしどしハイカラになる、と云うような時勢になって来ると、今まではあまり類例のなかった私たちの如き夫婦関係も、追い追い諸方に生じるだろうと思われますから。

考えて見ると、私たち夫婦は既にその成り立ちから変っていました。私が始めて現在の私の妻に会ったのは、ちょうど足かけ八年前のことになります。尤も何月の何日だったか、委しいことは覚えていませんが、とにかくその時分、彼女は浅草の雷門の近くにあるカフエエ・ダイヤモンドと云う店の、給仕女をしていたのです。彼女の歳はやっと数え歳の十五でした。だから私が知った時はまだそのカフエエへ奉公に来たばかりの、ほんの新米だったので、一人前の女給ではなく、それの見習い、――まあ云って見れば、ウエイトレスの卵に過ぎなかったのです。

そんな子供をもうその時は二十八にもなっていた私が何で眼をつけたかと云うと、それは自分でもハッキリとは分りませんが、多分最初は、その児の名前が気に入ったからなのでしょう。彼女はみんなから「直ちゃん」と呼ばれていましたけれど、或るとき私が聞いて見ると、本名は奈緒美と云うのでした。この「奈緒美」という名前が、大変私の好奇心に投じました。「奈緒美」は素敵だ、NAOMI と書くとまるで西洋人のようだ、と、そう思ったのが始まりで、それから次第に彼女に注意し出したのです。不思議なもので名前がハイカラだとなると、顔だちなども何処か西洋人臭く、そうして大そう悧巧そうに見え、「こんな所の女給にして置くのは惜しいもんだ」と考えるようになったのです。

志賀は常体、谷崎は敬体と比べるには少し拙い面のある文体だが、おおよそ二人の違いは読みとれるのではないか。志賀の堅調文体に比べると谷崎は饒舌文体と表現してよく、太宰の饒舌文体にも類似し、私には魅力があった。饒舌文体の特徴は句点(、)で、文章を次々と繋いで一段落が長いこと。したがって志賀文体を「静」とすると谷崎文体は「動」で、現役作家、野坂昭如はむかしから饒舌文体を駆使しているが、彼の場合は「動」を超えて「騒々しい」。そこが魅力でもある。野坂作品『火垂るの墓』書き出し。

省線三宮駅構内浜側の、化粧タイル剥げ落ちコンクリートむき出しの柱に、背中まるめてもたれかかり、床に尻をつき、両脚まっすぐ投げ出して、さんざ陽に灼かれ、一月近く体を洗わぬのに、清太の痩せこけた頬の色は、ただ青白く沈んでいて、夜になれば昂ぶる心のおごりか、山賊の如くかがり火焚き声高にののしる男のシルエットをながめ、朝には何事もなかったように学校へ向かうカーキ色に白い風呂敷包みは神戸一中ランドセル背負ったは市立中学、県一親和松蔭山手ともんぺ姿ながら上はセーラー服のその襟の形を見分け、そしてひっきりなしにかたわら通り過ぎる脚の群れの、気づかねばよしふと異臭に眼をおとした者は、あわててとび跳ね清太をさける、清太には眼と鼻の便所へ這いずる力も、すでになかった。

三尺四方の太い柱をまるで母とたのむように、その一柱ずつに浮浪児がすわりこんでいて、彼等が駅へ集まるのは、入ることを許される只一つの場所だからか、常に人込みのあるなつかしさからか、水が飲めるからか気まぐれなおもらいを期待してのことか、九月に入るとすぐに、まず焼けた砂糖水にとかしてドラム缶に入れ、コップいっぱい五十銭にはじまった三宮ガード下の闇市、たちまち蒸し芋芋の粉団子握り飯大福焼飯ぜんざい饅頭うどん天どんライスカレーから、ケーキ米麦砂糖てんぷら牛肉ミルク缶詰魚焼酎ウイスキー梨夏みかん、ゴム長自転車チューブマッチ煙草地下足袋おしめカバー軍隊毛布軍靴軍服半長靴、今朝女房につめさせた麦シャリアルマイトの弁当箱ごとさし出して「ええ十円、ええ十円」かと思えば、はいている短靴くたびれたのを、片手の指にひっかけてささげ持ち「二十円どや、二十円」ひたすら食物の臭いにひかれてあてもなく迷いこんだ清太、防空壕の中で水につかり色の流れあせた母の遺身の長じゅばん帯半襟腰ひもを、ゴザ一枚ひろげただけの古着商に売りなんとか半月食いつなぎ、つづいてスフの中学制服ゲートル靴が失せ、さすがズボンまではとためらううち、いつしか構内で夜を過ごす習慣となり、疎開から引き揚げて来たらしくまだ頭巾をきちんとたたんでズックの袋にかけ、背負ったリュックサックには飯ごうやかん鉄かぶと満艦飾【後略】

しかしこうした饒舌文体に私は惹かれ、筆写の努力をしてまで模倣しようとしたが、これがものにならない。どう努力しても私には饒舌文体が書けなかった。無口なせいかとも思うが、案外、無口人間は頭脳では饒舌ということもあるので、無口が原因とも思えない。酒でも呑みながら書けばこんな風になるのかと想像したが、アル中になるのは嫌だから、執筆中は呑まないことにしている。筆写するよりも浄瑠璃語りを幼少の頃から聴いておれば、饒舌文体のリズムが血肉になるのではないかと思ったりもしたが、二十歳を過ぎていては今更浄瑠璃語りを聴いても効果薄と思え実行しなかった。

息が続かないというか、流麗な表現が次々と迸(ほとばし)り出ないのだからどうしようもなかった。