喜多圭介のブログ

著作権を保持していますので、記載内容の全文を他に転用しないでください。

鋭角的表現(18)

2007-02-21 15:04:33 | 表現・描写・形象
私の下手な創作をサンプルにするよりもやはりプロの作品を眺めてみましょう。昨日「鋭角的表現」で引用しました高樹のぶ子の『洞窟』を見てみましょう。 この作品は掌篇なんですが、あれ、会話体が一つもない。お見事。

純文学での会話体多用は慎重の上にも慎重を期したほうが、作品が緻密で、緊張感を伴い、読者を内容に引き込んでいきます。

とはいえ会話体の全くない作品が珍しいことは珍しい。そこで短編の名手、三浦哲郎の短編『マヤ』から引用します。書き出しのところです。短編の名手とは無駄語が一切なく、的確な語彙(ごい)で表現しているということです。

誘ったのは、マヤの方であった。
「ねえ、一緒にどこか遠くへいこうよ、お兄ちゃん。」

葉桜の下のベンチで、両足をぶらぶらさせながらそういった。赤いズック靴の片方が脱げて飛んだ。

お兄ちゃん、と甘く呼ばれて、耕二は悪い気がしなかった。つい、本当の心優しい兄のように、前の花壇の方まで転げていった靴を拾ってきてやると、どこへいきたいのか、動物園か遊園地か、と笑って尋ねた。

相手は五つ六つの女の子だから、遠くへといってもせいぜいそんなところだろうと思ったのだが、違っていた。
「遊園地だなんて。」とマヤは軽くせせら笑った。「もっと、ずっと遠くへよ。誰も知らないような、ずっとずっと遠いところへ。」

耕二は呆れてマヤを見詰めた。都会の子はませているとは聞いていたが、これほどだとは思わなかった。この齢で、ゆきずりにも等しい男を平気で誘惑しようとする。騙されまいぞ、と彼は思った。

二人は、もともと互いに顔も知らない赤の他人同士だったのだが、ほんの小半日前 に、ふとしたことから口を利き合う仲になったのであった。昼前、耕二が駅の自動両替機の前に立っていたとき、マヤが彼の太腿を指で突っついたのがきっかけであった 。
「悪いけど、あたしのも崩して。手が届かないの。」

マヤの紙幣は、真新しくて、きちんと四つに畳んであった。耕二は、替えた硬貨を手のひらに並べて見せてから、電車の切符を買うつもりかと訊いてみた。どうせ自動販売機にも手が届かないのだ。
「そうなの。ついでに買ってくれる?」
「どこまで?」
「どこでもいいの。」
 耕二は面食らって、困るな、そんなの、といった。
「じゃ、一緒でいいわ。どこまでいくの?」
「俺な。俺は新宿。」
「そんなら、マヤも新宿。新宿まで買って。」

おかしな子だと思ったが、頼まれた通りにするほかはなかった。マヤは、おつりを、肩から斜めに下げている小熊の顔を象ったポシェットに入れた。

二人は、一緒に改札口を通って、おなじ電車に乗った。車内は空いていたが、耕二はいつものようにドアの脇に立って外を眺めた。二年暮らした東京の街とも明日の朝にはおさらばしなければならない。雇われていた工事が終って、出稼ぎ仲間がひとまず解散するのである。耕二は北の郷里へ帰ることになる。東京の街もおそらくこれが見納めになるだろう。マヤはおとなしく耕二のそばにいて、電車が揺れると両手で彼の脚に抱きついた。そのたびに、彼は我に返ってマヤのおかっぱ頭を見下ろした。じゃれかかってくる小犬にも似た幼い躯の感触が、彼には新鮮で、悪くなかった。

新宿という街の雑踏には、きてみるたびに驚かされる。駅ビルを出るとき、耕二ははらはらして、これからひとりでどこへいくつもりなのかとマヤに尋ねないではいられなかった。マヤは小首をかしげていたが、逆に耕二の行先を尋ねた。彼は、とりあえ ず昼飯に好きなラーメンを食おうと思っていた。
「じゃ、マヤもそうする。おなか空いちゃったの。」

子供が嫌いではない耕二には、マヤを拒む理由はなにもなかった。彼は人込みのなかを歩き出したが、いつの間にか、はぐれないように手を繋ぎ合っていた。

多くはないですね。むしろ絶妙な箇所に短く会話を挟んでいる、会話と地の文の融合に絶妙の味を醸(かも)し出しているといってもいい。

プロの作品に引き比べてHP、ブログの「読んで! 読んで!」サイトの小説なるものは、やたら会話体が多い。会話体だけというのもあります。とても小説として読めたものではありません。私はこれらを漫才台本と呼んでいます。

作者が一人で漫才をしているのです。これはやってみると案外に気分のいいものです。受け答えを自分一人でするのは。気持ちがいいものだから延々と会話体になりやすいのです。

私も昔は会話体にそんなに神経は使いませんでした。無自覚に会話体を多用していたのですが、最近は会話体でやらなければならないシーンにくると、神経が鋭くなります。まず会話体でなく地の文で処理できないかと思案します。地の文で処理できればそれにこしたことはないのです。

皆さんもご自分の作品を点検して、ここは地の文で処理できないかな、と思案してみましょう。

会話体は読者に読みやすい反面、読書の感銘を水で薄めたようにしてしまいます。文学賞応募作品などは要注意です。下読みの担当者が水で薄めた作品は外しますので、一次通過も難しくなります。