喜多圭介のブログ

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落ちこぼれ親鸞(5-2)

2007-02-11 18:08:03 | 宗教・教育・文化
私はこの件でもセンサーの毀れた親鸞を見ることになる。確かに親鸞の処置は今後の浄土真宗のことを考えると正しかった。しかし一人間として親鸞を見ると八十四歳にして妥協を知らない親鸞の冷酷無比の精神に触れる思いがした。

一昔に連合赤軍の若者達にそれまでの仲間をリンチ、死に至らしめた事件があった。殺したがわには妥協がない。彼らと親鸞を同一列には並べられないが、いくら社会正義だ、革命だと叫んでも連合赤軍の面々のこころのセンサーは毀れていた。

親鸞には「暖かい家族に囲まれて」というような境遇は無縁だった。親鸞は夫としても親としても落ちこぼれた八十四歳の一老人

関東を離れたのちも幕府からの念仏者への迫害が次々と起こる。外からの力により念仏者の信仰が問われてきた。また念仏を申す仲間の中からも「造悪無碍」という問題が起こってくる。「念仏はいかなる罪をも滅する力があるから、どのような悪を犯そうともかまわない」という念仏への間違った理解。「悪いことをすればするほど救われる」という有名な悪人正機の教えとなって誤解が広まった。

実は私が高校生の頃から『歎異抄』を読み出したのは、誤解した悪人正機への魅力だった。以下は『歎異抄』にある有名な文章。私もこれにやられた。高校生の私の罪意識はわずらわしい「性」の問題だった。純愛中でも性の妄想に悩んだ。

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるを哀(あわれみ}たまいて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因(しょういん}なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰さふらひき。

同じく『歎異抄』には「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々」とある。

しかしこの言葉は、知らず知らずのうちに犯している罪の深さへの懺悔(仏教用語では、サンゲと読む)と、罪深い私にも無条件に至り届いていた言葉と光への感動を指し、そしてその罪が、どれだけ重くともその罪を引き受けて、決して悔いることのない勇気を与えると教えているのであって、悪いことをしろと奨励はしていない。が元からの悪人は「悪いことをしても極楽往生できるのだ」と手前勝手な解釈で悪を積み重ねた。

阿弥陀に出会うとは、必ず自らの罪の深さに出会うという一面を持っている。それを自分の野望や都合を正当化するために、念仏の教えを誤利用していくあり方を「罪福信」と言う。「造悪無碍」もそのひとつ。一切のものを自分の都合をかなえるための材料にしていくという私たちのあり方が「自力」と言われるものであり、他力を教える念仏もそのような中で受けとめられていった。

わたし達はついつい努力という言葉に乗って自力で生きようとする。これはこれで悪いことではない。しかしながら自力ではどうすることもできないことも多い。というより現代社会では多すぎる。自力の迷路の壁に絶望して自殺したり、壁を自暴自棄に足蹴りしたりするが痛みは我が身に返ってくる。。

自力についてはもう少し親鸞の言葉に添って見ておこう。

自力の解釈については末燈鈔で「自力ともおすことは、行者の各々の縁に随いて、余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わが計の心を以て、身、口、意の乱れ心を繕い、めでとう為なして浄土へ往生せんと思うを自力と申すなり」と親鸞は言っている。

「わが身をたのみ」とは、自分の能力、自分の働きを頼りにして、私の可能性を信じる深い自己肯定の心。「わが計の心をもって」とは、自分の行い、言葉、心のもち方を、悪い所は直し善い所は伸ばすように心がける。「めでとうなして」は立派にする。「浄土へ往生せんと願う心」は、宗教を達成しようとする。これを自力というのだと言っている。

浄土へ往生するとは死ぬことではなくて、小さな殼を破って大きな世界に出ることである

自力とは自分の力と書いてあり、自力更生というから善いことだと思うが、これは聞違い。本当は自力のはからいをいう。それが打ち消されたところ、否定されたところ、超えられたところを無義という。

無義とは何か。念仏においては、はからいがないということである。

自力は今日的解釈では我(エゴ)である。この我を超えられたところに本当の念仏の世界がある

科学技術の進歩発展は人類の自力の姿であったが、この自力に巨大資本の錬金術師的野望という自力がジョイントされると、地球の隅々までに野望と享楽と怠惰が行き渡った。これを文明の進歩とも発展とも呼んでいるが、この間にどれだけ多くの善良なひとや地球環境が切り捨てられ、ひとの「こころ」や「いのち」はときにはティシュペーパーよりも軽く扱われ、一秒前の過去よりも高速に忘却の彼方に消滅し、忘れ去られていった。「こころ」、「いのち」と錬金術師の手中に堕ちた科学技術の進歩発展とのズレが、「切れる」現象をも生み出した。錬金術師たちも時折「心の時代」、「心の教育」とジェスチァーするが、手前勝手なご都合主義という土俵に「心」を乗せ、弄んでいるにすぎない。

親鸞が関東の同行に送った別の手紙に「仏法をやぶるひとなし。仏法者のやぶるにたとえたるには、『獅子の身中の虫の獅子をくらうがごとし』とそうらえば、念仏者をば仏法者のやぶりさまたげそうろうなり。よくよくこころえたまうべし」とある。

親鸞の晩年は民衆との繋がりの中で、信仰とは何かを否が応でも問うていく日々だった。最晩年に至っても安穏ではなかったが、親鸞そのものは悟りの境地を開いていたのだろう。

世界の名著『人生論』を書いたトルストイの晩年も決して幸福な境遇ではなかった。わたし達はキリスト、釈迦、マホメット、ソクラテス、プラトン以来の精神の開拓者の犠牲の上に知性を築いてきたようにも思えるが、はたして人類の叡智は築かれたのであろうか。

自力から他力への認識を深める世紀が訪れた

最後にこころを病んでいる人達へ 親鸞とてこころを病んでいた、あるいは私もそうかも。センサーが毀れているのなら何処かにセンサーを修理できる工場があるかもしれない、それを探す旅があなたの生涯となるように。親を恨んでも加害者を恨んでも社会を恨んでも解脱はしない。生まれつきの身障者、脳性麻痺のひとたちはだれを、何を恨めばよいのか。【終わり】