喜多圭介のブログ

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落ちこぼれ親鸞(3)

2007-02-11 15:40:44 | 宗教・教育・文化
親鸞は流罪以降の名として、自らを「愚禿」と呼ぶようになった。「愚」とは、おろかの意。自分には智慧もなく、しかし智慧があると思い込み、その智慧をたよりとして人を傷つけ、自分だけ泥沼からはい上がろうとする。そのことに気づくことも痛みもない、そんな愚かな自身の姿を表した呼び名。

深い自己反省のようにも聞こえるが、「愚」とは自己反省の中にもある密かな自己肯定、反省によって向上するのではないかという、執拗な期待感をも見抜いた表現でもあった。愚かさの徹底でありながら、決して暗さのない「自覚」。如来のまこと(真実)が自分のところまで届き照らしていたからこそ、自覚し得た呼び名かもしれない。

この世にこころを病んでいる男女、とくに私は自称フェミニストだから、病んでいる女性を知るとたまらなくなるが、同時に力のなさをも痛感して自己嫌悪に陥る。だが脱出も早い。中学生の頃に武者小路実篤の作品を読み過ぎたせいだ。

「愚」とは、自らへの愚かさへの悲しみと、如来の光に照らされている自覚への随喜の表現。愚かであることをごまかし、「落ちこぼれ」であることに目を閉ざして、「向上心」をたよりとする生き方との決別宣言。

師法然上人からいただいた「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」との教えの実践でもあった。

一般に向上心は奨励されるべき言葉として使われる。私たちはやがて来るであろう栄光を期待して努め、幸福の材料である金銭、地位、健康を集めようとするが、どれだけ努めても望む栄光には届かない。一生はただ努めるだけで終わっていくひとは多い。「向上心」とは裏を返せば、現状の自分を認知しがたい、満足を知らない心とも言える。人間の「生」を支えているのは、希望や夢ではなく「不満」の心でもある。

だが「不満」の心に弄(もてあそ)ばれることほど愚かなことはない。テレビドラマ「北の国」の田中邦衛演じるところの黒板五郎の生き方はどうだろうか。あるいは故渥美清が演じた寅さんの生き方はどうだろうか。

「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」、これは『末灯鈔』という親鸞の手紙を集めたものの中に出てくる言葉。

「禿」は、髪の毛のまばらな頭のことを指す。僧侶であるならば頭を剃り、僧侶でないならば髪の毛を伸ばすが、そのどちらにも属していないことを表している。「僧」からも「俗」からも落ちこぼれていながら、本当の落ち着き所として見つかった念仏者としての自分の姿、ここから立ち上がった親鸞の自覚。

『教行信証』の最後に、「真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字をもって姓とす」と、流罪を縁に「禿」と名乗ったことが書かれている。

越後に流されてから足かけ五年を経て流罪が解かれた。この時期に法然は亡くなっている。親鸞が関東に家族を伴って移ったのは、四十歳を過ぎてからのことだった。

どのようなことが理由で関東に旅立ったのかははっきりとしない。妻恵信尼につながる三善家の領地が関東にあったからとも解釈されている。

当時の関東は京都から見れば辺境の地だったが、茨城県の鹿島神宮には大蔵経が所蔵されており、新興の文化圏でもあった。親鸞が法然より与えられた大切な課題、旧来の仏教と決別、「ただ念仏」と念仏一つを選び取った理由を明らかにすることだった。

「歎異抄」に「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と、法然上人からいただいた言葉として書かれている、この課題だった。

このことを教理の上から明らかにするため、大蔵経のある関東の地を積極的に選んだとも解釈されている。のちの親鸞の行実から想像すると、このことがもっとも大きな理由の一つであったと思われる。そしてやがては「教行信証」という書物となる。

「ただ念仏」を課題にしながらも関東に移る途中で一つの出来事が起こる。

恵信尼の手紙によると、佐貫(さぬき)の辺りで、衆生利益のために「三部経」を千部読誦(どくじゅ)する事を始めた。しかし四、五日の後「人の執心、自力の心は、よくよく思慮あるべし」と思い返して経典読誦をやめた。

この頃関東では大飢饉が起こり、多くの人が亡くなっていった。その時思いついたのが、「三部経」読誦による民衆救済だった。これは経典読誦の功徳により、色々な利益を得ようとするもので、それまでの仏教では当然のことだった。