喜多圭介のブログ

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文章作法(4)

2007-02-01 12:27:55 | 表現・描写・形象
良い文章

以下のことも芥川賞作家、村田喜代子さんの『名文を書かない文章講座』(葦書房)のなかに書かれていることだが、文章を書く人(小説やエッセー)にとっても肝要な事柄なので掲載しておく。『高校生のための文章読本』(筑摩書房)の付録に、作文の書き方について説明した「手帖」がついている。この付録に以下のようなことが書かれている。

良い文章とは、
1 自分にしか書けないことを
2 だれが読んでもわかるように書く

という二つの条件を満たしたもののことだ。だれが読んでもわかるようにということは、言葉の意味がわかるということも含んでいるが、それだけではない。自分にしか書けないこと、自分だけの発見や経験をできるだけ正確に言葉に表現するということを指している。

これによると反対に、よくない文章がどんなものかも見えてくるのである。

よくない文章とは、
1 だれでも書けることを
2 自分だけにしかわからないように書く

ということになるだろう。

また村田喜代子さんはインパクトのある文章ということで、以下のことを書いておられる。

一、誰もが心に思っている事柄を、再認識させ共感させる。
二、誰もが知りながら心で見過ごしている事柄を、あらためて再認識し実感させる。
三、人に知られていない事柄を書き表して、そこに意味を発見し光を当てる。

こういうことを常に念頭に置いて文章を書いている人のものは金を払っても読む値打ちがあるが、案外、だれでも書けることを、新規な発想もなく書いている人が多いのではないだろうか。私の創作にしても自戒しなければならない。

私の文学態度を決定づけた詩人、小野十三郎の『詩論』(昭和22年8月 真善美社刊)の中に「詩とは偏向する勁(つよ)さのことだ」といういい表現がある。当時人生をさまよっていたぼくにとっての大きな啓示、天啓であった。この言葉で人生を歩む姿勢をまがりなりにでも保持することができるようになった。

偏向した視点を持たないことには、読者にインパクトを与える小説も評論もエッセーも書けない。偏向と偏狭とは異なる。

文章作法(3)

2007-02-01 12:17:56 | 表現・描写・形象
書き分け

これも芥川賞作家、村田喜代子さんの『名文を書かない文章講座』(葦書房)の引用だが、案外、このこともわかっているようでいてわかっていないひとが、小説創作の初心者には多い気がする。私はこのことを最近、「書くと描く」というタイトルで書いたが、以下も参考になるのではないか。私が下手な解説をするよりもプロに登場していただこう。

村田喜代子さんは自作の一文を地の文、描写、セリフと書き換えておられるが、プロでさえかような修練を積んでいる。はたして初心者は自分の文章を書き換える能力があるのかどうか、はなはだ疑わしい気がしないでもない。

エッセイや小説は三種類の文章からできている。それは次のようなものだ。

一、地の文。
二、描写。
三、セリフ。

地の文とは、簡単にいえば説明のための文章である。評論の文章は地の文が思考的に研磨されたスタイルと思えばいい。だが小説やエッセイの場合は生活上の具体的な事柄を題材にするため、地の文と描写、セリフの三種類の文章を効果的に使い分ける必要がある。

描写文は出来事を目に見えるように再現する。説明を切り捨て、読者の視覚に訴える。セリフ文はいうまでもなく、登場人物にしゃべらせるものだ。

実際にはこれらの内の一つだけ使っても、文章はできる。それぞれの機能の特徴を端的に知るために、私のエッセイ「五十年のツクシ」(『異界飛行』所収)の一部分を書き換えてみよう。まずは地の文のみの文章。

これは一見淡々としているが、柔らかい底力がある。
――――――――――――――――――――――――――――――――
 子供の頃、不思議な歌を聞いた。中学生の従姉はキリスト教の学校へ通っていて、わたしは修道尼姿の先生が珍しく、よく運動会について行った。ダンスの演目が始まると、タタカイオエテ、タチアガル、ミドリノサンガ、という歌が流れた。冒頭の部分は、戦い終えて立ち上がるであることはわかるがその次の、ミドリノサンガ、というのが不可解だった。友達はミドリノサンというのは人の名前だろうと言う。それで、戦争が終わって緑野さんという偉い人が立ち上がったのだ、と言うのだった。けれど奇妙なことにそんな人物の名前は、社会科の教科書にも出てこない。
――――――――――――――――――――――――――――――――
 これを描写だけで書くと次のようになる。
――――――――――――――――――――――――――――――――
修道尼姿の教師が笛を吹いた。白の体操服に黒のブルーマをはいた少女達が行進してきた。また笛が鳴る。運動場一杯にスピーカーから音楽が流れ、ダンスが始まった。タタカイオエテ、タチアガル、ミドリノサンガ――。

ノッポの光子が最前列で踊っている。わたしは隣の雪子に囁いた。
「ねえ、ドリノサンガって何のこと?」
「きっと緑野さんっていう人間よ。偉い人なのよ」
――――――――――――――――――――――――――――――――
ここではとりあえず最小限の描写文にしたが、それでも地の文より印象が生き生きとなるのがわかるだろう。次はセリフのみで書いてみよう。
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「子供の頃、従姉の通っているキリスト教の学校のね、修道尼姿の教師が珍しくて、よく運動会を観に行ったものよ。そこでわたし、不思議な歌を聞いたの。女子のダンスの演目だけどタタカイオエテ、タチアガル、ミドリノサンガ、っていう歌詞だったわ。タタカイオエテは、つまり戦争が終わってという意味だってわかるけど、ミドリノサンガっていうのが不可解なのね。友達は緑野さんていう英雄みたいな人物がいるのだろうと言うけど、でもそんな名前は教科書に載っていないの」
――――――――――――――――――――――――――――――――
このように、それぞれの文章に長所短所がある。地の文だけだと目配りが利いて満遍なく書けるが、インパクトは弱い。描写で行けば視点のみを追うため臨場感はあるが、説明不足となりやすい。セリフのみだと説明もでき人間味も出るが、冗長に流れやすい。

やはり三つの文章の効果をバランスよく取り入れて書くのが一番望ましい。ではどこを地の文にして、どこを描写にするか? どこをセリフにするか?

この配分で文章全体の印象はガラリと変わる。いろいろ書き換えて効果を探してみるのもいい。


文章作法(2)

2007-02-01 00:29:18 | 表現・描写・形象
文章の基本点

以下も芥川賞作家、村田喜代子さんの『名文を書かない文章講座』(葦書房)のなかで指摘されていることだが、小説や随筆・エッセーを書いておられる方が参考にしなければならないことだろう。案外、こういう基本も身に付けないで独りよがりの文章を書いている人が多い。

この三点を押さえておくだけでもいい文章は書ける。ただし最初からいい文章はプロでもなかなか書けない。初稿を推敲、改稿するときの心構えとして、この三点に留意したらいい。

ほとんどのエッセイや小説の中で、もっとも分量の多いのが地の文である。そこで地の文を書く上での注意事項を箇条書きにして説明しよう。

一、観念語、哲学用語など生硬な言葉を文中に使わないこと。

エッセイや小説は論文ではないので、できるだけ普通の言葉を使用する。普通の言葉の力をどれだけ出せるかが鍵である。たとえばこんな文章はどうだろう。
「私の心の空間に虚無の風が流れ込んだ」

作者は大真面目に書いても、読む者にはほとんど劇画調だ。おおげさな言葉は文章力の欠如を物語る。空間や虚無などという言葉は不要である。
「私の心の中にさびしい風が流れ込んだ」と、これでいい。
「女は空虚な目で私を見た」
「それは父の魂の叫びだった」
「私の存在の欠落感を周囲の人々は認知することもなく、あるいは目をそらし、あるいは嘲笑して、電車の外の大都会の空虚な雑踏の中へ散って行くのであった」

こんな実質のない文章を誰が読むだろう。文章は私たちが日常使っている普通の言葉に近いもので書かねばならない。普通の言葉では書くことができないような濃密な内容を、あえて普通の言葉で書く作業とでもいおうか。そこに作者の力量がうかがえる。たとえば「空虚」という言葉を外して、普通の言葉で表現するとすれば、
「女は力のない、ぼんやりした投げやりな目で、私を見た」

というようになる。「空虚」なら二文字ですむところを、平易な言葉を使えばこれだけ書き込まねばならない。まさに書く行為は、細心と、辛抱である。生硬な難しい言葉を使うと、一見、重い内容であるような感じを与えるが、じつは既製の二文字で片づけた、粗雑な、これこそ「空虚」な文章だといえる。

二、同じ言葉を使わない。

これは誰もが承知していて、意外にミスが多い。
「私の故郷は西瓜の産地で、歩くと青い西瓜畑がやたら目につく。私の父は西瓜が好きで、夏ともなれば西瓜がなくては一日も過ごせなかった。西瓜には利尿作用があると言って、わが家の食卓に置いた西瓜の皮を叩いて講釈した。西瓜を食べると緑色の皮は漬物にした。今も私は店頭に並んだ緑色に光る西瓜を見ると、故郷の西瓜畑と、父と、わが家の食卓の西瓜を思い出す」

こんなエッセイを書いた人はいないだろうか? 文中に、西瓜は十回、緑色は二回、故郷、食卓も二回出ている。

三、形容詞を多用しない。

これは描写の文章にも関わってくるが、形容詞はものを説明するときに威力を発揮する。「赤い椿が咲いている」と書くのと、「目に沁みるような赤い椿が咲いている」と書くのとでは、後者の印象のほうが大である。形容詞は文章の最大武器。しかし効果の高いものは多用注意だ。
「目に沁みるような赤い血のような、どす黒くさえ見える色をした大きな椿が、人の首のように重そうにうなだれて、寂しげに立っている」

こんな文章は形容詞過多で、肝心の椿がぼやけてしまう。沢山の色を塗りすぎて、かえって不鮮明になった油絵のようだ。

言葉にはふしぎな性質があって、説明すればするほど、焦点がぼやけてくる。本体が見えにくくなる。よく見ようと近づき過ぎて、ピントがずれる人間の目と似ている。
「赤い椿が咲いている」

と、すべての形容詞を取り払った後に残る、たったこれだけの文章の簡潔さと強さも忘れてはならない。

以下は推敲についてである。ここも『名文を書かない文章講座』から引っ張り出しておく。

言葉の重複は、書いているときには意外と気づかないものだ。

「その日」は風のない穏やかな「初冬の日」だった。

右の例などは単純ミスで直しやすい。だが次のようだと少々面倒になる。

まだ近所に「空き地」が目立っていた頃、「我が家」の猫が「よく」「空き地」から「よく」バッタを捕ってきて遊んでいた。そのうち「家」が立て込んでくると、「我が家」の庭からヤモリを捕って帰り、「家」の中に持ち込んだ。

これは朝日カルチャi教室の生徒さんの作品だが、さて、この文章の中に幾つの重複語が入っているだろう。まずいやでも目につくのが、「空き地」「我が家」「家」「よく」などで各二回あて出てくる。また「捕ってきて」と「捕って帰り」も重複である。

まだ近所に空き地が目立っていた頃、我が家の猫がよくそこからバッタを捕ってきて遊んでいた。そのうち周囲が立て込んで空き地もなくなると、今度は家の庭からヤモリを見つけて座敷にくわえてきた。

というように直してみるのがいいだろう。訂正したところで舌にのせて音読してみる。なめらかに声に出して読めるよう何度か直していくといい。

作家の中にも自分の書いた小説を全編声に出してチェックしている人たちがいる。

次に、助詞の「が」の重複について、述べてみよう。

いつのまにか老眼が進んでいくようだった。そのうちに、針に糸を通すのが確率が悪くなってきた。三度に一度はうまくいっていたのが、ある日とうとう、針の穴自体がどっちを向いているのかさえ見えなくなった。

「が」を多出する文章は話し言葉の調子で書いているとき生じやすい。この文章では「が」のほかに、「に」と「の」も重複している。これは次のように直す。

そのうち、針に糸を通すときの確率が悪くなってきた。三度に一度はうまくいっていたのに、ある日とうとう針の穴自体がどっちを向いているかさえ見えなくなった。

ここで気になるのは「確率」という語の座りの悪さである。そもそもこの確率という語を使おうとしたときから、文章がおかしくなったのだろう。本当は思いきって捨てるほうがいいのだ。

また、次のような「が」の場合もある。

昔、母や祖母が、どうして針の穴が小さいというのか不思議だった。

これは「針の穴が」を、「針の穴を」に直せばいい。

字面で見ると難しくて面倒そうだが、音読して自分の耳で聞き舌の上に転がしてみるとしぜんに修正文が出てくる。耳と舌が助けてくれるものだ。


文章作法(1)

2007-02-01 00:23:47 | 表現・描写・形象
左手で書く

芥川賞作家、村田喜代子さんの『名文を書かない文章講座』(葦書房)のなかの文章であるが、長年小説や現代詩、随筆を書いてきた私が、日夜頭を痛めている思いがそのまま書かれているので引用してみた。(段落は読みやすいようにブログ形式にした)

左手で書く、そうなんだよな、左手で創作しないとなぁ。いくら文章表現が巧くなっても、創作技法に長けても人と同じ右手で(誰もが言いそうなこと、書きそうなこと)創作しているかぎり、文学賞受賞はほど遠いだろうな。独創性と平易さの和合の難しさ。

これまで文章の作り方の一通りを述べてきた。文章は特別のものではない、所詮が言葉であるという前置きから、構成法、メモの必要性、実作の心構えなど。従来の文章作法の形にとらわれない方法をあらかた記した。

これらを通した要旨はたった一つ、文章なんて恐れる必要はないということである。どう書いても、紙に字で何ごとかを記せば文章になる。そしてその中に、その人だけの考えや発見が一行でもあれば、それが文章の価値というものになること。

いい文章のからくりは、たったそれだけに尽きる。

これを端的にあらわすのが小説の評価である。同人誌に発表したり、新人賞に応募する人々の中で、自分の小説はテーマも相当のことを入れて、文章もそこらの既成作家に負けないはずなのになぜ評価されないのか、と不審に思っている人もいるだろう。昨今の下手な新人作家より数段上を行くはずなのに、と。

だが、下手こそ文学の命かもしれない。大人の趣の文章の中に、実のある言葉、描写、世界が描かれているだろうか。今まで誰も扱ったことのない視点で、世界やものごとを描いてみせただろうか。

私は昔、今はもう亡くなった友人の画家に聞いたことがある。我が家の中学生が宿題に絵を描かかなくてはならない。明日までに何とかいい絵を描く方法はないか……。

すると友人の答えは簡単だった。
「左手で描かせなさい!」

この言葉は名言だと思う。

右手は使い慣れた手だ。慣れた手にいったいどんな新鮮なものが描けるだろう。クレヨンを初めて握ったぎこちない左手がヨロヨロと描く一本の線こそ、誰の真似でもない、生まれて初めての創造なのだ。これを文章に置き換えると、左手で書くとはどういうことだろうか。手垢のついた言葉しか浮かばない頭を切り替えて、文章を書いたことのない幼児のようになるしかない。