数え九歳で両親、兄弟の繋がりを絶たれた親鸞の胸中は、ほとんど晩年まで孤独であったと私は想像する。仏の悟りを得る得ないにかかわらず胸の寂寥は拭えなかっただろう。「フリーセックスへの呼び水」で昨今の切れる男女の様相を少し書いたが、幼児、少年少女期に親や他人からの虐待を体験したり、親、とくに母親の人肌の温もりから隔絶されて育ったひとは、ひとの温情を感じ取るこころのセンサーが毀(こわ)れている場合がある。ひとから親切にされると親切にされたことは理解できる、だから感謝の言葉を言ったり書いたりする。しかしひとの親切が温情として胸裡に蓄積されていくかというと、センサーが毀れているために胸裡には届かない。他人だけでなく親・兄弟から示された親切に対してもぶっきらぼうな感謝の応対をするだけで、こころから感謝を感じているようにはならない。
だからいっとき良い関係であってもちょっとしたことがきっかけで切れる言葉や態度を表にして壊してしまう。壊した後は防御的、断絶的状況を作り出し、アライグマが穴に閉じ籠もったような態勢をとる。親鸞とて同様ではなかったかと想像する。それだけに苦悩が深い。
『歎異抄』に親鸞の言葉として以下が伝わっている。
つまり親鸞は親のために拝んだことは一度もないと言っている。「一辺にても」とわざわざ言っている感情は冷たい。あとを読めば高邁な精神、仏の悟りに達しているのだが、親鸞の境涯を思うと親鸞には親・兄弟への愛情、温情は元よりなかったと思う。親鸞もまた温情を感受するセンサーの毀れたひとであった。ただ親鸞の偉さは自分が欠陥人間であることを強烈に自覚していたという点である。そしてこんな自分を克己、解脱しようと苦悩し、ひたすら法然に帰依した。穴籠もり人間とはここが違う。
親鸞は比叡山の修行に疑問を抱いただけではなく、比叡山暮らしが合わなかったのであろう。比叡山での足跡がないということは、尊敬すべき先輩僧や学友もいなかったことを物語っている。
欠陥人間の親鸞にとって法然上人との出会いは感涙にむせぶものだった。親・兄弟に流す涙は出なくとも、自分の救済者に出会えたことに感動する喜びは持っていた。親鸞は自らのことを書き残した形跡は少ないのだが、だから実在しなかったとまで疑われたのだが、この親鸞が法然との出会いを仏や菩薩の言葉を並べた引用だらけの『教行信証』に珍しく自分の言葉で記している。
教行信証は親鸞の主著であり、浄土真宗立教開宗の根本聖典。正式には『顕浄土真実教行証文類』という。全6巻。釈迦の言葉(お経)や弟子の言葉(論・釈)によって、「本願を信じ、念仏をもうさば仏になる」ということを体系的に著したもの。最後の部分に、法然上人との出会いを「愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す……」と感動を述べている。
また法然上人を語る言葉として『歎異抄』に「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と語っている。この「よきひと」とは法然のこと。
これまでの親鸞の人生は家族の暖かみや仏教の救いから落ちこぼれながらも、それを乗り越えるための求道だった。孤独な人生だった。そして初めて法然の言葉をとおして聞き得た念仏の教えだった。
浄土真宗では、「出会い」ということが大切なキーワードになっている。私たちの常識では姿を「見た」ということは「出会った」と言うこと。しかし浄土真宗ではそのものをそのようにさせている根元(因)に出合うことがなければ、そのものに出会ったことなはならないと教えている。法然の草庵には数百人の人が集まっていた。多くの民衆に混じって名のある僧侶も集まった。しかしその出合いは本当に確かだったのか。法然という偉いお坊さんの姿を見ていただけではなかったか。このことの「確かめ」が浄土真宗という教えの根幹であり、二十九才の親鸞の上に起こった、たった一度であり、しかも一生を支えていく事実だった。この出会いを成り立たせたものが、比叡山からの「落ちこぼれ」だった。
この間には色々な出来事があり、出会いをより深く確かめていく六年間となった。
しかしただ念仏して救われるなどという教えは、当時の仏教界からは受け入れられるはずがなかった。しかも法然は聴衆に菩提心(悟りを開こうと願う心)は必要がないと説いた。
これではそれまでの比叡山や奈良の仏教は成り立たない。悟りを開こうと厳しい自力行の修行をしていたのだから、法然や朝廷には多くの批判が寄せられた。法然の人徳で何とかしのいでいる有様だったが、このようなとき朝廷に仕える女官が法然の弟子に従って出家してしまうという事件が起こった。このことがきっかけとなり法然とその弟子の多くが死罪または流罪となった。僧侶の資格を奪われて罪人となり、法然は土佐へ、親鸞は越後へと流された。親鸞、法然との今生の別れとなった。親鸞三十五歳、法然七十五歳の出来事。
当時の世俗社会の中心は京の都。そして仏教界の中心は京都(比叡山)と奈良。親鸞は世俗社会の都からも罪人として追い出され、仏教界からも僧籍を剥奪された。その当時の社会を構成している二つの枠組みから落ちこぼれた。
切れる男女のことに戻ると、自分の精神を健全化するには場合によっては神経科への通院も大切だが、それよりも親鸞のように我執(エゴ)を捨て、仏の慈悲に頼ってみればいい。前半生を波瀾に生きた女流作家、瀬戸内晴美は天台宗大僧正今東光(作家)の得度によって剃髪、寂聴という尼となり哀れな女救済の仏の灯を灯し続けている。彼女もまた穴籠もり人間ではなかった。
親鸞三十五歳で越後に流罪。その当時、僧侶は罪人とすることはできなかった。還俗(俗人に戻す)させて、俗名を与えて流罪にした。俗名を藤井善信。
どのようにして越後にたどり着いたのかは詳細がない。国分(現在の直江津市)で流人としての生活を始めた。現在は五智国分寺の一角に「竹の内草庵」跡として、当時をわずかに伝えるものがあるがその他のことは不明。
延喜式によると、流人は貴賤男女大小を問わず一日米一升と塩一勺を支給され、来年の春になると種籾が与えられる。秋の収穫がすめば、米・塩・種子の支給は一切絶たれて、自給自足の農耕生活を強いられる。このようなことを考えると、北陸の地での生活は、京都で生まれ育った親鸞にとって、かなり厳しいものだった。
しかしいつのことか不明であるがこの地で恵信尼という女性と結婚生活をし一女をもうけていた。
親鸞を取り巻く環境は、自然環境を始めことごとく京都とは異なっていた。自給自足に近い生活であった。しかし親鸞にとってはこれまでの人生の中で、もっとも人間的な時間だったかもしれない。きっとそうだろう。このような厳しい環境を親鸞が生き抜けたのは、善し悪しもない、ただひたすら大地にへばり着き生きることのみにあくせくしなければならない、民衆の姿があったからこそである。民衆の「生きる」ことの凄まじさを目の当たりにした。それまでの僧としての文化人、教養人意識は粉微塵に崩れた。
親鸞が法然に出会えた喜びの背景には「落ちこぼれ」という自分への思いがあったが、親、比叡山、都、仏教界から落ちこぼれてきた親鸞の目前には、こんな思いなどは贅沢、どこにも通用しない困窮暮らしの民衆が存在した。親鸞は自らの「落ちこぼれ」意識は「思い上がり」だと覚っていく。自分の足が民衆と同等の大地に着いていないことを自覚した。民衆からも落ちこぼれていたのだ。
釈迦如来の教えは、いかなる地を生きるいかなる人々にも「生きよ」と命じている。親鸞は、その教えの意味を確かめつつ、民衆とともに大地を生きる人となっていく。北陸の地では美味い酒の味を覚えただけでなく、女との歓びも、念仏の教えも熟成させていった。
だからいっとき良い関係であってもちょっとしたことがきっかけで切れる言葉や態度を表にして壊してしまう。壊した後は防御的、断絶的状況を作り出し、アライグマが穴に閉じ籠もったような態勢をとる。親鸞とて同様ではなかったかと想像する。それだけに苦悩が深い。
『歎異抄』に親鸞の言葉として以下が伝わっている。
親鸞は父母の孝養(きょうよう)のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情(うじょう)は、みなもって世々生々(せせしょうじょう)の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生(じゅんじしょう)に仏になりて、たすけさふらふべきなり。わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を廻向(えこう)して、父母をもたすけさふらはめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生(ろくどうししょう)のあいだ、いずれの業苦(ごうく)にしずめりとも、神通方便(じんつうほうべん)をもって、まず有縁(うえん)を度(ど)すべきなりと云々
つまり親鸞は親のために拝んだことは一度もないと言っている。「一辺にても」とわざわざ言っている感情は冷たい。あとを読めば高邁な精神、仏の悟りに達しているのだが、親鸞の境涯を思うと親鸞には親・兄弟への愛情、温情は元よりなかったと思う。親鸞もまた温情を感受するセンサーの毀れたひとであった。ただ親鸞の偉さは自分が欠陥人間であることを強烈に自覚していたという点である。そしてこんな自分を克己、解脱しようと苦悩し、ひたすら法然に帰依した。穴籠もり人間とはここが違う。
親鸞は比叡山の修行に疑問を抱いただけではなく、比叡山暮らしが合わなかったのであろう。比叡山での足跡がないということは、尊敬すべき先輩僧や学友もいなかったことを物語っている。
欠陥人間の親鸞にとって法然上人との出会いは感涙にむせぶものだった。親・兄弟に流す涙は出なくとも、自分の救済者に出会えたことに感動する喜びは持っていた。親鸞は自らのことを書き残した形跡は少ないのだが、だから実在しなかったとまで疑われたのだが、この親鸞が法然との出会いを仏や菩薩の言葉を並べた引用だらけの『教行信証』に珍しく自分の言葉で記している。
教行信証は親鸞の主著であり、浄土真宗立教開宗の根本聖典。正式には『顕浄土真実教行証文類』という。全6巻。釈迦の言葉(お経)や弟子の言葉(論・釈)によって、「本願を信じ、念仏をもうさば仏になる」ということを体系的に著したもの。最後の部分に、法然上人との出会いを「愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す……」と感動を述べている。
また法然上人を語る言葉として『歎異抄』に「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と語っている。この「よきひと」とは法然のこと。
これまでの親鸞の人生は家族の暖かみや仏教の救いから落ちこぼれながらも、それを乗り越えるための求道だった。孤独な人生だった。そして初めて法然の言葉をとおして聞き得た念仏の教えだった。
浄土真宗では、「出会い」ということが大切なキーワードになっている。私たちの常識では姿を「見た」ということは「出会った」と言うこと。しかし浄土真宗ではそのものをそのようにさせている根元(因)に出合うことがなければ、そのものに出会ったことなはならないと教えている。法然の草庵には数百人の人が集まっていた。多くの民衆に混じって名のある僧侶も集まった。しかしその出合いは本当に確かだったのか。法然という偉いお坊さんの姿を見ていただけではなかったか。このことの「確かめ」が浄土真宗という教えの根幹であり、二十九才の親鸞の上に起こった、たった一度であり、しかも一生を支えていく事実だった。この出会いを成り立たせたものが、比叡山からの「落ちこぼれ」だった。
この間には色々な出来事があり、出会いをより深く確かめていく六年間となった。
しかしただ念仏して救われるなどという教えは、当時の仏教界からは受け入れられるはずがなかった。しかも法然は聴衆に菩提心(悟りを開こうと願う心)は必要がないと説いた。
これではそれまでの比叡山や奈良の仏教は成り立たない。悟りを開こうと厳しい自力行の修行をしていたのだから、法然や朝廷には多くの批判が寄せられた。法然の人徳で何とかしのいでいる有様だったが、このようなとき朝廷に仕える女官が法然の弟子に従って出家してしまうという事件が起こった。このことがきっかけとなり法然とその弟子の多くが死罪または流罪となった。僧侶の資格を奪われて罪人となり、法然は土佐へ、親鸞は越後へと流された。親鸞、法然との今生の別れとなった。親鸞三十五歳、法然七十五歳の出来事。
当時の世俗社会の中心は京の都。そして仏教界の中心は京都(比叡山)と奈良。親鸞は世俗社会の都からも罪人として追い出され、仏教界からも僧籍を剥奪された。その当時の社会を構成している二つの枠組みから落ちこぼれた。
切れる男女のことに戻ると、自分の精神を健全化するには場合によっては神経科への通院も大切だが、それよりも親鸞のように我執(エゴ)を捨て、仏の慈悲に頼ってみればいい。前半生を波瀾に生きた女流作家、瀬戸内晴美は天台宗大僧正今東光(作家)の得度によって剃髪、寂聴という尼となり哀れな女救済の仏の灯を灯し続けている。彼女もまた穴籠もり人間ではなかった。
親鸞三十五歳で越後に流罪。その当時、僧侶は罪人とすることはできなかった。還俗(俗人に戻す)させて、俗名を与えて流罪にした。俗名を藤井善信。
どのようにして越後にたどり着いたのかは詳細がない。国分(現在の直江津市)で流人としての生活を始めた。現在は五智国分寺の一角に「竹の内草庵」跡として、当時をわずかに伝えるものがあるがその他のことは不明。
延喜式によると、流人は貴賤男女大小を問わず一日米一升と塩一勺を支給され、来年の春になると種籾が与えられる。秋の収穫がすめば、米・塩・種子の支給は一切絶たれて、自給自足の農耕生活を強いられる。このようなことを考えると、北陸の地での生活は、京都で生まれ育った親鸞にとって、かなり厳しいものだった。
しかしいつのことか不明であるがこの地で恵信尼という女性と結婚生活をし一女をもうけていた。
親鸞を取り巻く環境は、自然環境を始めことごとく京都とは異なっていた。自給自足に近い生活であった。しかし親鸞にとってはこれまでの人生の中で、もっとも人間的な時間だったかもしれない。きっとそうだろう。このような厳しい環境を親鸞が生き抜けたのは、善し悪しもない、ただひたすら大地にへばり着き生きることのみにあくせくしなければならない、民衆の姿があったからこそである。民衆の「生きる」ことの凄まじさを目の当たりにした。それまでの僧としての文化人、教養人意識は粉微塵に崩れた。
親鸞が法然に出会えた喜びの背景には「落ちこぼれ」という自分への思いがあったが、親、比叡山、都、仏教界から落ちこぼれてきた親鸞の目前には、こんな思いなどは贅沢、どこにも通用しない困窮暮らしの民衆が存在した。親鸞は自らの「落ちこぼれ」意識は「思い上がり」だと覚っていく。自分の足が民衆と同等の大地に着いていないことを自覚した。民衆からも落ちこぼれていたのだ。
釈迦如来の教えは、いかなる地を生きるいかなる人々にも「生きよ」と命じている。親鸞は、その教えの意味を確かめつつ、民衆とともに大地を生きる人となっていく。北陸の地では美味い酒の味を覚えただけでなく、女との歓びも、念仏の教えも熟成させていった。