喜多圭介のブログ

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言語について

2007-01-02 10:09:37 | 宗教・教育・文化

五年前から短歌も作るようになったが、小説や現代詩を創作するぼくが、言語とは人間にとってどんな機能を果たすことなのかを考察することは、かなり重要なことだと考えている。


 


随分昔のことだが「奇跡の人」という洋画を観た。子どもの頃から盲人で聾唖(ろうあ)という三重苦を背負った、7歳のヘレン・ケラーを教育するサリヴァン夫人とヘレン・ケラーの互いの人生を掛けた凄まじい格闘劇といってもよい、感銘の残る映画であった。7歳のヘレン・ケラーは獣に等しい状態であった。きょうは内容の一部を採り上げて人間の言語活動について考察してみる。ヘレン・ケラーについては以下に概要がある。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%BC


 



 私は非常に重要なことが起ったので、今朝あなたに手紙を書かなくてはなりません。ヘレンが、彼女の教育上、第二の大きな進歩をしたのです。彼女は、どんな物も名をもっているということ、そして、手のアルファベットが彼女の知りたいと思っている、あらゆることに対する鍵であるということを学びました。(夫人はヘレンに物を触れさせるとヘレンの掌にその物の名前を書いて、一つ一つ覚えさせていた)


 


 ……その朝、彼女が顔を洗っていたとき、彼女は水という名前を知りたいと思いました。彼女が何かの名前を知りたいと思うとき、それを指(さ)して、私の手をそっと叩くのです。私はwaterと綴りました。そして、朝飯の後まではそのことは何も考えませんでした。……〔その後で〕私達はポンプ小屋に行きました。そして、私はヘレンに私がポンプをおしている間、水の出口の下に、コップをもたせておきました。冷たい水がどっと流れ出てコップを充たしたときに、私はヘレンの、何も持っていない方の手に、waterと綴りました。手の上にかかってくる冷たい水の感覚に、密接に結びついてきた、この言葉は、彼女を驚かしたようでした。彼女はコップを落し、釘づけにされたように立っていました。新しい光明が彼女の顔に現われてきました。彼女は数回waterと綴りました。それから彼女は地上にしゃがんで名をきき、ポンプと垣根を指さしました。そして急に振返って、私の名をきいたのです。私はteacherとつづりました。家に帰る途中彼女はすっかり興奮していて、さわるものの名前をみな覚えましたので、数時間のうちに、彼女は彼女の知っている言葉に、新しい言葉を三十もつけ加えたのでした。翌朝、彼女は輝いた仙女のように、起き上りました。彼女は物から物へ眼を移し、すべての物の名前をきき、非常によろこんで私にキッスしました。――今や、すべての物が名前をもっているはずです。どこに行っても、彼女はうちで学ばなかった物の名前を熱心にききました。彼女は友達に綴ることを熱望し、会う人ごとに、字を教えてくれとせびりました。彼女は代るべき言葉を用い始めるや否や、それまで使っていた合図と身振りをやめました。そして新しい言葉を覚えることに、最も生き生きしたよろこびをおぼえるのです。そして、私たちは、彼女の顔が毎日毎日と豊かな表情となるのに気づいているのです。(下線は喜多)


 


昨今はペットブームで、犬の暮らしとか猫の暮らしという雑誌まで発刊されているようだ。犬猫と暮らしていると婚期が遅れるとか、結婚することが大儀になる女性もいるようだし、熟年離婚した女性が、その後はペット相手に暮らしている話も聞く。


 


猫が飼い主に忠実であるかどうかは疑問だが、犬は忠犬ハチ公で通っている。チンパンジー、イルカもそうだが、こうした動物は人間の言葉を解しているかのように振る舞う。怒り、恐怖、絶望、哀しみ、訴え、願望、陽気さや楽しさまで身振りで表出するのであるから、厄介な男と暮らしているよりは、ペットと暮らしている方が楽かもしれない。


 


専門家は動物たちの言語を動物言語と呼んでいる。情動言語(emotional language)である。人間の赤ちゃんは一時期はこれを使うし、狂人もこれを使う。7歳のヘレン・ケラーの感動的なエピソードを紹介したが、実は彼女はこの時点まではサリヴァン夫人によって、一つ一つの物の名前をスローテンポで覚えていったのであるが、これは犬猫の情動言語の範囲であった。それがある日突然先の体験を通じて人間の言葉、命題言語(propositional language)を悟るのである。


 


命題言語とはシンボル(象徴)である。人間と他の動物との区別はシンボルを扱っているかである。だから人間はシンボルを操る動物と表してもいい。ペットが人間に動物言語で反応するのは、人間が出すサイン(合図)、シグナル(信号)に反応しているに過ぎない。人間の言葉を命題言語として反応しているのではない。音声も犬猫にとってはサインである。したがって犬猫、チンパンジー、イルカは人間がいくら教育しても人間と同じレベルには到達しない。ヘレン・ケラーもそうであったが、7歳の体験で突如として命題言語を理解したのである。


 


この結果、ヘレン・ケラーは後年偉大な女性へと成長したのであった。


 


命題言語の定義を理解することはなかなか難しいが、情動言語の特徴を述べることである程度の輪郭は得られる。犬猫、チンパンジー、イルカの発音の範囲は、全く主観的であり、情動を表出することができるだけで、決して物を指示したり、記述したりすることはできない。たとえば飼い主が忠犬ハチ公と野原を散歩しているとき脳卒中か何かで倒れるとする。忠犬ハチ公はこういう場合、家族の処にとって返しサインめいた身振りを示すことがあるが、このとき人間のほうが、その身振りから飼い主の変事を推察すれば飼い主は助かるかもしれない。しかし、だからといって忠犬ハチ公が人間の駆使する命題言語を使ったとは言えない。


 


別の角度から説明すると動物の条件反射は、人間のシンボル思考の根本的特徴と甚(はなは)だしく異なっているのみならず、反対でさえある。シンボルはたんなるシグナル(信号)に還元することはできない。できれば将来ロボットがターミネータ(アーノルド・シュワルツネッガーが演じた殺人ロボット)のような人間に化することが可能であろうが、シグナルとシンボルは理論上、二つの異なった世界に属する。すなわちシグナルは物理的な存在の世界の一部であり、シンボルは人間的な意味の世界の一部である。シグナルは一種の物理的または実体的存在であるが、シンボルはただ機能的価値のみを持っているのである


 


かりに人間の言語が犬猫のようにサイン(合図)・シグナル(信号)といった感覚だけで成り立っているとしたら、三重苦のヘレン・ケラーにとっては絶望的である。ヘレン・ケラーは人間的知識の源泉を奪われたことになる。それは現実からの島流しといってもよい状況である。しかし彼女はある日突然、人間の言語がシンボルによって成り立っていることを悟ることによって、急速に言葉数を増殖していった。
 


このことから指摘すると、社会の場での人間との接触を拒みペットと暮らしている人たちは、全身とまではいかないが半身は情動言語の世界に埋没しているのかもしれない。こうした傾向のヒトがたまに他人と会話すると、すぐに唸ったり吠えたり(切れる)の症状を起こすかもしれない。切れるところまでいかないヒトは鬱に陥ったりする。


 


つまり命題言語による人間関係のトレーニングをさぼっていると、現代病と呼ばれる神経症に悩むことにもなる。



◆追記――情動言語と命題言語についての理論はドイツの哲学者カッシラーの『人間』(岩波文庫、宮城音弥訳)に詳細がある。文中のヘレン・ケラーに関するサリヴァン夫人の記録は、この本より引用した。