喜多圭介のブログ

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鋭角的表現(4)

2007-02-05 16:20:59 | 表現・描写・形象
医師でも南木佳士(なぎ けいじ)になると表現が地味で鋭角的表現はみられないが、実に形象(イメージ)がしっかりしており、創作の修練に苦労の跡がうかがえる。たとえば私の作品の書き出しと以下の書き出しを比較したとき、私の書き出しは見劣りがする。少し長めに引用しておく。

なだらかな山の中腹にある阿弥陀堂の前庭からは六川集落の全景が見渡せた。幅三メートルばかりの六川の向こう岸に十戸、こちら側に十二戸。朽ちかけた欄干の根に雑草のはえる古い木橋で結ばれた、合わせて二十二戸のこぢんまりとした山あいの集落である。

谷中村は七つの集落からなっている。上流で六つの沢が合流して六川と名づけられた渓流が作られ、これに沿って七つの集落が上から下へ並んでいるのである。 

六川が町の本流に注ぐまでには七つの急な瀬があり、各々の集落はそれを境にしたわずかな平地を中心に形成されている。国道から分かれた村道は車一台分の幅員のみで、すれ違いは力ーブのふくらみか橋でしかできない。最も高いところにある六川集落を過ぎて登るといつしかアスファルト舗装も切れ、車の通れぬ林道になってしまう。
「こんなところたったか」

阿弥陀堂の庭にしゃがみ込んだ上田孝夫は大きく上体を反らせてため息をついた。 これまでに何度も帰郷していたのだが、後半生の定住の地と決めてあらためて見渡してみると、いかにも狭く、貧相な集落であった。瓦屋根の家は一軒もなく、すべての家のトタン屋根は例外なく赤錆に侵蝕されていた。薄茶色に乾ききった土壁の崩れた廃屋が向こう岸に三軒、こちらに二軒。

昨日、妻と二人で集落全戸にあいさつ回りをしてきたのだが、老人の独り暮らしの家が九軒。老夫婦だけが五軒。老夫婦と嫁の来ない長男のいる家が三軒。一軒だけ、向こう岸の神山さんの家は老夫婦と長男夫婦、それに町の高校と中学に通う娘がいて、まるで無形文化財のように一昔前の村の一般家庭の様子が保存されていた。
「ここで暮らすのね」

孝夫の横にスカートの上から膝を抱えて腰を沈めた妻の美智子が、白髪の混じり始めた前髪をかき上げながらしみじみと口にした。

彼女の白髪は病を得た頃から目に見えてその数を増していた。髪ばかりでなく、ふくよかだった頬のあたりも脂肪の厚みをうしない、うるおった目が放つ艶やかな光も消えて久しかった。それでも、ここで暮らすのね、ともらした口調の中には、なにかがふっきれたあとの枯れた諦念が込められているように思えて、孝夫は久しぶりに心なごんだ。

周囲を山に囲まれた六川集落であるが、春の訪れを知らせる風は川から山の斜面に沿ってゆるやかに吹き上がっていた。木々の葉は緑の気配を見せ始めたばかりの三月末で、名の知れた花はまだ咲いていない。風が春の先ぶれだと知れるのは、ぬくもった腐葉土の香りを含んでいるからである。南に向いた斜面に建つ阿弥陀堂の庭の端にはフキノトウが枯れた雑草の下から鮮やかな若草色の芽をのぞかせていた。【『阿弥陀堂だより』より引用】

クラッシックな地味な表現ではあるが、無駄がない。

以下は自作『秋止符』の書き出し。

興津(おきつ)高志は茫洋と広がる黒みがかった伊予灘の、ある一点に視線をやっていた。巨大な金の延べ棒が海面近くに沈んでいるかのように、眩く金色(こんじき)に輝いて炎上している。車窓の先に突き出た岬の黒い影が見え始めた。

列車は岬の基部にさしかかると二十年前と変わらずに車体を傾け、ゆっくりと弧を描いて走った。岬を廻りきるとさらにスピードを緩め、そのまま滑るように人気のない豊崎駅のプラットフォームに入り込み、しゃくり上げ、灰色の木造駅舎の前に停車した。

十一月中旬。高志が母親の邦子と豊崎駅に降り立ったときには、松林の山裾にも海がわの粗末な板張りの倉庫にも、夕闇の濃いベールが貼り付いていた。高志は素早く辺りの閑散とした様子を眼に納めた。町の内部は変貌しているのかもしれないが、駅前周辺の佇まいはそんなに変わっている風でもなかった。観光客の訪れる町でないだけに変わりようがないのかもしれない。変わったのはぼくという人間だ、と胸に呟いた。

コート姿の邦子と肩を並べて駅舎の外に出た。豊崎の町は海に向かって、身を屈(かが)めるように煤けた家並を広げていたが、高志はその町の構えに、二人が町中(まちなか)に入ることを拒絶されているような気がした。

潮の匂いを肌寒い風が運んできた。沿線の私立高校にでも通学しているのか、先に出札口を出た三人のセーラー服の女子高生が、肩でじゃれあい、灰色のふくらはぎをスカートの下で踊らせ、笑い声を残すと家並の通りに消えて行った。駅舎の横手にタクシーの溜り場と思われる空地があったが、車も人影もなかった。
「どこかで御飯を食べていこうよ。西村に行っても夕食の用意はしてないだろうし」

邦子は、高志の重たい気分とは裏腹に、大阪の繁華街をぶらついている口調で言った。
「うん……」

高志はしだいに沈み込んでいく気持を隠そうともしないで生返事をした。
「疲れたの?」
「いや」
「何も変わってないね」


鋭角的表現(3)

2007-02-05 08:30:40 | 表現・描写・形象
作家で医師である加賀乙彦はどのような表現を持っているのか。一般的に医師は職業柄理知的なタイプの人が多く、文章表現において整理と分析に長けた特徴がある。患者の病因を診察結果から推理し適切な治療を施さねばならないから、当然すぎる特性である。ただ理知が勝ちすぎると小説としては面白くない作品になりやすい。文学としての情緒が醸し出されていないと興ざめたレポートを読まされていることになる。

眠れない。脳の細胞を雲のように包んでいた睡気がどこかに飛んで行ってしまい、キーンと張り詰めた青空のような意識がひろがっている。

悦夫はイビキをかいていた。咽喉の奥底からマグマのように噴きあげてくる息が鼻を共鳴させて、濁った空気を散らす。そのたびにアルコールの臭気が、ことさらな生ぐささで迫ってきた。アルコールだけではない。反吐の臭いが混っている。寝室の空気がすっかり汚染されてしまった。奈々子は悪臭をすこしでものがそうと窓を開けた。

ビルの谷間に夜は黒い水となって溜っていた。遠くの高層ビルの赤い点滅灯が心臓のように生々しく鼓動している。枕元のスタソドを"弱"につけると悦夫の体が水底から浮きあがった土左衛門さながら盛りあがった。【『ヴィーナスのえくぼ』より引用】

書き出しの三段落であるが見事な表現ではないか。

鋭角的表現(2)

2007-02-05 08:23:22 | 表現・描写・形象
私の好きな宮本輝のデビュー作からも少し引っ張り出してみる。やはり凡庸でない表現が散見する。宮本文学の魅力の一つである。

夏には殆どの釣人が昭和橋に集まった。昭和僑には大きなアーチ状の欄干が施されていて、それが橋の上に頃合の日陰を落とすからであった。よく晴れた暑い日など、釣り人や、通りすがりに竿の先を覗き込んでいつまでも立ち去らぬ人や、さらには川面にたちこめた虚ろな金色の陽炎を裂いて、ポンポン船が咳込むように進んでいくのをただぼんやり見つめている人が、騒然たる昭和橋の一角の、濃い日陰の中で佇んでいた。その昭和橋から土佐堀川を臨んでちょうど対岸にあたる端建蔵橋のたもとに、やなぎ食堂はあった。【『泥の河』より引用】


昭和三十七年三月の末である。

西の空がかすかに赤かったが、それは街並に落ちるまでには至らなかった。光は、暗澹と横たわる人気を射抜く力も失せ、逆にすべての光沢を覆うかのように忍び降りては死んでいく。時折、狂ったような閃光が錯綜することはあっても、それはただ甍(いらか)の雪や市電のレールをぎらつかせるだけで終ってしまう。

一年を終えると、あたかも冬こそすべてであったように思われる。土が残雪であり、水が残雪であり、草が残雪であり、さらには光までが残雪の霧だった。春があっても、夏があっても、そこには絶えず冬の胞子がひそんでいて、この裏日本特有の香気を年中重く澱ませていた。【『螢川』より引用】