喜多圭介のブログ

著作権を保持していますので、記載内容の全文を他に転用しないでください。

団塊の世代と文学・文藝(2)

2007-02-25 01:15:53 | 文学随想
ところがここに大きな問題点があります。何かといえばこれから団塊の世代によって読まれるべき本が、書店に出回っていないことです。よほどの作家でないと重版、再刊されていない事実です。このことは団塊の世代の読書好きはご承知かと思います。書店で探してもいまもてはやされている単行本、文庫本ばかりで、ぼくが読みたい本が見当たりません。

公共図書館は少しましですが、事情は同じです。つまり司書が若く、どうしても今風の書籍しか購入していない傾向が見られます。

団塊世代にとっては本があって本がないという、なんとも哀れな様相がいまの日本の出版界です。仕方ないのでどうしても入手したい本は、全国の古書店から直接入手しています。古書店は信用で持っていますので、トラブルはありませんでした。
スーパー源氏

そこで少し先を見通していた出版社、たとえば新潮社が電子本、CD-ROM版の「新潮文庫の100冊」を一巻、二巻と販売しました。ぼくは'''電子本については新しい試みと受け止めて否定はしません。が、普及するかとなると当初から疑問視していました'''。現に電車、バスの座席で電子本を読書しているヒトの姿は、これまで一人として見かけませんでした。ケイタイを指先で動かして何か読んでいるようですが、読書とは違うようです。

何よりも電子本は団塊の世代の読書センスとは異なるものです

ぼくは2002年の8月に「電子ブックの行方は?」というタイトルで書いています。少し長いが掲載しておきます。

私はパソコンのオペーレーションシステム(OS)がDOSの頃から文書を縦組で読める電子本(ブック)に関心を持ち、ネット上を探し回っていた。幸いなことにこういうソフトを見付けて,パソコンの画面上で縦に文章が読めたときは嬉しくなったものだ。

WINDOWS3.1になってからは電子本(Book Browser)は株式会社ボイジャーのEXPANDED Book Browserがほとんど独占状態になった。95年に新潮から『新潮文庫の100冊』というCD-ROMが定価15000円で売り出されたが、これにはEXPANDED Book Browserがセットされている。

ページ面を説明すると、16行×20字、ルビが打たれている。印刷機能はない。読みづらい文字ではないが、おとなの私としては画面に齧り付いて読むくらいなら、紙の本で読みたいと思ってしまった。なにより不便なのはパソコン画面でしか読めないことで、パソコンがないと用事のないシロモノである。

B5判ノートパソコンで読めるにしてもノートパソコンの重量を考えると、一冊の文庫本のほうが勝る気がした。

学生のうちは物珍しさもあってこれで本を読んでみようかということだろうが、私はとくに読んでみたいとは思わなかった。

それにこの程度の機能だと『新潮文庫の100冊』の用途が個人にかぎられていて、たとえば大学の文学部の教授が、これを使っての作品研究を学生とやろうとしても印刷機能がないからテキスト作成できない。あえてやろうとすれば20名の学生に一台ずつパソコンがなければどうにもならない。また印刷機能が付いても16行×20字では一頁ずつB5、A4用紙で印刷すればちょっとした作品では、紙消費量は大量なものになり、森林資源の破壊まで心配しなければならない。

EXPANDED Book Browserはその後ボイジャーから発売されたT-Time Ver.2.0に引き継がれていった。多少の機能アップはあっても基本的な文章読みでは変化はない。画像入りの本が読めるようになった分だけ、子供の玩具の趣にさえ堕落したのではないかと思ってしまう。

T-Timeの場合、必ずしもパソコンを必要とはしない。カシオからはl'agendaという携帯用の読書器が発売されている。画面は液晶である。電車で読書が一つの「売り」だがバッテリー切れの心配もあるし、私はこんな物で読むのなら一冊の薄い文庫本を携帯したほうが軽量ではないかと考えてしまう。やはり若者のいっときの玩具かなと思う。

T-Time形態で読ませようというのが文春の商魂、WEB文庫である。10代、20代の読者が少し飛びつく程度ではないだろうか。現に揃えてある電子ブックは平井和正著『月光魔術団』、『時空暴走 気まぐれバス』、半村良著『女神伝説』のような娯楽物が数冊揃っているだけだ。おとな向けの本が一冊もないところを見ると、文春自体がWEB文庫では読まないと踏んでいるのであろう。

T-Timeのソフト自体、まずいプログラミングソフトである。前身の『新潮文庫の100冊』は作品内容をテキストファイルとして抽出しようと思えばできる。著作権切れの作品ならばどうということもないが、大江健三郎などの現役作家の作品が抜き出され、無闇に流出するとなると、著作権侵害が発生する。

それに読書への見識ある作家だと、ぼくの作品をそんな物では読んで貰いたくない、と掲載を拒否するであろう。このことが現状の電子ブック普及にとっては最も大きな障害になる。

ほかに光文社電子書店がザウルスを電子本に変身させるTTVブックリーダ for ZAURUSやシャープ版TTVブックリーダ『ブンコビュア v2.11』で読める作品を販売しているが、いずれも画面が狭くて文字数が少ない。やはり子供の玩具レベル。買って使ってみようかという気にはならない。

ほかにテキストファイルとEXPANDED Book Browserで読めるファイルを販売しているパピレス電子書店がある。太宰治の『女生徒』が400円。
パピレス電子書店

見逃してはならないことは上記の携帯用 Book Browserでの本というのは、ペーパーブック通りの体裁ではないということ。底本通りの復刻は狭い画面に表示するのだからどだい無理な注文。一章、二章といった区分はあるだろうが、この程度のことで、つまりは文字内容だけを読むのである。

こうなると私のサイトのPDFによる書籍体裁のほうがずっと電子本らしい。こちらも三段組体裁であるから底本通りではないもののやれる範囲では底本の体裁に近似させてある。

Book Browserは世界中でフリーウェアソフトとして無料配布されている Acrobat Readerだから、T-TimeのBook Browserを2、3千円出して買う必要もない。体裁は雑誌『文藝春秋』の三段組を真似してある。一頁が400字詰原稿で6枚分、原稿用紙300枚の長篇でもA4縦刷りで50枚の紙消費ですむ。印刷印字は書籍並とくればおとなの読書人にはこちらのほうが適しているのではないか。小説はもとよりエッセーでも新聞社の連載記事でも、あるいは一年分の社説でもまとめて読める。太宰の作品だと『美少女』、『黄金風景』、『待つ』、『作家の手帖』、『富嶽百景』、『ヴィヨンの妻』、『姥捨』、『グッド・バイ』を収録してある。

ところで電子本でも趣の異なっているものとしては、平凡社の「世界大百科事典」のパソコン使用のCD-ROM版。小学館は8cmサイズのCD-ROM電子ブック版「日本大百科全書」を96年3月に発売している。

8cmサイズのCD-ROM版であればソニーが発売しているブックマンというBook Browserで読める。角川の8cmサイズのCD-ROM「広辞苑」といった辞典類などは、項目検索の迅速では書籍よりははるかに早い。書籍版はどれも重たくて書棚から抜き出すのさえ嫌になるし、家屋の床の加重負担もある。部屋のスペースも狭まるし、自分が死んだ後これはどう処分されるのかと余分なことまで思案しなければならない。

この点での利便性はCD-ROM版が勝っているが、ただブックマンの文字画面は狭くて見づらい。勉学途上の学生なら活用するかもしれないが、50代、60代ともなるとパソコン画面での検索ならしてもブックマン形式の読書器は使わないのでないか。

しかしながらパソコンで使える辞典・事典のCD-ROM版は、印刷機能やテキスト文抽出機能が付いていれば今後も伸び続けるだろう。全何巻という「世界大百科事典」、「日本大百科全書」を買うことを思えばこちらに手が出る。

いずれにしてもそれなりのお値段、誰もがおいそれとは購入できそうもない。

このように調査・分析してくると、電子本といっても娯楽ぽい短篇小説を読むためだけの携帯用電子本と、印刷して読むための電子本(パソコン画面でも読めるので一応電子本と呼ぶ)とに方向性が分かれるのではないか。

年配の人に訊くと、とてもブックマンなどで読む気がしないと言う声が多い。こうした人たちには、私がやっているPDFファイル形式が向いているかもしれない。印刷できれば活用範囲が広がる。紙であれば重要箇所に赤線を引けるしポスト・イットだって貼り付けられる。印刷したものをコピーすれば大勢が読める。背景、文字のカラー化も可能だがこれをするとモノクロプリンターだと逆に汚く印刷される。

本のように綴じられていないことも利点である。たとえば太宰治の作品について評論を書く場合、作品の一頁からすべての頁が必要なわけではなく、筆者が注目し引用したい箇所だけあればいい。こういった要求のときは本のその頁を引きちぎるということはやりずらいが、私の体裁のPDFは綴じられていないからその部分だけを机に置いて草稿を練ることができる。携帯の電子ブックではとてもこの芸当は無理だ。

現状のところ電子本の行方は見当たらないし、見当たるとしたら私のサイトのPDFに軍配が上がりそうな気がしている。