喜多圭介のブログ

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尾崎放哉(2)

2007-02-02 15:36:26 | 俳句・短歌と現代詩
放哉と並び称される自由律、放浪俳人山頭火の句と比べると放哉の句には「一人」という表現が異常に多いのです。このことは山頭火以外の俳人に比較しても割合は多いのではないかと推察します。代表句の一つは、

せきをしても一人

です。この句については、川端康成の最後の作品『隅田川』に、つぎのような場面がでてきます。東京駅の通路で不意に、街頭録音のためのマイクをつきつけられるところです。

「季節の感じを、ひとことふたことで言って下さい。」
「若い子と心中したいです。」
「心中? 女と死ぬことですね。老人の秋のさびしさですか。」
「咳をしても一人。」
「なんと言ひました。」
「俳句史上最も短い句ださうです。」

この場面を書いたときの川端の心境はよくわかります。「若い子と心中したいです。」という「若い子」にはひっかかりますが、川端の晩年の作品だけでなく初期の作品『伊豆の踊子』から考えても、川端には少女嗜好がありました。しかしながらあの鋭い禽獣の眼光ではいくらノーベル賞受賞の文豪とはいっても、少女どころかおとなの女性も彼には近付きがたかったでしょう。

子供の頃から肉親の愛の薄かった川端の孤独は、彼の容貌によってますます悲劇性を増し、不可解な自殺で孤高な人生の幕を下ろすことになりました。最晩年に川端は放哉の孤独、「一人」について思案していたことがわかります。

放哉が「一人」を表現した句を、調べた範囲で掲載しておきます。

須磨寺時代

雨の日は御灯(みあかし)ともし一人居る
高浪打ちかへす砂浜に一人を投げ出す
一人のたもとがマツチを持つて居た
一人つめたくいつ迄籔蚊出る事か
こんなよい月を一人で見て寝る
曇り日の落葉掃ききれぬ一人である
こんなよい月の夜のひとり
たつた一人になり切つて夕空
淋しいぞ一人五本のゆぴを開いて見る

小浜・小豆島時代

一人分の米白々と洗ひあげたる
臍(へそ)に湯をかけて一人夜中の温泉である
大根ぶらさげて橋を渡り切る一人
きせるがつまつてしまつたよい天気の一人である
縁に腰かけて番茶呑む一人眺めらる
土瓶がことこと音さして一人よ
寝ころぶ一人には高い天井がある
夜がらすに蹄かれても一人
人の親切に泣かされ今夜から一人で寝る
どうせ一人の夕べ出て行くかんなくづの帽子
御佛の灯を消して一人蚊帳にはいる
さゝつたとげを一人でぬかねばならぬ
山かげの赤土堀つて居る一人
一番遠くへ帰る自分が一人になつてしまつた
蚊帳のなか一人を入れ暮れ切る
昼も出て来てさす蚊よ一人者だ
一人の山路下りて来る庵の大松はなれず
たつた一人で活動館から出て来た
芋畑朝の人一人立てり
ふなうた遠く茲にも閣いて居る一人
青空焚きあぐる焚火大きくて一人
ぺたんと尻もちついて一人で起きあがる
海を見に山に登る一人にして
昼月風少しある一人なりけり
島の人等に交り自分一人帽子かぶつて居つた
夫婦で見送られて一人であつたは
一人呑む夜のお茶あつし
一人の道が暮れて来た
又一人雪の客が来た
一人住みてあけにくい戸ではある
海風に筒抜けられて居るいつも一人
月夜風ある一人咳して
咳をしても一人
墓地からもどつて来ても一人
一人でそば刈つてしまつた
一人豆を煮る夜のとろとろ火


数ある「一人」句の中で私の好きな句を以下に選んでみました。

たつた一人になり切つて夕空
淋しいぞ一人五本のゆぴを開いて見る
臍(へそ)に湯をかけて一人夜中の温泉である
土瓶がことこと音さして一人よ
一人の道が暮れて来た
海風に筒抜けられて居るいつも一人
月夜風ある一人咳して
咳をしても一人
墓地からもどつて来ても一人


ほかにも以下のような「一人」の句はありますが、これらは放哉「一人」という意味ではありませんので、考察の脇に置いておきます。

なぜか一人居る小供見て涙ぐまるる
人一人焼いた煙突がぼかんとしてる夕空


それにしても凄まじい数の「一人」句ではありませんか。このことは放哉の何を表しているか、ここを考察するのが、ここでの当面のテーマです。

放哉は中学時代、鳥取県第一中学校の第三学年頃から短歌や俳句をつくるようになりました(明治30ー35)。一高時代(明治35ー38)、大学時代(明治38ー42)、以後数多くの作句がありますが、「一人」という表現が表れるのは、須磨寺の寺男をやっていた頃からです。

尾崎放哉(1)で放哉の略歴を書きましたように大正十二年(1923)三九歳の十一月に妻と別居、京都市内左京区鹿ヶ谷の西田天香が主催する修養団体、一燈園に入り、以後「一人」暮らしを始めます。大正十三年に一時期須磨寺の寺男になりますがすぐに辞めています。

「一人」と表現していても一句、一句詳細に吟味すれば「一人」の意味は、たんに自分一人という人数を表したものではないということに気付くはずです。

とくに代表句の、

せきをしても一人

の「一人」は実に象徴的な表現で、この「一人」には放哉そのものが不在という大変な意味合いがあります。よくぞここまで極めたものだと感嘆し、息を呑んでしまいます。

ここでふと思い出すのが、浄土真宗開祖、親鸞聖人の、

親鸞は弟子一人(いちにん)ももたずさふらふ。

です。本願寺教団は浄土真宗中興の祖蓮如の時代から今日まで我が国一大勢力の念仏集団でありますが、開祖親鸞は「弟子一人(いちにん)ももたず」であった。弟子を持たないということは親鸞「一人」であったということです。

親鸞「一人」でなければならなかったのです。このことが親鸞にとって弥陀の本願への必要条件であったのです。このことを補強しているのは、これも『歎異抄』中の有名な文章、以下です。

たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。

私は高校生の頃に間違った解釈をしながらも「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」と、陶酔したように口ずさんだものです。つまり『歎異抄』の毒気に当てられたのです。

さて親鸞の「一人」とは何を象徴しているのでしょうか。私の解釈は親鸞→法然→善導→釈尊→弥陀、すなわち親鸞=弥陀という強い自覚の「一人」です。人数の一人ではないのです。同じ事が、

せきをしても一人

にもあります。この句の「一人」は放哉であって放哉でない、放哉=弥陀の境地に辿り着いていたのではないかと思われます。この境地に至って放哉は救済され、弥陀の本願に至っていたのです。

放哉は、大正十四(一九二五))年十二月二日、南郷庵からの島丁哉宛の手紙で、「俳句は宗教である。」と以下のように書いています。

放哉ハ俳句ハ詩ト同時二宗教也ト中シテ居リマス 於茲、非常二苦心スルノデアリマス、何故と申スニ、自分ノ人格ノ向上二連レテ私ノ句ガ進歩スルヨリ外二ハ私ニハ途がナイノデアリマスカラ自己ノ修養ニツトメナケレバナリマセン ソコデ句作リガ私ニハ、大問題トナッテ居ルノデアリマス。

また飯尾星城子宛の大正十四年九月十四日の手紙には、

俳句は詩であり、宗教である筈であります。私の句は、ですから、「こんな事をしたり、考へたりして居るのは果たして自分だらうか? 平生の自分はコンナ事をやつたり、考へたりすることはナイ筈なのだが、而し事実やつてる、シテ見ると矢ッ張り自分は自分なのかな? ナンダカ分からなくなって来たゾ、自分なのか、自分でないのか、どうだらう? 其呆然として、自己が「空」になつてゐる端的の表現と思つて下さればよいのです。

この心境は仏教でいう「梵我一如」の世界。『歎異抄』の「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐる」であり、「弥陀の本願」であります。この弥陀の本願が放哉の身上に成立していたのです。

尾崎放哉(1)

2007-02-02 15:28:25 | 俳句・短歌と現代詩
昨今は傷つき、神経症気味の女子、女性が中学生辺りから多いですね。自ら招いた、あるいは無神経な、または狂暴な男によってと原因は様々でしょうが。

私はこうしたことの男性例を文学的考察として以前から調べたりしていますが、典型的なのは尾崎放哉(ほうさい)。

放哉の概略経歴は中学時代より句作。1902年(明治35)第一高等学校入学。荻原(おぎわら)井泉水(せいせんすい)のおこした一高俳句会に入る。東京帝国大学法科に入学後、芳哉の号で高浜虚子(きよし)選の『国民新聞』俳句欄や『ホトトギス』に投句。07年ごろ放哉の号となり、09年大学卒業。東洋生命保険会社入社。朝鮮火災海上保険会社支配人になったが、酒癖のため退職。妻と別れ京都の一燈園に入り、のち諸方の寺の寺男となった。終の栖(すみか)となった小豆島の西光寺奥の院の南郷庵に入り独居、しばらくして看取られることもなく息を引き取る。

放哉晩年の絶唱を二句。

淋しいぞ五本のゆびを開いて見る

せきをしても一人

私は南郷庵の墓前に二度立っているのですが、立つたびに言葉を失い暗然とした気分に陥ります。なぜ放哉がこのような生涯を送らなければならなかったのか、いまだに釈然としません。

寅さんでおなじみの渥美清さんは、寅さんシリーズを撮り終えたら放哉を演じてみたかったようです。山田洋次監督と墓前に詣っています。渥美清さんのライフスタイルからなんとなくわかる気がします。

南郷庵の暮らしは乞食同然、堕ちるところまで堕ちた、その凄さに言葉を呑むばかり。

南郷庵には井泉水の尽力によって住めるようになったのです。井泉水へあてた手紙の一部に、

ハカラズモ当地デ、妙ナ因縁カラ、ヂツトシテ、安定シテ死ナレサウナ処ヲ得、大イニ喜ンダ次第デアリマス。「之デモウ外二動カナイデモ死ナレル」私ノ句ノ中ニモアリマスガ(昨日、東京二百句送リマシタ中)、只今私ノ考ノ中二残ツテ居ルモノハ只、「死」……之丈デアリマス。積極的ニ死ヲ求メルカ、消極的ニ、ヂツトシテ安定シテ居テ死ノ到来ヲマツテ居ルカ……外ニハナンニモ無イ……ソシテ、唯一ノ残ツテ居ル希望ノ「死」ヲ、最モ早ク、ソシテ、安住シテ、自然ニ、受入レル事ガ出来ル……ソシテ、只、ソレ迄句作ヲ生命トシマセウ、(ソレ迄トハ勿論、死ヌ迄デスヨ)……ソシテ、悠然トシテタツタ一ツ残ツテル、タノシミノ「死」ヲ自然的二受入レタイト思フノデアリマス……ドウカ、成功スル様ニイノッテ下サイ。

とあります。この心境は若い頃に二度自殺未遂している私にもわからなくはありませんが、彼がどうしてこういう心境を採りうるひとになったのか、その根本が掴めません。放哉研究家にも掴めていないようです。

探りを入れるにも手掛かりとなる資料が少なすぎるからです。幼少年期をどのような思いで過ごしたか、家族関係は、となると彼自身の手で書いたものがありません。故郷は鳥取県ですが、彼の故郷嫌悪感は相当なもの。故郷を嫌う、それはそのまま両親否定です。ここに彼の壮絶な生き方の起因がある筈ですが、判然としません。

放哉と言えば山頭火と、漂泊、流浪の俳人が思い浮かびますが、山頭火十一歳のときに母は井戸に投身自殺、父は放蕩三昧で妾宅通いと、不幸な子供時代があります。こういう過去を持つと魂はデラシネ(根無し草)、放浪する、故郷喪失だから。この場合の故郷とは母性であります。女性だと愛を求めて迷える子羊ちゃんになるでしょう。女性の場合は父性でしょう。生涯、山頭火の念頭から母親が去ることはなかったでしょう。

うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする

放哉にはこれがない。一つ思いつくことは両親が案外クールな教育パパ、ママでなかったかと。そして放哉はこれに応えられるだけの真面目な秀才。このことが仇となり堕ちるところまで堕ちれたのかと想像します。

放哉、中学時代(明治30ー35)の句を少し掲載します。

きれ凧の糸かかりけり梅の枝
月代(つきしろ)や廊下に若葉の影を印す
水打つて静かな家や夏やなぎ
よき人の机によりて昼ねかな
古井戸や露に伏したる萩枯梗(はぎききよう)
湯所(ゆどころ)は白足袋穿いて按摩かな
寒菊や鶏(にわとり)を呼ぶ畑のすみ
行春(ゆくはる)や母が遣愛の筑紫琴(ちくしごと)
夕立のすぎて若葉の戦(そよ)ぎ哉
新らしき電信村も菜種道


を見ても非凡な句とも思えませんが、学友とこういう俳句を競い合う環境は、当時の一般の貧しい暮らしを想像すると、恵まれた階層の中に放哉はいたことになります。こういう恵まれた環境で育った坊ちゃん、嬢ちゃんが後年堕ちるところまで堕ちていく経過が少しは推量できます。

幼少年少女にに恵まれ、さらにその延長線上の人生を歩いてしまうと、放哉の場合は朝鮮火災海上保険会社支配人の地位までですが、おそらく結婚した女性も良家の娘だったのでしょう、こういう風に進んでしまうと、彼は一般の庶民レベルが羨望するような暮らしを、すでにしてしまったことになります。そしてこうした暮らしそのものが放哉という秀才には何の人生上の価値も産まなかった。ここから彼の苦悩が始まり、妻との諍(いさか)いも想像できます。どんどん酒に溺れ、「あーおれはこんな暮らしは捨てる」と家庭を飛び出し、一燈園に住み込む。しかし一燈園も彼が思っていた以上に人間関係は煩わしく、転々と諸方の寺に。寺を移転するたびにますます彼は作句以外の何物にも関心がなくなり、気力も衰えてきます。一般人としての生活もできなくなってきます。そして縋るようにして辿り着いたのが、小豆島の西光寺奥の院の南郷庵。

庵の様子については放哉自らが随筆「島に来るまで」で述べていますので、それを引用しておきます。

庵は六畳の間にお大師さんをまつりまして、次の八畳が、居間なり、応接間なり、食堂であり、寝室があるのでず。其次に、二畳の畳と一畳ばかしの板の間、之が台所で、其れにくつ付いて小さい土間に竈(かまど)があるわけでありまず。唯これだけでありますが、一人の生活としては勿体ないと重ふ程であります。庵は、西南に向つて開いて居りまず。庭先に、二タ抱へもあらうかと思はれる程の大松が一本、之が常に庵を保護してゐるかのやうに、日夜松籟潮昔を絶やさぬのであります。

東南はみな塞つて居りまして、たつた一つ、半間四方の小さい窓が、八畳の部屋に開いて居るのであります。此の窓から眺めますと、土地がだんだん低みになつて行きまして、其の間に三四の村の人家がたつて居りますが、大体に於て塩浜と、野菜畑とであります。其間に一条の路があり、其道を一丁ばかり行くと小高い堤になり、それから先が海になつて居りますので、茲は瀬戸内海であり、殊にズッと入り海になつて居りますので、海は丁度渠(みぞ)の如く横さまに狭く見られる丈でありますけれども、私はそれで充分であります。此の小さい窓から一日、海の風が吹き通しに入って参ります。それ丈に冬は寒いといふ事であります。

大松の北よりに一基の石碑が建つて居ります。之には、奉供養大師堂之塔と彫んでありまして、其横には発願主圓心禅門と記してあります。此の大松と、此の碑とは、朝夕八畳に座って居る私の眼から離れた事がありません。この発願主圓心禅門といふ文字を見る度に私は感慨無量ならざるを得ん次第であります。私より以前、果たして幾人、幾十人の人々が、此の庵で、安心して雨露を凌ぎ且つはゆっくりと寝させてもらった事であろう。それは一に此の圓心禅門といふ人の発願による結果でなくてなんであろう。圓心禅門といふ人は果たしてどんな人であったであらうかと、それからそれと思ひにひ耽るわけであります。

やっと安住の地に疲労困憊の身体を休めることができたのですが、読んでわかるように庵の構えは分限者の海浜の別荘といった雰囲気で、放哉、望外の終焉の住処です。もし私であってもあとパソコン設備がセットしてあり、クーラーと冷蔵庫と洗濯機と電子レンジがあれば、一人暮らしができそうです。

省みて子供の頃から貧乏で育つと、自分の眼前には羨望の的ばかり。あのような仕事をしてみたい、偉くなりたいとも思い、あのような家を建て、楽しい暮らしをしてみたいとも思う。捨てるものよりも得たいもののほうが多い、こういう気持ちだと放哉のように何もかも捨ててまっしぐらに堕ちていくというふうにはなりにくいのです。逆にやれるだけのことはやってみなければという向上心に結び付きます。この辺の心構えが坊ちゃん、嬢ちゃん育ちとは異なるのではないかと想像します。

貧乏人ほど見栄を張りたがりますが、元々の金持ちは見栄を張らないとも言われます。金持ちは物を大切にし金を使わないが、貧乏人ほど物を粗末にし粗末な物を次から次ぎと買ってしまう。貧乏性ほど物を捨てにくいが、金持ちは平気で人に物をやる、案外これらに近い心理が、放哉に無自覚に働いていたのかもしれません。

大正十四年八月一日、京都瀧岸寺より井泉水に差し出した葉書には、

淋シイ処デモヨイカラ、番人ガシタイ。
近所ノ子供二読書ヤ英語デモ教ヘテ、タバコ代位モラヒタイ。
小サイ庵デヨイ。
ソレカラ、スグ、ソバニ海ガアルト尤ヨイ

とあります。

放哉がなぜかような暮らしに惹かれたのかは後日の考察としまして、最後に枕頭の紙切れに書かれていました最後の句を載せておきます。

春の山のうしろか烟が出だした

JR福知山線脱線事故

2007-02-02 01:02:47 | 世相と政治随想
遺族の気持ちを逆なでするような、居直り的態度。ぼくはこの事故については、『祇園舞妓萌子の「JR福知山線大惨事を斬る」』で、少し長いものを書いています。被害者本人、家族にとって悲惨な事故であった。まだ無念は晴らされていないだろう。ゲラ体裁で載せておきます。お暇な時間にでもどうぞ。末尾にご案内。長い新聞引用だが、お許し頂いてまずこちらから。

 乗客ら107人が死亡した兵庫県尼崎市のJR福知山線脱線事故(05年4月)で、国土交通省の航空・鉄道事故調査委員会は1日、関係者や学識経験者から事故への見解を聞く意見聴取会を同省内で開いた。最初の公述人の丸尾和明・JR西日本副社長兼鉄道本部長は、無理なダイヤ設定などが運転士の焦りを招いた可能性があるとの事故調の見方に「ダイヤ設定は標準的で、定時運転は可能だった」と釈明するなど、焦点となっている企業体質と事故との直接的な因果関係を否定した。
 鉄道事故での聴取会は初めて。同日夕方まで行われ、JR西日本関係者や遺族、大学教授ら計13人が、事故調が昨年12月に公表した「事実調査報告書」への意見を述べる。事故調は聴取会で出された論点を参考にし、最終報告書をまとめる。
 午前10時から始まり、遺族や負傷者、一般の計164人が傍聴した。丸尾副社長はまず、犠牲者に対して「改めてご冥福をお祈りする」と哀悼の意を表した。無理なダイヤ設定との指摘には「独自調査しても、宝塚―尼崎間の運転時間は計画とほぼ同じ」と、適正ダイヤを強調した。

 また、事故現場を含めて新型ATS(自動列車停止装置)の設置が遅れた点には「当時は国による設置の定めはなく、カーブに必ず必要とは考えていなかった。運転士が大幅に制限速度を超えることはないと考えていた」と説明。さらにトラブルを起こした運転士に行っていた「日勤教育」にも言及し、「有益なことで、運転士には必要だった」と述べた。
 陳述後の質疑で、事故調の佐藤淳造委員長は「(事故調への)批判はかまわないが、原因や再発防止についての意見が非常にあいまい。今後どういうことが有効なのか具体的に話してほしい」と苦言を呈した。これに対し丸尾副社長は「事故原因は分かりかねるが、安全問題には全力で取り組んでいる」と釈明した。
 石井信邦・日本鉄道運転協会顧問の公述では、事故を起こした運転士が無線に気を取られてブレーキ操作を誤ったとする事故調の見方に対し「運転操作の記録を分析しても考えにくい」と疑問を呈した。遺族の山中秀夫さんは「JRは、息子と(趣味だった)鉄道旅行という私の大切な『二つ』を奪った」と陳述した。
 事故調は昨年12月にまとめた事実調査報告書で、死亡した高見隆二郎運転士(当時23歳)が運転ミスを気にしてブレーキ操作が遅れた人為ミス(ヒューマンエラー)が事故原因とする可能性を示した。さらに、運転士の焦りを招いた背景として、安全面を軽視していたJR西日本の企業体質を指摘していた。
 ■事故の「理由」知りたい…「安全」強調のJR西幹部に憤り
 国土交通省で1日午前始まった航空・鉄道事故調査委員会の意見聴取会。一般傍聴席150席と別に、JR福知山線脱線事故の遺族らのために25席が用意された。娘を奪われた怒りを胸に、鉄道関係の専門知識を独学してきた父がいる。亡き夫の写真を財布にしのばせて聴き入る妻の姿もあった。事故から1年9カ月。「亡くなった理由を知りたい」と東京まで傍聴に訪れた遺族らは、「安全」を強調するJR西日本幹部の公述に憤りもみせていた。
 兵庫県三田市の奥村恒夫さん(59)は、事故で京都女子大4年だった長女容子さん(当時21歳)を失った。土木技術者として建設会社に長く勤めた奥村さん。事故後、鉄道関係の専門書を何冊も読んだ。思い浮かぶ疑問の数々。争いごとが嫌いだった容子さんの意にはそぐわないかもしれないが、「JRへの敵討ち」の一念で、原因究明に向けて活動してきた。
 昨年5月、新型ATS(自動列車停止装置)の未設置など100項目の質問をJR西にぶつけた。だが、JR西は約2カ月後、「開示できない」との言葉が並ぶ回答書を送ってきただけだった。
 「なぜ106人もの乗客の命が奪われたのか。一つでも多くの『なぜ』に答えてほしい」。その思いで、足を運んだこの日の意見聴取会。だが、同社の丸尾和明副社長兼鉄道本部長が何度も「安全」を強調したことに、奥村さんは「これまで話したことの繰り返しで(事故調委員の質問への)回答も的外れ。何の進展もなかった」と話した。長女が犠牲になった大阪市の藤崎光子さん(67)も「JR西はミスや事故が相次いでいるのに安全なんて信じられない。事故を起こした反省を全く感じられなかった」と批判した。
   ◇   ◇
 同県伊丹市の岡由美さん(37)は、この日早朝の飛行機で上京した。夫和生さん(当時37歳)は、事故直前に購入したマンションから会社に向かったまま戻らなかった。1人で暮らすための新居になってしまった。
 昨春、負傷者ら乗客たちに呼びかけ、犠牲者の乗車位置をマップに書き込んでもらう取り組みをした。「夫が最期に見た景色を見てみたい」。そんな岡さんの思いに、協力の輪は広がった。午後の公述では、負傷者の小椋聡さん(37)がマップを披露する。互いにぎりぎりの精神状態の中で支え合ってきた。
 「自分の耳で事故の起きた理由を聞きたい。でも本当に知りたいのは、訳も分からないまま亡くなった和生さんたち乗客106人のはず。犠牲者に向けて公述してほしい」。和生さんの写真を入れた財布を手に、じっと公述人の話に聴き入った。【生野由佳、井上大作】
 ■ことば 意見聴取会
 事故調が、一般の関心の高い航空・鉄道事故の報告書をまとめる際、関係者や学識経験者を公述人に選び、事故原因にかかわる意見を聞くために開く。事故調設置法で定められている。これまでに航空事故だけで7回開かれた。会には、事故調の委員と公述人が出席。公述人は一人ずつ意見を述べ、委員から質問を受ける。公開制で一般も傍聴でき、今回は遺族も含めて493人が傍聴を申し込んでいた。
 ■JR福知山線脱線事故 05年4月25日午前9時18分ごろ、兵庫県尼崎市のJR福知山線塚口―尼崎間の右カーブで、宝塚発同志社前行き上り快速電車が脱線し、1、2両目が線路脇のマンションに衝突した。運転士と乗客106人の計107人が死亡、乗客555人が負傷した。兵庫県警が業務上過失致死傷容疑で捜査している。【2月1日 毎日新聞】

◆ご案内 
『祇園舞妓萌子の「JR福知山線大惨事を斬る」』