喜多圭介のブログ

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落ちこぼれ親鸞(4)

2007-02-11 17:55:00 | 宗教・教育・文化
法然上人の仰せ「ただ念仏」に頷き、その他の行は捨てたはず。にもかかわらず、念仏以外の行で民衆救済を願っていく親鸞がいた。

この出来事は親鸞が五十九才の時、風邪をひき高熱を出して夢の中で思い出したことだった。十七、八年経っても未だにそのことを引きずっていた。

悟ったと思えた「親鸞にも迷いがあったのだ」と思えてくる。親鸞の一生は迷い続けていく生涯だった

ここで思い出すことは、いつだったか、五十過ぎの男性から「書いた物」を出版できないか、ノート三冊分あるので単行本三冊にはなると。文芸社に原稿を送ったら自費出版ならという話であった。HPにも一部掲載してあると書いてあったので、彼のサイトを訪ねてみた。少し走り読みした。これは駄目だ、と即断した。本にする文章ではなかった。サイトの文章には小説ではなくとも切々とこちらの胸に訴えかけてくる手記という形もある。しかし彼のは単なる作文だった。それもなにか悟り澄ましたような文章で、自分は自然とともに生きたいと、誰でもが思いつきそうなことが書いてあった。

エッセーを読んで涙を流されるひともいたとも。私自身自分の書いた物に涙することがあるとも。どうも自己陶酔気味だな、と私は正直辟易(へきえき)した。なにか新興宗教臭い。メールのほうを注意して読むと、三十年間の某宗教の信者であった。その新興宗教のサイトもあるということでそこにもアクセスしたら、なんとも陰気な雰囲気で掲示板しかなかった。信者が「何もおかげがない、集会に行くたびに金もかかるので止めようかと思う」とかの書き込みに「ちょっとお待ちください、それは早計なお考え」と管理人が返答しているという具合。

こんなものの信者だったのかと、だからあんな風な悟り澄ましたことを書いて仲間内で持ち上げて貰うことに得々としていたのだ。「自然とともに生きる」とメールに書いてあったが、「おかげ」がないのか現実の彼は体を壊し、親族縁者に借金して暮らしていた。奥さんも働いていた。私は周囲、家族を構わず、自分一人で自己満足して生きている男が好きになれない。

その上に私が出版費用を全額持つ企画出版の話だった。企画出版はどこの出版社にしても社の命運をかけた大仕事だ。自分の書いた物がこれに見合うものであるかの現状認識が彼にはまったくないようだった。

私にはひとは死ぬまで悟りきれないのだ、という思いがある。変に悟ったことを言う人物はマヤカシでないかと疑うことにしている。

仏門にいる親鸞とて同様なのだ。

このときも佐貫の苦しむ衆生を前にして、「おまえは何ができるか」と自分に問うた時、ふと思い立ったのが「三部経」読誦だった。

思い返してのち念仏を称えて民衆救済を願ったかといえば、そのようでもない。

私たちは苦労から逃れて仏教に救いを求めるとき、何かの苦行の結果として救いがあると考えがち。親鸞は行の中から念仏一つを選び、その他を捨てたのだと思ってしまうがそうではなかった。

親鸞が捨てたと言っているのは、「あてにする心」。「あてにする心」とは自分には選択力があって、「あれがいい」とか「こっちの方が効果がある」と選ぶ心。その心が問われている。そのことを問うているのは、私ではなく限りない智慧の光(阿弥陀)の働きと親鸞は悟っていた。

私たちができる仏教の行の中で、いちばんたやすい行が念仏。だから「易行」とも言う。阿弥陀如来が、多くの行の中から念仏を選び私たち衆生に勧めるのは、単にたやすいからではない。たやすければたやすいほど、「あてにする心」が浮き彫りになってくる。楽ほど怖いものはない。だが楽のなかにこそ往生の道があるとすればこの「楽」とは何か。

数ある行の中で最もたやすいといわれる念仏からも親鸞は一時期落ちこぼれた。しかし「あてにする心」が問われ、「念仏」から落ちこぼれたことが、そのまま親鸞の姿を照らしだす阿弥陀の存在への確信となった。

これは人間の起こす行ではない。阿弥陀が選び阿弥陀が差し向けた行だと覚ると、「あてにする心」で称える念仏からどれだけ落ちこぼれようとも、いっこうにかまわないとなる。そのことを覚ると親鸞には念仏が「いよいよたのもしく」思えてきた。『歎異抄』に「他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」とある。煩悩に惑わされている痛ましい自分の姿を見出し、親鸞はこのことに阿弥陀のはたらき(他力の悲願)をますます確信するようになった。どうしようもなく落ちこぼれていく自分の姿に、逆に阿弥陀の大慈悲を感じ取っていく

ここで私が以前から気に掛かっている人物を紹介しておこう。

渥美清が寅さんシリーズの完結後に演じたいと山田監督に希望していた人物である。二人して墓前に詣でている。尾崎放哉、後半生の人生は「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」の実践だったのだろうか。妻子からみればなんと身勝手、なんと暗澹とした晩年ではなかったか。私は十五年近く、彼の生涯を思案しているが結論を得ていない。二度墓前に立ったが、初めて墓前に立ったとき、暗鬱とした予感がよぎって不吉な気分を味わった――もしかしたら自分の最晩年の姿かもと。病床で酸素吸入とリンゲル注射の管と喉に栄養物の管を差し込まれている姿とどちらがいいのだろうか?

尾崎放哉記念館