喜多圭介のブログ

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読書人

2006-12-31 11:52:43 | 宗教・教育・文化

新聞(ウェブニュースは読んでいるが)やテレビも見ない暮らしをしている。こうしないと読書に時間がとれないだけでなく集中できない。

 

ぼく個人の人生でなにより感謝していることは両親が、ぼくを読書好きに産んでくれたこと(多少は育つ環境が関係している)、本の内容にもよるが読書して五分の一、二は理解できる知能のあるように産んでくれたこと、アルコールよりも飴好き(甘党)に産んでくれたこと、一人で静かに暮らせるように産んでくれたこと、社会の在り方を批判することはあってもぼくの境遇については不平不満を抱かないように産んでくれたこと、究極の処では鬱に陥らないオプティミスト(楽観論者)に産んでくれたことなどである。

 

このうちでも読書好きに産んでくれたことは、生まれてきて良かったと思う最大の要因である。母親の胎内の温かい羊水(ようすい)に丸まった姿勢で浮かんで眠っているのも居心地は良さそうだが、これでは読書は無理なのでやはり現世に押し出してくれてよかった。

 

絵本、童話、少年雑誌、講談本、探偵小説と経て、十代中頃からは人生論、哲学、心理学、宗教と進んできた。二十代に乗るまでは文学は武者小路実篤、有島武郎の小説を読む程度で、そんなに読書したい気は起こらなかった。ただ武者小路実篤の作品は相当数読破したので、ぼくのオプティミスティクな面はこの頃に育てられた。この頃に太宰治の作品に耽溺(たんでき)していたならば、案外早い時期に自殺していたのではないか。

 

人生論、哲学に耽溺していったのは子どもの頃から厭世観(えんせいかん)があり、生きている意味を探りたい気持ちが強かったのであるが、気質・性格も無関係でないと心理学にまで手を伸ばしていった。

 

二十歳を過ぎた頃に書店で『文藝首都』という同人誌を手に取ったのが、創作の目覚めであった。『文藝首都』は丹羽文雄主宰の「文学者」、小谷剛主宰の「作家」と並ぶ全国的同人誌で保高徳蔵が主宰、芝木好子、大原富枝、半田義之、上田広、北杜夫、なだいなだ、佐藤愛子、田辺聖子、中上健次、勝目梓などを輩出した。

 

この同人誌は原稿百枚前後、二十枚から五十枚の短編、原稿三枚程度の掌篇と分けられており、入門者はまず掌篇からのスタートであったが、いきなり短編を創作して掲載されるヒトもいたと思う。

 

ぼくが加入していた時期は二年ほどであったが、中上健次、勝目梓が短編で活躍していた。

 

とくべつ作家になろうという野心もなく、小説の書き方がわからなかった。創作よりも読書のほうが楽しく、なにより掌篇を気に入っていた。そのうち川端康成の作品に『掌(てのひら)小説百篇』(?)上下の文庫本を書店で見付けて、これなどを参考にぼくも掌篇を原稿用紙に創作しはじめたのだが、三枚でも物語を完結するのに苦労した。どうも空想癖が乏しいのか、物語風にならない。それでも書き上げると今度は小説と作文の区別は何処にあるのかと悩む。悩んでいるうちに書くよりは読む方が楽しいと読む方に廻る。しかし小説を読むよりは哲学書を読む方が面白いと哲学に戻る。一向に文学の創作修行は進展しない。

 

いまでもそうで創作よりは読書の方が楽しい。そのうち屁理屈を思い付く。創作は創った作品を他人に読んで貰いたいという欲望があるから創るのではないか、ぼくにはこの欲望がない。だから創作への情熱が湧かないのではないかと。さらに後年になって気付くことは自分の書いた物を本にしたいヒトが結構いる。ぼくの長年の文学仲間にもこういうヒトがいる。褒められた小説でもないのに自費出版する。自費出版した本を送り付けてくる。出版パーティまで自分でお膳立てして悦に入っている。ぼくにはこうしたことで自己満足する気持ちがほとんどない。

28歳のとき英国に長期滞在した。帰国はアリスの「秋止符」を聴く頃であった。ぼくは文字は右で書くがボール投げは左、本来ギッチョなんだろう。歌詞が気に入ってよく耳を傾けていた。すると無性に小説を創作してみたくなった。80枚ほどの作品で題名を『秋止符』として同人誌に掲載したら、「文学界」の同人誌評でベスト5にランクされ、芥川賞の下選考作品になった。このことで小説はこんな風に創作するのかと、多少納得するものがあり、次にまた原稿80枚ほどで『淀川河川敷』を創作した。これは「文学界」では無視されたが、毎日新聞、神戸新聞の同人誌評でピックアップされた。

 

小説を創作することに自信がつき始めた頃であったが、一方では二人の娘を育てるための金儲けの時期でもあった。創作だけに気持ちを集中することはできなかった。そうなるとまたも読書に、それも小説ではなく哲学、心理学の書物を読み耽(ふけ)った。